7 精霊の勘
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「昼間のあの男のことだが」
今日も夜の楽器庫に行くと、カエリアンが腕を組んで思案げな顔をしながら待っていた。ここ数日、カロリーナが行くと姿を現していることが多い……とはいえ、幽霊のようにまだ透けた体ではあるが。
「やはりおかしい。力が戻れば、あの男の後を追えるのだが」
「だから、サルタレロ先生は味方ですって」
「いや、臭いがした」
「臭い?」
「人間には分からないのだろうが、その者が善性のものか悪性のものかは臭いで分かる。あの男からは、傍に近寄りたくないほどの悪臭がする。今の俺でさえこれほど臭いと感じるのだから、あれは相当な悪党のはずだ」
「そんなことないわ。グラツィアーナより私を評価してくださる数少ない人なんです、悪く言わないでください」
「だが、悪人だ。悪人がカロリーナをただ支援するわけがない」
「カエリアン様。ですが、もう父も了承しています」
「俺の力が戻れば問題ない」
「それはあと1ヶ月で戻るのですか?」
「それはカロリーナ次第だ。俺の力は、優れた音楽を取り込むことで作られるのだから」
「つまり、はっきりしないわけですよね」
「……否定しない」
「ならば、1ヶ月後に確実にこの家を出て生活できる方法を抑えておくべきです」
「お前は、人を疑うことを知らないのか? 悪人はお前のような世間知らずを人身売買することもあるのだぞ?」
「人身売買?」
「ああそうだ。若い娘なら、娼館に売ることもある。秘密裡に外国へ連れて行かれて奴隷として売られることもある」
「外国で、奴隷? まだそんな国があるのですか?」
「ある。人間だけではない。精霊術師がいる国では精霊が精霊術師に捕まって、今でも見世物にされたり隷属させられたりすることがある。精霊術師から精霊を買い取ってアクセサリーのように連れ歩く貴族や、精霊の能力を自分の思い通りに使わせることもある」
「そんなひどいこと……」
「ひどいと思うのは、恵まれている証拠だ。相手を騙してでも金を手に入れなかったら、明日死ぬ。そういう人間はこの世界にたくさんいる。ひどいことは駄目だとか、神様が見ているから悪いことをしてはいけないとか、そんなことは今日、今この瞬間に飢え凍え、死の恐怖に怯えているやかつてそんな経験をした人たちにとっては何の力も持たない」
カロリーナは黙ってしまった。外に出たことがないカロリーナは母とグラツィアーナの悪意にさらされ続けてきたが、逃げないと殺されるとか、飢えて死ぬとか、そういう身の危険を感じたことはない。外の世界とはそんなに危険な世界なのか、そう思うと、逃げ出したいという気持ちが少ししぼんだように感じる。
「だからこそ、信頼できる人は希有なんだ。大切にしなければいけないんだ。信頼できる人を見極めないと苦しむのはカロリーナ、お前自身だぞ」
カエリアンがそっと近寄って来た。よく見ればカエリアンの体の透明度は初めの頃に比べると随分低くなってきた。
「カエリアン様。私、どうしたらいいのですか?」
「俺はお前に加護を与えた。精霊は、加護を簡単には与えない。与えた以上は、責任を持って守らなければならないからね」
「カエリアン様は、私を守ってくださるの?」
「約束しただろう? カロリーナが俺に歌い続けてくれる限り、俺はカロリーナを守護するよ」
「……保険として、サルタレロ先生にも手伝ってもらうわ。もしおかしな所が見つかったら、サルタレロ先生の計画には乗らない。これならいいかしら?」
「そうだな。それまでにカロリーナが俺の力を満たすだけの歌を歌ってくれた方が安心なんだが」
「努力はします」
「じゃ、今日は何を歌ってくれる?」
カロリーナはアントニエッタの写譜を引っ張り出すとパラパラとページを捲った。
「今日は『イルカの歌』にするわ」
「『イルカの歌』か。懐かしいな」
「イルカの歌」は、神話の時代の音楽家アリオンとイルカの歌だ。賞金を船乗りたちに奪われ、証拠隠滅なために殺されそうになったアリオンが、最期にと竪琴を弾き、歌を歌う。海に飛び込んだアリオンを、その竪琴に聞き惚れて集まっていたイルカたちが助け、アリオンとともに生きる歓喜を歌った歌だ。海のある地方で作られた民謡をベースに、アントニエッタがアレンジして作ったとメモ書きがある。
カロリーナは声が邸に響かないように抑えながらも美しい歌声で歌い始めた。イ長調のこの曲は、イ長調らしい明るさと素朴さを兼ね備えている。イルカがパシャパシャと水面を叩く音まで聞こえてきそうな曲だ。
「カロリーナが長調の曲を歌うのを、初めて聞いたような気がするが」
「そうかもしれません。悲しい気持ちの時には、どうしても悲しい曲に引き込まれてしまうものですから」
カエリアンはハッとした。アントニエッタの言葉が頭の中でリフレインしている。
「悲しいのに泣けない女たちが泣けるように、私は悲しい歌を歌うのよ」
アントニエッタの理念を学ばずとも受け継いでいる子孫がいる。それがカエリアンにはうれしく、そして切なくもあった。アントニエッタが旅の音楽一座に拾われて旅しながら見てきた底辺の生活とカロリーナの心が通じるということは、カロリーナが明るい顔の裏側でそれだけ不遇であったということの証明でもあるからだ。
楽しげに「イルカの歌」を歌うカロリーナを見て、カエリアンは早く力を回復したいと握りこぶしに力を込めた。
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「だから、あたしの言うとおりに壁紙を変えればいいの! 何回言ったらわかるのよ! あ、あと、ドレスを新調するから仕立屋を呼んでおいて」
