招かれざる客
王宮から退出する日、つまり決行当日の午後、アンヌが王妃様にご挨拶を済ませ、部屋に戻ると、マーサと数人の使用人が、たっぷりのお湯と、香りの良い石鹸と、香油とふわふわのタオルを山盛りにして待っていた。
「アンヌ様、今からお支度致しますので、まず、腹ごしらえなさってください」
肉汁をたっぷり掛けたチキンのガレットとグリルトマト、それとシードルが目の前にセットされた。
さすが王宮の料理は超一流だ。特にデザートはなんというか、絶品なのだ。
アンヌはデザートのいちごソルベと、バニラアイスの上に乗った飴のドームを崩しながら、満足そうに言う。
「さすが王宮のシェフね。離れ難くなってしまうわ。あ、そうだわ。ヘレン様が髪飾りをくださったの。これを付けたいので、よろしくね」
「まあ、素敵な髪飾りですね。お任せください、うまく編み込んでみます」
ドレスにブラシをかけたり、アクセサリーを並べたりと細々と動きながらマーサが言った。
マーサはこの十日間で以前の闊達な雰囲気を取り戻していた。
彼女もずっと、ひどい重圧に押しつぶされていたのだ。少し気持ちのゆとりが出来て、やっとそのことに思い当たった。
今までアンヌは自分のことしか考えていなかったと気付き、マーサにもビクターにも申し訳なく思うのだった。
それから二時間近くかけて体の隅々まで磨き上げられ、ドレスを着付ける頃にはすっかり疲れていたが、それでも仕上がった姿は、疲れを吹き飛ばすものだった。
「お綺麗です」
「本当に素敵です。
最後に髪飾りを髪に編み込んで、ヘアセットしますね。
濃紺の太幅のベルベットに、色とりどりの花の刺繍と、真珠がちりばめられている、豪華なのものなので、結い上げてリボンを留め付けていきましょうか。亜麻色の髪に良く映えますね」
髪飾りを付け終わると、ドレスとセットだったかのように、全体の完成度が増し、華やかな装いになった。
全員が微笑みを浮かべ、この午後の仕事に満足したのだった。
身の回りの手荷物を持って、侍女のマーサと二人で馬車に乗り、王宮から出た。
護衛の騎士が二人騎馬で従う。
薬が仕込まれたチョコレートの箱は、昨夜のうちにアンヌ宛に届けられたものだ。
以前に打ち合わせた予定通りに、事が進んでいる証拠だった。
添えられたカードには、『 あなたの幸せを願うものより 』という署名と、上半分がハートよと書かれていた。
あの占い師は、アンヌの状況を許せないのでお手伝いしたいと言い、占いを通じての人脈を、アンヌのために使ってくれた。
王宮に上がることになったのは偶然だろうか。
その後アンヌ宛に手紙が届き、ヘレン様を占うために王宮へ行くので、その時に話がしたいと書かれていた。
彼女の計画には驚いたが、それくらいの事をすれば、自分の気持ちにも線が引けそうな気がした。
彼女に言い聞かされたことは、とにかく侯爵邸に逃げ込み、卒倒して寝込んだことにして、絶対に侯爵邸から出ない、チャールズにも面会を許さない事。
全てが片付いたらチョコレートを贈るから、チョコレートを受け取ったら、占い師のことを忘れる事。自分もアンヌ嬢と出会ったことも、聞いた内容も忘れるから、と言ってくれた。
これが自分を救ってくれる最後の頼みの綱なのだ。
チョコレートの箱だけをポーチに入れて、しっかりと握りしめた。
大して走らない内に、急に馬車が停まった。
予定の襲撃には少し早いので、侍女と顔を見合わせているとチャールズの声が聞こえてきた。
妹を迎えに来たと話している。伯爵家の嫡男として、王宮関係者にも顔が知られているため、護衛の騎士2人は、ごく当たり前に、その話を受け入れているようだ。屋敷に着くまで同行すると言っている。
「まずは、妹に挨拶させてもらっていいか」
「どうぞ。手短にお願いします」
この十日間、兄の束縛を逃れて、のびのびと暮らしていたせいで、拒絶感が増大しているのに気付いた。手が震えている。
扉をノックする音がしたが体が動かない。
「お嬢様、お断りしてきますので、ドアを開けずにお待ちください」
そう言うと、マーサが反対側の扉から出ていった。
少しご気分が悪いようなので、このまま先を急いで欲しいとおっしゃっています、と皆に伝えている。
「では、せめてカーテンを開けて姿を見せてくれないか」
それまで拒否するのは不自然すぎるため、カーテンを開けて会釈した。
磨いて着飾った今日のアンヌはいつも以上に美しい。
護衛の二人の騎士が目を見張り、チャールズは眉間にシワを寄せた。
アンヌはゾッとしながらカーテンを閉め、チョコレートの入ったポーチを握りしめた。
このまま付いてこられたら、家に連れ戻されてしまうかもしれない。きれいな紙で包まれた甘い匂いのする箱を、お守りのように手のひらで包み込み、神に祈った。
アンヌの手にそっと手を重ね、
「お嬢様、箱が潰れてしまいます。少し力を抜いてください。大丈夫、きっとうまくいきます」
マーサが声を掛けてくれたが、血の気が引いて本当に気分が悪くなっていた。