お嬢様は水族館がお好き?
やけに長くなりましたが、水族館はこれにて。
今回は妃希と俊也の視点を切り替えながら進みます。
後、タイトルの横にマークを付けるのは無しにしました。色々と都合上不便だったので、すみません。
白ノ宮。
私を語る上で必ず付いて回る家名。恐らくこの街で聞いた事が無い方はいらっしゃらないであろう程大きな家名。
今でこそ育てて下さった両親は勿論この家柄にも感謝と誇りを持っておりますが、その大き過ぎる“白ノ宮”という家名が煩わしく思えた時期が確かにありました。
白ノ宮財閥の一人娘。その肩書きの為にお父様やお爺様が主催する行事に必ず出席しておりましたので、幼い頃から大人の方々と関わる事が多くありました。反面、学校でせっかく仲良くなれた友達とも話す機会は少なくなるものでした。
別にそれが嫌だったという訳ではなく、確かに寂しくはありましたが仕方のないと割り切るしかありませんでしたわ。
私はお父様もお母様も大好きでしたから。
しかし、私が小学校で大きくなるにつれて周りの大人達の態度が徐々に変わってゆきました。小さな頃は親しく接してくれた方々も敬語を使うようになり、愛想笑いで妙に媚びを売るような接し方になっていきました。
それと同時に、学校の友人達の態度も変わりました。まるで大人達のように敬語を使い、作り笑いを浮かべて、機嫌を窺うように接してくるようになったのです。
私は決して一人ではありませんでした、いつも周りには人がおりましたから。
けれどそれは決して友人と呼べるような存在では無くて、まるで権力に媚びへつらうような悲しいものでした。
どうして私は“白ノ宮”という苗字なのか。
結局、私はその学校の中等科には進まず別の学校、明条学園に入学致しました。けれど、学校が変わっても何も変わりそうにないと最初の入学式の時に感じました。自己紹介をすれば相手の反応が変わり、大人達がひそひそと話を始め、自然と周りは遠巻きになる。
うんざりでした。
入学式が終わり、好奇の目を向けられる事に辟易した私は一人になりたいと探り探りで校舎を上がって屋上に行き着きましたの。
自然と漏れるため息と共に、ぞろぞろと移動してゆく皆様のお姿を遠目に見ておりましたわ。
そんな時でした……
「アンタも空、好きなのか?」
「……え?」
「まぁ、いっぱいお魚さんがいるのですね」
「あぁ、ここはまだ入口だけど」
藤咲さんとご一緒に入館した私を待っていたのは、とてもとても大きなガラス張りのホールでした。360度を囲むガラスの向こうにはお水がいっぱい、小さなお魚さんが沢山泳いでおりまして時折ちょっと大き目なお魚さんも通りすぎていったり。
「これだけ大きな水槽だとお手入れも大変でしょうね」
「水族館に来ると必ず皆が感じることだよな」 そうなんですの?
首を傾げる私に藤咲さんは苦笑混じりに肩を竦めつつ、この巨大な水槽ホールを歩いていきます。
「けどさ、水族館が初めてなら楽しめると思うよ」
少し大袈裟にキョロキョロとしていましたからでしょうか、藤咲さんが足を止めつつ周りを囲う水槽の一ヶ所に手を向けてくれました。
「白ノ宮にとってはどうか分からないけど、水族館は珍しい魚ってのが揃った場所だから」
「あ……」
ちょうどサファイア色のお魚達がスイスイと泳いでいく所でした。言う通り、見たことの無いようなお魚でしたわ。
「確かに、そうみたいですわね」
「なら良かった、退屈する事は無いかな」
何故か少し嬉しそうに口元を緩める藤咲さん。何なんですのその笑顔は、まるで初めてお会いした時みたいに……って違いますわ!
「別に藤咲さんとご一緒だからではありませんわっ、お魚を見るのは私も好きですし、珍しいお魚もいるから……」
「はいはい」
「何ですかっ、そのおざなりなお返事は! 」
もうっ、こちらの調子を狂わせてくるんですから。流石は穂坂香織の率いる新聞部です、油断なりませんわっ。
****
巨大ホールから進路に従って進んで行った俺と白ノ宮は、まずは最初の通路へと足を踏み入れた。
「な、何ですのここ?」
「水槽のトンネル、かな? 」
否、ただの通路では無い。頭上も足元も透明な筒で出来た通路で、周りを取り囲むのは水。
つまりは水中に通る透明なトンネル、のような造りとなっている通路だ。
「これ、水の中で歩いてる気分になるだろ」
「た、確かにそう……ひゃわっ!?」
水中通路の真ん中で突然悲鳴を上げて後ずさる白ノ宮。
ちょうど彼女の側を群れを成した魚が素早く通過したらしく、それに驚いてしまったようだ。
「白ノ宮って結構怖がりだったりする? 」
「な!!何を言っているのですか貴方は!!
