愛のことば
これを恋愛小説に分類していいのか、悩みますが。
地下道の階段から駅前の繁華街まで抜ける道は、夜だけ歩行者専用になる。もともと一方通行のそう広い道ではなく、飲み屋が何件もあるので酔っ払いが車に接触したりして事故を起こさないようにと、歩行者のみが通行を許されるようになっているのだけれど、その酔っ払いや駅から出てくる若者達をターゲットにしているのか、そこには毎晩、何人もの外国人が手作りのピアスやらチョーカーやらを広げていた。
僕は恋人と駅前の時計台で待ち合わせをしていた。いつもは僕が遅刻をしてばかりいるのだけれど、遅刻ばかりする男は信用がないだろうと今日は頑張り、約束の二十分前に到着していたのだった。それにしても、人を待つというのはどうしてこんなにも時間が長く感じられるのか。
彼女を驚かせてやろうとわくわくしていたのも最初の三分ほどで、人を待たせる方の人種に入る僕は五分も経つと待つ事に飽きてしまった。それで、ぼんやりと露天のアクセサリーなどを見て歩く事にしたのだ。
銀細工の小物だけかと思ったら、最近はビーズ小物も流行らしい。金髪のちょっと太目なおねえちゃんが、オレンジ色だの黄色だのポップな色を組み合わせて作ったビーズの指輪を売っていたりした。道をゆく女の子ふたり組なんかに、好みの色でリング作るよ、とたどたどしい声をかけたりしている。ミサンガなんかも売っていて、少しでも興味のあるような顔をすると、すぐに声をかけられてしまう。声をかけられると買わなくてはいけないような気になってしまうのでゆっくりと覗く事も出来ず、時間潰しにはならないなと苦笑いしかけたところで、僕の目はその小さな露天を見付けた。他の店から離れたところに広げられている、親指の高さぐらいの小瓶。ざっと見た感じ、それは二十本以上あった。売っている男はアジア系の顔をした色黒の男で、日本人なのかそうでないのかはよく分からない。目が大きくて、今時珍しいぐらいの黒髪を後ろでくくっている。
小瓶の中には、不思議なものが入っていた。最初、色とりどりの空き瓶を売っているのかと思ったのだけれど、近づいてみるとそうでない事が知れた。中には、ピンクや赤や、青、紫、橙などの靄のような、霧のようなものが入っているのだ。
「……それ、」
声をかけたら買ってくれる客だと思われるかな、と思いつつ、中身が気になってつい声をかけてしまった。男が顔を上げる。真っ黒い目をしていた。
「あの、中身は、なんですか」
同じ年頃の相手だろうに、なぜか敬語を使ってしまう。さっきから表情を変えない男が、怒っているようにも悲しんでいるようにも見えたからだと思う。その色は瓶についてるんじゃないですよね、と言ったら、男の顔色が静かに変わった。客商売なのに、無口な男だ。もしかして日本語が分からないのかと、英語でどう尋ねれば良いのか頭を回転させていると、男はやっと口を開いた。遠くで、酔っ払いの歌声が響いている。
「あんた、中身が見えるのか」
「……中身って、この色付き空気だろう?」
「色が見えるのか」
へぇ、と男が目を細めた。僕は馬鹿にされている気分になって、思わず彼を睨む。それにすぐ気付き、男は細めた目のまま唇を持ち上げた。一応、笑っている顔になる。
「俺には見えないんだ、その中身」
「……は?」
売り物だろう、と聞くと、イエス、という返事がくる。売っている人間が見えない中身のものを売るというのは聞いた事がない。
「あんた、恋人がいるだろう」
男の日本語は淀みがなく、随分と綺麗な発音だった。日本人なのかもしれない。いるけど、と答えながら、なんでこんな話をしているんだろうと僕は不思議に思う。恋人がいたらなんなのだろう。小瓶を売る事に、関係があるのだろうか。
気になったので聞いてみると、また男はイエス、と頷いた。
「この中身は、相手をより多く好いている人間にしか見えないんだ」
「……どういう、事だ?」
「恋人同士でも、同じ力で好き合うっていうのは絶対に無理なんだよ。相手の事を、相手が自分を想ってくれるよりも強い力で想ってる奴の方に、この中身は見えるんだよ」
