↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/5

番外編 偽りの英雄たち、その後の泥沼

雨が降っていた。

王都の華やかな石畳を濡らすような優雅な雨ではない。

街の外れ、スラム街よりもさらに奥にある廃棄区画。そこを流れるドブ川に降り注ぐ、冷たく、臭く、汚れた雨だ。

腐敗臭とカビの匂いが充満する高架下の暗がりで、かつて「世界を救う希望」と謳われた男、ギルバートは膝を抱えて震えていた。


「……寒い」


口から漏れたのは、勇者の威厳など微塵もない、ただの弱音だった。

着ているのは、数日前にゴミ捨て場から拾ったボロボロの麻袋。

かつて身に纏っていた黄金の鎧も、最高級のシルクのシャツも、全て剥ぎ取られた。

今の彼を寒さから守るものは、この薄汚れた布切れ一枚しかない。


「おい、エリス。火を点けろ。寒いんだよ」


ギルバートは隣でうずくまっている女を蹴り飛ばした。

かつて「紅蓮の魔女」と呼ばれ、王都の男たちを魅了した大魔導師エリス。

今の彼女にその面影はない。

自慢の長い髪は泥と油で固まり、鳥の巣のように絡まっている。肌は栄養失調でカサつき、目の下には深い隈が刻まれていた。


「……無理よ」


エリスは虚ろな目で答えた。


「マナがないの。一滴も残ってないのよ。マッチの一本でもあれば火くらい点けられるけど、そんな高級品、私たちが持ってるわけないじゃない」

「チッ、役立たずが!」


ギルバートは舌打ちをした。

腹が減っていた。

最後にまともな食事をしたのはいつだろうか。

王都を追い出されてから三日。口にしたのは、川の水と、カビの生えたパンの耳だけだ。

それさえも、昨日は野良犬と奪い合って負けた。


「神よ……ああ、神よ……どうして私たちをお見捨てになったのですか……」


奥の方でブツブツと呟いているのは、聖女ミナだ。

彼女は完全に精神の均衡を崩していた。

地面に小石を並べ、それを祭壇に見立てて祈り続けているが、その祈りが届く気配はない。

それどころか、彼女が祈るたびに周囲の空気が澱み、不快な寒気が増すような気さえした。


「うるさい! 祈って腹が膨れるか! パンの一つでも出しやがれ!」


ギルバートが怒鳴りつけると、ミナはビクリと震え、怯えた目でこちらを見た。


「で、でもギルバート様……私、清貧の誓いを立てておりますの。神は試練を与えているのです。これを乗り越えれば、きっとまた……」

「まだそんな寝言を言っているのか! 現実を見ろ!」


ギルバートは立ち上がろうとしたが、足に力が入らずによろめいた。

情けない。

レベル5。

それが今の彼の全てだった。

一般人の子供にも劣るステータス。

かつてドラゴンを一撃で葬った腕力は、今や錆びついた鉄屑を持ち上げるのがやっとだ。


「……全部、あいつのせいだ」


ギルバートは呪詛のように呟いた。

アレン。

あの忌々しい荷物持ち。

あいつが俺たちをこんな目に遭わせたのだ。

俺の力を盗み、俺の地位を奪い、あろうことか俺たちを「モンスター」扱いにして追い出した。


視界の隅には、常に赤い警告灯が点滅している。


【状態異常:社会的死(Social Death)】

【称号:害獣(Vermin)】


アレンによって書き換えられたシステム設定だ。

このせいで、俺たちは人の住む街に入ることができない。

街の入り口に近づくだけで、結界が俺たちを「敵対生物」として認識し、警報を鳴らす。

衛兵が飛んできて、問答無用で槍を突きつけてくるのだ。

昨日も、隣町の小さな村で水を恵んでもらおうとしただけで、石を持った村人たちに追い回された。

「化け物!」「子供に近づくな!」と罵声を浴びせられながら。


「俺は……人間だぞ……勇者なんだぞ……」


ギルバートは泥水をすすりながら涙を流した。

悔しい。惨めだ。

だが、それ以上に理解できなかった。

なぜ、俺がこんな目に遭わなければならない?

俺は選ばれた人間のはずだ。

アレンのようなゴミクズが、なぜ聖女レナの隣で笑っている?

世界のバグだ。間違いだ。


「ねぇ、ギルバート」


エリスが掠れた声で話しかけてきた。


「あそこに、何かあるわ」


彼女が指差したのは、雨に濡れた瓦礫の山――ではなく、その隙間に生えている一本のキノコだった。

毒々しい紫色をした、いかにも体に悪そうなキノコ。

だが、今の彼らにとっては、それが極上のステーキに見えた。


「食えるか……?」

「分からない。でも、鑑定スキルも使えないし……食べるしかないじゃない」


エリスの目は血走っていた。

空腹は理性を凌駕する。

ギルバートは這うようにしてキノコに近づいた。

震える手でそれをむしり取る。


「よこせ! 俺が先だ! リーダーだぞ!」


ギルバートはエリスを突き飛ばし、キノコにかぶりつこうとした。

その時だった。


ガサッ。


背後の茂みが揺れた。

ギルバートたちは凍りついた。

野犬か? それとも衛兵か?