この私が怖がりだなんて……!! 」
「あ、ピラニア」
「ひゃう!? 」
指差した先は勿論ピラニアなんておらず、どころか今は魚さえいないただの水中だったのだが。驚く彼女が何だか可愛らしくてついついからかいたくなってしまう。
「なるほど、随分と冷静だ」
「お、覚えていらっしゃいませ………」
予想通りキッとした睨みが返ってきた。うーむ、流石は白ノ宮財閥のご令嬢、睨みにも結構な迫力があるな。
「悪い悪い、予想以上に反応してくれるもんだからつい」
「つい、じゃありませんわっ……全く」
恨みがましそうな表情も何だか可愛らしい。
プイッと顔を背ける白ノ宮の態度に苦笑しつつ、水中の通路を進んでいくのだった。
*******
「びっくりですの……」
「ふむふむ」
通路を出た私達を迎えたのは円形になった薄暗いお部屋でした。壁の代わりにガラスが張り巡らされておりまして、360度水槽に囲まれてるようなお部屋ですわ。
「これ……何ですの? 」
周りの水槽にはふわふわとした不思議な生き物が周りで浮き沈みを繰り返しておりました。ピンク色や水色の光りを帯びた綺麗な彩りでお部屋をうっすらと照らしています。
「クラゲだよ、クラゲ。
本とかで見たことはあるだろ? 」
「クラゲ、ですの? 」
実際には見た事はありませんが、よく見れば嵩のような頭にヒダのようなヒラヒラ。昔の書斎にあった図鑑で拝見した覚えが……
「くすっ」
「な、何を笑っていますの!? 」
と、不意に隣で吹き出す藤咲さん。いきなり何ですか、この人はっ。
「い、いや……クラゲを見てぽかんとしてるからさ、なんか面白くて」
「人をそんな隙だらけの人間のように言わないで下さい」
「結構隙あると思うけどな」
全く、何て失礼な発言でしょうか。この私を一体誰だと心得ているのか、藤咲さんには改めてきっちり教えて差し上げないといけませんわね。
「分かっていませんわね、貴方は。白ノ宮の家名を持つこの私、白ノ宮妃希に隙などという不合理性は微塵も存在致しませんわっ。
おーっほほほほほ!! 」
「だから、そういう所が隙だらけなんだって……」
何故か呆れたような表情をなさる藤咲さん。どうやら今の説明を理解出来なかったよう、全く仕方のない人ですわね。
「………」
しかし、白ノ宮の家名ですか……
周りで、ふんわりと拡大したり縮小したりするクラゲさん達をぼんやり眺めながら、頭の中に浮かぶのは自分の家柄に対しての思い。
昔は煩わしく思っていた時期もありましたが。
変わるきっかけ、と呼べる程のものかどうかは分かりませんが……入学式の時でしょうか。
「アンタも空、好きなのか?」
入学式の当日、私は周りの視線や態度に辟易していて。一人屋上に来ておりましたら、突然後ろから声がかかってきました。
振り返るとそこには制服を着た男子生徒が立っておられました。
「何ですの、いきなり不躾に」
「いや、ちょっと気になったから」
この人も恐らく私が白ノ宮だから話しかけてきたのだ、そう思うと途端に苛立ちが込み上げてきて。
「放っておいて下さいませ。私、今は一人になりたいんですの」
必要以上に冷たい言葉で返してしまう。こんな態度だから余計に人を遠ざけてしまうと知らずに。
「あー、悪い……邪魔しちまったか」
男子生徒は申し訳なさそうな声色でそう言うとくるりと背を向けて……
「っと、そうだ」
「? 」
そのまま行ってしまわれるのかと思ったのですが、不意にもう一度振り返ってこちらにお顔を向けてきました。
「余計なお世話かもしんないけどさ。せっかく綺麗に澄んだ空なんだし、そんな不貞腐れた顔してたら勿体無いと思わない? 」
「な……」
ドキリと。心の中を見透かされたようで。
上空を見上げて話す彼を思わず睨み付けてしまいました。
何なんですのこの男は、本当に余計なお世話ですわ。
「勝手に決め付けないで下さいまし。そんな事、見ず知らずの貴方に言われる筋合いはありません」
「……ごもっとも」
本当に何なのだろう。
よく分からない態度の彼に何だか妙に苛立ちが増して。
「大体、何故私が不貞腐れたように見えるんですか? 」
「何となく? 」
「それでは理由になりませんわ」
何ですかっ、何となくって。そんな直感のようなもので決められては堪りませんの。
「じゃあ、実は千里眼を持ってるから、みたいなオチで」
「千里眼? 」
「何でも見通す不思議な力ってところかな」
彼は暫く考えるような素振りをしてから、ポンと手を打ちまして。
「例えば、そうだな……着ている下着の色とか? 」
