5 カロリーナ、カエリアンと出会う
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アントニエッタの曲にカロリーナは引き込まれる。うまくいかない恋愛、引き裂かれた恋愛のことは分からないが、ほしいものや自分にとって大切だと思うものが手に入れられない気持ちならよく分かる。カロリーナは、恋愛をテーマにしたアントニエッタの歌を歌う時には、「自由」が手に入ったならと思いながら歌うことにした。正確ではないとは思うが、カエリアンもそれでいいと言ってくれた。
「いずれお前にも分かる日が来るだろう。そしてその日を境に、お前の歌は激変するはずだ」
母からの愛が欲しかったという気持ちを置き換えることも考えたが、どうしてもグラツィアーナのことまでセットで思い出してしまい、ネガティブな気持ちになるのでやめた。「憧れるもの」を手に入れられたら、そういう考えで「自由」を設定したことで、この家を出て自由になりたいという気持ちがより強くなったような気がしている。
カロリーナは少し前から、グラツィアーナがニコロの妻になるのではないかと危惧していた。隙あらばニコロにまとわりつく。エスコートが必要な場では必ずニコロを指名する。ベタベタとニコロの腕に触れて頬を染めているグラツィアーナの顔は、恋する乙女そのものだった。もっとも、ニコロはいつもげんなりしていたので、カロリーナはただただニコロが気の毒だとしか思えないが。
もしカロリーナの予感通りにグラツィアーナがニコロに妻に収まったならば、カロリーナは楽器庫の仕事を取り上げられて追い出されるのではないかという不安もあった。アントニオとニコロはずっとこの家にいればいいと言ってくれたが、今日アントニオと話し合った通り、18歳になって成人したその日にこの家を出て、働きながら一人で生きていこうと決めた。
翌日から、カロリーナはグラツィアーナからの嫌がらせが気にならなくなった。写譜と楽譜整理の仕事をせっせとこなした。古い楽譜はいずれ読めなくなる。そうなる前に写譜を行い、原本に触れないようにする。写譜は販売もできる。カロリーナの手では一曲ずつ写譜を終わらせるのに時間はかかるが、丁寧で美しく見やすい楽譜を書き上げることは得意だった。
仕事は1人でコツコツ、自分のペースでやれる。写譜は集中できるからいい。「今は写譜中です」と言えば誰も邪魔をしに来ないから、この楽器庫に閉じこもっているのは嫌いではない……グラツィアーナは例外だが。
夜中に眠れなくなることは今までも数知れずあったが、アントニエッタの歌曲の写譜をするようになってからは、カロリーナは夜中に楽器庫にやって来るようになった。そして、アントニエッタの楽曲に触れて心を落ち着かせ、明日写譜する楽譜を決める。
その日手に取った楽譜の曲は、余りに切なかった。物心ついた時にはアントニエッタに両親がいなかったことは有名な話だ。両親に会いたいという思いを、おそらく死んでいるだろう両親へのレクイエムとして書き上げたこの曲にだけは、カロリーナは同調できなかった。自分は母親に嫌われている、憎まれている……その事実を再認識させられ、苦しみに押しつぶされそうになった。
最初から歌詞を全て見てから歌うのではなく、歌いながら歌詞に触れていく。だから初めは気づかずにその歌詞を口ずさんでいた。だが、カロリーナは歌詞の内容に気づいて途中で歌うのを止めてしまった。止めたと言うよりも、続きが歌えなくなった。
お父さま もし生きていたら あなたは私をその肩に乗せてくれたのかしら?
お母さま もし生きていたら あなたはその両手で私を抱きしめてくれたのかしら?
「もし生きていたら」の部分を「もし楽器が弾けたなら」に変更したら、まるで自分が抱える、この鬱屈した思いと同じではないかと気づいてしまった。
大切な楽譜を濡らすわけにはいかず、元に戻した。この曲の写譜だけはできないとカロリーナは思った。止まらなくなった涙を手で拭ったが、今日だけはどうにも止まらなかった。
これではもう今日は眠れないかもしれない。寝坊した所をグラツィアーナに見つかれば、まだ口撃を受けるのは目に見えている。アントニオとニコロに「何かあったのか」と心配させてしまう。無理矢理にでも寝ないといけない。立ち上がろうとしたカロリーナだったが、扉の前に誰かが立っているのに気づいてハッとした。
こんな時間に楽器庫に入ったと知られれば、それこそ盗みの疑いを掛けられるかもしれない。だが、その人物を、カロリーナは見たことがないのに気づいた。
まさか、泥棒?
