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プルーフ

作者: 休止中

短編ですが長いです。二万八千文字弱あります。

暇で暇で仕方ない時に読んでいただけるとありがたいです。

……これってもう短編って言わないんじゃないかな。

 芽衣が高校に入学してから、一ヶ月も経たない頃。

クラスにあふれていた緊張感は、桜の花弁が木から零れる度に薄れていった。

朝は必ず朝から居ると評判の数名が静かな風の通り抜ける教室で、本を開いたりノートを広げたり携帯電話を開いている。

そこから時間が経つにつれて、人が増えていった。待ち合わせをして数人で登校したり、偶然居合わせた友人と登校してきたり、電車が遅れて遅刻したり、電車に乗らないのに遅刻して来たり。桜の木に緑色が交じり始めるとクラスが暖かい空気に包まれていった。

 そのなかで芽衣は未だ、クラスになじめずにいた。

 そりが合わない人が居ると言うわけでもなく、嫌がらせをされていると言うわけでもない。

それでも、クラスの人の輪の中へ入るのに芽衣は戸惑いを感じていた。

暖かい陽気の空に浮かぶシャボン玉のように、幾つかのグループに分けられたクラスメイトを、手が届かなくなるまでじっと見ているだけだった。

丸く透明な壁の中で、楽しげな声が交錯し、その声がだんだんと遠くなっていくように思えた。

どれに触れてもきっと壊れてしまう、だたただそれが恐ろしく感じられ無意識に距離を取った。

ただ見ているだけ、芽衣自身がそれに慣れるのには時間がかからなかった。

目立たない時間を見計らって一人で登校し、遠くで聞こえる噂話を聞き流しながら黙って弁当を食べることに何の違和感も感じなかった。

周囲で楽しそうな笑い声が聞こえることさえも、芽衣にはどうでもいいことに思えるようになっていた。

そしてただ、姉から入学祝にと貰ったブルーのデジタル時計を眺めて時間が過ぎるのを待つだけの日々が続いた。

 入学した時は、数日に一度の割合で芽衣へ話しかけてくる人はいた。

しかし、芽衣は気のない返事を返す振りをするだけだった。

ニッコリと微笑んだ誰かが手を差し出しても、芽衣にはそれをつかむ事ができなかった。

次第に芽衣へ話しかける人の数は減っていった。芽衣はそれでよかった。

 その人が自分に話しかけた後何事も無かったかのように友達の輪に戻って、流行について語り合っているのを見ていると、心の奥を抓ったような痛みが一瞬だけ芽衣を虐める。しかし、輪の中から笑い声が聞こえるとやはり手を掴まなくてよかったと思えるのだった。

 数学や体育をこなしながら放課後になると、芽衣は掃除を終えて家へ帰ろうとした。

不意に時間が気になり、左手へ目をやった。

「……あれ?」

しかし、手首にブルーの腕時計は巻かれていない。

 どこに忘れたんだろう。

 芽衣は自分の記憶を遡った。時計を外すタイミングはそう無い。

必死で頭の中を掻き回した。

マンションを出て、何度か時計を見ながら早く付き過ぎないように学校へ登校した。

昼にも、本を開きながら休み時間が終わるのを待ち焦がれるように数度時計を見た記憶があった。

そこまで来ると、体育で服を着替えるときに腕時計も一緒に外した記憶が芽衣の頭を過ぎった。

 芽衣は大急ぎで更衣室として使った教室へ走り、自分の使った机の周りを探した。

今日はあまり丁寧に掃除か行われていなかったのか、更衣室は少し埃っぽさがあった。

「……あった」

机の下には見慣れた青い時計が落ちていた。

 安堵した芽衣はフゥと息を吐いた。

芽衣がそっと時計を手にとって手首に巻くと、デジタル画面には120、その隣にはその数字の半分ほどのサイズで00と表示されていた。

 芽衣は一瞬十二時を差していると思ったが、今の時間では午後四時前後だと思い直し、落ち着いて時計を見た。

しかし、何度見ても時計には120と表示されている。そして、どの数字もピタリと止まっていた。

どの数字も微動だにせず、操作されるのを待っているようだった。

不思議に思った芽衣は、デジタル時計の四隅に付いたボタンを適当に弄ってみた。

最初のボタンは文字盤をライトが照らした。次に手前のボタンを押した。

そのとたんに、時計から霧が噴きだし芽衣をすっぽりと覆った。

 一瞬で視界が真っ白になる。驚いた芽衣はすぐにその霧を手で払おうとしたが、手は空を切った。

パニックになっている間に霧は薄くなり、辺りの風景もはっきり見えるようになった。

 何……今の。

 芽衣はパニックに陥ったせいか火照るような暑さを感じ、ブレザーを脱ごうとした。

しかし、どうにもいつも通り脱げない。

芽衣はブレザーのボタンへ視線を落とすと、妙な違和感を覚えた。

「……逆?」

ブレザーはいつも芽衣が来ている物と、ボタンの位置が左右逆になっていた。

そして、芽衣はさっきまでスカートを履いていたにも関わらず、今はズボンを履いている。

 それだけでは無い。

「何今の声」

そう言うと、芽衣は自分の口を押さえた。

芽衣の声は、自分の知っている声よりも低く男のような声だった。

「……あー」

恐る恐る声を出し、すぐに声を引っ込める。

 何この声。

 口を押さえていた手で喉に触れると喉仏がいつもよりも出っ張っている。

そっと教室を出ようとするとドアノブがさっきより低い位置に付いているように感じた。

誰にも見られていないか確認しながら、ゆっくり鏡を探す。あたりを見渡すとやはり、周りの物がほんの一回りだけ小さくなったような気がした。

足を進めると廊下の途中にある大きな鏡の前で立ち止まった。

 そこ映っていたのは、芽衣では無く同じ年くらいの見知らぬ男だった。

 短髪で、芽衣より五センチくらい背が高い。

しかし、細身の体型や目の下にあった小さなほくろがどこか芽衣の面影を感じさせた。

 芽衣はようやく自分の置かれた状況を理解すると、大慌てで階段を駆け下り、学校の裏口より少し手前にある倉庫に隠れた。

この倉庫は古い倉庫で、今年の五月に取り壊されてしまう。

そのため鍵がかかっているのだが、倉庫の裏にある壁が少しだけはがれておりそこから中に入ることが出来る。

芽衣は誰にも見られないように倉庫に隠れた。

中にあったものはほとんど運び出されてしまい、壁に付けられている棚はすでに埃をかぶり始めていた。

 どうする?

