番外編 偽りの英雄たち、その後の泥沼
雨が降っていた。
王都の華やかな石畳を濡らすような優雅な雨ではない。
街の外れ、スラム街よりもさらに奥にある廃棄区画。そこを流れるドブ川に降り注ぐ、冷たく、臭く、汚れた雨だ。
腐敗臭とカビの匂いが充満する高架下の暗がりで、かつて「世界を救う希望」と謳われた男、ギルバートは膝を抱えて震えていた。
「……寒い」
口から漏れたのは、勇者の威厳など微塵もない、ただの弱音だった。
着ているのは、数日前にゴミ捨て場から拾ったボロボロの麻袋。
かつて身に纏っていた黄金の鎧も、最高級のシルクのシャツも、全て剥ぎ取られた。
今の彼を寒さから守るものは、この薄汚れた布切れ一枚しかない。
「おい、エリス。火を点けろ。寒いんだよ」
ギルバートは隣でうずくまっている女を蹴り飛ばした。
かつて「紅蓮の魔女」と呼ばれ、王都の男たちを魅了した大魔導師エリス。
今の彼女にその面影はない。
自慢の長い髪は泥と油で固まり、鳥の巣のように絡まっている。肌は栄養失調でカサつき、目の下には深い隈が刻まれていた。
「……無理よ」
エリスは虚ろな目で答えた。
「マナがないの。一滴も残ってないのよ。マッチの一本でもあれば火くらい点けられるけど、そんな高級品、私たちが持ってるわけないじゃない」
「チッ、役立たずが!」
ギルバートは舌打ちをした。
腹が減っていた。
最後にまともな食事をしたのはいつだろうか。
王都を追い出されてから三日。口にしたのは、川の水と、カビの生えたパンの耳だけだ。
それさえも、昨日は野良犬と奪い合って負けた。
「神よ……ああ、神よ……どうして私たちをお見捨てになったのですか……」
奥の方でブツブツと呟いているのは、聖女ミナだ。
彼女は完全に精神の均衡を崩していた。
地面に小石を並べ、それを祭壇に見立てて祈り続けているが、その祈りが届く気配はない。
それどころか、彼女が祈るたびに周囲の空気が澱み、不快な寒気が増すような気さえした。
「うるさい! 祈って腹が膨れるか! パンの一つでも出しやがれ!」
ギルバートが怒鳴りつけると、ミナはビクリと震え、怯えた目でこちらを見た。
「で、でもギルバート様……私、清貧の誓いを立てておりますの。神は試練を与えているのです。これを乗り越えれば、きっとまた……」
「まだそんな寝言を言っているのか! 現実を見ろ!」
ギルバートは立ち上がろうとしたが、足に力が入らずによろめいた。
情けない。
レベル5。
それが今の彼の全てだった。
一般人の子供にも劣るステータス。
かつてドラゴンを一撃で葬った腕力は、今や錆びついた鉄屑を持ち上げるのがやっとだ。
「……全部、あいつのせいだ」
ギルバートは呪詛のように呟いた。
アレン。
あの忌々しい荷物持ち。
あいつが俺たちをこんな目に遭わせたのだ。
俺の力を盗み、俺の地位を奪い、あろうことか俺たちを「モンスター」扱いにして追い出した。
視界の隅には、常に赤い警告灯が点滅している。
【状態異常:社会的死(Social Death)】
【称号:害獣(Vermin)】
アレンによって書き換えられたシステム設定だ。
このせいで、俺たちは人の住む街に入ることができない。
街の入り口に近づくだけで、結界が俺たちを「敵対生物」として認識し、警報を鳴らす。
衛兵が飛んできて、問答無用で槍を突きつけてくるのだ。
昨日も、隣町の小さな村で水を恵んでもらおうとしただけで、石を持った村人たちに追い回された。
「化け物!」「子供に近づくな!」と罵声を浴びせられながら。
「俺は……人間だぞ……勇者なんだぞ……」
ギルバートは泥水をすすりながら涙を流した。
悔しい。惨めだ。
だが、それ以上に理解できなかった。
なぜ、俺がこんな目に遭わなければならない?
俺は選ばれた人間のはずだ。
アレンのようなゴミクズが、なぜ聖女レナの隣で笑っている?
世界のバグだ。間違いだ。
「ねぇ、ギルバート」
エリスが掠れた声で話しかけてきた。
「あそこに、何かあるわ」
彼女が指差したのは、雨に濡れた瓦礫の山――ではなく、その隙間に生えている一本のキノコだった。
毒々しい紫色をした、いかにも体に悪そうなキノコ。
だが、今の彼らにとっては、それが極上のステーキに見えた。
「食えるか……?」
「分からない。でも、鑑定スキルも使えないし……食べるしかないじゃない」
エリスの目は血走っていた。
空腹は理性を凌駕する。
ギルバートは這うようにしてキノコに近づいた。
震える手でそれをむしり取る。
「よこせ! 俺が先だ! リーダーだぞ!」
ギルバートはエリスを突き飛ばし、キノコにかぶりつこうとした。
その時だった。
ガサッ。
背後の茂みが揺れた。
ギルバートたちは凍りついた。
野犬か? それとも衛兵か?