「あ、ああ貴方は!!いきなり何を言ってますの!? 」
声にだしてしまってから、ハッとしてつい口元を押さえてしまいました。
何せ、こんなに大きな声を出したのは本当に久しぶりでしたから。
「く、くくっ」
「なっ……」
と、目の前の男子は堪えるように小さく笑い出しました。またなんて無礼なと、口に出そうとしたのですけれど……
「何だ、やっぱり出来るんだな、そういう表情も」
「!? 」
その時。
漸くこの人が、私を白ノ宮だと意識して話しかけているのでは無いのでは、と直感にではありますが感じたんですの。
「おーい、白ノ宮? 」
「ふぁい!? 」
ハッと我に返ると、藤咲さんが不思議そうにこちらを覗き込んできていました。
いけませんわ、ついついボーッとしていたみたいで。こんな変な返事をしてしまった事をちょっぴり後悔ですのっ。
大体、いきなり女性の顔を覗き込むだなんて。殿方がむやみやたらになさる行為ではありませんわ。
そ、それは確かに……藤咲さんは、まぁ整ったお顔をしていらっしゃいますし、髪もよく似合っていらっしゃいますから。別に嫌だとかそんなんじゃ……って違いますわっ。そんな話じゃありません、私達はもっとよく考えるべきだと。
「白ノ宮って、結構ボーッとしてるよな」
「何を仰いますかっ、私に限ってボーッとしている事なんて決してありませんわよ」
「あ、これ珍しいクラゲらしいぞ」
「人の話をお聞き下さいませっ! 」
全く、次から次へと。
ホントに掴みどころの無い人ですわっ!
*******
クラゲの大群から次に進むと今度は真っ暗な部屋。うっすらと灯りが漏れるのは水槽、魚がいると思われる付近だけほんの少し灯りがあった。
恐らくここは、深海魚のコーナーだろう。
「な、何なんですの?何なんですの? 」
「………」
白ノ宮はというと、辺りをしきりにキョロキョロしながら俺の右腕にしがみついてきていた。声は上ずっていて、落ち着きが無い。
明らかに怖がっているな、一目瞭然だ。
こいつ、香織と同じで怖い話とかはダメだったのは知ってるけど。こういった暗い場所もダメなのか。
「えー、白ノ宮さん?
怖いなら、このスペースはさっさと抜ける? 」
「こ、怖い?
何を仰いますやら。私が怖いなどと、そのような感情を抱く筈ございませんもの! 」
が、必要以上に負けず嫌いだという事も知っている訳で。こんな事を言っても全くの逆の反応になってしまうんだなと今気付く。
「いや、でも腕が……」
「これは、その……
そうですわ、藤咲さんが怖がらないようにして差し上げているだけですわ」
「……あー、なるほど」
うーむ、いつも思うけど。コイツの無駄に高いプライドは損な役回りに働きやすいよな。少し同情。
「……そか、だったら色々見て回るか」
「うぅぅ……」
取り敢えずプライドを守る為には仕方ない、暫くは我慢して貰おう。
と、思ったのだが……
「まぁ、このお魚さんは白く光っていますわ」
「うん、いかにも深海魚って感じだな」
様々な深海魚を見て回るうちに、彼女の怖がる素振りが薄くなっていった。
珍しい魚に興味が移って意識されなくなったのだろう、この暗い空間そのもの少しは慣れたとも言える。
「ひゃう!? 」
「お、おう? 」
いや、やっぱりまだ怖いことは怖いようだ。
「何だ?アンコウ?」
「お、お魚さんだったんですの……」
見て回っていた中、ちょうど目の前の水槽が怪しげに発光していた。
「これ、魚か? 」
「強そうなお魚さんですのね」
全長約10cm程度。
大きな口には鋭い牙が剥き出しになっており、横にある丸い目にはあらぬ方向を向いているようで何とも不気味だ。頭のてっぺんにある電球がうっすらと光っている。
『ペリカンアンコウ』
水槽の脇にある説明版にはそうあった。アンコウの仲間のようだが、それにしても怖い。
「いや、もっと怖いのがいるぞ」
「え? 」
その隣の水槽に目を向けると、もっと凄いのが泳いでいた。
全長30cm以上、鰻のような胴体をくねらせていたソイツは凡そ自分が魚と思い描くものとはかけ離れた
真っ赤な胴体に棘のようなエラと背鰭。
すっぽりと空いた穴には白く濁った吹き出物のような瞳。
極めつけは口の二倍はあるんじゃないかっていう強烈な牙、下顎から生えた牙は頭部を隠すくらいまで突き出ている。
「ま、まるで怪獣ですわ……」
「全く」
怪獣、そんな表現も今はピタリと当てはまる。だってめちゃくちゃ怖いもの、目がイッちゃってるもの。
