9 罠に落ちる
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翌日は早朝から慌ただしく使用人たちが走り回っていた。結婚式のために花嫁と花婿、それに家族たちを、使用人たちが分担して着飾らせていく。
「この髪型はいや!」
「ちょっと、コルセットきつすぎるわよ!」
「ねえ、このメイク、なんとかならないの?」
「今日の主役は私なのよ! ちゃんとしなさいよ!」
グラツィアーナの甲高い声が聞こえてくる。自室から一歩も出ずに様子を窺っていたカロリーナは、家族が昼前になって馬車に乗って出かけていったのを見届けてほっとした。出て行く時にニコロがちらと切なげにカロリーナを見た。これでいいの、という意味を込めて小さくうなずいたカロリーナは、「さよなら、お兄ちゃん」とつぶやいて窓際から離れた。あとは使用人たちに気づかれないよう、まとめた荷物と一緒にジョアキーノが乗ってきた馬車に乗り込めばいいだけだ。今日カロリーナが出て行くことは、アントニオとニコロ、それにアントニオに一番近い使用人しか知らないはずだ。クリツィアたちの側の使用人もいるから、見つからないよう、うまく出て行かなければならない。
カロリーナは町娘らしい服をジョアキーノから渡されていた。馬車での移動時に目立たない服装らしい。ジョアキーノの心遣いがうれしかった。
カロリーナは計画通りにジョアキーノと一緒に馬車に乗り込むと、外から見えぬよう身を潜め、カーテンを引いた。
「まずは森の外れまで逃げます。そこで次の馬車が来ることになっています」
ジョアキーノの言葉に、カロリーナは頷いた。馬車はやや早足で町を駆け抜けていく。邸の外に出たことがないカロリーナには、森がどのくらいの距離にあるのかもわからない。ただ、ジョアキーノの言葉を信じて、おとなしく馬車の中で隠れているだけだ。
「カロリーナお嬢様、着きましたよ」
馬車から降ろされたのは、森の中だった。目の前に小屋とも呼べぬような粗末な建物が見える。
「ここで私とはお別れです。夜には明日からの行程をお手伝いする者が来るはずですので、おとなしく隠れていてくださいね。あ、食べ物は簡単な物が用意されていますから」
「サルタレロ先生、本当にありがとうございました」
「いえいえ、お勤め先で活躍なさるよう、お祈りしていますね」
「はい。頑張って逃げます」
カロリーナはジョアキーノに言われたとおりに小屋に入って鍵を掛けた。ジョアキーノば馬車に戻ると、森を出て小さな宿に入った。201号室と書かれた部屋の扉を5回ノックすると、内側から2回ノックの音が聞こえた。
「いつものように」
小さな声に、ノックの音がコン、と聞こえた。ジョアキーノは薄ら笑いを浮かべると、305号室へと入っていった。
・・・・・・・・・・
カロリーナは1人、窓際の椅子に座って外を眺めていた。動物たちの鳴き声が音楽に聞こえる。静かで、穏やかな時間がそこにあった。
「カエリアン様、いますか?」
さっと風がカロリーナの頬を撫でていった。
「私、これで自由になれたんですよね?」
だが、今度は風が触れてこない。
「どうして?」
反応はない。カエリアンは昨晩も、あと少しで力が戻ると言っていた。だから、まだあまり力が出せないのだろうとカロリーナは思った。
「ここなら大きな声で歌っても、誰にも叱られないわね」
カロリーナは「籠の鳥の歌」を歌い始めた。人間の手によって生まれ、籠の中に閉じ込められて生きてきた鳥。飼い主のミスで鳥籠から飛びだした鳥は、大空を自由に飛ぶ爽快感を初めて味わう。だが、最後には鷹の餌食となる。それでも、これが自然なのだ、とその運命を受け入れる。そんな内容の歌だ。
冷静に考えたら、怖い歌なのよね。
自由に大空を飛ぶシーンを楽しく歌ったが、殺される自分の運命を受け入れる鳥。それでは何のために鳥籠から出たのか分からないではないか、とカロリーナは思った。
夜の帳が下りてきた。森の中は木々に光を遮られて、暗くなるのが早い。夜になったら、明日以降の旅を手伝ってくれる人が来るとジョアキーノは言っていた。もうそろそろ来るだろうか?
