23 叫び
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「クルーズ船での船上演奏会は、明後日だそうだ」
いつもと違う時間にやってきたトリトンは、厳しい顔でそう言った。
「思った以上に人気が出て、相当大きなクルーズ船を使うことになったそうだ」
「あの、たくさん人が乗っている船で『隷属の首輪』が外れてしまって、カエリアンが暴れたら……」
「そうなんだ。ちょっと懲らしめるくらいのつもりで計画したが、思いのほか大きなことになってしまった。下手をすると転覆もあり得る。イルカたちの群れをいくつか待機させて、陸に運ぶようにした方がいいかもしれない」
「忍び込んでも、リアンがなかなか見つからない可能もあるよね?」
「いや、そこは仲間が手引きしてくれることになっている」
そもそも連絡が遅いんだ、とトリトンは少々お怒り気味である。
「こっちにも準備があるんだし、クルーズ船を手配したんだったら随分前に計画は決まっていたはず。そこから集客したんだろう? 絶対誰かが連絡を忘れていたんだ」
「今日じゃなくてよかったじゃない」
「カロリーナは、物事をいい方に考えるんだな」
「普段の生活ではね。でも、すごく落ち込むこともある。そうなると、なかなか沼から這い出せない。自分でも分かっているから、沼に足を突っ込まないように努力しているの」
「無理するな。もうじきカエリアンに会えるから」
「うん」
「じゃ、明日また来る」
真夏のクルーズは日差しが強いから避けたのだろうが、すでに朝晩に秋の気配を感じられるようになっている。夏ももう終わりだ。バカンスの最後の思い出作りとでもいったところなのだろうが、クエルダの国内情勢は、天候不順とそれに起因する干ばつ、農作物の不作が続き、決してよい状態ではないはず。それにもかかわらず大金を払って遊ぶ一部の特権階級の存在に、トリトンは蔑みの目を向ける。
人間ではなく、海の神の一族で良かったと思う瞬間の1つだ。
海に出入りする人間はいるが、基本的に海は海の生き物の世界だ。邪な心をもって海を征服しようとする者は、海も、海神の一族も許さない。
トリトンはジータたちにイルカを呼び集める指示を出すために、海の中に戻っていった。
カロリーナは、歌う歌を決めていた。引き裂かれた恋人を探す度に出た女の歌。セイレーンたちが教えてくれた歌の中で、一番温かな気持ちになれる歌。これには教えられたとおりに歌詞なしで歌うつもりだ。そして最後に、カエリアンが気に入っていた子守歌。セイレーンたちの歌だけでも、その圧でグラツィアーナが鎖から手を離すはずだが、カエリアンを回復させるために歌うのであれば、やはりあの子守歌は欠かせない。カロリーナにとって、あの子守歌は、カエリアンがジョアキーノたちに罰を下した時の恐ろしい記憶と結びついているが、だからこそ記憶の上書きが必要な曲でもある。
眠れ、眠れ、愛しき子らよ
今日の疲れを忘れましょう
全てを忘れて 眠りに就けば
新たな明日がやってくる
海に向かって歌えば、セイレーンたちも歌い始めた。
眠れ、眠れ、愛しき子らよ
今日の疲れを忘れましょう
全てを忘れて 眠りに就けば
新たな明日がやってくる
海の上に、大合唱が響き渡る。カロリーナはここに来るまで、歌い手と合唱したことがなかった。村で雨乞いの歌と知らずに村人たちと歌った「雨」の歌や、同じように辻で民謡を歌って大合唱になったことはあるが、美しい歌声を海の上で響かせるのはなんと清々しいことなのかとカロリーナは幸せな気持ちになった。
セイレーンたちも優しい顔で、カロリーナとお互いに微笑みを交わし合う。夕焼け空のオレンジ色が、海を同じ色に染めていく。優しい色合いに包まれて、カロリーナはここにカエリアンがいたらどれほどよかったかと思った。必ずカエリアンを取り戻そうと思った。
海鳥たちは近く岩礁や島の洞窟をねぐらにしているが、今日は上の方からのぞき込んで、セイレーンたちとカロリーナの歌に聞き惚れていた。
夜、ジータがやってきた。珍しい。
「ジータがいない時に歌うなんて、ひどい!」
「練習していたのよ。そうしたらセイレーンたちと合唱になったの」
「遠くから、聞こえた! 近くで聞きたかった!」
「明後日、クルーズ船に乗り込んだら歌うから」
「……約束、ね?」
「ええ、約束よ」