「……この中身、なんなんだよ、」
愛の言葉さ、と男は答えた。
「愛の言葉?」
それはまた、不確かな返答をされたものだ。
「信じていないだろう。いいさ、誰だって信じられないさ、でも本当の事なんだ、ちょっとこっちに来てみろよ」
男は僕を手招きする。自分と同じ位置に立って、他の人の反応を見ろという事らしい。騙されているような、なんだかよく分からない気持ちのままそれでも彼の方へ寄った。売る側の視線に立つ。バカバカしいほど明るい各店からの明かりや外灯に照らされて、目的があるのかないのかふらふらと歩いてゆく人々の足がいくつも通り過ぎる。
恋人同士なのか、腕を組んだ男女がちらりと瓶を見て通った。隣で瓶売りの男が僕をつつく。会話を聞けと言う。
「会話って、」
そんな盗み聞きの趣味はない、と言おうとした時、その会話が確かに変だという事に気付いた。
「あのピンクの瓶、可愛いわね」
「ピンク? どれが?」
「……ピンクじゃないの? ほら、一番端っこの」
全部透明に見えるけど、と腕を組まれていた男の方が言った。もう酔っ払ってるのか、と笑う。まだ飲んでないじゃない、と少しむくれて、女の方がそれでも不思議そうな顔をした。光の加減かしら、とそのまま彼らは通り過ぎる。
何組かの恋人達が通ったけれども、この瓶に色が見えるのは必ずどちらかひとりで、もう片方は色なんて付いてないと不思議そうな顔をした。
「言っただろう」
瓶売りは自分の言っていた事が正しいじゃないかと偉そうな顔をするでもなく、淡々としている。
「今晩はひとつも売れなくてね。早く売りさばきたいんだけれど、あんた全部とは言わないから買ってくれないか」
「ちょっと待ってくれよ、中身はなんなんだよ、大体これって何に使うんだ」
「愛の言葉だと言っているだろう。飾っておけばいいじゃないか、綺麗な色に見えるのなら」
中身が見える人と見えない人がいる得体の知れないものなんて買えるか、と僕は答えて、恋人を待っているからと帰ろうとすると、男は急に手を伸ばしてきて僕を引き止めた。
「中身の事をちゃんと話したら、買ってくれるか?」
俺の手元にあると駄目なものなんだよ、と真剣な顔をするので、僕はつい足を止める。
この瓶の中身は、愛の言葉なんだよ、と男は繰り返した。
国に、俺をものすごく好いてくれている女がいてね。でもそいつはひどく醜かったんだ、それに俺には他に好きな女がいた。俺を好いてくれる女は親が金持ちで、俺に娘と結婚してくれるんならすべての財産を譲ると言ったんだ。それでも俺は嫌だった。好きでもない女と結婚なんて出来ない、ましてやお前のような醜い女とは、って言った。本人に向って。そしたらその女、家中のありとあらゆる小瓶に、俺に対しての愛の言葉を吹き込みはじめたんだ。呪詛を札に染み込ませる呪師のようにね。ありったけの言葉を瓶に封じ込めると、女はそのまま首の頚動脈を切った。口から血が溢れて、女の愛の言葉は真っ赤に染まって、そして俺の好きだった女を呪い殺したんだ。
「……信じ難い話というか、そんな怖いもん、話聞いたら買いたくなくなるぞ」
「別に俺以外には害はないだろう、ひとつのバロメーターになるだけだ、色が見えれば自分の方が相手を愛していて、見えなくなれば相手の方が自分を愛しているという」
男の話はどこまでが本当なのか、すべてが嘘なのか僕には分かりかねた。
そんな怖い小瓶を買ってもいいものか、悩む。ふと、真ん中あたりに少しねじれた、水色の瓶があるのを見つけた。梅雨時期の雨を思わせる透明に限りなく近い水の色で、僕はそれを手に取る。この色は綺麗だ。恋人の今年のラッキーカラーが水色だったのを思い出して、僕はこれなら買ってもいいかな、と少し思った。
「あ、こんなところにいた!」
ひとつ幾らなんだ、と男に聞こうとした時、聞き慣れた声が後ろから響いた。慌てて振り返る。駆け寄ってくる恋人が、そこに見えた。
「いやだ、待ち合わせ場所間違えてたの?」
「いや、そうじゃなくて、」