木々の隙間からまだ月は見えない。そう言えば今日は満月だ。森の中にいるカロリーナが月を見られるとしたら、それはおそらく南中に近い時間帯になるだろう。
カロリーナは夕食を取って人を待ったが、誰も来る気配がない。今日一日、いつ追っ手に捕まるかとビクビクしていたカロリーナは疲れていた。眠気が強くなっていく。カロリーナはそのまま、テーブルに突っ伏して寝ることにした。夜中に人が来ても、直ぐに分かるだろうから。
カタカタ、という音が聞こえた。まどろんでいたカロリーナは、そのがさつな音に目を覚ました。窓からは満月が見える。真夜中だと気づいた。こんな時間に案内人が来たのだろうか、呼んでくれれば鍵を開けるのに。そう思った時、扉が蹴破られた。
まさか、賊だろうか?
カロリーナはクローゼットに隠れようとしたが、この小屋にはそんな所はない。ワンルーム仕様のこの小屋、冷静に考えれば案内人が夜、一緒に眠るようなスペースはないはず。浮かれきっていたカロリーナは、その不自然さに気づかなかったことを悔いた。
そう、賊ではない。いや、賊だが、たまたまターゲットを見つけてやって来た賊ではなく、ここに獲物がいると分かっていてやって来た賊だ。だが、もしそうならば、ジョアキーノは彼らの仲間ということになる。
そんなはずはない、だってサルタレロ先生は、私のことを本当に心配してくれて……
カエリアンの言葉を思い出した。カエリアンは、何度もジョアキーノのことを嫌な臭いがする、悪人だと言っていた。その忠告を笑い飛ばしてジョアキーノの計画に乗ったのは、紛れもない自分だ。
カロリーナは侵入してきた男たちを見て、唇を噛んだ。清潔感が微塵も感じられない、汚れた姿。武器を手に入ってきた男たちは、カロリーナが初めて見る種類の人間だ。家族からその存在を無視され、蔑まれていたとは言え、カロリーナは邸の外に出たことのない、守られたお嬢様であったのだということを初めて理解した。
「さあ、お嬢様。あんたを次の場所に連れて行くよ。昼間は不都合なんで、今すぐ出発する。俺たちも手荒なことはしたくないんでなあ、言うこときいてくれねえか?」
下卑た笑いが、小さな小屋の中に満ちていく。ふと、扉の所にジョアキーノを見つけた。カロリーナは、ジョアキーノの計画がカロリーナにとっていい物ではなかったのだということを思い知らされた。今、この瞬間までは、ジョアキーノも騙されたとか、ジョアキーノの計画が漏れたとか、ジョアキーノのせいではないと思っていたのに。
「サルタレロ先生。最初からこういう計画だったんですか?」
「途中までは俺たちだけで動いていたさ。いいとこの、でもちょっと家族とうまくいっていないお嬢様なんてのは、ちょろっと甘い言葉ささやいてやりればすぐに信じてくれるからな」
「……初犯じゃないのね」
「これが俺の本当の稼業。家庭教師は潜り込むための手段さ」
「サルタレロ先生。最後に1つだけ教えてください。先ほど『途中までは』って言っていたけれど、誰かの協力があったのですか?」
「ああ、グラツィアーナ様だよ」
カロリーナは信じられないものを見るような目でジョアキーノを見た。
「グラツィアーナ様に、カロリーナお嬢様をなんとかしてくれと声を掛けられてね。どうしてもあの家から小姑を排除したかったようだ。あの家から出る予定があるから害はないと言ったんだが、絶対にこの家に戻ってくることがないような場所に連れて行けとさ。あんたを売ればそれだけでも利益は出るんだが、成功報酬を上乗せすると言ってくれたから向こうの提案に乗ることにした、それだけさ。稼げる方の仕事をするに決まっているだろう?」
「そうでしょうね」
ぽつりと言ったカロリーナを、ジョアキーノは見つめた。
「それが稼業だというのなら、そうするでしょう。それで、私はどこへ売られるのですか?」
「あんたは貴族崩れの娘たちや、借金の返済のために売られた富裕な商家の娘たちと一緒に、人身売買のオークションに掛けられる。二つ先の国クエルダにそのオークション会場があるから、そこまでは彼らがあんたを連れて行く。ただ、あんたは貴族ほど気位も高くないのに顔も体も悪くない。あいつらが途中でつまみ食いをするかもしれないが、そうなったらあんたは高くは売れない。ただ、グラツィアーナ様は、むしろそうなることをお望みだ」
