第3話「空からみていた楽園」 (古代ローマ/ハヤブサの記憶)
風が甘かった。
果実と小麦と、人々の笑い声が混ざっていた。
私は、空を裂いて飛ぶ。
この街の空は広く、風は軽く、
すべてが、どこまでも“生きて”いた。
私は隼。
高く、速く、ただ風と共に在る者。
それだけの存在。
それだけのはずだった。
でも……ある日、私は降りた。
市場の石柱のかたわら。
そこにひとり、少年がいた。
小さな石像のそばに座りながら、
パンの欠片を掌に乗せ、私を見上げていた。
私は迷いながら、
彼のそばまで羽ばたき、肩に止まった。
「きみ、羽、綺麗だね」
その声が、風の中をすり抜けて、
私の羽根をふるわせた。
それは、この街で聞いたいちばん優しい風だった。
それから、私はときどき彼のそばに降りた。
神殿の屋根から、広場の塔から、風に乗って。
彼は笑いながら手を差し出し、
私はただ、それを静かに見つめていた。
言葉はなかった。
でも、通じていたと思う。
……それは、昨日のことのようだった。
風が変わった。
空が重く、太陽が霞み、
風の中に“何か違う匂い”が混ざった。
私は、ヴェスヴィオの尾根を旋回した。
大地が、小さく震えていた。
「風が、息を止めた」
そして、それは来た。
大地が裂け、音が爆ぜ、
空が、燃えるように赤く染まった。
人が走る。叫ぶ。倒れる。
炎が市場を喰い、
石畳が崩れ、神殿が沈む。
そして……
あの少年が、いた。
焼ける風の中、
彼は立ち尽くしていた。
私を見上げていた。
泣いていた。
でも、手だけは、空に向けて伸びていた。
まるで……
「君だけは、逃げて」って、言っているようだった。
私は、空にいた。
飛ぶしかできなかった。
叫ぶことも、降りることも、何もできず……
ただ、風に抗って、高く、高く舞い上がった。
灰が街を覆い、火砕流がすべてを呑み込んだ。
広場も、塔も、神殿も。
そして、あの子も。
私は、逃げた。
でも、心の何かは、地上に置いてきた。
「この街……きれいだったな」
それが、風に消える前の、私のただひとつの言葉だった。
空は静かだった。
風が戻ったとき、
この街はもう、誰の声も聞こえなかった。
この命、何度目だっけ?
覚えてないけど……
あの手のぬくもりだけは、きっと、ずっと、忘れない。