26 カエリアンに起きていたこと1
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時は戻って、カエリアンが精霊術師に捕らえられた直後。
カエリアンは隷属の術を掛けられ、グラツィアーナから離れられないようにされていた。
「なんて目で私を見るのよ」
腐ったものを見る目で見ているだけだが?
グラツィアーナにネガティブな言葉……例えば反抗的な言葉、貶めるような言葉、罵りの言葉など……は、「隷属の首輪」の効果で喉から外に出て行かない。口の形である程度分かってしまうこともあるが、相手に伝わったとなれば「隷属の首輪」は容赦なく発熱し、カエリアンの首に火傷を負わせた。火傷の自己治癒も、度重なれば力を失う原因になる。力をできるだけ温存する為に、カエリアンはそっぽを向いて心の中で思うだけにするようになっていた。
「あんたも変な精霊よね。あたしじゃなくて、カロリーナの方がいいなんて」
お前とリーナを同列に比較するな。最初から月とすっぽん。比較対象にさえ、なりはしない。
「だいたい、カロリーナに何かできるようにするより、あたしのピアノの腕を上げた方が手っ取り早いでしょうが」
「なにか勘違いしているようだな。俺には音楽の能力を上げるような能力はない」
「はあ? だってあんた、音楽の精霊でしょうが!」
口が悪い女だ。人の育ちは言葉を仕草で分かると言われるが、本当にその通りだとカエリアンは思った。カロリーナは動きが緩慢だとか鈍いとか言われていたが、ゆったりと上品に見せていた。弱点を強みに見せる工夫をしていたのだ。それに、カロリーナのゆっくりした口調は聞き取りやすく、言葉をしっかり選んでから話しているのがよく分かったが、グラツィアーナの言葉にはそんな思慮はどこにもなかった。
「俺は音楽の精霊ではない。アントニエッタは理解していたが、他の家族が全員誤解していただけだ」
「嘘よ!」
カロリーナはカエリアンの「隷属の首輪」につながれた鎖を引っ張った。腕力のないグラツィアーナであっても、カエリアンを引き倒すことができるよう力が調整されているから、カエリアンは引きずられるか、自分の足で歩いて近づくか、どちらかを選ばなくてはならない。首輪のあたりは先ほどの火傷で痛いので、首から引きずられるのはご遠慮したい。カエリアンは仕方なく立ち上がってグラツィアーナに近づいた。
「じゃ、あんた、何の精霊なのよ?」
「破壊だ」
「えっ」
グラツィアーナの顔が引きつった。
「俺がお前に加護を与えれば、お前は指1本でそのグランドピアノを破壊できるだろう」
「やめて、これすっごく高かったんだから!」
ピアノが大事なのではなく、高いものだから、か。
カエリアンは、やはりグラツィアーナを好きになれないと思った。美しい音楽だと言われたグラツィアーナの演奏は、ただ楽譜通りに弾くだけ。テクニックは優れているので難曲を弾けるが、そこに魂は籠もっていない。
魂の込められた音楽がなければ、精霊は力を貯めることができない。カエリアンが日に日に弱り、その美貌を失っていくのに気づいたグラツィアーナは、無理矢理でもカエリアンに食事をとらせた。命じれば食べる。食べるように体を支配されている。だが、精霊にとって人間の食べ物など、本当の意味での栄養にならない。カエリアンが欲するのは、魂を揺さぶるような音楽だけだ。グラツィアーナは精霊術師になんとかするようにと言ったが、精霊術師にも「無理だ」と一蹴されてしまった。
グラツィアーナは、「魂の込められた音楽でなければ力は満たせない」と言われても、自分の演奏に足りないものがわからなかった。グラツィアーナはグラツィアーナなりに、演奏技術を高めることに努力を重ねてきた。クリツィアからも、「感情豊かに、ね」なんて言われたこともあった。だが、音楽記号で指示される感情表現をそもそも理解できなかった。
「affettuoso【愛情を込めて】」とあっても愛情って何よと思ったし、
「fantastico【空想的に】」とあったら何を空想すればいいのか分からなかったし、
「argamente【寛大に】」とあれば寛大な心は自分にはないと無視したし、
「tempestoso【嵐のように激しく】」とあればとりあえず乱暴に大きな音を出しておいたし……。
それで今までは通用した。普通の人間の耳はそこまで聞き分けられるほど繊細ではない。だが、カエリアンは魂を込めた感情表現を知っている。だから、グラツィアーナの演奏如きでは心が震えない。
グラツィアーナははじめ困惑し、次いで怒りに支配された。ボロボロになっていくカエリアンがアクセサリーにもならないと暴力を振るった。ある時、急に振り向いたカエリアンの頬に、グラツィアーナの唇が触れた。カエリアンは心底嫌そうに、何度も頬を拭った。グラツィアーナはにやりとした。
