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私らしくあるために~カロリーナは愛の歌を歌う~  作者: 香田紗季
1 ガイヤルド家

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2 母を失った娘

読みに来てくださってありがとうございます。

さっそくのブックマーク・いいね、ありがとうございます!

よろしくお願いいたします。

「カロリーナがしたいことをすればいい。音楽だけが人生ではないのだからな」


 アントニオはカロリーナに音楽家・演奏家としての道を諦めさせるという非情な宣告をした後、その頭を撫でながら言った。母のクリツィアは「やっぱり何をやってもだめなのね」とずっと泣いている。自分がもっと動ける体に生んでやりたかったとか、過ぎたことをグズグズ言っている。


 カロリーナは、悲嘆に暮れる両親に明るい声で言った。


「演奏家として生きることは無理でも、音楽を趣味として続けることはできるわ。ピアノだってバイオリンだって、ゆっくりの曲なら弾けるんだもの。

 それにね、私、いいこと思いついたの。楽器庫の管理をさせてください。少なくとも私の曾御祖父様の頃から、楽器も楽譜も管理ができていないのでしょう? 何回か入ったけれども楽譜の整理もできていなくて、あれでは楽譜を探すだけでも何日もかかってしまうわ。だから、私が楽器と楽譜のリストを作って、すぐに使えるようにしたいの」


 アントニオはカロリーナを幼子のように膝の上に乗せた。


「それは、本当は当主がしなければならない仕事だ。だが、練習、レッスン、演奏会、そのための打ち合わせ、どうしても時間がなくて放置してしまっている。カロリーナがやってくれれば、お父さんたちはとても助かる。楽器庫を管理してくれれば、もしカロリーナに縁談がなかったとしても、楽器庫の管理者として家に残ることもできる。ニコロ、お前はどう思う?」

「カロリーナが好きな男と結婚してこの家を出て行くのならいいのですが、ガイヤルド家と縁づきたいからと強引に貴族家などとの縁談を結ばされるくらいなら、この家でずっと僕と一緒にいればいい。僕と結婚する人は、カロリーナがこの家にいることを理解してくれる人、って条件を付けましょう」

「ニコロ、ありがとう。お母さんからもお礼を言うわ」


 クリツィアは、カロリーナのピアノが上達しなかったのは自分の指導力不足ではないと証明されたことで、ようやく母子として向き合おうと思えるようになった。みんながカロリーナを抱きしめている。カロリーナは、音楽家として生きていけないことは残念だが、こうやって家族のために、そしてお弟子さんたちのためにも役に立てるのだと思うと、明日からやるべきことがあって良かったと思った。


「お父さん、お母さん、お兄ちゃん、私、楽器庫の管理人として頑張るね!」


 一家にとっては悲しいはずの決断だったが、これでカロリーナは音楽と家族を諦めずに済む、誰もがそう思えた。それは、ある意味で幸せな道が見えた瞬間でもあった。


「さあ、やるわよ!」


 自分に気合いを入れて、カロリーナは翌日から早速楽器庫の整理を始めた。最初に楽器を置くスペースと楽譜を置くスペースにきっちり分けることにした。そして、本棚を設置してもらい、楽譜を並べられるように手配した。


 楽器のケースに番号を書いたシールを貼り、楽器の種類や使用者の名前、それにメンテナンスの日を書いたリストを作って、楽器毎に番号順に並べ、博物館などから貸し出しの依頼があった時にすぐに出せるようにした。重たい楽器の運搬は使用人たちが手伝ってくれたので、それほど大変ではなかった。


 大変だったのは楽譜の管理だ。綴じられることもなくただ山積みになった楽譜を、作曲家毎にまとめ、それを楽器毎に、更にソロ、アンサンブル、オーケストラなどという具合に並べ直していく。原本は貴重なのに、その原本がぐちゃぐちゃなのだ。このままでは曲が散逸してしまうと考えたカロリーナは、並べ直しながら写譜をすることにした。写譜があれば貸し出しもできるし原本も保護できる。写譜を2部ずつ作って、1部は原本に何かあった時のための保存用に回すことにした。


 やることは多く、整理できないと清掃も十分に行えない。きれいなワンピース姿で楽器を一日中弾いていたカロリーナは、使用人たちが着るような服を着てかび臭い楽器庫で埃にまみれながら作業をするようになった。アントニオとニコロは休みの日くらいきれいな格好をしろと言ってくれたが、クリツィアの声は違った。