すでに邸の女主人であるかのように振る舞うグラツィアーナにアントニオは思うところがあるようだったが、様子見をすると決めたようだ。クリツィアの機嫌は最高潮に良く、ニコロは部屋から出てこない。バイオリンの練習もしていないようだ。
楽器庫に籠もっていても聞こえてくる使用人たちの慌てた声に、カロリーナは作業を中断して顔を上げた。
「グラツィアーナ嬢は、嫁になると決まったら急に態度が変わったよな」
「あれじゃただの、わがままなお嬢様だよ」
「でも、そのお世話をするのは私たちなんだよ?」
「ニコロ坊ちゃんがお気の毒だよ」
「良識があるだけに、ねえ」
カロリーナはため息をついた。こんな時に、スパッと解決できるような女性だったらどれほど格好いいだろう。だが、カロリーナにはできない。そもそもグラツィアーナから敵視されているカロリーナが前面に出ていくことなど、家族の誰も望んでいないだろうから。
「役立たず」
「お前は客人に会うな」
「顔をさらすな」
「楽器庫に閉じこもっていろ」
「お前など生まれてこなければ良かった」
これまでにグラツィアーナから投げつけられた暴言が蘇る。これだけ疎まれているのだ、家族面をする必要はない。扉の内側で使用人たちの言葉に耳を傾けていたカロリーナは、部屋の奥に戻った。そして、写譜を静かに再開した。
夜、そっと部屋を抜け出したカロリーナが楽器庫の扉を閉めると、ぬっとカエリアンが姿を現した。
「カエリアン様、驚かさないで!」
ちょっと拗ねたような顔のカロリーナに、カエリアンは眉間に皺を寄せた不機嫌な顔で「捜し物をしていたんだ」と言った。
「捜し物、ですか?」
「ああ。昼間、カロリーナがアルカンジェロのバイオリンソナタの写譜をしていただろう?それを見て、アントニエッタの息子が作曲したバイオリンソナタがあったはずだと思い出したんだ」
「ああ、アミルカレのバイオリン曲ですか? まとめたはずですが」
「いや、今日カロリーナが目録を閉じ直している時に、その曲のタイトルが書かれていないことに気づいたんだ」
「どこかに埋もれている、と」
「それでちょっとな」
「明日の昼間に探します。片手間になるから直ぐには見つからないかもしれませんよ」
「カロリーナ、その楽譜、できれば写譜して持ち出したいんだ」
「……カエリアン様にとって、大切な曲なのですか?」
「あいつが俺の守護を受けるようになって、最初に書いた曲なんだ。俺に捧げられた曲を書いたのはあいつだけ。だから、原本までとは言わない、写譜でいいから、自分のものにしておきたいし、しなければならないとも思ったんだ」
「そうですね。そういう御事情なら、できるだけ探しましょう」
「だが、まずは歌だ。あと10日以内に俺の力をフルチャージさせたいからな」
「では、今日はグラツィアーナが嫁いで来た日ですから、愛の歌を何か歌いましょうか」
カロリーナが楽譜を捲っていると、カエリアンがそっとその手を止めた。
「今日は、これを歌ってくれないか?」
カエリアンが指で示したのは、子守歌だ。
「子守歌?」
「ああ。心が荒れた時には、この歌で心を落ち着かせるんだ」
「カエリアン様、何かあったんですか?」
「あの女は、音楽を嫌っている」
「え、でも、グラツィアーナは優秀なピアニストで……」
「技術的に弾けるということと、音楽を愛しているということは別物なのだよ。あの女は音楽が嫌いだ。あの女がこの家の実権を握れば、間違いなく情感を大切にするような曲の楽譜は捨てられるだろう。子どもに音楽を楽しませることもないだろうな」
「どうしてそれが分かるんですか?」
「今日、カロリーナがいないのを見計らってあの女が楽器庫に来たんだ。あの女は『ガラクタばかりの、かび臭い部屋だ』と言って、そこのトランペットのケースを蹴り飛ばした。今後カロリーナがいる時にあの女が来るのも心配だ。それを考えていたら、イライラしてしまったということさ」
「そんなことがあったんですか」
夜中にここにいることは知られない方がいいから、明かりは最低限しかない。夜目が利かないカロリーナには見えない所で、他にも何か問題が起きたのかもしれない。
「一度力が戻れば、物理的にあの女に制裁を加えることもできるのだが……あと少しだな」
沈んだ顔のカエリアンを早く癒やしたくて、カロリーナは心を込めて子守歌を歌った。歌い終わってカエリアンの表情を見ると、カエリアンの眉間にあった深い皺がなくなっている。どうやらほぐれたようだ。
「カエリアン様。私、この家を無事に出られるのでしょうか?」
「ん?」
「何だか嫌な感じがします」
「カロリーナ、そういう勘は大切にした方がいい」
「はい」
「一秒でも早く実体化して、カロリーナを物理的に守ってやりたい」
ふわっとカロリーナの頬に何かが触れたように感じた。
「カロリーナを前に寝室に連れて行ってやった時には集中力が必要だったが、今は集中しなくても触れている感覚をもてるようになってきた。これで昼間も、何かあったらカロリーナの傍にいるとわかるだろう」
「あ、あうう」
何とも言えない声しか出なくなったカロリーナの顔がどれほど赤くなっているか、カロリーナには分からない。こんなに美しい精霊に優しく触れられて、さすがのカロリーナもカエリアンに会うのが楽しみになってきた理由に気づいてしまう。
「カロリーナのことは必ず守る。だから、守ってやれるだけの力を俺にくれ」
優しく微笑むカエリアンがカロリーナと同じ思いだとは思えなかったが、アントニオやニコロと同じほどに信じられる存在なのだと、カロリーナは思い知ったのだった。
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