6 独立計画
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家庭教師のジョアキーノ・サルタレロは、カロリーナとニコロの一般教育を任されている。文学、簡単な計算、自然科学、マナーにダンス。文学は音楽作品のモチーフや原作になっていることがあるからカリキュラムに加えられている。計算はリサイタルの売り上げを正しく管理したり契約をごまかされたりするのを防止するためであり、自然科学は作品理解だけでなく楽器のメンテナンスなどにもその知識が応用できるため、そしてマナーやダンスは上流階級との付き合いがあるため、である。
既に長男ニコロは全て修了したので、今は父と一緒に音楽活動とそれに伴う家の経営を手がけている。カロリーナは、ジョアキーノの授業に関しては兄よりも優秀だった……いや、ダンスはやはり駄目だったのだが。
「カロリーナに学問なんて身につけさせても何にもならないわ。でも、私も音楽とマナーとダンスだけでいいのだけれど」
今年からカロリーナと一緒にジョアキーノの指導を受けるようアントニオに命じられたグラツィアーナは、カロリーナと一緒に勉強しなければならないこの時間が嫌いだ。この時ばかりはカロリーナに勝てないからだ。
グラツィアーナからどんな嫌みを言われても、今のカロリーナは怖くない。18才の成人のその日に精霊カエリアンとこの家を出ていくと決めてから、知識や技術など、与えられるものは全て吸収しようと貪欲に学んでいる。
「最近のカロリーナお嬢様は、本当に熱心に取り組まれますね。何かあったのですか?」
「いえ、私は音楽を演奏できないものですから、何か他に生きる術を見つけなければと思いまして」
「そうね、いい心がけだわ。カロリーナにいい縁談が来るとは思えないし」
グラツィアーナは最後にしっかりカロリーナを傷付ける一言を吐く。
「グラツィアーナ様、今の発言はマナーとしてはマイナス100点ですね」
「いいのよ、外ではこんなこと言わないわ」
「普段から口にしていると、とんでもない時に飛び出すものです」
「はあい」
ふくれっ面をしたままグラツィアーナは指示された1枚目の計算問題に取り組んでいる。カロリーナは既に4枚の課題にに合格し、今日5枚目の課題に取り組んでいる。
「ああん、もう、面倒くさい! 私、気分転換してくる!」
「グラツィアーナ!」
グラツィアーナは機嫌を直さぬまま出ていってしまった。
「申し訳ありません、サルタレロ先生」
「いいんですよ。それよりカロリーナお嬢様、本当にどうなさったのです?」
「実は父と相談して、成人と同時にこの家を出て働くことにしたんです」
「何と! 理由を伺っても?」
もう10年の付き合いがあるジョアキーノのことを、カロリーナも気安く思っている。カロリーナが自信を持てる唯一の場がジョアキーノの授業だったこともあり、カロリーナはこれまでも様々な相談に乗ってもらっていた。
「私を妻にもらってくださるような方はいらっしゃらないでしょうし、先ほども言いましたが、小姑としてお兄様の奥様になる方にまで煙たがられたくないのです」
「どこへ行くとか、何か心当たりはあるのですか?」
「いえ、これから見つけるつもりです」
「では、私が仲介しましょうか?」
「え? サルタレロ先生が?」
「こんな私でも、いろいろなお宅に出入りしていますからね。ご紹介できる仕事があるかもしれません。例えば、貴族家の下働きや侍女もありますが、ああ、これだとお母上たちに出会す可能性もありますね」
「それは……」
「う~ん、そうですねえ……外国に行く、という手もありますよ?」
「外国?」
「例えば隣国あたりでしたら言葉も同じですからね。よほどの上流のお家ですとガイヤルド家と顔見知りということもあり得ますが、地方の豪商や領主であれば接点はほとんどないでしょうね」
「私を何らかの形で、住み込みで雇っていただける所があればいいのですが」
「ええ、ええ、声を掛けてみますよ。私のように、裕福な平民や男爵クラスの貴族専門で掛け持ちする家庭教師のギルドのようなものがありましてね、隣国にもつながっているんです。知り合いを通じて求人がないか、聞いて見ましょう」
「サルタレロ先生、ありがとうございます。父にも報告します」
「ええ、いい職場を探すようにしますよ」
5枚目の課題の採点をしながら、ジョアキーノはカロリーナと約束した。カロリーナは晴れ晴れとした顔をしている。ジョアキーノの目つきが一瞬だけ変わったことに、カロリーナは気づかなかった。
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「カロリーナ。昼間の男は家庭教師か?」
夜、楽器庫に行くと、カエリアンが待っていた。
「昼間? ああ、サルタレロ先生ですか? もう10年も勉強を見ていただいている先生ですよ。ご存じでしょう?」
「ああ、力を失って以来この楽器庫から出られなくなっていたからね。ここから見聞きできる範囲のことしか分からなかったんだ」
「それなら、どうして母たちの音楽が心に届かないと分かったのですか?」
「お前たちが練習する音はこの部屋にも聞こえるんだ」
カロリーナは家の間取りを考えた。この楽器庫は、搬出入の利便性を取って1階にある。右隣にはリサイタルもできる両親の練習室があり、楽器庫の直上にはピアノが一台ずつ置かれたそれほど広くない練習室が5部屋ある。確かにここなら全ての練習室の音が聞こえる。
