3 「歌」があった
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カロリーナがクリツィアとの関係改善を諦めた翌日から、クリツィアもはっきりとカロリーナを避けるようになった。グラツィアーナの首にクリツィアお気に入りの、そして「成人の時にカロリーナにあげるわね」と言っていたネックレスを見つけたカロリーナには、それでもクリツィアを母親として立てる気持ちはある。だが、母親に対する愛情を持つ必要はない、クリツィアの「娘」はカロリーナではなく、グラツィアーナになったのだと察した。
グラツィアーナはわざわざそのネックレスを、楽器庫にいるカロリーナのところに見せびらかしに来た。
「クリツィア先生から、『娘』の証としていただいたのよ」
グラツィアーナは随分上機嫌である。。
「『娘』よ? いいでしょう?」
「私にできないことを、代わりにしてくれてありがとう」
カロリーナが笑顔で返すと、グラツィアーナは急に機嫌を悪くした。そして、カロリーナの胸ぐらをつかむと頬に平手打ちをしようとその手を高く上げた。
「あんたなんか!」
「カロリーナがどうかしたのか?」
楽譜を探しにやってきたニコロが扉のそばにいた。そして、カロリーナが殴られる寸前だと気づくと慌てた様子でカロリーナのそばに駆け寄り、自分の腕の中に囲った。
「お前、弟子の分際で……!」
「何よ、能なしのカロリーナの代わりに、私がクリツィア先生の『娘』になってあげているのよ? 感謝されるならともかく、どうしてそんな目で睨まれなきゃいけないのよ!」
グラツィアーナは泣きながら楽器庫から出て行った。後でクリツィアが来るかもしれないと思うと、カロリーナはため息をついた。多分、手を上げられる。
いや、違う、とカロリーナは思い直した。ここのところ、クリツィアを怒らせてもクリツィアは姿をあらわさない。ただ、食事が部屋に届かなくなるだけだ。間接的にカロリーナを罰するということは、カロリーナを視界に入れたくもないのだろう。
「カロリーナ、大丈夫なのか?」
ニコロが心配してくれるが、カロリーナはにこりと微笑んでだ。
「大丈夫。お父さんとお兄ちゃんがいるから、ね?」
ニコロはカロリーナの頭を撫でながら、グラツィアーナが折ある毎にまとわりついてくること、好きだと言われて閉口していることなど、愚痴をつらつらと吐いた。
「気に入られているのね」
「あれはストーカーと同じだ。同じ邸に住んでいるし母さんを味方に付けているから、本当にタチが悪い」
ニコロは「2人でグラツィアーナから逃げた方がいいかもしれないな」と言ったが、それができないことは誰よりも2人がよく知っている。2人は黙ってしまった。
目当ての楽譜を取り出したニコロは、使用人にしか見えない姿のカロリーナに、自分の居場所は自分で作れと言おうとして、やめた。カロリーナが努力していることは明白であり、これ以上の努力を求めたら、カロリーナが折れてしまうのではないかと危惧したのだ。
「戻るよ」
「うん、用事があったら来てね」
「用事がなくても来るよ」
明るく見送ったが、一緒にいて安心できるニコロが離れると、とてつもなく寂しくなった。それと同時に、グラツィアーナの「娘」という言葉に含みを感じて、何か良くないことが起きるのではと身震いした。
やはりその日の夕食は届かなかった。厨房に行くと、パンが一つだけ見つかったのでそれを食べた。ニコロにもアントニオにも言えなかった。言わないことが、カロリーナなりの矜持だった。
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カロリーナとグラツィアーナが15歳になった年、クリツィアのバックアップでグラツィアーナのデビューリサイタルが盛大に行われた。演奏会は大成功し、グラツィアーナは「天才美少女ピアニスト」として売れるようになった。クリツィアは露骨なまでにグラツィアーナを褒めそやし、外では「私の優秀な娘」と言うようになった。
グラツィアーナはグラツィアーナで、楽器庫で楽譜のリストを作っているカロリーナの元にしばしばやって来た。そして、「今度隣国にコンサートに行くの」だとか、「ステージ衣装として新しいドレスを買ってもらった」とか、得意げにそんな話をした。そして最後に必ずこう言うのだ。