 そんな言葉が頭の中を回った。

 ずっとこのままかもしれない。

やはり、姉にもらったプレゼントを簡単に身につけるべきではなかった。

 どうしていいのか分からず、困りながらも芽衣は腕時計を凝視した。

 すると、先ほどまで120と表示されていた時計には、107と表示され、隣の小さい数字が一秒ごとにカウントダウンしている。

それを見た途端、芽衣の頭の中に一つの考えが浮かんだ。

 これがゼロになれば、戻るかもしれない。

 カウントの減り方を見ているうちに芽衣は120と表示されていた数字は分を、その隣の小さい数字が秒を表していると判断した。

後百七分。

 じっと堪えて待つ。退屈で何もできない時間は、わざと遅く流れているように感じられた。

「五、四、三、二、一」

最後のカウントが終わると、再び芽衣の目の前は時計から放たれた霧に覆われた。

 芽衣がギュッと目を閉じ、霧が晴れるのを待った。

そして視界が鮮明になると、芽衣は自分の服装へ目を落とした。

 ブレザーはいつも通りのボタン、スカートもしっかり履いている。

「……戻った?」

声を出して確認した。

 それでもまだ不安が拭えず、倉庫を飛び出すとカーテンの閉じた学校の窓を外から覗いた。

そこに映ったのは、紛れもなくいつも鏡に映っている芽衣そのものだった。

 それを確認したとたんに、芽衣はその場にへたり込んだ。

「よかった……」

 芽衣が自分の家に付くころにはすでに七時を回り、ぐったりとしながら自分の住むマンションの六階へと上がった。

 芽衣の家は2LDKで姉と二人で暮らしていた。

芽衣は項垂れながら玄関を開けた。

玄関を開けてすぐのところにリビングがあり、その隣にキッチンがある。

「お帰り、あれ、なんかあった?」

時計へ目をやりながら、姉の玲菜は芽衣の元へ歩み寄った。

 すると、芽衣は顔を上げて芽衣を睨みつけた。

「お姉ちゃん! この時計何!?」

芽衣が大声を上げると玲菜はワザとらしく耳を塞ぎ、溜息をついた。

「何って、入学祝い」

玲菜は人ごとのように芽衣を突っぱね、電子音の鳴ったレンジからホットミルクを取りだした。

「そうじゃなくて! なんでボタンを押した途端に男の子になるのよ!」

「あ、まだ気づいてなかったんだ、てっきりもう使ってるのかと」

玲菜はマグカップにちょっと口を付けてホットミルクの温度を確かめると、アチッと言って口からカップを離し、リビングのテーブルに置いた。

「話をそらさないでよ! こんなの要らないから!」

芽衣は玲菜のカップの横に時計を置いた。

「良いの?」

「要らないよ! 私女だし」

「あたしはね、あんたに第二の人生を歩んでもらおうと思ってんのに」

玲菜はテーブルの上に置かれた時計に視線を落とした。

「あんたね。意地張ってるみたいだけど、まだ友達作れてないんでしょ?」

そして、芽衣が言葉を入れる前に話を続けた。

「事故で入院して、友達が来てくれたのにだんだん来なくなって、居なくなって、またいなくなるんじゃないかって思いが先に立って、自分の居場所作るのが怖いんでしょ?」

 芽衣には返す言葉がなかった。

「だから、あんたにチャンスをあげる。その時計で男になってる間は、あんたはいくらでも失敗できる。だって元に戻れば別人なんだから。多少なら犯罪犯してもバレないよ?」

玲菜はマグカップを取り上げ、フーと息を吹きかけてミルクを冷ますとゆっくり口を付け、ひと口飲みこんだ。

「ま、なんでも良いけど、とりあえずこれからあたしちょっと仕上げて来るから、邪魔しないでね」

そう言って玲菜はカップを洗い、キッチンに置かれたタオルの上に逆さにして置いた。

そして、レイナと書かれた札が付いている扉を開け中へ消えてしまった。

 芽衣は時計を一瞥してから目をそらしてテレビを付けると、音量を一度消して字幕が出るように設定しイヤホンを付けた。

そして、ゆっくり音量を上げていき、ちょうど良くなったとき、玲菜の入った部屋から電気をショートさせたような物騒な音が何度か間をおいて響いた。

 玲菜は俗に言う発明家、自称科学者だ。研究所を自分の部屋に作り、好き勝手自分の作りたいものを作っては売り払っている。

しかし、研究の仕上げに使う機材が爆竹のような音を放つため、この家の壁には全て防音処理がしてある。それでも、玲菜の部屋の扉には物理的に設置が出来なかった。そのため玲菜が仕上げと言う言葉を使った時、芽衣はいつもこうしてテレビの音を聞いていた。


〜※〜


 午前七時。修二の枕元で携帯電話が鳴った。

修二はぼんやりとしたまま枕元をバンバンと叩き、電話に手が触れると手探りでコールを切り、元に戻した。

すると、十秒も経たずにまた電話が鳴った。

「……んだようるせぇなぁ」

修二は電話を取ると、より深く布団にもぐり通話ボタンを押した。

「もしもし」

『モーニングコール!』

修二よりも高い声が電話口から修二の耳へと流れた。

 電話の相手は、修二の友達である人見だ。

「お前かよ……眠いんだ、寝かせといてくれ」

『そろそろ出ないと間に合わないんじゃないの? 僕まで遅刻させないでよ』

「……まだ八時だろ」

『うるさい、寒いんだから早くしてよ』

「仕方ねぇな……」

『そうそう、さっさと出てきてくれないかな。凍え死にそうだ』

「バカ言え、もう春だぞ」

『僕は今朝、春を信じないと決めたんだ。とにかく早く』

 修二は渋々準備を始め、二十分ほど準備に費やすとようやく家を出た。

「おはよう、電話すると早く出てきてくれるから楽でいいね」

修二の家の前には、人見の姿があった。

 人見はチェックシャツの上にグレーのパーカーを羽織って、ズボンはジーンズを履いている。

一度見ただけでは男性か女性かの判断が難しく、初対面の人は大抵彼女を男と間違える。

「……おう」

「じゃあ、走ろうか。あと十分じゃあ学校までギリギリだ」

言い終わる前に学校の方向へ走っていく人見を、修二は気だるそうに追いかけた。

「なぁ? なんで俺んちまで来るんだ?」

 修二は走りながら人見に尋ねた。

「え? あぁ、そうそう、面白い噂を仕入れたんだよ」

「ちげぇよ、なんで毎回くるんだよ?」

「そっちの方が、幼馴染って感じがするだろう? それに面白いんだって、聞きたい?」

「どれくらい面白い?」

「去年の初めに僕が宝くじを当てたって言っただろう? あれくらい」

「そりゃあ……あんまし期待できないな」

「まぁ、すぐ使い切っちゃったから証拠は見せられなかったけどね」

「それに、人の自慢話程つまんねぇ物は無いってこった」

 修二がそう言うと人見はムッとして速度を上げた。

修二が同じように速度を上げると、いつの間にか学校までの競争へと発展していた。

 二人は肩で息をしながら、一年二組と書かれた札の下を潜り窓際へふらふらと歩いて行った。

そして一番後ろの席に修二、その一つ前の席に人見がカバンを投げつけた。

「間にあった……」

「なんやかんや必死で走ったじゃないか」

呼吸を粗くしながらも人見は笑顔で修二を見た。

「うるせぇな、ったく……」

 人見はうわさを集めて来るのが好きだった。

「知ってるかい? 六組の舞香ちゃんと正幸君って中学の時から一緒で、ずっとあんな感じなんだってさ」

昼休みになると人見が熱心に修二へ噂話を披露していた。

「お前、それ知ってて何の得になるんだ?」

弁当を半分ほどしか食べていない修二は、人見をあしらうような態度を取った。

「それに、昼飯は?」

「ダイエット中」

 修二なんとか人見が話すのをやめる口実を見つけようとしたが、人見は言葉をかわすばかりだった。

「太ってはいないと思うが」

修二が横目に人見を見ると、人見は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「あんまりジロジロ見るもんじゃないよ」

バツが悪くなった修二が黙ると、人見はまた話を始めるのだった。

話を聞き流しながら弁当を食べた修二はペットボトルのキャップを捻ると、お茶を口に含んだ。

「そう言えば、君は好きな子とか居ないのかい?」

修二はむせそうになりつつペットボトルから口を離した。

「唐突だな」

「この学校は校内恋愛が中学に比べて少なくってね、少しでも手掛かりが欲しいんだよ。で、居ないの?」

人見は近くにあった机を人差し指で二回叩き、答えを催促した。

「いねぇよ」

「へぇ」

 修二は人見から目をそらし、半分あったお茶を飲みほした。そして弁当箱をカバンへしまうと席を立った。

「どこか行くのかい?」

「トイレ」

 手を振る人見を背に、修二はトイレへと向かった。

 まったく、あんな情報どっから集めてくるんだか。

 トイレの前にたどり着いた修二は、男子トイレの前で時計を眺めている芽衣が目に留まった。

「芽衣? ……何してるんだ?」

突然声をかけられた芽衣は、咄嗟に修二の方を向き距離をとった。

「お、驚かせて悪い」

「修二君……?」

「まぁ、そうだけど」

「えっと……なんでここに?」

「トイレ、そこだし」

「あ、そ、そっか、えっと……どうぞ」

修二は動揺している芽衣に不信感を抱きながらも、とりあえずトイレへ入って行った。

 トイレから出ると、そこにはすでに芽衣の姿はなかった。

こんなところで何を考えていたのか聞いてみたい気もしたが、そもそも芽衣が何組に居るのかすらわからなかった。

修二は芽衣の立っていた位置で同じ方向を向いてみたりもしたが、そこには男子トイレの入り口があるだけだった。

しばらく立っていても頭には何も浮かばず、疑問だけを残して修二は教室へ向かった。

そして一番初めに飛び込んできたのが芽衣の姿だった。

壁側の一番前の席で本へ目を落としている。

修二は自分の心臓が跳ねたのがわかった。

 同じクラスだったのか。

修二は逃げるように自分の席へと移動した。

とにかく心音が落ち着くまで待った、なにか飲もうと考えたがペットボトルの中には舐められるくらいのお茶が底に残っているだけだった。

 何度か深呼吸をすると、芽衣の後ろ姿へ視線を移した。

じっと動かず、ただ本を眺めているその姿から何を考えているのか想像もつかなかった。

「……なぁ、芽衣ってどんなやつなの?」

修二は自分の前の席に座っている人見の背中へ言葉を投げかけた。

人見は目を丸くすると後ろを振り返り、なにか感づいたようにニヤリと笑った。

「修二から何か聞いてくるなんて珍しいじゃないか、そうだね……彼女はなかなか面白い人だと思うよ」

人見はそう前置きすると、修二から一度目をそらし一度頷いてから話を始めた。

「まず、彼女おとなしい割りに芯がはっきりしてる」

「へぇ……」

 横目に芽衣を見ると、同じ姿勢で本を眺めている。

周りの人間は芽衣など視界に入っていないようだった。

「嫌な事は嫌って真っ直ぐに言う子だね。その性格のおかげか、彼女を標的としたイジメは僕が見る限り予兆を見せたことは何度かあるけど悪質なものに発展するってことは今のところ無いね」

芽衣が本を閉じると、修二は一つ後ろの誰も座っていない席へ視線を泳がせた。

「あとは、毎回同じ本を……開いてる。かな、ただ開いてるだけって感じ、特に面白い本って言うわけでも無いんだろうね」

人見はあまり曖昧な情報ではなく、はっきりしていることや自分の目で見たことを修二に伝えた。

そして、ある程度話すと、一呼吸置いた。

「で、好きなの?」

「……は?」

「いや、修二が僕に女の子の情報を求めてくるなんてそう無かったからね、そういう可能性も考えて置かないといけないじゃないか」

修二が別にそんなんじゃない。と答えると見計らったように昼食休憩が終わった。


〜※〜


 芽衣は自分の家の前で立ち尽くしていた。

自分の左手首に巻かれた腕時計を親指で何度も撫でた。

今朝、リビングのテーブルに昨日から変わらず無造作に置かれたままのブルーの時計をじっと見つめていた。携帯電話でも時計の代わりにはなる。しかし、左手首に何もつけていないという気持ちの悪さが一瞬だけ勝り、時計へ手を伸ばした。