言葉が続かなくなったのは、彼女が言った言葉のせいだった。
「あ、綺麗な瓶だね、その水色のもいいけど、私はあっちのオレンジのが好きかな」
色が、見えている。
僕に色が見えていると言う事は、彼女にはただの透明の瓶に見えなくてはならないはずなのでは。
「待ち合わせ場所を間違ってたお詫びに、私にオレンジの買ってよ」
何も知らない彼女はにこやかに微笑んでいる。瓶売りが静かに首を振っているのが見えた。無言の彼からけれども、あんたの女はあんた以外を、という言葉が染み出している。
まさか、と僕は目の前が真っ暗になるのを感じた。
まさか、彼女に、僕以外に愛している男が。
そしてそこまで彼女を好きだったらしい自分にもよろめきを感じる。
ショックだったせいか、僕の手から水色の小瓶がするりと落ちた。それはアスファルトの固い地面に落ちて、思っていたよりもずっと脆く、大きな欠片になって砕けてしまった。
「はっ、」
男の短い叫び声が聞こえる。
悪かった弁償するから、と言おうと男の方に目を向けた時、僕も短い叫び声を上げてしまった。瓶から、薄い水色の霧が、ゆっくりと形を作って立ち昇りはじめていた。
「なに、なんなの、」
彼女もまた、声に気味悪そうな色を交え、涙声になっている。通りを行く人達も、その現象が見えている人といない人がいるようだった。なんなのアレ、パフォーマンス? 映画とかの撮影? などという声に混じり、どこでなにが、なんも見えん、などという声もする。
「来るな、来るなぁ!」
男が叫ぶ。それは、途中から日本語ではない言葉になっていた。端正な顔を歪め、男は喚いている。水色の霧はゆっくりと、髪の長い女の形を作った。顔は見えなかったけれど、それがさっきの男が話していた醜い女なのだろうという事はすぐに分かった。
霧の女はゆっくりと男に手を伸ばす。
喚きながらも、男は身体の自由を奪われているようで、動けずにいた。ゆっくりと。霧の手が男の首を撫でる。肩を抱く。包み込むように腕を伸ばすと、霧は男をすっぽりと覆った。水色の唇が、男の耳に何かを囁いている。男は顔をぐちゃぐちゃにして、泣いていた。恐怖に引き攣った表情。
突然、うわんっと空気がねじれるのを聞いた。耳が痛くなり、僕も彼女も思わず耳を押さえる。これは愛の言葉だ、と気付いた時、男は唇から血を流して夜の冷たい道路に横たわっていた。水色の霧が、愛しそうにその顔を撫でている。
「きゅっ、救急車!」
僕は慌てて叫んだ。男に駆け寄って、手首に触れてみる。脈が、ない。
「早く、救急車を!」
僕が殺したのか。
間接的にでも、僕が殺してしまったのか。
「早く!」
胸を締め上げられる罪悪感に震えて、僕は叫んだ。水色の霧はうっすらとその色を変えはじめている。通行人達が好奇心と心配を織り交ぜた顔で覗きに来る。
目の前に、赤いミュールの脚が見えた。視線を上げると、不安な表情の恋人がいた。
「その人、どうしたのよ……」
愛の言葉に殺されたんだ、と僕は呟いた。
酔っ払い達の怒号が聞こえる。
君は僕以外の誰を愛してるっていうんだ、君のせいだ、君にこの瓶の色が見えさえしなければ男は死ななくてすんだし僕だって今こんな気持ちにならなくてすんだんだ、と呟き続ける。
「なによ、え、ちょっと……?」
彼女の引き攣った顔が見えた。
僕の中で、男に対する罪悪感がゆっくりと彼女に対する怒りへ摩り替わってゆく。それは都合の良すぎる摩り替えに過ぎなかったけれど、僕は罪悪感から逃げたくて彼女を恨んだ。
僕がどんなに君を好きか、知らないくせに。
ぷちん、と僕の中で何かが切れた音がした。
君を呪い殺せる愛の言葉を教えてあげようか、と僕は呟く。そんな僕の感情に反応したのか、既に黒っぽい色に変化していた霧が、大きく両腕を上げるかのように膨らむ。それはあっという間に巨大になって、僕の周りをすっぽりと覆いはじめた。
「……君に愛の言葉を、プレゼントしてあげようか」
他の誰かを君がもしも好きだとしても。
闇のように濃くなった霧が僕を包み込む。
遠くで、救急車のサイレンが聞こえはじめていた。