「私だったら、ガイヤルド家の一員なのに演奏家になれないと決まった段階でこの家から出ていくわ。だって、恥ずかしいもの」
「クリツィア先生は、カロリーナを一人前のピアニストにできなかったことで一時期指導者としての自信をなくしてしまわれたわ。もっとも、私がいるからその自信も取り戻せたようだけどね」
「アントニオ先生だって、娘さんは? って聞かれたけど話せなくて困ったって苦笑いしていらしたのを聞いたわよ」
「あ、そうそう、ニコロったら、私の伴奏でバイオリンを弾きたいなんて言うのよ? ああ、カロリーナには頼めないものねえ、本当に家族にとって迷惑でしかないんじゃないの?」
日によって言うことは違うが、少しずつ、確実にグラツィアーナは毒を吐く。決して屈しないカロリーナだが、うつむいておけばグラツィアーナは機嫌を良くして早く立ち去ってくれるから、カロリーナは必死で涙を浮かべる。カロリーナの目に涙が浮かんだのを確認すると、勝ち誇ったような顔をしてグラツィアーナは部屋を出ていく。屈しないとはいえ、毎日これが続くのだ。カロリーナがいかに自分を強く持っていようとも、少しずつ軽震を削られていく。
グラツィアーナは、アントニオにもクリツィアにもそんな陰険な姿を見せない。ニコロにだって、醜悪な姿を見せたのはあの一度だけ。反省しています、と猛アピールしてニコロの怒りをなんとか解いたようだ。
カロリーナは明るい努力家だが、演奏家になれなかったことを負い目に思っていることもあって、アントニオにもニコロにもグラツィアーナから陰湿な言動をされていると言い出せなかった。叱られないことで、グラツィアーナは更に増長していく。それでもカロリーナは生来の明るさで、自分の仕事をテキパキとこなしていった。
「だって、負けてなんていられないし、そもそも私とグラツィアーナではやるべきことが違うんだし」
両頬をパンパンと叩いて気合いを入れ直すと、カロリーナはグラツィアーナのもう見えなくなった背中に初めて「あっかんべー」をしてみた……ちょっとだけすっきりした。
アントニオとニコロが演奏旅行に出ている今、カロリーナの食事は一切運ばれなくなる。その間、カロリーナは厨房にこっそりと入ってパンやチーズを分けてもらい、なんとか食いつないでいる。一方、クリツィアとグラツィアーナが演奏旅行に出かけると、いつもよりも量の多い食事が届けられる。食堂に呼ばれて一緒に食事を取ることさえある。父と兄と3人の時だけ、カロリーナは息ができるように感じた。
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そうやって3年の月日が経った。あと半年で18歳の成人を迎える。いつまでこんな生活が続くのだろうと思うことは多い。邸を出ることもないカロリーナにとって、グラツィアーナが来てからのこの5年は苦しいことが多かったが、アントニオとニコロが守ってくれてなんとか生きてきたように思う。
それに、カロリーナは楽器庫の仕事をするようになってから新たな趣味を見つけていた。それは歌を歌うことだ。指も腕もゆっくりしか動かないが、歌は歌える。始祖であるアントニエッタは元々流浪の歌姫であり、アントニエッタ自身が作曲した歌曲も沢山残されている。
ある日、アントニエッタの楽曲の写譜をしながら口ずさんだその曲が心にしみて、カロリーナは大きな声でその曲を歌ってみたのだ。
歌える。
楽器で、と言われたら演奏できないが、歌なら歌える。それがカロリーナの心の支えになった。歌いながら作業をすれば時間が経つのも早く感じるし、何より自分が音楽の「音」と一緒にいられることがうれしかったからだ。
それ以来、カロリーナは毎日歌うようになった。ニコロには時々聞かせたが、クリツィアとグラツィアーナには聞かせなかった。ニコロは、カロリーナの歌を聞くと優しくなれる気がして、この時間が大好きだった。心が解放される、大切な時間になっていった。
その日もカロリーナは頼まれた仕事をこなし、アントニオの執務室を尋ねた。
「お父さん、探していたバイオリンコンチェルトの楽譜が出てきました。写譜が終わり次第、お父さんのところに届けます」