「知りませんでした、海の下にはそんな怖い生き物がいるのですね……」
「……先、行くか」
説明版にあった名前を見ること無く、俺達は深海魚のコーナーを後にするのだった。
******
『はーい、皆さん注目です! 』
ザブン、と。
水辺からそっと出る細長いお口とつぶらな瞳、そしてキュイキュイと愛らしい声を奏でております。
『この子達が一斉に輪っかをくぐりますよ。
せーのっ! 』
響いた女性の声と共に、ザブンと水飛沫が上がり、弾かれたように水中から飛び出して来ます。弓なりに、弧を描くように次々と一回転。
「ママー、イルカさんすごーい」
「ホントね〜」
すぐ後ろから聞こえてきますのは小さな女の子と穏やかな女性の声。
それもすぐに大きな水飛沫の音に耳が奪われ、気が付けば歓声や拍手に変わっておりました。
そう、空中に飛び上がって一回転を繰り広げていたのはイルカ。
図鑑やテレビでしか見たの無かった生き物。
私達は今、そのイルカ達が織り成すショーを巨大プールとそれを囲うドーム状になった席で見ております。
深海魚のお部屋も含め、他にも幾つかのお部屋─小さなお魚ばかりのお部屋や特殊な生態の海洋類を集めたお部屋等々─を回った後、不意に藤咲さんに『今から向こうでイルカのショーをやるらしい』と連れて来られたんですの。
『さぁ、続いて連続で飛んでリズムを奏でちゃいますよ』
「まぁ……! 」
「おー! 」
イルカ達は水中から飛び出してくると、リズミカルに何度も何度も空中で弧を描きます。
まるでダンスをしているようで、本当に素晴らしいですわ。
「どう?
こういうイベントもたまには良いだろ? 」
「ま、まぁ……悪くはありませんわね。藤咲さんの案にしては及第点弱、といったところかしら」
「そりゃ何より……」
本当は周りの皆様と同じように立ち上がって拍手を送りたいくらいでしたが、藤咲さんのお顔を見た途端、何故か正直に口にするのが躊躇われまして。
あぁ、もう。何故ちゃんと正直に言えませんの?
心の中で自問自答したところで、答えなんて返ってきません。
というより、何故か口元を緩める藤咲さんの表情が妙にムッときてしまい。
「何がおかしいんですの? 」
「いやいや」
「むー……」
とか言ってる癖に口元を緩めになる藤咲さん。
やっぱり気を付けないとならない存在ですわっ、油断大敵ですのよ、妃希!
『さぁさぁ!
最後は輪っかの回転潜り抜けをご披露してみせます!』
なんて、自身に激励を入れていたら前方のプールへと再び歓声が。どうやらこのショーもいよいよ終幕のようです。
宙に吊り下げられた輪っか、そこへ向けて。
バシャア、と。水面から弾かれたように飛び上がるイルカ達が、今日一番と思える程の高さで。
優雅に、そして滑らかに。 輪っかを次々と通り抜けていきました。華麗な一回転を加えながら。
最後は飛沫を最小限に抑える見事な着水。
ハッと気付いた時には、立ち上がって、皆様と同じように拍手をしていまして。無意識とはいえちょっとビックリでしたわ。
*
イルカのショーも終幕致しまして、私達は再び進路に沿って館内を回っていきました。
海外の珍しいカメ達を見て、親戚のご家で飼っている巨大なカメのお話をしたり。アザラシやオットセイを見て、昔叔父様達が南極にお出掛けになった事をお話ししたり。
藤咲さんは昔この水族館で香織さんに引っ張り回されたお話などをしていらして。主に苦労話でしたわ。
あ、別に楽しんでなんて一切なくってよ?これは要注意人物を対象とする秘密裏の取材なんですから。
表向きは楽しんでいるように見えたとしても、それは相手を油断させる為なんです。
そうして、案内図に沿った進路─この水族館の各所にある館内の全体図ですの─の最後には大きな大きなホールが私達を迎えて下さいました。
「大きいですわ……」
「この水族館で一番大きなスペースらしいからなぁ」
なるほど。入口のホールにあったものとは比べものにならないくらい、それはもう本当に巨大な壁一面の水槽でして。やや飛び出た形状のそれを見上げれば十何mも先まで水中が、まるで潜っているようにすら錯覚いたします。
「…………」
何か吸い寄せられるように、ガラスの向こう側にある青へと近づいてゆきます。
と、その時。
「ひゃん!? 」
ブン、と。いきなり私の目の前を大きな何かが通り過ぎていきましたの。
私はガラス越しという事も忘れて思わず後ろに飛び退いてしまいます。
「ふわっ!! 」
が、踵がどこかの段差に引っ掛かってしまって一気にバランスが……!!