「まるで使用人というか、ネズミというか……汚らしいわ」


 最初にそう言われた時、カロリーナは何を言われたのか分からずにぽかんとした。次いで、母はやはり自分のことが気に入らないのだと気づいて、うつむいた。


「そのままの格好で邸の中をうろつかないで。お客様や弟子にも示しがつかないわ」


 その一言で、カロリーナは家族と食事を囲むことをやめた。アントニオとニコロは構うことはないと言ったが、「お母さんが食事の時に不愉快になるのは辛いから」と言い張り、食事を一人で取るようになった。コミュニケーションが少なくなるにつれ、カロリーナとクリツィアの断絶は大きくなっていった。寂しかったが、カロリーナはクリツィアのために我慢することにした。だが、ニコロはそうは思わなかったらしい。


「カロリーナが我慢することはない」


 ニコロはいつも楽器庫で怒っていた。


「お兄ちゃんが味方でいてくれれば、私は何にも怖くないよ」

「母さんには、できるだけ演奏旅行に行ってもらうようにしよう。旅行大好きな人だから、きっとその方が母さんも楽しいさ。それにね、母さんに新しい弟子が来るらしいよ」

「新しい弟子?」

「うん、カロリーナと同じ年の子らしい。詳しい話は聞いていないんだけど、遠い町から来るようでね、通えないからうちの邸で一緒に生活することになるって聞いた」


 実は、カロリーナが演奏家としての道を諦めてすぐの頃、クリツィアは新しい弟子の受け入れを打診されていた。


「グラツィアーナはピアノの演奏技術に優れておりますが、これ以上は私では教えられません。今後の指導をマダム・ガイヤルドにお願いしたいのですが」


 それは、かつてガイヤルド家でピアノを学び、演奏家よりも指導者に適性があると判断されて地元に帰ってピアノの教師をしていた者からの紹介状だった。クリツィアは演奏を聴いてから決めることにして、グラツィアーナを呼び出した。グラツィアーナというその娘はカロリーナと同じ年齢なのに、華やかで美しく、自信に満ちあふれていた。


「何か弾いてご覧なさい」


 クリツィアに言われた弾き始めたグラツィアーナの演奏に、クリツィアは耳を疑った。


 13歳で、ここまでの難曲を弾きこなせるのか?


 素早い指の動きは軽やかだった。大きく指を広げなければ届かない音にもしっかりと指が届く。緩急を付けたその演奏に、クリツィアは希望を見いだした。


 この娘を一流のピアニストにできれば、カロリーナという「失敗」を挽回できるのではないか。


 クリツィアはグラツィアーナを引き受けることにした。未成年の娘を住み込みで引き受けるということもあり、グラツィアーナの親とも話し合いをしたり引っ越しの準備をしたりして、ようやく来月、グラツィアーナがやってくることになったのだとニコロは教えてくれた。


「ただね、ちょっと自信過剰っていうか、『私はすごいのよ』ってオーラ全開で、どうにも僕は苦手だな」

「会ったの?」

「挨拶だけ。でも、あの目は怖かった。とてもじゃないけど、13歳の女の子の目じゃない。僕を獲物みたいにみるから、怖くなったよ」

「え……」


 それはもしかして、ニコロがグラツィアーナの恋のターゲットになったということではないだろうか。


「お兄ちゃん、もしかして一目惚れされたんじゃない?」

「ええっ、嫌だ。あんな押せ押せの女の子、タイプじゃない」

「でも、お母さんは気に入ったのよね?」

「ああ……なんか嫌だな。カロリーナも気を付けるんだよ。何かされたり言われたりしたら、すぐに言うこと。いいね?」

「うん、約束する」


 兄の話から逆算すると、クリツィアの態度が冷たくなったのはグラツィアーナというその娘との面会の後ということになる。邪険にするほどカロリーナの存在が疎ましく感じられるのだとしたら、母親との関係改善のは難しいかもしれないと思った。だが、カロリーナは心に決めた。


 私が頑張っていれば、きっとお母さんも認めてくれるはず。だから、自分にできることを精一杯やろう、と。


 1ヶ月後、まるで輿入れのように沢山の荷物を馬車に積んでグラツィアーナがやってきた。クリツィアはグラツィアーナの指導にのめり込んだ。教えたことをどんどん吸収していく。教えていて、こんなに楽しいと感じたのは初めてだ。

 

 クリツィアはカロリーナに接するより遙かに長い時間をグラツィアーナと過ごすようになった。初めはお茶に付き合う程度だったのが、ちょっとした手伝いを頼んだり買い物に同行したりするようになり、気づけばクリツィアの演奏旅行には必ずグラツィアーナがついて行くようになっていた。そして、行く先々でグラツィアーナを「将来有望な美少女ピアニストの卵」であると紹介し、まもなく演奏会デビューさせるのでその時はよろしくと告げて回った。