 ただ時間を見るだけ。そのつもりだったが、芽衣は一度だけ時計を使ってみたいという衝動に駆られた。

本の活字をぼんやりと眺めながら、自分が変われるのなら男でも何でも良い。

最初は小さかった気持ちがゆっくりと大きくなり、濃い霧のようにすっぽりと芽衣を包み、他には何も見えなくなっていった。

 みんなの輪に入れる。今まで目を逸らしていたことができる。それが何よりも芽衣の心を掴んだ。

 しかし、大勢いる目の前で姿を変えるわけにはいかない。

芽衣は授業中も一人になれる場所を考え、最後に残った二つが倉庫とトイレだった。

倉庫は怪しまれてしまう。それより、誰もいない隙に男子トイレへ入ってしまえば男に変わってからも怪しまれる事は無い。

 芽衣の考えた作戦だったが、いざ目の前にしてみるとどうしても一歩踏み出す勇気が沸かなかった。

何より、全く知らない生徒がいきなり現れて疑問を持たない人などいないだろう。

 逃げるための言い訳が、芽衣の頭を埋め尽くした。

言葉でゴチャゴチャになった頭の中に、ぽんと言葉が飛んできた。

「芽衣? ……なにしてるんだ?」

修二だった。

不意に現れた言葉に、芽衣の頭の中は真っ白になった。

何を考えればいいのかすら、わからなくなった。

そのあとは何を答えたのか覚えていなかった。

気がつくと修二の姿は消え、底知れない恐怖と後悔が芽衣を襲った。

何か余計なことを言ったのかもしれない。

芽衣の決心は崩れ去りその場から逃げることしか頭の中には浮かばなかった。

 自分のクラスへ戻り、本を開いても頭の中には真っ白なページが何枚も何枚もあるだけだった。

言葉の意味が全く頭の中に入ってこない。今ほど本の内容を理解しようとしたことはないのに、必要なときに限って本は読まれる事を拒絶し続けた。


「ただいま」

 玄関を開けると、玲菜がホットミルクを慎重に口に運んでいた。

「おかえり」

玲菜はカップに口をつけると、すぐに離してテーブルの上へカップを置いた。

「時計使った?」

玲菜の質問に、芽衣は首を横に振って答えた。

「ふーん……」

玲菜はカップに目を落とし湯気の具合を見ると、カップを放置して自分の部屋へ入っていった。

そして、一枚紙を持ってくるとテーブルの上に置き、芽衣を手招きした。

「……なに?」

「まぁ簡単に言えば転校の手続きね」

芽衣は目を丸くした。

「私、転校するの?」

「あんたはしないの」

「……じゃあ、お姉ちゃん?」

玲菜は、面倒くさそうにため息をつくと、芽衣の言葉に返答をせずに椅子を引き出して座った。

芽衣もわけがわからないまま、もうひとつの椅子を引き出し、座る。

お互いが向かい合うと、玲菜は芽衣の着けている時計を指差した。

「その時計を使うと、遺伝子と周りの物質を弄ってあんたを男にするわけ、洋服なんかも変わったでしょ?」

芽衣はうん。と二回言った。

「で、男になったあんたを、全くの別人としてあんたの学校に入学させる」

「……うん」

「そうすると、堂々と男になって学校でもうひとつの人生を歩めるってわけ」

玲菜は説明を終えると、服のポケットからボールペンを取り出して紙の上に置いた。

「あたしが書くところは全部書いたから、あとはここ」

そう言って玲菜は転入生の氏名を記入する部分を指差した。

「名前はあんたが決めて良いよ、そっちのほうが第二の人生って感じがするからね」

そういうと、玲菜は席を立ち、自分の部屋へと消えた。

 玲菜は特に何か作っているわけでは無いようで、部屋中に音が犇めくことは無い。

ただ静かな空間が、芽衣の周りを包んでいた。

「名前……か」

 もう一人の自分の名前、考えもしなかった。

苗字は母の旧姓を使うことに決めたものの、名前は自分で決めようにもうまくいかなかった。

芽衣はペンを弄りながら、名前で連想できるものを浮かべた。

そうして浮かんできた中に、小さいころ自分の名前について両親に聞いてくるという宿題が出されたことを思い出した。

「芽衣って名前はあたしが考えたのよ、漢字はさすがに親が決めたけどね」

 玲菜にそういわれたのを芽衣はよく覚えていた。

 芽衣と名前が決まるまでは、何度も悩みこれでは生まれても名前が決められずに一歳になってしまう。そこで、生まれる前に男の子だったときの名前、女の子だったときの名前を考えたのだという。

女の子だったらメイ、男の子だった場合は。

「……たしか……ショウ」

 言葉を伝って聞いたためか、芽衣の頭の中に漢字は浮かばずただ、ショウという響きだけが残った。

芽衣はしばらくペンで机を叩いていたが、意を決して「翔」と書いて空欄を埋めた。


〜※〜


 その日、修二と芽衣のクラスは朝からとても騒がしかった。

事の発端は人見だ。

「明後日! 転校生が来る! 間違いない!」

教卓を陣取って、後ろの黒板に転校生と大きく書いて注目を集めた。

 クラス中がどよめき、口々に人見へ質問を寄せるが、男か女かが半数を占めていた。

「静粛に〜静粛に」

人見がそういって場をなだめたかと思うと

「転校生は……男だってさ!」

いきなり大声を出して場を盛り上げた。

クラスには、なんでだよ! と崩れ落ちる人。甲高い声を上げて喜ぶ人様々だったが、転校生を歓迎するための心の準備は一通り終わったように思えた。

 人見が教卓から降りて席に戻っても、クラスはまだ転校生の話題で盛り上がっている。

「……何してんだよ」

満足そうに自分の席に座る人見。修二は机に肘をついて外を眺めている。

人見はいつものように椅子を修二と向い合せにして、座りなおした。

「いいじゃないか、転校生だよ? 僕にしては遅かったほうだ、本当は一週間前には嗅ぎつけておきたかった」

人見が残念そうに肩を落とした。

「……どんな奴なんだろうな」

修二は人見のほうへ顔を向けた。

「そこまではさすがの僕もわからないさ。髪を染めてるかもしれないよ」

人見はあれこれと、転校生の想像を始めた。

番長みたいな人かもしれない。がり勉という可能性もある。そんな話を人見は一方的に修二へぶつけていた。


〜※〜


 どうしよう。

芽衣は昨日から転校生の話題で持ちきりのクラスを背に、もう逃げ場がなくなったことを改めて理解した。

もう前回のように土壇場でやめるという事は許されない。

 今日に限っては本を読まなくても時間が過ぎて行った。

 男になってクラスへ入ったらどうなるのだろう。

もしかしたら、今とあまり変わらないかもしれない。それよりも男らしくないといじめられてしまうかも。

 悪い予想ばかりが芽衣の頭の中へ流れ込んできた。


 そして、転校する日がやってきた。

 芽衣は学校へ休みの連絡を入れてから、車で学校へ向かった。

 欠席連絡をしてから学校へ行くのは、なんとも複雑な気分だった。

玲菜は運転席からミラー越しに後部座席にいる芽衣へ話しかけた。

「わかってると思うけど、時計のタイマーがゼロになったらもとに戻る。それを見られたらまぁ……もう一回転校は覚悟しといてね」

芽衣はミラーに向かって一度、頷いた。

 学校へ到着する直前に、芽衣は時計のスイッチを入れて翔へ姿を変えた。

「じゃあ、行ってらっしゃい」

「いってきます」

翔になった芽衣は、はっきりした口調で玲菜へ挨拶を返した。

 それからは、おおかた玲菜に聞かされていた通りに進み、自分の担任と共にクラスの前へとたどり着いた。

 翔は不安に押しつぶされそうになったが、覚悟を決めた。

担任に呼び出され、教室に入る。

すると、一瞬教室は静まり返り、すぐにヒソヒソと話が始まった。

あまりいい気分はしなかったが、翔は少なくとも悪口を言われているわけではない事は解っていた。

 担任に促され、翔はすぐに自己紹介を始めた。

 自分の名前、クラスの第一印象、先生の第一印象。

話を膨らませていく翔にクラス中が驚き、そしてそれはすぐに笑いへ変わった。

しかし、誰よりも驚いたのは翔だった。

 芽衣として本を読んでいた時や、委員会で意見を言おうとした時とは全く違う。

何より、クラスや先生。他人のことをこんなにしゃべるのは初めてだった。

 自己紹介と演説が終わると、翔はいつも通り自分の席に座った。

「あ、そこはもう埋まってる席だよ」

窓際の後ろから二番目の席に座っている人見が席を立って翔に助言した。

翔は慌てて席を立った。

 そして、今は芽衣ではないのだと何度も自分に言い聞かせた。

「こっちに来ないかい?」

そして、人見は隣の空いた席を右手で指さすともう片方の手で手招きした。

翔は人見に従い、空いた席へと座った。

 クラスはそのまま授業へ入ったがクラス中の関心は翔に集まっていた。

翔が周囲の反応に困惑していると、そっと隣から畳まれたノートの切れ端が飛んできた。

飛んできた方角へ翔が視線を向けると、人見と目が合った。

 翔は指で机に乗った紙を指さし「何?」と手振りで尋ねた。

人見は指で開く動作をして「開けて」と伝えた。

翔が紙を開けると

[僕は人見、ひとみと読む。分からないことがあったらいつでも来てよ]