アントニオに探すよう頼まれていた楽譜が見つかったことをアントニオに報告しに行くと、アントニオが疲れた顔で執務机に寄りかかり、頭を抱えていた。
「お父さん?」
「ああ、カロリーナか。ごめんな、頼りない父親で」
「何かあったの?」
「クリツィアが、グラツィアーナをニコロと結婚させると決めてしまった。私にも相談せず、ニコロに話もせずに、グラツィアーナの親と話を付けてしまったんだ。ニコロは当然猛反発した。だが、もしこの婚約を白紙撤回するようなことになれば、グラツィアーナの親は有名人になった娘の名に傷を付けたこと、心に傷を負わせたことに対する莫大な慰謝料を請求すると言われてしまった」
「え……」
「平民どうしの結婚ならまだ良かったんだが、グラツィアーナの母親の実家が一応男爵家だったんだ。もっと上位の貴族から圧力を掛けてもらうことも考えたが、そんなことをすればクリツィアが騒ぐだろう。どうしたらいいんだ…」
さすがのカロリーナも、クリツィアの暴走が家どうしを巻き込んだものになっていることに困惑を隠せない。
「どうしてお母さんは、お兄ちゃんとグラツィアーナを結婚させようとしたの?」
「グラツィアーナに『本当の娘になりたい』と言われたようだ」
後頭部をガツンと殴られたような気持ちになった。グラツィアーナは一番の愛弟子という立場に飽き足らず、義娘という立場まで望んだのだ。
「貴族仲介の縁談では、断れないものね」
「ニコロは、カロリーナを軽んじるようなグラツィアーナとは結婚できないと言っている。だが、カロリーナの言うとおり、私たちの力ではこの縁談に異を唱えることはできない。今までだってカロリーナに嫌な思いをさせているのに、このままではニコロの一生にまで悪影響を及ぼしてしまう。どうすればいいんだ?」
疲れ切ったアントニオを見て、カロリーナは無理矢理明るく言った。
「お兄ちゃんのことを愛して大切にしてくれる人なら、私は歓迎するわ。グラツィアーナはうちに来た時から、お兄ちゃん一筋だもの。お兄ちゃんがどうしても嫌だって言っても決まってしまっているのだから、家族になるしかないと思うの。もし私のことが心配なら、どこかで働けないか、お父さんの知り合いに聞いてみてくれない?」
「カロリーナ……お前とは、一生この家で一緒に暮らせると思っていたのに」
「お父さん、本来なら私は嫁ぐのではなかったのかしら? それに私は出来損ないだから外に出せないのだもの、ガイヤルドの家名を隠して、誰も知らない所に行った方がいいと思うの」
「ちがう、カロリーナは出来損ないなんかじゃない! 楽器庫をここまで整備してくれたじゃないか。これは誰にでもできるわけじゃないんだよ?」
いきり立つアントニオに、カロリーナはそっと言った。
「でもね、私の存在が家族の仲を悪くしてしまったのは事実よ。アントニエッタの再来なんて言われて生まれてきたのに、私は演奏家として何の役にも立てなかった」
明るかったカロリーナが、少しずつ陰を帯びていったことに気づかなかったアントニオではない。クリツィアやグラツィアーナから物理的な距離を取れば、カロリーナが元気を取り戻すかもしれないと考えたことも一度や二度ではない。それでも、アントニオはカロリーナを手放せなかった。成人前だからという理由を付けてきたが、音楽の才能があろうがなかろうが、カロリーナが可愛い娘だから、ただそれが本当の理由だ。
「お前は大事な娘だ。手放したくはない。だが、ここにいて、グラツィアーナがニコロの妻となり、いずれこの邸を動かすようになった時、カロリーナがどんな扱いを受けるか、それを考えると……安心できる所に行かせた方がいいのだろうな」
「お父さん、知っていたの?」
「知っていたよ。きっと全てではないだろうがね。あんな狡猾な女を家族になど、はあ、それを考えただけで気が滅入る」
「お父さん……」
それ以上父の悩む姿を見ていられなくて、カロリーナはアントニオの部屋を出た。その日の仕事を終えて自室に戻っても、どうしても眠れなかった。カロリーナはため息をつくと、楽器庫に戻った。古い楽譜の匂いが充満している。窓から差し込む満月の光だけを頼りに、カロリーナはガイヤルド家の祖アントニエッタの曲の写譜を開き、楽譜を読み始めた。
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