「っと」
「へ? 」
崩れ落ちたりはしませんでした。背中の辺りを支えられたようで、何とか体勢を保つ事が出来ましたわ。
「ふ、藤咲さん? 」
「この辺、段差あるから気を付けてって言おうとしたんだけどな」
支えてくれたのは他でも無い藤咲さんでした。私とした事が、相手に助けられるとは不覚ですわ。
背中越しに感じる彼の腕や体温を感じつつ、自分の失態を……… って、これって!!わ、わわ私は今、抱き止められているんじゃありませんの!?
「はわわ……!! 」
「白ノ宮? 」
私は弾かれるように彼の腕から離れます。自分のおかれた状況を確認した途端、一気に
「あ、貴方と言う方は!!」
「? 」
気安く女性に触れるなと口走りそうになり、流石にそれはあんまりだと踏み止まりました。相手が藤咲さんとはいえ一応、一応ですけれど助けて頂いた訳ですし。
「………その、ありがとうですわ」
「………」
私がこうしてお礼を申し上げたというのに、彼はポカンとした表情をしてまして。
「な、何ですの?そのお顔は? 」
「いや、まさか白ノ宮にお礼を言われるとは思わなかったから」
「なっ……」
こちらのお礼に対しまして、こんな事を言い出す始末。
貴方は普段から私のことをどういう風に見てますのっ!?
「お、また通った」
「へ? 」
ふと藤咲さんが水槽の方を指差したのでついつい振り返ってしまいます。
すると、先程私の前を通り過ぎたのが何だったのかが分かりました。
「ホオジロザメだな、いやはやでかいなぁ」
「はぅ……」
ホオジロザメ。ずっしりとした灰色の胴体に細かく針のような牙、背鰭はこうピシッと立っていらっしゃいまして、小さくも瞳は鋭いですの。
あんなに大きなお身体なのに、全く抵抗感を感じさせないくらいスイスイと泳いでいらっしゃるお姿はちょっと羨ましくもございまして。
「ここはサメのコーナーだから、多分一番人気らしい」
「確かに迫力満点ですわね、ここは」
ぐんぐんと重なり合うように進んでいくサメ達の迫力には、周りの皆様も思い思いの様子で見上げております。
「しかし、このサメ達は一体どのように飼育されているのでしょう? 」
「白ノ宮家ではサメは飼っていないのか」
「お祖父様がご趣味でお世話していた事もあったらしいのですが、何しろ昔のお話ですから」
私がまだ生まれる前のお話だとお聞きしました。聞いたのはまだ年端もいかない年齢でしたので、怖くなって泣き出してしまった覚えもありますが、これは内緒ですわ。
「不思議ですわ、これだけ多くの数をどのように飼育しているのか。エサは何なのでしょう? 」
「それは勿論」
藤咲さんがフッと口元を緩めて
「ここにいる人間だ」
「えぇ!? 」
な、ななな何ですって!? ここのサメ達のエサは……ここにいる人間!?
「って、そんな冗談通じると思いまして? 」
「流石にバレたか」
「当たり前ですわっ、あまり馬鹿にしないで下さいませ? 」
いくら世間知らずとか言われたって、そのくらい分かりますのよ。確かに世間で言う流行りとかはよく分かりませんが。
そもそも、何故こんな下らない話にノってしまったのか。それが不思議でなりませんわ。
「いや、小学生の頃さ。ちょうどこの辺で同じ事を言われた事があって……」
「あら、もしかしてそれを信じたんですの?小学生でも分かる冗談ですのに? 」
「ぐっ……」
「まぁまぁ、何て幼稚なんでしょう。けれど、藤咲さんのような方にはピッタリですわね。
おーっほほほほほ!!」
何となく優越感に浸って高笑い。そんな嘘を信じた当時の藤咲さんが可愛らしく思えた、なんて事は決してありませんのよ?
「けだし、嘲笑は時として糧となり得る場合も」
「はい? 」
「何でもないよ……」
相変わらずよく分からない藤咲さんを横目に、私は改めてこの大きな大きなスペースをじっくりと見て回る事にしましたの。
*******
「んーっ、結構経ってたなぁ」
「もう夕方ですわね」
俺と白ノ宮が水族館を出た頃にはすっかり夕方になっていた。茜色の絨毯を広げたように空も雲も染め上げている。
夕暮れの空を見ていると、時々だが自分の心を鏡に映されているような、そんな不思議も少し恥ずかしく、けれど何処か優しい気持ちに覆われる。
「で、どうだった? 」
「はい? 」
「水族館」
そう尋ねると、白ノ宮はハッとしたような表情になったのも束の間、すぐにそっぽを向いてしまった。しかしチラチラとこちらに視線を寄越しながら。
「……存外悪いものではありませんでしたわね。藤咲さんのエスコートというのが足を引っ張っておりましたが」
「なるほど……」
「ま、まぁ?