怯えながら振り返ると、そこにいたのは一匹のゴブリンだった。
緑色の皮膚、豚のような鼻、手には錆びたナイフ。
最下級のモンスターだ。
かつてのギルバートなら、鼻息だけで吹き飛ばせた相手だ。
「な、なんだ……ただのゴブリンか」
ギルバートは安堵の息を吐いた。
キノコよりも良い獲物が来た。
ゴブリンの肉は不味いが、腹を満たすことはできる。
「おい、お前ら。出番だぞ。久しぶりの運動だ」
ギルバートは腰に下げていた「武器」を構えた。
聖剣ではない。数日前に農家の納屋から盗んだ、刃こぼれした鎌だ。
「わ、私がやるの? 魔法が使えないのに?」
「援護しろって言ってるんだ! 石でも投げろ! ミナ、お前は囮になれ!」
「ひぃっ!? いやです! 不浄な生き物ですわ!」
逃げ腰の二人を無視して、ギルバートはゴブリンに向き直った。
相手は一匹だ。
腐っても俺は元勇者。剣技の型は体に染み付いている。
レベルが下がっても、技術までは奪われていないはずだ。
「死ねぇぇッ!」
ギルバートは叫び声を上げ、鎌を振り上げた。
脳内シミュレーションでは完璧だった。
相手の懐に飛び込み、首を刈り取る一撃。
かつてオークキングの首を跳ね飛ばした、あの感覚。
スカッ。
「……え?」
鎌は空を切った。
いや、正確にはゴブリンがひょいと半歩下がって避けたのだ。
あまりにも遅い。
ギルバートの腕は、自分のイメージに追いついていなかった。
筋肉が衰え、反射神経が鈍り、体が重い。
勢い余って、ギルバートは泥の中に顔から突っ込んだ。
「ぶべッ!?」
鼻と口に泥が入る。
ゴブリンが「ケケッ」と嘲笑う声が聞こえた。
次の瞬間、脇腹に焼きごてを当てられたような激痛が走った。
「ぎゃああああッ!!」
ゴブリンの錆びたナイフが、ギルバートの脇腹を浅く切り裂いたのだ。
かつてはドラゴンの爪すら通さなかった皮膚が、紙のように簡単に裂けた。
赤い鮮血が吹き出す。
「痛い! 痛い痛い痛い! 血が! 俺の血が!」
ギルバートは鎌を放り出し、傷口を押さえて転げ回った。
恐怖。
圧倒的な死の恐怖。
たかがゴブリン相手に、俺が死ぬ?
ありえない。そんな馬鹿な。
「ギ、ギルバート様!?」
「嘘でしょ……負けたの……?」
エリスとミナが悲鳴を上げる。
ゴブリンは味を占めたのか、ニヤニヤと笑いながら二人の女に近づいていく。
獲物は弱い。そう確信した捕食者の目だ。
「いやぁぁぁ! 来ないで! 汚い!」
「神よ! 神罰を! ライトニング・ボルト!」
ミナが叫び、エリスが杖(ただの木の枝)を振る。
だが、何も起きない。
ただの風切り音が鳴るだけだ。
ゴブリンは呆れたように首を傾げ、エリスの足を蹴り飛ばした。
「ぐっ……!」
エリスが泥水の中に倒れ込む。
ゴブリンが馬乗りになろうとした、その瞬間。
ヒュンッ!