大きな月が、海の上に浮かんでいる。明後日は満月だろう。その満月に向かって、ジータがジャンプしながら仲間のところへ戻っていく。ふと、カエリアンを取り戻した後、自分はどこへ行くのだろうと思ったが、取り戻してから考えようと、カロリーナは心に蓋をした。
・・・・・・・・・・・・
その日がやってきた。豪華なクルーズ船が、セイレーンたちのねぐらであるこの島の洞窟からも見えた。
「あんな大きな船があるんだねえ」
セイレーンたちも驚いている。
「あんな大きなものを、人間が作るようになったってことかい? あまりいい傾向じゃないねえ」
「大きいものはだめなの?」
「大きいものを作るとね、人間は気が大きくなる。こんなすごいものを作った自分は、そして人間というものは偉いって思うようになるんだ。そうなると、他の生き物のことを考えず、神や精霊をないがしろにするようになる」
カロリーナがよく分からないという顔をしていたのだろう、セイレーンが教えてくれた。
「あの船。本体は何で作っているんだろうねえ。木なら森がなくなるほどの木を切っただろう。鉄なら、山の木を切って、大地を掘り起こして、川の水を汚しながら鉄を作ったんだろうねえ」
「山にいる木や花の精霊たちは? 川にいる水の精霊たちはどうなるの?」
「まずは力が弱まる。それから、力を失って消滅する。それも、一気に、大量にね」
「待って」
カロリーナは、クエルダの荒廃した大地を思い出した。
畑で農作物がとれなくなり始めた頃から、森を焼いて新しく畑を作りながらやってきたが、もう燃やす森がないと村長が嘆いていた。
山にも木がまばらに生える程度で、鉱山では農業で生きていけなくなった人々が鉱夫として、あるいは鉄を運ぶ人夫として、あるいは鉄を溶かすための鞴を動かす人員として、顔を真っ黒にして働いていた。鉄を打って何かを作っている人もいた。それを監督している人もいた。彼らは最近、いい鉱石がとれないとぼやいていた。
全ては人間が自分たちの利益だけを考え、森や山にいる精霊たちの居場所と命を奪っていることに気づいていなかったのだろう。精霊がいなくなり、祝福されなくなった土地には、植物は育たない。灌漑のしすぎで塩害が発生し、土地を捨てるしか手段がなくなる。クエルダの大地が今、人間の手で崩壊しようとしているのに、あそこにいる人々は何も見ていない。見ようとしていない。
「だからトリトンは貴族も罰するっていったのさ。森が消え大地が荒廃すれば、海にも影響があるからね。この辺りの海も少しずつ砂の量が増えてきた。地形もいずれ変わるだろうよ」
グラツィアーナは、そういう人々と一緒になって、自分も特権階級の人間だと思っているのだろうか。精霊であるカエリアンをアクセサリーのように連れ回すなど、精霊への侮辱に他ならないということが分からないのか。
でも、きっと、グラツィアーナは私がカエリアンをアクセサリーにしていたと思っているんでしょうね。私たちが恋人の関係だということも知らないでしょうから。
ふと、壁がほとんどない、ガラス温室のような部屋が目に入った。そこからかすかにピアノの音が聞こえてくる。
グラツィアーナの音だ。
速いパッセージ。大きく指を広げてガンガンとピアノの鍵盤をたたきつけるように弾いている。作曲者の思いも、演奏者の思いも、全く感じられない、ただ技巧に走っただけの演奏だ。
グラツィアーナがそこにいるのなら、カエリアンもそばにいるかもしれない。
カロリーナは洞窟の上によじ登った。不器用なカロリーナは、何度も落ちながら、時間を掛けてよじ登った。岩で手や顔を切り、血がにじんでいるが、そんなのは気にしていられない。ただ、一目でいいから、カエリアンを見たかった。じっと目を凝らして、カエリアンを探した。
いた。
そこには、人間の姿ではなく精霊の姿のカエリアンが確かにいた。グラツィアーナが演奏しているグランドピアノの隣に、生気のない虚ろな目で立っている。痩せ細ったその体では、もう戦うことなどできないだろう。カロリーナを守ってぎゅっと抱きしめてくれたあの力強い腕は、見る影もない。
グラツィアーナが立ち上がった。どうやら1曲引き終えたようだ。
立ち上がったグラツィアーナは、唐突にカエリアンの「隷属の首輪」につながれた鎖を引っ張った。そして引きずられたカエリアンと。客の面前でキスし始めた。カエリアンの目が大きく見開かれ、拒否しようと手が動いたが、グラツィアーナに鎖を引っ張られて逃れることができない。
カエリアンの目から、生きる気力が失われていく。
いやだ、カエリアンを返して! このままではカエリアンが死んでしまう!