実際に海外に渡って潜水艇などで直接拝見するのが一番かとは思いますが、たまにはこういう庶民的なアミューズメントもアリと言えばアリと言えない事も無い事もないと……」
つまりはそこそこ楽しんでくれた、という事か。それは何よりだ。
彼女が素直に『楽しかった』なんて言えない性格なのは知っているから、敢えて口にはしないでおく。
「まぁ、及第点ですわ」
「そっか」
白ノ宮から及第点を貰えればそれは
ならば今日は良かったと言え…………ん?
ちょっと待った。何か忘れている気がする、それも割りと大切なこと。
白ノ宮が楽しんでくれたのは良かった、良かったけど……そもそも俺は何の為にこの水族館に来たんだっけ?
『明日のスポット取材の話なんだけど……水族館と美術館、俊也はどっちが良い? 』
あー、はいはい。そうだそうだった。
取材だ、取材だよ取材。ゴールデンウィークに向けてのスポット取材。
そこについての説明やポイントを分かりやすくまとめるのは勿論、お客さんへのインタビューも欠かさずに行うものである。
で、俺は何をしたかって?勿論何にもしていない。
「マズったなぁ……」
「どうかしまして? 」
思わず頭を抱えると、彼女はきょとんとしたように小首を傾げる。
「いや、アレ……取材すっかり忘れてたなぁって」
「取材……」
「あー、まずった。このままだと香織に怒られるな……」
今、この現場をおさえられてないだけマシだけど。それでもバレたら色々と面倒な事になりそうだ。
「おーっほほほほほ!!
今頃お気付きになりましたの?これも全て、私の作戦のうちなんですのよ! 」
「何…だと? 」
「ライバルである新聞部の藤咲さんに接触し、行動を共にしつつに貴方の注意を反らす事で秘密裏に妨害工作を行っていましたのよ!
知っておりまして?おーっほほほほほ!!」
いや知りたくもなかった、そんな負け惜しみ。
というツッコミは置いといて、さてどうしたものか。今更もう一度水族館に入場するなんて真似は避けたい。財布的にも精神的にもキツい、いやある種その二つは同じなんだけど。
そもそも、もう水族館は閉館時間が迫っているのだ。
「ま、いっか」
「へ? 」
「その辺はテキトーに書くって事で。誤魔化すのは割りと得意だし」
困った時にはテキトーだ。これにまさるものは無い、開き直りとも言う。
「何故得意気に? 」
「新聞委員もほら、ゴシップ記事とかやるだろ」
「それは飽くまで事実に基づき、裏付けをきちんと取った信頼と実績の記事ですのよ!一緒にしないで下さいましっ! 」
さいですか。確かに事実無根であった事は一度とて無かったが。ま、読者のニーズに応えるという意味では実績のある新聞なんだけど……
「ともかく、こんなったら一から完全に誤魔化して書けばいい。突っ込まれてもうやむらに出来る程度に」
「堂々と言い切るのもどうかと思いますわね」
呆れたような表情の彼女に肩を竦めつつ、俺はぐっと空を仰ぎ見る。夕暮れの空を見て気分をリセット、したいなぁ。
「っと、そういえば昼食って無かったよな? 」
「あら、言われてみればそうですの。すっかり忘れておりましたわ」
「けど、意識すると急に減って……」
どうしようか。今はまだ夕方だけど、このままその辺のレストランか何かで軽く済ませるべきか。
「あ、あの……藤咲さん? 」
「ん? 」
と、白ノ宮が自慢の金髪をいじりながら何処か言いにくそうに視線を泳がせている。
「その、食事もお済みでは無い、ようですし……もし、その、お腹がお空きになっているというならば、不本意ではありますが……」
ピリリリリ。
携帯の音、一回や二回ではなく暫く鳴り続けているから、多分メールじゃなくて電話の方。
「あ、私ですわ」
白ノ宮がどこからともなく携帯を取り出した。どうやら彼女への電話らしく、こちらに背を向けて何やら話し始める。
「………はい。分かりましたわ。ではお待ちしておりますの」
会話は1分も経たずに済んだようで、すぐにくるっとこちらに振り返る。
「今からお迎えが来ますので、私はこれにて失礼させて頂く事に致しますの」
電話は家の人からだったらしい。流石お嬢様、来るにも帰るにもお見送りお迎えは必須って事か。
「そか。って、さっき何か言いかけてなかった? 」
「それは忘れて下さいませっ!ただの戯言、何でもありませんので! 」
戯言とは。