それだけではない。恐る恐る見たその人物の体が透けて、扉の取っ手が見えている。
幽霊?!
ヒッという情けない悲鳴を上げて恐怖の余り腰を抜かしてしまったカロリーナに、その人物は近づいてきた。
「カロリーナ、そんなに悲しいか? この家にいたくないか?」
「だ、れ……?」
「俺はこの家に加護を与えている精霊だ。ガイヤルドの家の者なら俺のことは当然知っているだろう?」
「え、あの……カエリアン様なのですか?」
「ああ、そうだよ。それでカロリーナ、俺の質問に答えて」
ガイヤルド家に加護を与えてきた精霊カエリアンだと知れば、カロリーナだって怖くない。金色の長い髪に青い瞳の美しい精霊の姿に、むしろ勇気をもらえた気がする。
「グラツィアーナがいるこの家にいるのはいや。もう少しで成人するから、その時に家を出ようと父と相談していて……」
「お前の父親と兄はお前のことを大切にしているが、母親についてはここ数年どうもお前への関心が薄くなっているようだと俺も思っていた。分かった。俺も手伝おう。カロリーナ、お前は演奏できなくても、お前にはまだ残っている……純粋に音楽を愛し、楽しむ気持ちが。
だから、お前がこの家を出る時に、俺もこの家を出よう。アントニエッタといた時のように、君を守ってやろう」
「本当に? 本当に私を守ってくださるのですか?」
「俺は精霊だ。嘘はつかない。ただし、条件が一つだけある」
カロリーナはゴクリとつばを飲み込んだ。
「お前が歌えなくなるその日まで、毎日必ず、夜、俺の前でお前の歌を捧げてほしい。それが俺の力になるから」
「は、はい。かしこまりました」
「俺の加護はカロリーナ、お前だけに与えよう。お前に危険が迫れば俺が助ける。ただし、こうやって姿を現せるのは夜、この部屋でだけ。今、俺には力があまりないんだ。ここ50年くらい、まともな音楽を捧げられていないからね。
カロリーナがこの家から出た後、幸せに生きられるように俺も力を貸したい。だから、毎日歌を捧げてほしい」
「あの、まともな音楽が捧げられていないって……」
「カロリーナ、お前になら分かるだろう。お前の家族の演奏する音楽には心がない。特にお前の母親と娘気取りの女の演奏など、ただ技術力で演奏しているだけで伝える気持ちなど一片も籠められていない。そんな音楽からは、心を震えさせるような感動は生まれない。ただ、技術に圧倒されるだけだ。それを音楽とは言わない」
「では……私は、間違っていなかったんですね……」
カロリーナは、技術的に難しい曲ばかり弾くことを要求する両親に、そしてそれを自慢するグラツィアーナに、ずっと疑問を持っていた。情感がなければ弾けない曲を両親が避けてきた理由も分かった。自分の気持ちを込めて演奏したい、そしてこの曲の良さ、心、作曲者の思い、そういうものを伝えたいという思いが間違っていなかったのだと気づいた。
「そうだよ。だから俺はお前が演奏する音、歌う声にひどく心惹かれた。技術はなくとも、音一つひとつに籠められた思いが届いた。お前の音楽は心地よい。俺に力を満たしてくれる。そんなお前を、俺はずっと見ていた。でも、力が足りなすぎて顕現できなかった。ここでお前が小声で歌っていた、その力を貯めて、ようやくお前と話ができるまでになった。もう一人じゃない。頑張れるか?」
「はい、カエリアン様。私、頑張ります」
「明日の夜、また会おう。今日はもうゆっくりお休み。加護を掛けるから直ぐに眠れるよ」
カエリアンはそう言うとカロリーナの額にそっと口づけをした。そのまま眠ってしまったカロリーナを抱えてカロリーナの部屋に飛ぶと、カエリアンはそっとその小さく痩せ細った体をベッドに横たえ、掛布をふわりと掛けた。
「お休み、カロリーナ。お前の歌が、巡り巡ってお前を守るんだ。自身を持て」
月明かりに照らされたカロリーナの顔は、17才にしては幼い。守るべき者を再び得た喜びの中で、カロリーナの額にもう一度口づけるとカエリアンは姿を消した。
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