紙にはそう書かれていた。

 翔がもう一度人見の方を向くと人見は口を動かした。翔には「よろしく」と言ったように見えた。

 休み時間になると、翔の周りは人だかりができていた。

 最初は数人集まったが、隣のクラスの生徒もやってきてすぐに十数人が翔の周りを囲った。

質問や、自己紹介、とにかく三人以上が同時に喋っている。

その一つ一つに翔は的確に答えを出していった。

 何故かはわからない。でも、翔になると人との触れ合いが芽衣よりも円滑に進む気がした。

何より、自分が自然と輪の中に溶け込んでいる時間が翔を魅了した。

 二限目の授業の途中、翔は約束通り途中で学校を出た。

あらかじめ二限目の後に早退する事を伝えていたため、すぐに教室を出ることができた。

 翔は教室を出ると、裏門の方向へ向かい途中にある倉庫へ駆け込んだ。

そして、あまり物が無い倉庫の端へ身を隠し、時計を見た。

薄暗い中で、ボタンを押すと時計のライトが光り残り文字盤が表示された。

翔が見たときには時間が一分を切った所だった。

 数字が小さくなっていくのを翔はじっと眺め、ついに十秒を切る。

「……七、六、五、四、三、二、一」

翔が言った途端に時計から霧が放たれ、視界が白くなる。

そして、霧が晴れると、芽衣は声を出してみた。

「あー」

 芽衣の耳に入ってきたのは、聞きなれた高い声だった。

 ちゃんと戻った。という安心と、戻ってしまった。という失望が同時に芽衣の中へ流れ込んだ。

芽衣は首を振って混ざった気持ちを一度鎮めると、壁際の棚に置いておいた自分の荷物を手に取った。

遅刻という扱いでこれからの授業を受ける。そうしなくては帰る姿を目撃されたときに何も言い訳ができなくなってしまう。

 教室をノックしてクラスに入ると、教室中の視線が一心に芽衣へ注がれた。

今朝の翔へ注がれる視線よりも、芽衣には耐え難かった。

授業をしている教師へ頭を下げると、そそくさと席に着いた。

 しかし、頭に浮かぶのは翔だった時間。その不思議な昂揚感だった。

翔は自分のできないことを簡単にやってのけた。

 第二の人生。玲菜の言ったことが少しわかったような気がした。

 授業を終えると、芽衣は本を取り出して活字を眺める。

しばらくすると、芽衣の机を誰かが指で二回叩いた。

芽衣は、はっとして上を見ると修二が芽衣を見下ろしていた。

「……大丈夫か?」

修二の質問に芽衣は冷静を装った。

「うん、大丈夫だよ」

「本当か? 今日も遅刻してたし、ちゃんと寝てるか?」

「寝てるよ」

「ならいいけど、無理はすんなよ?」

「うん。大丈夫だから」

修二はそっと芽衣の席から離れると、すぐに戻ってきた。

「そういや今日の全体会、風紀委員のやつ。何時からだっけ?」

芽衣は慌てて頭の中を探った。

「えっと、放課後……四時四十分からだったと思う」

「そっか、助かった。ありがとう」

修二が自分の席へ戻って行くと、芽衣は再び本へと目を移した。

 放課後、芽衣は集合場所に指定されたクラスへ向かおうと席を立った。

「あ、芽衣」

立った途端に声をかけられ、振り返ると修二が頭を掻いていた。

「一緒に行かないか」

「……うん」

芽衣の頭を不安が過った。

昨日まではあまり話すことのなかった修二が急に話しかけてきた。

 何か感付いてるのかな。

 どちらにしても芽衣は、見透かされないように注意を払うことにした。

教室を出て、集合場所へ向かう途中も修二は芽衣に話を振った。

「今日、転校生が来た」

芽衣はギクリとした。

それでも、平静を装い普通の返事を心掛けた。

「へぇ」

「翔、ってもうみんなに呼び捨てで呼ばれててさ」

芽衣は修二が自分の様子を窺いながら話しているように聞こえた。

 そして、いくつか翔の様子を芽衣に伝えると、少し間をおいて言った。

「あんまり、興味なかったか?」

「そんなことないけど……」

「そっか」

そこで、二人の会話は途絶えてしまった。

修二はしばらく天井を見上げて何か考えているようではあったが、結局何かを口に出すことはなかった。


〜※〜


 修二は全体会が始まってもしばらく芽衣を眺めていた。

芽衣は視線に気が付いたが、すぐに目をそらした。

「おい、聞いてんのか」

男の委員長が修二を指さすと、修二は慌てて話に耳を傾けた。

 全体会が終わると、芽衣は逃げるように教室から出て行った。

 修二が後を追いかけようとすると、委員長に捕まりしばらく説教を受けた。

修二の頭の中にはほとんど入ってくることのない忠告をする委員長から、修二が解放されたのは三十分後だった。

 修二が自分の教室へ戻ると、そこには芽衣の姿は無い。

「やぁ、どうだった?」

教室の中には、最終下校時刻が近づいているにもかかわらず人見が座っていた机から飛び降りた。

「何がだよ」

修二は自分の鞄を手に取ると、人見に背を向けて教室を出た。

人見も鞄を手に、修二の後を追いかけた。

「芽衣ちゃんとの七十メートルのデートだよ」

「なんだそれ」

「この教室から、風紀委員の全体会が行われた教室までほぼ七十メートルってところだろうから」

「デートじゃねぇよ」

「そうかもしれないねぇ、芽衣ちゃんはそんなつもりないだろうし」

 二人は下駄箱を抜け、暗い道へ出た。

 人見はその後もしつこく修二へ質問を続けた。

修二は何も答えず、ただ自分の家へと向かう。

 そして、修二の家と人見の家へわかれる突き当りで二人は立ち止まった。

薄暗い空の下、十メートルごとに一つある街灯が向かい合う二人の足元を照らしている。

「しつこいな」

「わかってるさ」

「……なに企んでるんだ?」

「ん? 何か企んでるように見えるのかい?」

人見はにっこりと笑った。

「その作り笑い、似合ってない」

「失礼だねぇ」

「……お前が自分のこと僕って呼び始めたあたりから、ずっとそんな感じだな」

人見は顔から笑みを消した。

「なんだ、覚えてたの? もう六年も経つのに」

そして、もう一度笑みを作った。

修二はその顔から足元へ視線を落とした。

「忘れかけてた。今のお前が自然すぎたから」

「僕はもう、前の僕に戻る気はないからね」

「誰もそんなこと言ってないだろ」

「戻ったって、修二には気に召さないみたいだしね」

「気に召さないってお前なぁ……」

「そうじゃないか!」

人見は目を剥いて声を荒げた。

しかし、すぐに我に返ると

「……あ、ごめん」

気まずそうに俯いた。

「やっぱ、まだ引きずってんのか」

「そんなことはない」

人見は修二の目を見た。それだけは否定したい。そんな思いが籠っていた。

「未練がましいとは思うよ。でも、僕としてはけりをつけたつもりだ」

人見はもう一度だけ笑うと、それじゃあ。と右手を挙げた。

それに応えるように修二が右手を挙げると、二人はそれ以外言葉を交わさずにお互いに背を向けた。


〜※〜


 芽衣が家へ帰ると、玲菜がリビングでパソコンに向かっていた。

「何してるの?」

「あたしの機械売った会社の株が上がったからね、一儲け」

玲菜はパソコンのエンターキーを薬指で叩くと、芽衣のほうへ体を向けた。

「で、どうだったの?」

玲菜の問いかけに、芽衣は待ってましたと目を輝かせた。

「翔になると、出来なかったことが普通にできる!」

「そう、それは良かった」

そう言うと、玲菜は左手を開いて前に出した。

「じゃあ、時計返して」

「え?」

芽衣は反射的に腕時計を手で押さえた。

すると、玲菜は手を引っ込めた。

「今すぐとは言わないけど、そうね。遅くても一か月経ったら回収」

玲菜はパソコンへ向かい、再び何か操作を始めた。

「……どうして?」

「どうしてって……その時計もともと売る予定だったし」

「誰に?」

「そんなの言えるわけないでしょ、とにかく一か月。それまでは使っていいよ」

 突然の宣告に戸惑いを隠せない芽衣だったがその気持ちの中に少しも、返すという気持ちは生まれてこなかった。

「良い?」

玲菜の問いかけに、芽衣は迷うことなく答えた。

「嫌」

まっすぐ玲菜を見て、言い放った。

 絶対に返さない。

「……あのね、あんまり使いすぎると女に戻れなく」「嫌って言ってるでしょ!」

 芽衣がこうなったら何を言っても無駄。それは玲菜が一番よくわかっていることだった。

「……あんた。後悔するよ」

「しない」

芽衣の気持ちは揺るがなかった。

「……じゃあ、勝手にすればいいじゃない」

玲菜はそれだけ言うと、パソコンに向かい合った。

 芽衣はしばらく玲菜を睨んでいたが、自分の部屋へ駆け込むとベッドの中へ飛び込んだ。

ベッドが軋み、芽衣は枕へ顔を埋めた。

 そして、右手で時計を握った。

 絶対に離すもんか。

 芽衣はそれからも、時計を使い続けた。

女に戻れないのなら、ずっと翔になれるまで使ってやる。

芽衣はすっかり時計に心を奪われていた。

 昼食後から放課後まではちょうど二時間授業がある。

二時間しか変身できないので、芽衣はそこを利用することにした。

 昼休みに芽衣が早退し、それと入れ違いで翔が登校してくる。

 同一人物なのでは、といった噂も広まったが二日と経たずに人見の持ってきた新しい噂にかき消された。

「人見、何か面白い話はないの?」

 翔は昼休みに登校すると、人見に話しかけては話を聞いて笑い合った。

「そうだねぇ……修二が最近好きな子ができたらしいんだ」

「おい!」

ニコッと笑う人見の肩を鷲掴みにする修二を、翔はまぁまぁ、と制止した。

 とにかく楽しかった。何よりも翔でいる時間が何よりも楽しかった。

 そんな生活を一週間ほど続けていた時だった。

「……ん?」

 倉庫に隠れ、芽衣の道具を置いて翔の道具を足元に置き、ブルーの時計のスイッチを押そうとした時だった。

時計の数字が120から240に変わっていた。

「増えてる」

 芽衣は玲菜の細工だと思った。

寝ている間か、風呂に入っている間。目を離しているすきに何か弄ったのかもしれない。

 もし数字のとおりであるのなら、四時間は翔でいられることになる。

芽衣は喜びが胸の奥から込み上げてきた。

 もっと長く翔として過ごせる。みんなと話せる。

 芽衣が指で時計のボタンを押しこむと、芽衣を霧がつつんだ。


