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第4話「風の中の返歌」(猪の記憶)

風が冷たい。

冬の山は、生き物にとって、静かな死に場所だ。


私は老いた猪。

牙は鈍り、足は鈍り、鼻すら効かなくなってきた。

この山で、多くを見てきた。


……あの夜のことを、よく覚えている。


まだ若かった頃。

私は小さな仔を連れていた。

生まれたばかりで、頼りなく、丸くて、愛しかった。


獣の勘で気づいた。

背後から……「狙われている」。


矢をつがえた男がいた。

幼い子を背に、弓を引き絞っていた。


(逃げられない)


そう思った。

でも……矢は放たれなかった。


男は、迷っていた。

冷え込む夕暮れ、顔はやつれ、袖は薄く、目は深かった。


「この命を奪えば……この仔は独りになる」


そんな声が、風の中に滲んだ気がした。


彼は弓を下ろした。

ただ、じっと私たちを見つめていた。


そして背を向け、子どもの手を引いて山を下りていった。


私は逃げた。

命を……拾った。


時は流れた。

私は生き延び、仔も育ち、今はもう、どこか遠くへ行った。


私には、もう何もない。

牙も力も、群れも。


ただ、 あの夜の“恩” だけが、体に刻まれていた。


今日もまた、雪が舞う。


その中に、見覚えのある匂いがあった。

懐かしい匂い。あの男の……。


薪の匂い。革の匂い。

そして、腹を空かせた、小さな人間の匂い。


(ああ、来ていたんだな)


あれから幾年も経ったのに、あの男はまだ、生きている。

そして、あの子も、大きくなったのか。


焚き火のそばで、二人の影が揺れている。

空腹をかかえながら、何かを噛みしめるように、言葉もなく並んでいた。


私は、もう動けない。

でも、心が向かっていた。あの光に。あの子に。


……私は、歩き出した。


足は重かった。

牙は役に立たない。

でも、ここに来た意味はわかっていた。


私の命は、もう尽きる。


だから、返す。


この命を、生かしてくれた者へ……

今度は、こちらが与える番だ。


「ありがとう。

お前がくれた命だった」


風に、そう言葉が乗った。

それは、誰にも聞こえなかったかもしれない。


でも、あの男は立ち上がり、深く頭を下げた。


静かに、静かに雪が降っていた。

焚き火が揺れていた。

そして、私の体は、ゆっくりと、静かに横たわった。


この命、何度目だっけ?


たぶん、もう数えきれない。


でも、こうして返せたことだけは……

胸の奥のあたたかさで、きっと忘れない。


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