そうだ、カエリアンが言うことを効かないのなら、嫌がることをして、いたぶってやればいいのだ。グラツィアーナには加虐志向があったのかもしれない。その日からグラツィアーナは、嫌がるカエリアンを「隷属の首輪」の力で拘束してから、無理矢理キスして楽しむようになったのだ。カエリアンは日に日に疲弊していった。好きでもない、いやむしろ憎んでいる相手から、毎日自己満足のためのキスをいつされるか分からないのだ。カエリアンの疲弊度は加速度的に蓄積していった。
そんなある日、グラツィアーナに豪華客船でピアノを演奏するという仕事が入った。
「豪華クルーズ船なんて、いい部屋に泊まらせてくれるなら受けてもいいけど」
先方はグラツィアーナの願いを叶える形で、船上リサイタルの契約を取った。グラツィアーナは意気揚々とクルーズ船に乗り込んだ。もちろん、ボロボロであってもアクセサリーであるカエリアンも連れて行かれる。
久しぶりに見た海に、カロリーナが「初めての海だ」とはしゃいだことを思い出す。
海水のしょっぱさに目を白黒させていたな。
波に足を取られて転びそうになったのを慌てて抱き上げたら、真っ赤な顔をしてありがとうと言ってくれたな。
カロリーナのことばかり思い出される。目を閉じてカロリーナの寝顔を思い浮かべた。一緒のベッドで眠ったが、手は出していない。夜、うなされることが多かったカロリーナは、カエリアンが腕の中に囲い込めばすぐに落ち着いて眠りに落ちていった。自分の腕の中にいるのがそんなに安心できるのかとうれしい反面、微妙な気持ちになることもあったが、誰よりも心を許されているということがうれしかった。眠るカロリーナにそっと口づけたことも、1度や2度ではない。
「カエリアン、着替えなさい」
グラツィアーナの声で現実に戻された。どうして今日はこれほどにまでカロリーナのことが思い出されるのだろうなという思いと、せっかくカロリーナの思い出に浸っていたのにという残念な思いの中で、舞台用の衣装に着替える。着替えている間も、グラツィアーナは鎖を離さない。
ピアノを演奏する間は、右足に鎖を留める。ピアノ椅子に座ってから、ドレスをたくし上げて右足に鎖を留めるその仕草に、男たちの目が釘付けになる。グランドピアノは、観客から見て左側に演奏者が座る。右半身が見えるような形になるのだ。カエリアンを右に……観客側の床に座らせることで、カエリアンの姿もグラツィアーナの姿もよく見える位置関係になる。それがグラツィアーナの計算だ。
「はしたない」
そういう声もあちこちから聞こえるが、グラツィアーナは全てスルーしている。その精神力の強さがあったら、カロリーナももう少し生きやすいだろうに、そんなことを考える。
演奏が始まった。ピアノを得意げに演奏するグラツィアーナだが、カエリアンの表情は冴えない。客は音楽に造詣の深くないクエルダの貴族たちだ。テクニックに走り過ぎた演奏であっても、そのテクニックだけで客は興奮した。
グラツィアーナ・ガイヤルドといえば、今、飛ぶ鳥を落とす勢いのピアニストだとクエルダの貴族たちは聞いていた。亡くなって間もない海の辺境伯が以前からパトロンになっていたという噂もあったので、どんな女かと貴族たちは楽しみにしていた。あの辺境伯が囲ったのもうなずける。美しく、自尊心が高く、アクセサリーとしてそばに置くのにふさわしい女。
今でこそクエルダは作物のとれない貧しい国になっているが、カエリアンがアントニエッタと旅をしていた頃は豊かな国だった。山も海もあり、平地も広大で、食文化もバラエティーに富んでいた。その時代の貴族たちは、みな音楽家に関して一家言を持っているような人々だった。
今の貴族は音楽にほとんど触れていないのでグラツィアーナの演奏でも満足しているだろうが、クルーズ船に乗りに来るようなご隠居たちでさえこれかとカエリアンはがっかりした。
グラツィアーナは2曲弾き終えて、客たちに曲の説明をする。同時に、精霊であるカエリアンを紹介した。大事な「アクセサリー」だ。少々見栄えは良くないが、精霊を持っている、それだけでこのクエルダでは、一目置かれる。精霊術師に捕縛させる際に支払う額は、領地の年収の半年分にも相当するからだ。
その上、カエリアンはあのガイヤルド家の精霊である。やつれてはいるが美しいカエリアンに黄色い声を上げる貴族女性は少なくない。
グラツィアーナはにやりと笑った。精霊との親密さをアピールするために、鎖を足からほどいて手に持ち直すと、そのまま「いつものように」カエリアンにキスをした。きゃーという声が上がる。嫌がるカエリアンを支配しているという昏い喜びが、グラツィアーナの心を満たした。
「皆様、こうやって私、精霊から音楽の才能をいただいておりますのよ」
嘘八百もいいところだ。だが、客の貴族たちは拍手喝采だ。
これがクエルダの貴族。あの辺境伯だけが堕落したのではなく、国の上部の者たちが腐乱して、国を荒廃させたのだとカエリアンは納得した。
このまま海に飛び込んで消えてしまいたい。海に飛び込んで、カロリーナを探したい。
ふと、カエリアンの耳にカロリーナの声が聞こえたような気がした。そして、あの惨事が起きたのだった。
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