怯えながら振り返ると、そこにいたのは一匹のゴブリンだった。

緑色の皮膚、豚のような鼻、手には錆びたナイフ。

最下級のモンスターだ。

かつてのギルバートなら、鼻息だけで吹き飛ばせた相手だ。


「な、なんだ……ただのゴブリンか」


ギルバートは安堵の息を吐いた。

キノコよりも良い獲物が来た。

ゴブリンの肉は不味いが、腹を満たすことはできる。


「おい、お前ら。出番だぞ。久しぶりの運動だ」


ギルバートは腰に下げていた「武器」を構えた。

聖剣ではない。数日前に農家の納屋から盗んだ、刃こぼれした鎌だ。


「わ、私がやるの? 魔法が使えないのに?」

「援護しろって言ってるんだ! 石でも投げろ! ミナ、お前は囮になれ!」

「ひぃっ!? いやです! 不浄な生き物ですわ!」


逃げ腰の二人を無視して、ギルバートはゴブリンに向き直った。

相手は一匹だ。

腐っても俺は元勇者。剣技の型は体に染み付いている。

レベルが下がっても、技術までは奪われていないはずだ。


「死ねぇぇッ!」


ギルバートは叫び声を上げ、鎌を振り上げた。

脳内シミュレーションでは完璧だった。

相手の懐に飛び込み、首を刈り取る一撃。

かつてオークキングの首を跳ね飛ばした、あの感覚。


スカッ。


「……え?」


鎌は空を切った。

いや、正確にはゴブリンがひょいと半歩下がって避けたのだ。

あまりにも遅い。

ギルバートの腕は、自分のイメージに追いついていなかった。

筋肉が衰え、反射神経が鈍り、体が重い。

勢い余って、ギルバートは泥の中に顔から突っ込んだ。


「ぶべッ!?」


鼻と口に泥が入る。

ゴブリンが「ケケッ」と嘲笑う声が聞こえた。

次の瞬間、脇腹に焼きごてを当てられたような激痛が走った。


「ぎゃああああッ!!」


ゴブリンの錆びたナイフが、ギルバートの脇腹を浅く切り裂いたのだ。

かつてはドラゴンの爪すら通さなかった皮膚が、紙のように簡単に裂けた。

赤い鮮血が吹き出す。


「痛い! 痛い痛い痛い! 血が! 俺の血が!」


ギルバートは鎌を放り出し、傷口を押さえて転げ回った。

恐怖。

圧倒的な死の恐怖。

たかがゴブリン相手に、俺が死ぬ?

ありえない。そんな馬鹿な。


「ギ、ギルバート様!?」

「嘘でしょ……負けたの……?」


エリスとミナが悲鳴を上げる。

ゴブリンは味を占めたのか、ニヤニヤと笑いながら二人の女に近づいていく。

獲物は弱い。そう確信した捕食者の目だ。


「いやぁぁぁ! 来ないで! 汚い!」

「神よ! 神罰を! ライトニング・ボルト!」


ミナが叫び、エリスが杖(ただの木の枝)を振る。

だが、何も起きない。

ただの風切り音が鳴るだけだ。

ゴブリンは呆れたように首を傾げ、エリスの足を蹴り飛ばした。


「ぐっ……!」


エリスが泥水の中に倒れ込む。

ゴブリンが馬乗りになろうとした、その瞬間。


ヒュンッ!