どこからともなく飛んできた矢が、ゴブリンの脳天を貫いた。
ゴブリンは短い断末魔を上げて絶命し、その場に崩れ落ちた。
「……た、助かった……?」
ギルバートたちは呆然と顔を上げた。
茂みの奥から現れたのは、若い駆け出しの冒険者パーティーだった。
まだあどけなさの残る少年剣士と、少女弓使い。
装備も安物で、いかにも「初心者」といった風情だ。
「おい大丈夫か? こんな街の外れでゴブリンに襲われるなんて」
少年剣士が心配そうに近づいてくる。
ギルバートは安堵と共に、すぐに虚勢を張った。
助けられたのではない。油断していただけだ。俺は勇者なのだから。
「ふ、ふん。余計な真似を。今まさに俺がとどめを刺そうとしていたところだ」
ギルバートは傷口を押さえながら、精一杯尊大に振る舞った。
「俺は勇者ギルバートだ。礼はいらんが、治療薬と食料を置いていけ。それが礼儀というものだ」
しかし、少年の反応は予想外のものだった。
彼はギルバートの顔を見て、眉をひそめた。
そして、隣の少女に耳打ちをする。
「ねぇ、この人たち……頭の上に『赤いマーカー』が出てるよ?」
「えっ、本当だ。気持ち悪い……『害獣』って書いてある」
「それに勇者ギルバートって……あの詐欺師グループの?」
少年の目が、同情から軽蔑へと一瞬で変わった。
まるで汚物を見るような目。
ギルバートが最も憎む目だ。
「おい、何コソコソ話している! 早くポーションをよこせ!」
「……行くぞ、ミリア。関わらない方がいい」
少年は冷たく言い放ち、少女の手を引いて背を向けた。
「こいつら、最近噂の『勇者崩れ』だ。近づくと不運が移るって聞いたことがある。それに、システムが敵認定してる相手を助けたら、俺たちの評価まで下がるかもしれない」
「そうね。なんだか臭いし……行きましょう」
「ま、待て! 見捨てるのか! 俺は怪我をしているんだぞ!」
ギルバートは這いずって追いかけようとした。
だが、少年は振り返りもせず、最後に吐き捨てるように言った。
「自業自得だろ。真の勇者アレン様に逆らった罰だ」
その名前が出た瞬間、ギルバートの動きが止まった。
少年たちは草むらの向こうへと消えていった。
残されたのは、血を流して泥にまみれた三人の男女と、ゴブリンの死体だけ。
「……アレン、様……?」
ギルバートは震える唇でその名を反芻した。
あの駆け出しのガキ共まで、アレンを崇めているのか。
俺を見捨てて、あいつを「様」付けで呼ぶのか。
「うああああああああああああッ!!」
ギルバートは絶叫し、泥水を拳で叩いた。
泥が跳ね、顔にかかる。
口に入った泥は、鉄の味がした。
「なんでだ! なんで俺じゃない! 俺の方が顔もいい! 家柄もいい! 華がある! あんな地味な眼鏡のどこがいいんだ!」
答えは誰も返さない。
ただ雨音だけが、彼の無力さを嘲笑うように降り注ぐ。
ふと、風に乗って一枚の紙切れが飛んできた。
先ほどの冒険者が落としていったものだろうか。
あるいは、街で配られていた号外か。
雨に濡れて張り付いたそれを、エリスが震える手で拾い上げた。
そこには、魔法写真で鮮明に写された光景があった。
『祝・戴冠! 真なる勇者アレン様、国王より「守護聖人」の称号を授与』
『隣には聖女レナ様。二人の仲睦まじい様子に国民も歓喜』
『王都の全税金が免除へ。勇者様の無限リソースによる恒久的な平和が実現』
写真の中のアレンは、かつて見たこともないほど立派な純白の礼服に身を包んでいた。
その表情は穏やかで、自信に満ち、隣で微笑む聖女レナと手を繋いでいる。
背景には、復興した美しい王都と、彼を称える万雷の拍手を送る民衆の姿。
そこにあるのは、完璧な「ハッピーエンド」の絵図だった。
そして、記事の隅に小さく、本当に小さく、ゴミのような記事が載っていた。
『注意喚起:王都周辺に「元勇者を名乗る狂人グループ」が出没中。彼らはシステムにより害獣認定されています。見かけても餌を与えず、速やかに衛兵に通報してください』
「……あ、あはは」
エリスが乾いた笑い声を上げた。
紙面の中のアレンと、泥水の中の自分たち。
その対比があまりにも残酷すぎて、笑うしかなかった。
「ねぇ、ギルバート。私たち、本当に『おまけ』だったのね」
エリスの言葉に、ギルバートは反論できなかった。
認めたくなかった。
死んでも認めたくなかった。
だが、突きつけられた現実は、彼のちっぽけなプライドを粉々に砕いていた。
アレンがいなければ、ゴブリン一匹に殺されかける。
それが俺たちの実力。
それが俺たちの価値。
「……寒い」
ギルバートは再び膝を抱えた。
傷口が熱を持ってズキズキと痛む。
治療する術はない。薬もない。
このまま傷が化膿し、熱に浮かされながら、この汚いドブの中で死んでいくのだろうか。
かつて世界を救うと豪語した俺が、名もなき浮浪者として。
「……アレン」
ギルバートは虚空に向かって、細い声を絞り出した。
「戻ってきてくれ……頼むよ……靴でも舐めるから……奴隷でもいいから……」
しかし、システムウィンドウは無慈悲に告げる。
【通信エラー:対象ユーザー『アレン』は、あなたのアクセスを永久にブロックしています】
その文字を見た瞬間、ギルバートの中で何かが完全に折れた。
彼は糸が切れた人形のように泥の中に倒れ込んだ。
視界が暗くなっていく。
遠くに見える王都の明かりが、皮肉なほどに美しく輝いていた。
「……クソ……ったれ……」
最後の悪態は、雨音にかき消されて誰にも届かなかった。
彼らの物語はここで終わる。
誰にも語り継がれることなく、歴史の闇に埋もれ、ただの「害獣」として処理される結末として。
世界は彼らを必要としていなかった。
そしてこれからも、彼らが救われることは二度とないだろう。