 翔が学校へ転校してからさらに一週間が経とうとしていた。

期限まであと二週間、しかし芽衣は約束を守る気などまるで無い。

 最初は芽衣の素性を疑っているように感じられた修二も、何度か話すうちにただ話題を探っていただけだと分かった。

「UBってバンド知ってる?」

「ゆーびー?」

音楽の話題や、スポーツ話題。修二は人見とはまた違った話題を持っていた。

人見の客観的で洗練されている情報とは真逆で、修二は自分の見たこと聞いたこと感じたことを芽衣へ振ってくる。

 芽衣は自分と異なった意見を持つ修二に不思議な魅力を感じていた。

 同時に、芽衣はいくつか疑問を感じた。

翔として修二に話しかけると、修二は翔の話に全く興味を示さないのだった。

 芽衣は修二の話をいくつか覚え、話題を合わせられそうなものに目を通すと翔として修二に話しかけた。

「修二君、昨日のサッカー見た?」

出来るだけ気軽に修二へと話しかけたのだが、修二は翔の方を一度も向かず、気のない返事を返すだけだった。

 しかし芽衣として同じ話を振ると、修二は目を輝かせて自分の言葉を芽衣にぶつけた。

何が違うのか、芽衣には分からなかった。

翔としてならみんなの輪に入れるのに、修二だけは逆に翔へ壁を作っているようだった。

 そして、もう一つの疑問。

 修二には人見がいる。なぜ私のところへ来るのだろう。

 風紀委員の挨拶運動で校門に朝早くから二人で立っていた時。

まだ人があまり登校する前で、暇を持て余した芽衣の口から言葉がこぼれた。

「ねぇ」

「……ん?」

修二が芽衣の方を顧みると、それより早く芽衣は言葉を続けていた。

「人見ちゃんが居るのに、どうして私のところに来るの?」

あまりにも真っ直ぐな言い方だった。

「嫌、だったか?」

「そうじゃないよ。私は今まであんまり人と話せなかったし、修二君が話に来てくれるのはすごくうれしい。でも……」

 修二君たちにとって私は邪魔なんじゃないのかな。

頭にはそんな言葉が浮かんだが、そこから先は言えなかった。

修二の表情が曇るのが目に見えて分かった。

 聞いてはいけないことだったのかもしれない。

 会話の途切れた気まずい間が続く前に、修二は「うん……」と曖昧な返事をしてから、登校してきた生徒に大声で挨拶した。

その声は、無理やり今の質問を頭から消し去ろうとしているように感じされた。

「……変なこと聞いて、ごめん」

頭を上げた修二に謝るが、修二は芽衣と視線を合わせずに、あぁ。と再び曖昧な返事を返した。

 その日一日、とても重苦しい空気が修二の周りを漂っていた。

人見も声をかけるのを少し躊躇うほど消沈している修二に、芽衣が簡単に話しかけられるはずもなかった。

 芽衣は午後から翔へと姿を変えたが、やはり罪悪感は拭い去れなかった。

しかし一日が過ぎると修二は、昨日の気まずさなど忘れてしまったように昼に登校してきた芽衣へ話しかけた。

芽衣は少し後ろめたさを感じていたが、修二の楽しそうな語り口に引き込まれ、いつの間にかいつものように笑っていた。

 その日の夜だった。

 芽衣の家の電話が鳴った。

リビングにいた芽衣が、受話器を取った。

「もしもし」

『もしもし? あ、芽衣ちゃん?』

聞いたことのある声だった。

「人見ちゃん?」

『覚えててくれたんだ?』

 芽衣の姿で人見と芽衣が話したことは記憶を思い返しても数えるほどしかない。

翔になって自信が付いた時でないと、人見へ話しかけるのも躊躇った。

 しまった。と芽衣が思っている間に、人見の言葉は続いた。

『翔がここにいるって聞いたんだけど……でも、ここって芽衣ちゃんの家……だよね?』

「あ、ちょっと待って」

芽衣は保留音を押すと、時計のスイッチを押して翔へ姿を変えた。

「もしもし」

『あ、翔? 本当に芽衣ちゃんの家にいたんだ?』

「うん、どうしたの?」

『昨日元気なかったみたいだからさ、どうしたのか気になってね』

「そっか、心配かけちゃったね。ちょっと落ち込んでただけだから、大丈夫」

『そう、それは良かった。でもなんで芽衣ちゃんの家に?』

「え……あ、今日はその……夜ご飯を一緒にって芽衣がね」

『一緒に夜ご飯か〜羨ましいなぁ』

「人見は修二とかとご飯食べないの?」

 翔は迂闊だったと口を抑えた。

修二と人見の関係は丁重に扱おうと決めたばかりだった。

『……う〜ん、前はあったんだけどね。あ、そうだ。お願いをしてもいいかい?』

人見は一瞬声のトーンが下がったが、悟られないように話題を変えた。

『明日の放課後、そうだね午後四時半頃、学校の屋上にいてくれないかな? 鍵は開いてるはずなんだ。翔と話したいことがある』

「え、いいけど……」

翔は驚きながらも、とりあえず答えを返した。

そして、長くなっても悪いからと人見が電話を切った。

内心ホッとしたが、そのあと翔を襲ったのは不安だった。

話したい事、という言い方がとても恐ろしく感じられた。

 もしかしたら、何か気が付いたのかもしれない。

修二よりも勘の良さそうな人見からとなると、なおさらその不安は高まった。

 あまりよく眠れないまま朝を迎え、その日は本を読まずとも時間は過ぎ去った。

 薄暗い倉庫の中で、時計の表示を変えると360と表示された。

時間通りに進むのであれば、六時間の間は翔でいることができるという事になる。

 辺りを気にしながらトイレから出ると、真っ直ぐ屋上へ向かった。

階段を上り、少し錆びた金属製の扉のドアノブを捻ると簡単に扉が開いた。

翔が扉をくぐると、とても気持ちの良い風が翔を包んだ。

屋上には白い鉄製の柵が、張り巡らされていた。

その柵越しに見える景色は、住宅街の所々に緑が茂っている。とても気分のいいものだと翔は思った。

 翔は屋上にぽつんと置かれていたベンチに座ると、雲を眺めながら人見が来るのを待った。

待っている間も、不安は渦巻き続けていた。

何か聞かれたときのうまい言い訳ばかりが頭を掻きまわし、いっそ人見が屋上へ来なければという思いが過ることもあった。

 五分ほど経つと屋上の扉が音を立てて開き、人見が顔を出した。

翔は反射的に立ち上がり、人見へ体を向けた。

人見は翔が視界に入ると、翔へと手を振った。

「やぁ、いたんだね」

「え、あぁ、うん」

「あぁ、やっぱり同じ男でも反応が違うなぁ」

人見はにっこりと笑うと、翔の座っているベンチへ歩み寄った。

「修二だったら『いちゃ悪いのかよ、大体、お前が呼び出したんだろ』とか言われるさ」

そう言い終わった頃には、人見は翔の一メートル程前で足を止めた。

笑顔を見せる人見に、翔は複雑な気分になった。

「……それより、話したいことって?」

「あぁ、そうそう」

人見は息を吐くと、真剣な顔を翔へと向けた。

「言っておきたいことがあってね」

翔は胸の鼓動が早くなるのを感じた。

不安と緊張で翔の中はごちゃごちゃになった。

「一度だけ、言う」

人見の言葉に翔はゆっくり頷いた。

 内側から胸を叩かれるような鼓動を翔は必至で押さえた。

何も気づいていないことをただ祈った。

 人見はすぐには言葉を発しなかった。

言葉を出そうとしているが、あと一歩のことろで躊躇していた。

そして、意を決すると、人見は一思いに言葉を放った。

「君が好きだ。付き合ってほしい」

 人見が言い終わったとたんに、屋上は静まり返った。

さっきまで騒がしかった心臓の音すら、翔には届かなくなった。

「えっと……つまり?」

翔は自分の聞いた事を信用できなかった。

「一度しか言わないと、言ったはずだよ?」

「だからその……本当に?」

「本当だ」

翔はやはり、理解ができなかった。

しかし、自分の鼓動がゆっくりと治まっていくのを感じた。

「どうして……僕なの?」

「不服かい?」

「そういうわけじゃないけど……僕らはあんまり話してないし……」

「う〜ん。内緒」

人見は人差し指を唇に当てると、笑った。

「さてと……じゃあ、君の答えを聞かせてほしい」

「え……今?」

「当然。君が僕と付き合う気が無いというのなら、無理強いはできないだろう?」

 翔の気持ちは決まっていた。決まっていたはずだった。

「……少し、考えさせてくれないかな?」

虚を突かれた人見は、首をかしげるとすぐに頷いた。

「わかった。今も動揺してるみたいだし、落ち着いてみたら好みじゃなかったって言うのも言いづらいだろうからね」

人見が笑みを浮かべると、翔は気まずそうに肩を竦めた。

 微塵もそんなことを考えてはいなかったが、うまく否定することができなかった。

「そうだなぁ……一週間あげよう。一週間後、僕はもう一度この時間にここへ来る。その時に、答えを聞かせてくれるかい?」

「分かった」

 翔が人見へそう告げると、人見は屋上の扉を開けた。

すると思い出したように振り返った。

「この事、修二には内緒にしておいてくれるかい?」

「え?」

「君が答えを出すまでは知られたくないんだ。ちょっと、いろいろあってね」

そういうと、人見はにっこりと笑みを浮かべ、屋上から去って行った。

 家へ戻ってから、芽衣は後悔した。

リビングの机に突っ伏し、ごちゃごちゃになった頭の中を必至で整理した。

しかし、何度やっても納得いかない。

 どうしてこんなことに。

 そんな思いだけが加速した。

「芽衣」

ホットミルクを片手に持った玲菜が、芽衣へ声をかけた。

「……何?」

「こっちのセリフよ、さっきからなに唸ってんの」

「唸ってた?」

「うーってずっと言ってる」

 芽衣は自分の唸り声が聞こえていたと思うと恥ずかしくなった。

「なんかあったの? というかあったでしょ、言いなさい」

玲菜は芽衣を指さすと、ホットミルクをカップ半分まで飲み干した。

「こ、告白……された」

「あなたの事が好きです。って?」

玲菜の問いかけに芽衣は小さく頷いた。

「へぇいまどき直接告白なんて男もまだ廃れてないのか、で、なんて答えたの?」

玲菜は少し身を乗り出した。

「少し、待ってって」

「あぁ……そりゃ駄目だね」

「駄目?」

「男は気が短いからね。やっぱ無しとかって言われる前に付き合っといたほうがいいよ。ノリってのは大事だから。あたしも今にして思えばなんであんなのと付き合ったんだろって思うことあるし。良くも悪くもノリよ」

