第6話「白い背に、祈りを乗せて」(アンデスの記憶)
風が薄く、空が近い。
標高三千メートルを超えるその地で、私はラマとして生きていた。
背に荷を乗せ、黙々と歩くのが、私の仕事だった。
連れは二人。年老いたおじいさんと、まだ小さな孫。
私たちは、いつも三つで一つだった。
険しい山道を越え、谷を越え、私たちは荷を運ぶ。
誰も行かぬような高地の村々に、塩や布を届けるために。
その道のりは遠くて、孤独で、それでも静かに美しかった。
ある朝、おじいさんが言った。
「今日はワシは行けん……でも荷は少ない。お前とあの子なら、きっと大丈夫じゃ」
孫はうれしそうに笑った。
「今日は冒険みたいだね」と、私の首を撫でた。
私も、悪い気はしなかった。
重さも、道も、慣れていたから。
けれど、その日――
あの子は、安全な道ではなく、“近道”を選んだ。
崖沿いの細道。石が緩み、風が唸る、険しき山の裏道。
それでも、私は止めなかった。
あの子が「大丈夫」と笑ったから。
私は信じていた。
いつもどおりに、帰れると思っていた。
だが、空が怒った。
雷が落ち、地が揺れた。
吹雪の前触れのような突風が、谷を這う。
崖の細道が崩れ、孫の身体が空に投げ出された。
一瞬のうちに地鳴りがし、岩とともに落下していく――
だが、運良く途中の岩の小段にぶつかり、そこに横たわるように止まった。
足を強く打って、立ち上がれず。
声も掠れ、動くことすらできない。
雲が厚くなり、雷が鳴った。
空が、彼を見放そうとしていた。
そのとき、私は振り返り、孫を見つめ、そして――走り出した。
その白い背に、命の祈りを乗せて。
私は……駆け出した。
助けられないなら、誰かを呼ばねばならない。
あの子を置いて、生まれて初めて、私は“振り返らずに”走った。
けれど、試練はすぐに訪れた。
――第一の試練。
細い吊り橋。強風で板が揺れ、一本が外れかかっていた。
私は迷わなかった。
足場が崩れたその瞬間、跳んだ。
背を打ちつけ、息が詰まった。それでも――走った。
――第二の試練。
雪崩が来た。
風が山肌を這い、雪を巻き上げてこちらへ迫ってくる。
私は谷間に飛び込んでやり過ごした。
だが、後肢を挫き、血が滲んだ。それでも――走った。
村の明かりが見えた頃、私の視界は霞んでいた。
それでも私は“あの場所”まで戻った。
おじいさんの家の扉を鼻先で押し、最後の力で鳴いた――一度だけ。
おじいさんは目を見開いた。
私の目の奥を見て、すぐにすべてを悟った。
私は倒れなかった。
旅は、まだ終われなかった。
私は、おじいさんたちと共に、孫のもとへ歩いた。
血を落としながら、足を引きずりながら――
最後の力で、“道案内”をした。
孫は、まだ生きていた。
寒さと恐怖に震えながら……。
村人たちが引き上げたその瞬間、私は見届けていた。
「……助かった……良かった……」
その言葉も、姿も、もう霞んでいたけれど――
私の中には、確かに届いていた。
そして私は、静かにその場に崩れた。
おじいさんが駆け寄り、私の体を支えた。
「……これは……」
彼の手に、私の脇腹から流れる血が付いた。
そこには、鋭く深い裂傷があった。
岩か氷か。あの吹雪の中で裂けたもの。
おじいさんは泣いた。
孫も泣いた。
村人たちも、私の名を呼んでくれた。
そして、その丘に小さな祠が建った。
石碑には、こう刻まれている。
「彼は運び手ではなく、“祈りの使者”だった」
「命を乗せ、想いを越え、空へ還った」
この命、何度目だっけ?
……忘れちゃったけど。
君の笑顔を、見届けられてよかったよ。