「そう」
カロリーナは改めて、自分がどれほど愚かだったと思った。そういえば、夜なのにカエリアンの気配がない。あの夜以来、カエリアンの顔を見ない夜はなかった。カエリアンさえもう呆れて離れてしまったのかもしれないと思うと、もうこれは逃れられないのだと覚悟を決めるほかなさそうだ。
「それでは、俺はここまで。せいぜい売られた先で可愛がってもらえよ」
カロリーナは黙ったまま視線を床に落としている。ジョアキーノはイライラした。
「あんたが悪いんだよ、世間知らずのあんたがね!」
パーン、と頬を打つ乾いた音がした。カロリーナは赤くなった左頬に触れることもなく、虚ろな目をしたままだ。
「あんたみたいに他力本願でいる奴が、俺は一番嫌いなんだ!」
再び頬を打つ音がして、今度は右頬が赤くなった。次はどこを殴られるのだろう、そう思った時だった。
「歌え」
カロリーナの耳に、確かに声が聞こえた。
「歌え、カロリーナ。お前の全力で歌え」
「誰だよ、馬鹿なこと言っている奴は?」
窓を見ると、銀色の長い髪の男が枠にもたれかかってこちらを見ている。射抜くようにこちらを見るその瞳は、金色。
「金色の瞳? まさか、精霊か?」
怯えたようにジョアキーノが後退った。
「歌え、カロリーナ。全ての思いを込めて歌え!」
カロリーナはまるで命じられたかのように歌い始めた。どうしてそれを選んだのかは分からない。だが、口から飛びだしてきたのは、子守歌だった。しばらく前にカエリアンに請われて歌った、あの子守歌だ。
眠れ、眠れ、愛しき子らよ
今日の疲れを忘れましょう
全てを忘れて 眠りに就けば
新たな明日がやってくる
何度も繰り返すこの歌を歌いながら、カロリーナはまるで自分が透明な壁のこちら側に……安全な所にいるのだと実感できた。そして、優しいその歌が響く向こう側で、カエリアンが男たちを次々に血祭りに上げているのが見えた。止めたいと思った。だが、体は動くことを拒否した。ただ、安全なところから子守歌を歌うことしかできない。
「やめろ、来るな化け物!」
そんな罵りの声と、恐怖に叫ぶ声が聞こえる。
カエリアンが触れたわけでもないのに、小屋がバラバラと壊れていく。
石積みの小屋が崩れて、男たちの何人かが下敷きになっている。
やめて、カエリアン様。
子守歌が流れる、流血の修羅場。カロリーナの精神が限界に近づく。
「やめて、もう殺さないで!」
小屋の崩れが止まった。カエリアンの妖精の目が爛々と輝いている。もう、カロリーナとカエリアン以外、誰ももう息をしていない。
「もういいのか? お前に魂の死を与えようとしていた連中なのだぞ? 精霊の常識ならば、このような奴らは……」
「もういいの! もう、いいから!」
狂ったように叫んだカロリーナの全身から力が抜けた。カエリアンが慌ててカロリーナを抱き留める。
「気に入らなかったか」
だが、カロリーナは意識を失っていた。
「そうか、お前はこういう罰し方を望んでいなかったのか」
意識を手放してもなお涙を流し続けるカロリーナを抱えたまま、カエリアンは空中に浮かんだ。衛兵たちの一団がこちらに向かって来るのが見える。そう言えば、ジョアキーノはガイヤルド家に身代金を要求する手紙を出したと、カロリーナのいない所で話していた。
奴らに見つかると面倒だ。
カエリアンはジョアキーノたちが乗ってきた馬の一頭に跨がると、カロリーナを抱えたまま馬を走らせた。全力を取り戻したカエリアンだが、久しぶりで力の加減がまだ難しい。下手に精霊の力を使ってカロリーナを傷付けるようなことにしたくない。
馬に揺られながら、カロリーナをぎゅっと抱きしめる。ぐったりと身を預けるカロリーナが愛しくてならない。
「案ずるな、カロリーナ。俺が守るから」
満月がやや西に傾いた空の仲、カエリアンは早足で馬を進めたのだった。
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