 俯く芽衣をよそに、玲菜はなつかしそうに微笑んだ。

さらに思い出を語ろうとする玲菜を遮って、芽衣は一言発した。

「男の子じゃ……ない」

かすかな声だったが、これといった音楽も外の音も聞こえない部屋の中では十分届く声だった。

 そして、言葉をキャッチした玲菜の顔色がだんだん険しくなった。

「どういうこと?」

トーンを低くして、真剣に芽衣へ尋ねた。

「クラスの友達なんだけど……翔に変身してる時に……屋上に来てって言われて……それで」

「名前は?」

「人見……ちゃん」

玲菜は頭を抱えた。

 玲菜は芽衣が嘘をつくと思ってはいなかったが、名前を聞いた途端に芽衣の話は現実味を帯びた。

「よりにもよって……面倒なことしてくれたね」

「ごめん」

「大体、あと二週間で翔は転校してあたしに時計返すんでしょ?」

「それは嫌」

「駄目、あんた。今のままじゃまずいことになるよ」

「嫌」

二人は互いに睨み合っていたが、しばらくすると同時にため息をついた。

「なんにしても断らないとマズいんじゃないの?」

「わかってる」

「じゃあ、明日にでもちゃんと断ってきな」

芽衣ははっきりと頷いた。

 明日、人見に気持ちを告げよう。

 話はそこで終わったが、玲菜はその日はずっと落ち着かない様子だった。

不安で仕方がない。動揺は芽衣にもはっきりと伝わってきた。

「明日、ちゃんとしなね」

寝室に入る直前、玲菜は一言だけ芽衣にそう言った。

そして、芽衣の返事を聞くことなく自分の部屋へと入っていった。



〜※〜

 

 人見はどこか空中を漂っている気分でいた。

目の前にある景色が現実には感じられなかった。

 六月、天気予報では一言も報じられなかった夕立が町を湿っぽい空気で染めていた。

さっきまであった日向でくつろいでいた猫は、いつの間にか姿を消している。

 地元の中学から五分も離れていない公園、その公園にある山をかたどった遊具は中が空洞になっていて、雨を避けるのにはちょうど良い場所だった。

遊具の中では中学生ほどの男女二人が、背中を丸めて山の壁に寄りかかっていた。

女の方は中学校の制服と思われる紺色のブレザーに身を包み、黒い髪を肩より先に降ろしている。

男も同じ色のブレザーを着て、分厚い週刊誌を読みふけっている。

「ねぇ」

「ん?」

女が男の肩を叩くと、男は女の方を見ずに言葉だけ発した。

「一回しか言わないから、聞いてくれる?」

男は女の口調にただならぬ気配を感じ、聞き流していいものではないとした。

しかし、本へ目を向けたまま、意識だけ女の方へ集中させた。

「なに?」

女も男が自分の話を真面目に聞く気があることを理解していた。

男の視線は、時折女の方へ伺うように目を動かした。

「私と……付き合ってください」

女がそういい終わったとたんに、雨足がいっそう激しくなったように二人は感じた。

 女は俯き、男も雑誌を読んでいる振りをした。

 男の答えは既に決まっていた。しかし、言葉が見つからなかった。

そして、ただ一言。

「ごめん」

それだけ。

その日二人は雨が止んでも遊具から出ようとはしなかった。


 人見は自分の部屋の机に突っ伏して眠っていた。

「……ん」

 時刻は午前三時。

 中途半端な時間に目を覚ました人見はゆっくり頭を起こすと、自分の頬に触れた。

その頬には一筋、雨粒が通り過ぎたような跡が刻まれていた。

「嫌な夢でも見た気分だ」

人見は目をこすると、手元の携帯電話の電源をつけた。

 メールが三件届いている。

三件とも差出人は同じだった。

「……修二、か」

一件ずつ、メールをチェックする。

 一番最後に送ったメールの返信、学校の業務連絡、そして最後の一件を見たとき人見は少し驚いた。

〈明日、芽衣に告白する〉

人見はしばらくその一文を眺めていた。

 内心可笑しかった。

 それを僕に告白してどうするんだい。

 もし修二が目の前で同じことを言ったなら、人見はすぐにそう言い返しただろう。

人見は適当な返事を返すと携帯電話の電源を切り、ベッドへ転がった。

「もう、後には戻れないんだねぇ」

天井へ向かってつぶやくと、人見は眼を閉じた。


〜※〜


 あの雨の日以降、修二と人見は今の距離を保ち続けた。友達であることを前提に置きながら続く関係。

二人に不満はなかった。

心を許せる人間を遠くへやりたくないという気持ちは、二人とも同じだった。

 二人の間では暗黙のルールがいくつかあった。互いを異性として見ないこと、そして恋愛はもうしない。

修二と人見が話している中で、勝手にそうなってしまったことだった。

しかし、二年続いたそのルールは高校へ入ると一変した。

 二人の前に、同時に、光が差し込んだ。暗黙のルールなど消し去ってしまうほど強い光だった。

雨の日の遊具に置き去りだった二人の心に差し込んだ光は、二人の心を揺さぶった。

 人見はいち早く光に気が付き、行動へ移した。

一方の修二は、人見よりも遅れてようやく実感を得ようとしているところだった。


 修二が芽衣と初めて関わったのは風紀委員だった。

入学して一週間後くらいに振り分けられた風紀委員で、一度言葉を交わす程度だった。

次に話したのはトイレの前。その時に修二の中で芽衣に興味がわいた。

 興味というよりは不信感に近いものではあったが、人見から聞いた話は芽衣の違った一面を目の当りにした。

 それから、修二は単純に芽衣へと興味を向けるようになった。何が好きなんだろう? 何に興味があるんだろう? 将来の夢は?

 今度は不信感とはかけ離れたものだった。

 しかし、修二がそれを恋と呼ぶことはできなかった。

いつからか決まっている暗黙のルール。しかし、修二の視線の先にはいつも芽衣の姿があった。

そして、風紀委員の挨拶運動の時、唐突に聞かれた。

『人見ちゃんが居るのに、どうして私のところに来るの?』

虚を突かれたこともあり、修二は言葉が浮かばなかった。

ぼんやりと質問をかわして、その後は余計なことを言わないように受け答えた。

しかし、あとから思い返しても、唐突に聞かれた質問の答えは思い浮かばなかった。

 思い浮かべてはいけないと、自分に言い聞かせた。

それは人見を裏切ることになる。

しかし、もう止められそうにもなかった。

「……やっぱり、好きなんだな。芽衣の事」

言葉はパッと浮かんで、すぐ闇の中へ消えた。

 修二は携帯電話を手に取ると、ボタンを押した。

〈明日、芽衣に告白する〉

 誰よりも先に、人見にだけは伝えておかなくてはいけない気がした。



〜※〜



 二日連続で呼び出されるとは思わなかった。

それも、同じ場所に。

「お、おす」

なれない様子で白い柵に寄りかかっていた修二を見ると芽衣は不思議と安心した。

「こんにちは」

「……あぁ」

 修二は芽衣を呼び出したものの、ずっとそわそわと落ち着かないようだった。

 しかし、芽衣には言いたいことが何となく解っていた。

そして、不思議と、そうであればいいと芽衣は思い始めていた。

 ぎこちない世間話を交わし、会話が途切れると修二は真っ直ぐ芽衣を見た。

「す、好きだ!」

出し抜けに、ただ一度だけそう言うと修二はじっと芽衣へ視線を固定した。

 芽衣はうれしかった。

しかし、人見のことが頭を過った。

「……ごめん、今は無理」

「今は?」

「うん」

「……そうか」

 修二は芽衣が屋上から去ると、がっくりと肩を落として白い柵に寄りかかった。

 芽衣は階段を駆け下り、倉庫へ身を隠した。

今の中途半端な状態で、修二と付き合うのはどうしても許せなかった。

 翔へと姿を変えた芽衣は、人見を見つけると駆け寄った。

「人見!」

「今来たのかい? おはよう」

「あ、おはよう」

 言わなきゃ。

翔の決意とは裏腹に、人見が噂話を始めた。

「そういえば、修二が芽衣ちゃんに告ったらしいよ」

午後の屋上が鮮明に蘇った。

 その時、翔の頭に思い浮かんだ。

 あれ、なんで修二と付き合おうとしたんだっけ?