どこからともなく飛んできた矢が、ゴブリンの脳天を貫いた。

ゴブリンは短い断末魔を上げて絶命し、その場に崩れ落ちた。


「……た、助かった……?」


ギルバートたちは呆然と顔を上げた。

茂みの奥から現れたのは、若い駆け出しの冒険者パーティーだった。

まだあどけなさの残る少年剣士と、少女弓使い。

装備も安物で、いかにも「初心者」といった風情だ。


「おい大丈夫か? こんな街の外れでゴブリンに襲われるなんて」


少年剣士が心配そうに近づいてくる。

ギルバートは安堵と共に、すぐに虚勢を張った。

助けられたのではない。油断していただけだ。俺は勇者なのだから。


「ふ、ふん。余計な真似を。今まさに俺がとどめを刺そうとしていたところだ」


ギルバートは傷口を押さえながら、精一杯尊大に振る舞った。


「俺は勇者ギルバートだ。礼はいらんが、治療薬と食料を置いていけ。それが礼儀というものだ」


しかし、少年の反応は予想外のものだった。

彼はギルバートの顔を見て、眉をひそめた。

そして、隣の少女に耳打ちをする。


「ねぇ、この人たち……頭の上に『赤いマーカー』が出てるよ?」

「えっ、本当だ。気持ち悪い……『害獣』って書いてある」

「それに勇者ギルバートって……あの詐欺師グループの?」


少年の目が、同情から軽蔑へと一瞬で変わった。

まるで汚物を見るような目。

ギルバートが最も憎む目だ。


「おい、何コソコソ話している! 早くポーションをよこせ!」

「……行くぞ、ミリア。関わらない方がいい」


少年は冷たく言い放ち、少女の手を引いて背を向けた。


「こいつら、最近噂の『勇者崩れ』だ。近づくと不運が移るって聞いたことがある。それに、システムが敵認定してる相手を助けたら、俺たちの評価まで下がるかもしれない」

「そうね。なんだか臭いし……行きましょう」


「ま、待て! 見捨てるのか! 俺は怪我をしているんだぞ!」


ギルバートは這いずって追いかけようとした。

だが、少年は振り返りもせず、最後に吐き捨てるように言った。


「自業自得だろ。真の勇者アレン様に逆らった罰だ」


その名前が出た瞬間、ギルバートの動きが止まった。

少年たちは草むらの向こうへと消えていった。

残されたのは、血を流して泥にまみれた三人の男女と、ゴブリンの死体だけ。


「……アレン、様……?」


ギルバートは震える唇でその名を反芻した。

あの駆け出しのガキ共まで、アレンを崇めているのか。

俺を見捨てて、あいつを「様」付けで呼ぶのか。


「うああああああああああああッ!!」


ギルバートは絶叫し、泥水を拳で叩いた。

泥が跳ね、顔にかかる。

口に入った泥は、鉄の味がした。


「なんでだ! なんで俺じゃない! 俺の方が顔もいい! 家柄もいい! 華がある! あんな地味な眼鏡のどこがいいんだ!」


答えは誰も返さない。

ただ雨音だけが、彼の無力さを嘲笑うように降り注ぐ。


ふと、風に乗って一枚の紙切れが飛んできた。

先ほどの冒険者が落としていったものだろうか。

あるいは、街で配られていた号外か。

雨に濡れて張り付いたそれを、エリスが震える手で拾い上げた。

そこには、魔法写真で鮮明に写された光景があった。


『祝・戴冠! 真なる勇者アレン様、国王より「守護聖人」の称号を授与』

『隣には聖女レナ様。二人の仲睦まじい様子に国民も歓喜』

『王都の全税金が免除へ。勇者様の無限リソースによる恒久的な平和が実現』


写真の中のアレンは、かつて見たこともないほど立派な純白の礼服に身を包んでいた。

その表情は穏やかで、自信に満ち、隣で微笑む聖女レナと手を繋いでいる。

背景には、復興した美しい王都と、彼を称える万雷の拍手を送る民衆の姿。

そこにあるのは、完璧な「ハッピーエンド」の絵図だった。


そして、記事の隅に小さく、本当に小さく、ゴミのような記事が載っていた。


『注意喚起:王都周辺に「元勇者を名乗る狂人グループ」が出没中。彼らはシステムにより害獣認定されています。見かけても餌を与えず、速やかに衛兵に通報してください』


「……あ、あはは」


エリスが乾いた笑い声を上げた。

紙面の中のアレンと、泥水の中の自分たち。

その対比があまりにも残酷すぎて、笑うしかなかった。


「ねぇ、ギルバート。私たち、本当に『おまけ』だったのね」


エリスの言葉に、ギルバートは反論できなかった。

認めたくなかった。

死んでも認めたくなかった。

だが、突きつけられた現実は、彼のちっぽけなプライドを粉々に砕いていた。

アレンがいなければ、ゴブリン一匹に殺されかける。

それが俺たちの実力。

それが俺たちの価値。


「……寒い」


ギルバートは再び膝を抱えた。

傷口が熱を持ってズキズキと痛む。

治療する術はない。薬もない。

このまま傷が化膿し、熱に浮かされながら、この汚いドブの中で死んでいくのだろうか。

かつて世界を救うと豪語した俺が、名もなき浮浪者として。


「……アレン」


ギルバートは虚空に向かって、細い声を絞り出した。


「戻ってきてくれ……頼むよ……靴でも舐めるから……奴隷でもいいから……」


しかし、システムウィンドウは無慈悲に告げる。


【通信エラー:対象ユーザー『アレン』は、あなたのアクセスを永久にブロックしています】


その文字を見た瞬間、ギルバートの中で何かが完全に折れた。

彼は糸が切れた人形のように泥の中に倒れ込んだ。

視界が暗くなっていく。

遠くに見える王都の明かりが、皮肉なほどに美しく輝いていた。


「……クソ……ったれ……」


最後の悪態は、雨音にかき消されて誰にも届かなかった。

彼らの物語はここで終わる。

誰にも語り継がれることなく、歴史の闇に埋もれ、ただの「害獣」として処理される結末として。

世界は彼らを必要としていなかった。

そしてこれからも、彼らが救われることは二度とないだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。