 アントニオとニコロはそれとなくクリツィアに注意した。だが、クリツィアは聞かなかった。


「可愛い優秀な弟子を優先して何が悪いの?」

「音楽家、指導者としてはグラツィアーナが一番でもいい。だが、お前の娘はカロリーナだ。カロリーナを粗略に扱うようなことをするな」

「ですが、カロリーナでは私の演奏のサポートはできないのよ? 音響チェックのためにコンサートピアノで私が演奏する予定の曲を弾いてくれるのは、グラツィアーナなの。それに、コンサートのための衣装を誂えるのにグラツィアーナは的確なアドバイスをくれるけれど、カロリーナは『お母さんなら何でも似合うわ』としか言ってくれない。何にも役に立たないから、連れて行けないわ」

「クリツィア! なんてことを言うんだ!」

「だって、グラツィアーナと一緒にいると楽しいんだもの」


 夕食の時間に食堂を通りかかったカロリーナは家族が言い争う声を聞いた。


 家族が楽しく夕食をとれるようにと考えて、カロリーナは一人で食事をするようにしたのに。


 立ちすくんでいると、食堂の扉が開いた。グラツィアーナが「あら」と言った。


「カロリーナのせいで、食事の時間が台無しよ。謝ってちょうだい?」


 何の気なしに食堂を覗いたカロリーナは、動けなくなった。本来カロリーナが座るべき席に、料理が置かれている。グラツィアーナがカロリーナの席に座って家族の一員として食事をしているなんて、カロリーナは知らなかった。目が合ったアントニオが急いで廊下に出てきて、うなだれているカロリーナの頭を撫でた。


「カロリーナ?」


 カロリーナはなんとか顔を上げると、アントニオに微笑みながら言った。


「私といるよりグラツィアーナと一緒にいた方が、お母さんにとっていい時間が過ごせるなら……私ではお母さんに迷惑を掛けるばかりだから」

「そんなことはないよ、カロリーナ。私がお母さんに言っているのは、優先順位を間違えていないかってことだ。カロリーナが話しかけたって、最近のお母さんは無視するじゃないか」


 そうなのだ。用事があってクリツィアに話しかけても、クリツィアはちらとカロリーナを見るだけで聞こえないふりをするようになってどのくらい経つだろう。そして傷ついたカロリーナの顔を見てから、グラツィアーナと楽しそうに話を始めるのだ。グラツィアーナに誕生日プレゼントを買っても、今年のカロリーナの分は用意するのを忘れたと悪びれることなく告げられた。それも、家族一同で祝うカロリーナの誕生会の場で。


 その時もアントニオとニコロは怒ってくれたが、クリツィアは「仕方ないじゃない」の一点張りだった。


 その時から気づいていたのだ……母の愛は、優秀な弟子が独占していることを。それでも、カロリーナはクリツィアが笑っていてくれるのならそれで良かった。自分にはできないことを、グラツィアーナがしてくれているのだから感謝しなければと思っている。


「お父さん、お母さんを叱らないで」

「……」


 黙ってしまったアントニオの横を通って、グラツィアーナはクリツィアの隣の席に戻った。


「はやくいただきましょ?」

「ええ、そうね」


 ニコロが苦々しい顔でクリツィアとグラツィアーナがキャッキャと行儀悪く大声で話しながら食事を勧めるのを見ている。父の背を押して食堂に押し込むと、カロリーナは食堂の戸を、音を立てぬようにそっと閉めた。階段にまで、クリツィアとグラツィアーナの笑い声が響いていた。ぽたりと足下に水が落ちたのに気づいて、カロリーナは慌てた。気づかぬ間にカロリーナは泣いていたらしい。


 母親の期待に応えられなかった実の娘と、師匠の期待にどこまでも応える優秀な弟子。

 並の容姿の実の娘と華やかで美しい容姿の弟子。

 

 実の母が、娘よりも赤の他人の弟子を選ぶというのは不誠実だと思う人も多いだろう。だが、ガイヤルド家は家族関係と職業ががっちりと結びついた、貴族や封建時代のような家族だ。子どもの評価は職業上の評価に直結するのだから、ピアニストとして、あるいはピアノ指導者としての自分の評価を上げるために、クリツィアがグラツィアーナを選ぶのは理解できるし、しなければならないと思う。


 母親(クリツィア)が「(カロリーナ)」ではなく「弟子(グラツィアーナ)」を選んでもカロリーナがいじけずに済んだのは、アントニオとニコロが全面的にカロリーナに寄り添ってくれているからだ。父と兄の存在に、カロリーナは感謝した。そして、母との関係改善は、「音楽」というものが無くならない限り望めないのだと理解した。


読んでくださってありがとうございました。

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