それに、なんで人見が待ってくれているのに、今わざわざ別れないといけないんだ。

 疑問は残るがとにかく、同一人物と気が付かれてはまずいとあまり興味のない振りをした。

「……そうなの?」

「あぁ、まぁ結果がどうなったかは……一目瞭然だったけどね」

「へぇ、信じらんないなぁ」

それは、翔の本心でもあった。

 信じられない。なぜ迷ったんだ。

自問自答を繰り返したが、結論は出なかった。

しかし、翔の中には人見と付き合うのを拒むという選択肢はどこにもないことだけは確かだった。

「そうだ翔、明日。どこか出かけないかい?」

人見の問いかけに翔は明日の行動を思い返した。

「明日は、ちょっと」

 翔は首を竦めた。

 明日は芽衣として風紀委員の集会がある。

「……じゃあ、明後日は?」

明後日は土曜日、学校は休みだ。芽衣としても翔であっても特に何かすることはない。

「明後日なら……特に予定はない……かな」

人見はよかった。と言った。

「どこへ行きたい?」

「う〜ん、人見は?」

「僕も具体的に決めているわけじゃないからね。映画でもカラオケでも遊園地でもなんならプールでもいいさ」

「え……それって……その」

翔は上げられたワードを聞いて、戸惑った。

 男女二人で出かける。これはつまり……

「デートだろう? 遊園地が良いかい?」

人見はニコッと笑う。

 翔が押しとどめた言葉を、あまりにもストレートに人見が言い放った。

戸惑いというよりも、人見にはかなわないという事を翔は改めて実感するのだった。

「まだ。僕たち付き合ってないよね?」

「だからって、僕がおとなしく一週間待つとでも?」

翔が苦笑いしても、人見の顔から笑みは消えなかった。

「君が決めないなら僕が決めるよ?」

 翔が頷くと人見は

「じゃあ遊園地だ。ここから二駅くらいのところにあったよね?」

 人見は待ち合わせ場所、時間、すべて決めて最後に、良いかい? と尋ねた。

翔の中に断るという選択肢は無かった。

「じゃあ、明後日。楽しみにしてるよ」

人見は鞄を手に取り、翔へ手を振ると去って行った。


〜※〜


 修二がベッドへ横になっていると、机に置かれた携帯電話から音楽がなった。

 メールが届いたらしい。差出人は人見。

 修二は渋々ベッドから降り、メールを開いた。

〈振られた??今どんな気持ち??〉

件名も無く、たった一行だけ書かれたその文章を見ると、修二は携帯電話を適度な力で布団に叩きつけた。

そして丁寧に電話を拾う。

すると修二はもう一度文面を見てから今度はもう少し強い力で布団へたたきつけると、ぶつかった場所が悪く、バッテリーとそれをしまっていた場所のフタがはじけ飛んだ。

修二は慌てて飛び散ったパーツを回収すると携帯電話へと戻した。

そして、電源を入れ、何も異常がないことを確認すると、もう一度メール欄を開いた。

〈どーすんだよ、お前のせいでバッテリーが飛んだぞ〉

修二が人見へメールを送ると、一分も経たずに返信が届いた。

〈心のバッテリーは大丈夫だったかい?〉

〈黙れ 全然うまくねぇよ〉

〈とりあえず電話する〉

人見からのメールが届いてすぐに、修二の電話が鳴った。

「もしもし?」

『やぁ、で? 振られた夜というのは一体どんな気持ちなんだい?』

修二は電話を切った。

 すると、すぐにまた電話がかかってくる。

「テメェぜってぇ許さねぇからな」

『まぁ落ち着こう。振られた夜は友人からの慰めの言葉さえ届かないという事はわかったから落ち着こう』

「うるせぇ、ワザとやってんだろお前」

『冗談だよ』

「ったく……あ、そうだお前、明後日空いてるか?」

『明後日? あぁ、その日はちょっと予定が入ってる』

「男か」

修二の顔が少しにやけた。

『うん』

人見がそういった後もしばらく顔がにやけていたが、言葉の意味が引き出された瞬間、修二は思わず携帯電話の方を振り向いた。

「……えっ?」

『えっ?』

「マジで?」

『残念だったね。言っただろう? けりはつけたつもりだって』

「きたねぇぞ! よりにもよってなんで今それを言うんだ!」

電話越しの人見はクスクスと笑った。

修二もそれにつられて笑った。

「まぁ、そうか。よかったな」

『あぁ……そうだね』

「じゃあ、またな」

『また明日』

 修二は電話の電源を落とした。

 もう、人見には頼れないな。

 修二は携帯電話を放り投げると、ベッドへ横になった。


 翌日、修二はあまり眠れないまま虚ろな目をしながら放課後を迎えていた。

「修二? ……生きてる?」

人見が修二へ尋ねるが、修二はぼんやりとしたままだった。

「あぁ、生きてるが?」

「なんか、死神すら寄り付かなさそうな顔してるよ」

「……そうかもしんねぇな」

修二の口から声が零れ落ちたが、人見には届いていないようだった。

 すると、修二の携帯電話が鳴った。

 芽衣の番号。

修二はギョッとしながら、通話ボタンを押した。

「も、もしもし」

『もしもし、修二君? ……もう集会始まってる』

修二は目を剥いて時計を見ると、音を立てて椅子から立ち上がり、全速力で前回全体会を行ったところと同じ教室へ駆け込んだ。

「……遅い!」

「す、すいません……」

 十分の遅刻、修二は風紀委員の一年生全員の前で副委員長から愚痴を聞かされ続けた。

 集会が終わると、修二はぐったりと机に寝そべった。

 生徒は集会が終わった後は副委員長も含め次々と外へ出て行った。

「修二君」

 後ろから突然声をかけられた修二は肩を震わせた。

 そっと振り返ると、そこには芽衣が心配そうに見下ろしていた。

「だ、大丈夫?」

「あ、あぁ問題ない」

「とても……そうは見えないんだけど……」

「そうか?」

修二は大きく伸びをした。

「私のせい……かな?」

申し訳なさそうに修二から視線をそらす芽衣に、修二は手を自分の顔の前で何度も振った。

「それはない! それだけは絶対無いから!」

「本当に?」

 芽衣が不安そうに修二へ聞くと、修二は頷かなかった。

「……まぁ、でも、本当のことを言うと、今は付き合えないっていうのがどういう意味なのか分からない」

芽衣が気まずそうに目を伏せると、修二は慌てて言葉を繋いだ。

「……俺に話せないってことはわかってるから、無理に話せとは言わないけどな」

「修二君」

動揺している修二とは対照的に、芽衣は真っ直ぐ修二を見た。

「……何?」

「私は……嬉しかったよ」

「……俺は、まだお前が好きだ」

 芽衣は目を泳がせると、何も言わずに教室から出て行った。

 修二はそれを見送ると、少し間をおいてからゆっくり立ち上がり教室を後にした。


〜※〜


 晩御飯を食べているとき、芽衣は明日断ると玲菜へ伝えようとした。

しかし、それより先に玲菜が口を開いた。

「……明後日、何としても時計は返してもらうよ」

芽衣は箸を止め、玲菜を見た。

「言いたいことはあると思うけど、忠告も最後だと思っておとなしく聞いて」

玲菜は食器を下げて、もう一度座りなおすと真剣な目で芽衣を見据えた。

「まずあんたの時計の仕組みをもう一回だけ説明する。それは遺伝子の性別を司る部分とその人の周辺を弄って腕時計をしている人の性別だけを一時的に逆のものへ変える装置。になるはずだった」

「なるはずだった?」

「まぁ、失敗作かもしれないの」

「それなら、作り直しとかできないの?」

「無理、早い話パーツが手に入らないの、物理的に。だから、あんたがまだその時計を使うって言うなら選択肢は二つ。永久に男になるか、時計返して女に戻るか、それを明後日までに選びな」

芽衣はポカンと口を開けた。

「どっちにしても時計は返してもらうよ。男になったらもう戻れないし、女になったらなったでもういらないでしょ? 最後はあんたに任せる。どっちを選んでも、もう片方を消す準備はいつでもできてる」

「片方を、消す?」

「転校とか、あと強引だけど今まであんたと関わったやつ全員の記憶書き換えるとか、できないことはないよ。翔として生きても芽衣として生きても、少なくとも性別を変えた事によってあんたが今後不自由することはないわ、それだけは約束する」