「楽器庫の左隣は、お前が打楽器の練習をしていた時に使っていただろう? ここから打楽器を出して、しまって……お前が泣いているのをずっと見ていた。力がないことをこれほど恨んだ15年はなかったよ」
「15年……」
15年前から、カロリーナが楽器に触れている。その時から、カエリアンはずっとカロリーナを見つめていてくれたのか。カロリーナは何とも言えないむずがゆさを感じた。
「あの男、途中から良くない匂いがした。よからぬことを考えている時の人間の匂いだ。カロリーナ、あの男には気をつけた方がいい」
「大丈夫。サルタレロ先生は私を手助けしてくれるだけですよ」
「だが」
「カエリアン様は精霊様です。私がこの家を出た後の私の仕事や住処を用意してくださる、なんてできないでしょう? カエリアン様と2人で安心してこの家を出ていくための協力者なんです」
「カロリーナ。俺は注意した」
「ええ、気をつけます」
カロリーナは頑固だ。グラツィアーナやカーラの悪意には慣れっこだが、外の人間にはもっと汚いことをする者がいるということを、カロリーナは知らない。アントニエッタが女一人であると思い込んだ男たちからアントニエッタを守る中で、汚い人間の存在をうんざりするほど見てきたカエリアンから見れば、カロリーナなどカモでしかない。
「信じられるかどうか、よく観察することだな」
カエリアンがジョアキーノを敵視する理由が分からなくて、カロリーナはただ困惑するばかりだった。
「それからカロリーナ。俺が見えることを、誰にも言ってはいけないよ」
「え、どうしてですか?」
「自分たちに姿を見せない音楽の精霊が、カロリーナにだけ姿を見せると知ったお前の母親やあの女が、お前に何かするんじゃないかと心配なのだ」
「やっかみとか?」
「そうだ。特に、グラツィアーナは自分が君よりも優れた人間だと思い込んでいる。だから、音楽に関係することで君よりも自分の方が劣っていることが見つかったら? 絶対にお前に害をなすはずだ」
「害をなすって……」
「ないと言い切れるか? 音楽の精霊の加護があると大声で言えたら、自分の商品価値が上がると考えなかったか?」
考えてもみななかった。でも、それでは精霊であるカエリアンを物扱い、アクササリー扱いしていることにならないだろうか?
「精霊術師の中には、精霊を下僕のように扱う奴もいる。あのグラツィアーナとかいう者が絶対にそうではないと言えるか?」
言えない。実際に下僕扱いされることがあるカロリーナだからこそ分かる。
「気をつけます」
「それでいい。では、今日の歌を捧げてくれるか?」
「はい。今日は虹の向こうに渡った我が子を偲ぶ歌です」
静かな部屋に、カロリーナの歌が響く。カエリアンの体がチカッと一瞬光ったことにも気づかず、カロリーナは歌い続けた。
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「ほうほう。それで、実際に動き出したいと」
「はい。以前サルタレロ先生が伝手をたどってくださるとのことでしたので、ぜひお願いします」
「ええ、分かりました。ご希望の国はありますか?」
「できれば、ガイヤルド家があまり行かない国だといいですね」
「ガイヤルドのご当主の伝手が少なければ、探すのにも苦労なさるでしょうからねえ。ええ、いいですよ。少しお時間をください。ああ、ご希望の仕事は何かありますか?」
「あまり人前に出ない仕事にしたいです。おしゃべりな職場ではないとうれしいですね」
「具体的なことはまだ考えていないのですか?」
「どんな仕事があるのか、外に出たことがない私にはよく分からないのです」
「ああ、そうでしたね。お屋敷の外に一歩も出たことがないと仰っていましたねえ」
「はい。ですから、仲介してくださる方の所に行ってから決めるのもありなのかもしれません」
「分かりました。ある程度道筋ができた所で、またご連絡しましょう」
グラツィアーナがいつものように途中でサルタレロ先生の授業から抜け出した後で、カロリーナはジョアキーノに、この家を出た後の職場について相談をした。これは何とかなりそうだ。
「それよりも、ニコロ坊ちゃんの奥様がグラツィアーナ様とは」
「ええ、そうらしいですね。私は何も聞いていませんが使用人たちが部屋の準備と結婚式の準備に取りかかったようで、それで私も初めて知りました」
「そうですか」
「裕福な家どうしの結婚は婚約してから1年ほど準備に時間を掛けるそうなのですが、グラツィアーナの希望で来月結婚式を行うそうです」
「随分急いでいるように感じられますが……」
「ごめんなさい、私には分からないんです。私は何か知ったとしても、どうせ出ていく人間ですから」
「まあ、それほど接点なく出られた方がいいでしょうねえ」
ジョアキーノは何かブツブツつぶやいていたが、にこりと笑顔をカロリーナに見せた。
「進展があればお伝えします。それまではカロリーナお嬢様、お母上とグラツィアーナ嬢には話してはなりませんよ」
「はい、サルタレロ先生」
これできっとうまくいくはず。
カロリーナの心は浮き立っていた。
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