カロリーナの中で、何かが弾けて壊れた。
全身が総毛立つのを感じた。異変に気づいた鳥たちが慌てたように飛び立つ。セイレーンたちも何事かと洞窟の上を見ようとした時だった。
「リアンを、返せぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!」
飛んでいた海鳥たちが海に落ちていく。カロリーナの絶叫には、あの破壊の力が練り込まれていた。正面からあの音を受けたら、セイレーンたちでさえ太刀打ちできない。
「カロリーナ、落ち着け! それ以上叫んじゃだめだ!」
セイレーンたちの声は、壊れたカロリーナには届かない。黒雲が周囲を囲み、冷たい強風が吹きすさび、大粒の雨がクルーズ船を襲った。ティブルシオが共鳴したのだ。いや、ティブルシオだけではない、この地で人間によって力を失い、かろうじて生きていた精霊の生き残りたちも共鳴した。強風にあおられて、船が大きく揺れている。中では人間が転びながら逃げ惑っている。
「リアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァンッ!」
第2波とも呼べるカロリーナの絶叫は、その声にこの世の悲哀・怒り・苦しみ・絶望……そんな負の感情を全て混ぜ込んで作り上げたような、真っ黒い声だった。セイレーンの歌に力を込める、その時の発声だ。カロリーナの声に込められた負の感情から生まれた破壊のエネルギーの前に、人々は次々に倒れていく。巨大なクルーズ船は、その絶叫のような「声」の音圧でマストが折れ、側面に穴が空き、ガラスが砕けていく。
「カロリーナ、だめだ!」
セイレーンの声も届かない。近くにいたセイレーンの中には、倒れている者もいる。
「カロリーナ、しっかりしろ!」
トリトンが慌てて駆けつけた。カロリーナがもう1度声を出そうとしたので気絶させた。クルーズ船を見やれば、人がバラバラと海に落ちていく。船はもうじき真っ2つに折れそうだ。
落ちていく人の中に、トリトンはグラツィアーナとカエリアンの姿を見つけた。グラツィアーナの手から鎖が離れていくのが見える。
「ジータ、カエリアンを助けろ! 他のイルカたちに、犠牲者を1人も出すことなく陸に運べと言え!」
「わかった!」
イルカたちは必死になって泳いだ。意識を失って海に沈んでいく人をその背に人を乗せ、かろうじて浮いていたり意識のあったりする者には、ひれをつかませて陸に連れて行く。ジータはカエリアンを探したが、どうにも見つからない。他のイルカがすでに運んだのかもしれない。
ふと、グラツィアーナと呼ばれた女が沈んでいくのが見えた。1人も残さず助けろとトリトンは言ったが、ジータは思った。
こいつがいたら、カロリーナは幸せになれないよね?
ジータはじっとグラツィアーナが深海の底に向かって沈んでいくのを、ただ見届けた。深海はトリトンの世界だ。あとでどうにでもなる。仲間のイルカが助けさえしなければいいのだから。
グラツィアーナの姿が深海に消えていったのを確認してから、ジータは陸の方にやってきた。そしてもう一度カエリアンの姿を探した。カエリアンの姿はやはりない。だが、銀色の、いろんな文字が書かれた首輪を見つけた。
これって、「隷属の首輪」じゃないかな?
首輪のそばに、小さな光の玉が落ちていた。下位精霊が顕現した時の姿だ。
「カエリアン、なの?」
ジータの声に、光の玉はわずかに揺れた。次の瞬間、突風が吹いてきた。光の玉は風にあおられて、どこかへ飛んで行ってしまった。
しまった、カエリアンを見失った。
ジータは慌ててトリトンの元に戻った。そして、カエリアンが「隷属の首輪」の支配下から逃れたものの、下位精霊に落ちて風でどこかに吹き飛ばされたことを報告した。
「カエリアンを探すのは大変そうだな」
トリトンは意識を失ったカロリーナの顔を見ながらぽつりと言った。
「それに、まずいことになった」
カロリーナはセイレーンの力を使って人間に危害を加えてしまった。つまり、海のものとして「海の裁き」を受け、罰がカロリーナに下されることになる。「海神の審判」は人間が勝手に作ったものだが、「海の裁き」は海神一族が下すものだ。海はカロリーナを許さないだろう。
「もう、会えなくなるね」
寂しそうにトリトンは言った。まもなく迎えが来るだろう。それまでは、一緒にいることにして、カロリーナの手を握った。生きてはいるものの、冷たく冷え切ったその手が、痛々しかった。
読んでくださってありがとうございました。
今日の終わりの部分は、ep.1の、海の物側からの視点となります。
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