 今にも雨が降り出しそうな空。

そんな天気にもかかわらず、遊園地は賑やかな声であふれていた。

 芽衣は昨日の玲菜との会話を思い出しながら、翔へ姿を変えて待ち合わせた駅前で人見を待った。

翔は入場口を通り抜けて、あまりの人の多さに困惑していた。

チラと時計を見ると、時計には527と表示されている。

「まぁ、遊園地なんてこんなもんさ」

人見は辺りを見渡すと、お化け屋敷を見つけた。

「さて、さっさと行こう。とりあえずあれから。時間はいくらあっても足りないよ」

 人見は強引に翔の手を引っ張って、人込みをかき分けた。

 翔は弱ったなぁと思いながらも、人見に任せることにした。

お化け屋敷を終えると、ジェットコースターへ。翔は人見に振り回されて、遊園地を走り回った。

 日も暮れ始めたとき、翔は時計を見た。

 あと一時間ほどで元の姿へ戻ってしまう。

「そろそろ、帰らない? 日も暮れてきたし」

 人見はじゃあこれで最後にしようか、と翔を引っ張って巨大観覧車へ乗り込んだ。

向かい合うように二人が座ると扉が閉まり、ゆっくりと上昇し始める。

すると観覧車の窓を雨粒がかすった。

「降ってきたねぇ」

人見は窓の外を見下ろした。

すぐに雨足は激しくなり、まだ乗り込んだばかりのゴンドラから見えた下の人々は、傘をさしたり列を投げ出して屋根の下へ避難したりしていた。

「ラッキーだったね。もう二分遅かったら危なかった」

人見はそういうと笑みを翔へ向けた。

「うん、でもすごい雨だね。予報では言ってたけど本当にこんなに降るなんて」

翔も外の景色を眺め、すぐに人見へ顔を向けた。

『永久に男になるか、時計を返して女に戻るか、それを明後日までに選びな』

翔の頭の中で、玲菜の言葉がグルグルと回った。

 人見は遠慮がちに聞いた。

「……楽しかった?」

「え、うん」

「そう、なら良かったよ」

人見は窓の外を見た。

 観覧車が上昇するにつれ、翔の心臓は高鳴っていった。

 言わないと、答えを、言わないと。

胸のあたりで、ぐるぐると言葉が回った。

 これを、吐き出さないと。

 翔には心臓の音がとても大きく聞こえた、人見が窓の外を見て何かつぶやいているがそれすら翔の耳へはいってこなかった。

雨が次第に強くなり、風で何度かゴンドラが揺れた。

 言わないと、言わないと。

 翔は襟を右手で握り目をギュッと閉じた。

人見は首をかしげると、翔へ尋ねた。

 人見の声が、口の動きが、ゆっくりになって翔の頭へ流れ込んだ。

『大丈夫? 苦しいの?』

 苦しい。苦しいよ。

「人見!」

思いがけず、翔の言葉が口から飛び出した。

人見が驚いて目を丸くする。

 言うんだ。今しかもう言えない。

 喉に籠った言葉を思い切り引きずり出す。

「人見とは付き合えない!」

 言い終わった後、一瞬の間をおいて翔の中へたくさんの音が流れ込んだ。

 絶え間ない雨の音、笑っているような風の音、まだ高鳴っている心音。

 真っ白になった頭にその音が流れ込み、次に視界に入ってきたのは、人見の笑顔だった。

「……そう、か」

翔は宙に浮かんだようにぼんやりした頭で、言葉を探した。

「……ごめん」

「いいさ、それが、君の気持ちなんだろう?」

翔は人見の目を見た後、しっかり頷いた。

「まぁ、まさか今言われるとは思わなかったけどね」

窓の外へ目をやり、思い出しちゃうなぁ。とつぶやいて人見は頭を掻いた。

 ほどなくして観覧車の扉が開けられた。

 遊園地から出ると、翔は魂が抜けたような顔をしていた。

「……これじゃあ、どっちが振られたのか分からないじゃないか」

人見は翔の肩をポンと叩いた。

叩かれた方を振り向くと、翔のほっぺたを人見の人差し指が突いた。

「引っかかった」

人見はニッコリと笑った。

 駅に着くと、人見は足を止めた。

「じゃあ、僕は泣いてから帰ることにするよ」

 翔が露骨に動揺すると人見は楽しそうに笑ってから、泣くのは冗談。と言って翔の背中を叩いた。

そして、人見は息を吐くと翔を正面から見た。

「それじゃあ、さよならだね」

「……うん」

 本当に最後だ。もう、戻るって決めたんだから。

「楽しかったよ」

人見はにっこりと笑った。

 翔は軽く手を振ると、改札へ向かった。

「本当に楽しかったよ……芽衣ちゃん。僕の負けだ」

 翔が改札を通りぬけた直後、人見はニコリと笑った。


 翔は芽衣に姿が戻るまで待ってから電車に乗り、ぼんやりと家へ帰った。

「ただいま」

玄関を開けると、玲菜がリビングで椅子に座りながら紙を眺めていた。

「おかえり」

玲菜は紙を折り目に沿ってたたみ、封筒へ入れるとホットミルクを口に含んだ。

そして、ゴクリと飲み込むとため息をついた。

 芽衣は腕時計を外すと、何も言わずに玲菜へ差し出した。

「……まだ、時間あるけど、もう答えだしちゃっていいの?」

「うん。もう、私にはいらない」

「……ふーん。全部終わらせたの?」

芽衣が頷くと、玲菜は時計を受け取った。

「じゃあ、もういっか」

玲菜は腕時計を軽く放り投げ、ホットミルクのカップへ落とした。

すると、ホットミルクは熱されたフライパンを水に浸したような音を出しながらビールのような泡を噴いた。

突然の行動に一驚した芽衣は、ただカップを凝視した。

「……どうして?」

「え? いや、なんか契約先が要らないって言い始めたもんだから。もういっかなって」

玲菜のあまりにもあっさりした態度に、芽衣はただただ困惑した。

「先払いだったお金はキャンセル料として取っていいって言ってくれたし、明日換金してくるよ」

玲菜は立ち上がり、カップと一緒に時計をゴミ箱へ捨てた。


 風の強い朝だった。

芽衣は支度を整えると、自分の部屋の扉を開けた。

 リビングでは、玲菜が新しいカップでホットミルクを飲んでいる。

玲菜はどこかへ出かけるのか、スーツを着ている。

「おはよう」

「おはよう」

芽衣が朝食を口へ運ぶと、玲菜は慌ただしく準備を続けていた。

「どこか、出かけるの?」

「まぁね、ちょっと遅くなるから。夜ご飯は……まぁ、適当になんかとって。あたしの分もよろしく」

玲菜は財布から数枚お札を取り出すと、テーブルの上へ置いた。

「これ……どんな豪華なお寿司頼めばいいの……」

芽衣は視線をお札に落とした。

「あ、それから、これ」

玲菜は腕時計をお札の横に置いた。

「……これは?」

芽衣が時計を凝視すると、玲菜は作業を続けながら話した。

「お祝い。第二の人生を選ばなかった祝い? それか、第二の人生を歩み始めるお祝いかな。安物で性別も変わらないただの腕時計」

説明を終えると、玲菜は一瞬芽衣を見た。

その目はとても綻んでいた。

「ま、頑張りなってことで」

 芽衣はそっと時計を手に取ると、左手首に巻いた。

 ふと、修二と人見の顔が浮かんだ。

 もう一回、友達から始めてみようかな。

「じゃあ、行ってきます」

 家を出ると広がっていた景色は、とても新鮮に感じられた。

男になっても、感じられなかったものを今手にしている気がした。

 きっと、誰も気が付かないようないつもの一日なんだろう。でも、もう一回私は始める。

一歩ごとに吹く風は、芽衣の背中をそっと押していた。


おわり


エピローグ


 屋上の扉が、錆びた音を鳴らしながら開いた。

そして、その扉を細い脚が跨ぐと、ベンチに腰かけていた人見がため息をついた。

「……僕が待ってたのは、芽衣ちゃんなんだけど?」

「悪かったね、姉の方で」

玲菜は風でなびいた髪を手で直した。

「何か用かい? 修二も芽衣ちゃんに取られちゃったから退屈なんだ」

玲菜はヒールを鳴らしながら人見の前に立つと、封筒を差し出した。

「とりあえず、これ」

「これは?」

「五億。去年の宝くじの一等賞」

「いらないよ」

人見はベンチから立ち上がると、玲菜の後ろにある屋上の柵に背中を向けて寄りかかった。

玲菜は人見を追いかけ、鼻先に封筒をグイと近づけた。

「あたしはね、キャンセル料なんかもらわないの」

「じゃあ名目はなんでもいいさ、いらないなら、捨ててくれたって構わない」

人見が封筒を左手で押し返すと、玲奈はそれをひらひらと振った。

「五億で着飾れば、どんな男でも落ちるんじゃない?」

「落ちないよ。欲望にまみれた女は汚いもんだよ隠しきれるもんじゃないさ」

人見は笑顔を作った。

「自分を偽って男の振りをしても彼が欲しい気持ちは止められなかった。だからあたしのところに来た。それって、そんなに汚いことかな?」

「調べたの?」

「一応ね。でも、好きな人を諦めるために男になるなんて純粋そのものだとあたしは思うけど」

「自分の妹を男に変えられそうになったのにまだ僕のこと庇ってくれるんだ?」

「いいのよ。悪いことばっかりでもなかったし」

玲奈は表情に影が落ちそうになると、顔を上げて人見の前へもう一度封筒を突き出した。

「さて、どうする? 五億よ? またあたしに頼みこむ?」

人見は喉を鳴らして笑うと、封筒を手に取った。

そして、そのまま後ろに放り投げた。

「あっ」

手を伸ばす玲菜に、人見は可笑しそうに笑った。

「ちょっ、五億よ!?」

「正直、実感湧かないんだあの紙に本当にそんな価値があるのか。知らないほうが幸せだと思わないかい? 何も知らないのが一番幸せなんだよ」

「じゃあ、恋もしない方がよかったわけ?」

「多分、ね」

玲菜はふーん、とつぶやいた。

 人見が屋上の扉に手をかけると、玲菜が思いついたように声をかけた。

「あ、そうそう」

人見の手が一瞬止まる。

「芽衣は、友達から始めるって言ってたよ」

人見は玲菜の方を振り返り、にっこりと笑うと屋上から去って行った。


おわり

いかがでしたでしょうか?

今回は、二回読む物語。をテーマに書いてみました。

一回目では「どゆこと?」となるかもしれませんが、二回目で「あぁ、そゆことか」となっていただければ嬉しいです。


最後に、長い小説を読んでいただき本当にありがとうございました。

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[良い点] 読みました! 苗字が人見ちゃんしか出てこないのは、そういう訳があったりするのでしょうか。←ちゃんと説明しようよ。 よくぞ一話でここまで……。本当にお疲れさまでした! 翔が人見ちゃんをムニャ…
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