勿論気にはなったが、本人があんまりにも必死に首を振るもんだから口にはしないで頷いておいた。
しかし、何処に迎えが来るのか。白ノ宮はさっきから何かを待つように動かないでいるし、ここで別れてしまった方が良いのだろうか。
「お嬢様」
「!? 」
いきなり。俺の後ろから低い男性の声が。あまりに突然だったので、前につんのめりそうになってしまう。
「あら、早かったのですわね柏木さん」
「ほほ、ご連絡を受ければ迅速にはこの柏木の心情にございますゆえ」
そんな俺の反応とは裏腹に、白ノ宮はスタスタと俺の後ろに歩いてゆく。
俺もちょっと遅れて振り返ると、そこには黒いスーツを着こなした初老の男性がスッと立っていた。
それにしても一体いつの間に、僅かな気配すらも感じなかった。あたかも初めからそこにいたかのように彼は何の違和感なく目の前の風景に溶け込んでいるではないか。
「こちらは私の執事の柏木さんですの」
「お初にお目にかかります。私、妃希お嬢様の執事をさせて頂いております柏木と申します」
白ノ宮が手を向けると同時、ペコリと綺麗なお辞儀をしてみせる柏木という男性。
これが執事。
ザ・お嬢様、お金持ちと感じさせる役職。実際に見たのは初めてで、失礼ながらしげしげと眺めてしまう。
「あ、えっと、藤咲です。よろしくお願いします」
なので、相手の完璧な挨拶に対して俺はちぐはぐな挨拶しか返せなかった。
あぁ、こういう所で育ちの良し悪しが出るんだなと改めて感じる。
「貴方が藤咲さんですか。お噂はかねがね。お嬢様からもお話はよく伺っております」
「柏木さん!!
私何も申していませんわっ」
いきなりグッと身を乗り出してくる柏木さん。
白髪のオールバック、つい先程までの優しげな瞳は俺を捉えるなりカッと見開かれた。すごい迫力。
「今後とも妃希お嬢様の事を心身共によろしくお願いいたします!!
つきましては、今後藤咲さんには白ノ宮家に足を運んで……」
「ふあぁぁ!!
何を言ってますの!?余計な事は言わないで下さいませっ! 」
途端に白ノ宮が飛び出してきて柏木さんの腕を引っ張り止める。
「柏木さん!!
もう帰りますわよ、その為にいらしたのではありませんかっ」
「何を仰いますお嬢様!!
守ってばかりでは戦局は変化致しません、攻めれる時には徹底した攻めを……」
「ここは戦場ではありませんわー! 」
何だかよく分からんが面白いな、二人の掛け合い。
「で、では!私達はこれで。行きますわよ柏木さん!! 」
「ふむ、今回は戦略的撤退という訳ですか。いた仕方ありませんが、承知致しました。
藤咲さん、またいずれじっくりとお話をお聞きしたく思いますな」
「あ、はい」
「ご機嫌よう、藤咲さん。また学校で、ですわ」
「あぁ、また」
慌ただしく去ってゆく白ノ宮と柏木さんに向けて何とか挨拶を返す。
あっと思う間に話が進んだかと思えばあっという間に終わっていた、まるで嵐が通りすぎたようで。何だか執事って色々と凄いんだな。
二人は何処へ行くのかと眺めていたら、やけに目立つ黒い車が目に止まる。何が目立つってその長さだ、普通の軽自動車の数倍長い、所謂リムジンってやつだ。ドアを開けて白ノ宮を乗せた後、颯爽と助手席に乗り込む柏木さん。
「リムジンも初めて見た……」
いつも白ノ宮はあの車に乗って通っているのだろうか。たまに正門前で会う時は歩きだったが。
確かに学校での付き合いが主だから家の事なんかは知らなくて当然なんだけど、こうして見ると改めて彼女が白ノ宮財閥のお嬢様であるという事実を認識させられる。
まぁ、だから何だって話でも無いんだけどね。
(それより、取材の件をどうするか……)
取り敢えず、減った小腹を満たす為に近くのお店にでも入って考えよう。
俺は朝と変わらぬ足取りで広場を後にした。
*******
「全く、突然何を言い出すかと思えば……」
「ほっほっ、ちょっとした老婆心というやつです。大目に見て下され」
揺れもほとんど無いお車の中で、運転席の柏木さんに文句を投げ掛けてみますが彼は愉快そうに笑うばかり。もう、笑い事ではすみませんのよ。
「お嬢様が注目なさる男性に一度私もご挨拶を致したかったのです」
「誰がそんな事言いまして?注目なんてしてませんわ、強いて言えば警戒ですのよ? 」
「なるほど、要注意人物という訳ですか」
「えぇ、そういう言い方が相応しいかもしれませんね」
新聞部のメンバーでもありますし。それ以上に、藤咲俊也という人間自体がもっと注意すべき対象だという事を、私は四年前のあの日に直感しておりますもの。
「何だ、出来るんだな。そういう表情も」
「!! 」
彼がどんな意図でそんな言葉を口にしたのかは分かりませんが、この時の私はこの人が『白ノ宮』という肩書きに関係無く話してきたのだと、何故か直感的に感じまして。
「…………」
ちゃんと振り返って、改めて声の主を確認します。
服装は当然ながらこの学園の男子制服、学ランに付いたエンブレムからこの方が私と同じ一年生だという事を確認します。
ちょっと安心、もし先輩だったら後が大変ですものね。
背丈ですが、まぁ一般的な高等学部の男子生徒より少し高いくらいでしょうか。
お顔立ちは整っていらっしゃって、首筋まで伸びた茶色の髪がよく似合っていらっしゃいます。
「何なんですの、さっきから。一体私に何のご用がありますの? 」
「こんな晴れた空だからつい、というか」
「? 」
彼は決まりの悪そうな返事をしつつ再び上空を見上げたかと思うと。
「って、これじゃアイツの事ばっかお節介とも言えないよなぁ」
何とも言えない表情で頭を掻かれて、校舎の方に目を向けて肩を竦めてみせました。
「ま、でも。
こんな綺麗な空の下、そんな顔をするのはやっぱり勿体無いってさ」
「……空、ですの? 」
「あぁ、ちょっと見てみなよ」
言われるがまま、私は顔を上げました。
「………」
その時目にしたのは、どこまでも広がるような蒼、透き通るように美しい蒼、天高く突き抜けるような蒼、思わず吸い込まれてしまいそうな蒼、彼の言う“空”そのものがありましたの。
今の今まで。空というものを意識して眺めた事など一度もありませんでした。
ですから、“初めて”見たその空は、あまりに圧倒的で、あまりに大き過ぎました。
「………確かに、馬鹿馬鹿しいですわね」
そんな光景を前にしたら、ついついそんな言葉が洩れてしまっていましたの。
別に私は空がどうだなんて、そんな事は考えた事もありませんでしたのに。
「思いきって開き直っても良いんじゃないか?
つまらなそうな顔、してるよりはさ」
「あら、それこそ大きなお世話ですわ」
「全く」
不思議と。返す言葉は先程の冷たさとは打って変わって、何かが吹っ切れたような感覚を自分でも感じました。
何なんでしょう、何も解決なんてしていないのに。それでも、心にかかっていたモヤモヤとした
「さてと。何か邪魔したみたいだったから、この辺で」
彼は腕時計を軽く眺めると、広がる青空にもう一度だけ目を向けて、踵を返しました。
「ちょっとお待ちなさいな」
「? 」
「この私に散々物を申しておいて、ただで帰れるとお思いで? 」
何故か思い切り開き直ったような態度で、彼を引き留めたのか今となっても不思議なんですが。
「せめて名を名乗りなさいっ! 」
「………えーと、藤咲俊也? 」
十分に間を置いて発された言葉は何故か疑問形でしたの。
「……さま?お嬢様? 」
「ふぇ!? 」
ハッとすると柏木さんが私をお呼びになっていらして、思わず間抜けな返事をしてしまいました。
いけませんわ、また私ったらボーッとして。
「な、何ですの?」
「ご質問がございまして」
「えぇ、よろしいですわ」
コホン、と咳払い。
「先程、藤咲さんは要注意人物と申されましたが。では何故その要注意人物と白昼堂々デートをしていたのでしょう? 」
「で、デート!?
断じて違いますわっ!!あれは私が行っていた秘密裏の妨害工作で……」
「おやおや、随分と楽しそうに回っていらっしゃったように? 」
「あ、貴方はいつから見ていましたの!? 」
「お嬢様の行く末を見守る義務がありますゆえ、この柏木はどこまでもお供いたしますぞ! 」
「そこに行く末なんてありませんわーっ! 」
その後、変な方向に走って行かれる柏木さんの誤解を解くのに小一時間労しましたの。
もうっ、厄日ですわ!
妃希と出会った時の話をちょっぴりいれました。
書いてて、ひねりが無いなぁとひしひし感じましたが取り敢えずはこんな感じです。
次回からようやく5月に入ると思います。剣道部、主に進一との話や新しいキャラクターを登場させようと思っている月です。
4月はかなり長引きましたが、5月はささっと進めたいなと。
では、次回もよろしくお願いします!
 




