009 コリン・ウィンドリア
発情したヨシュア殿下のせいで、独身の男女にあるまじき距離に置かれた。その上、媚薬を飲ませた犯人だと、あらぬ嫌疑をかけられたのち、近衛騎士に手首に縄をぐるぐる巻かれた。
そんな不幸に見舞われた私だったが、突然手狭な我が家を訪問したヨシュア殿下に、どうしても謝罪したいと懇願された。
その結果、私はベルヴェデーレのアポロン像をみんなで愛でる権利を勝ち取った。
そして、王城の中庭で行われる写生大会を無事迎えている。
青空が広がり、穏やかな風が私たちを包み込む中、私たちは庭園の奥にそびえる、白い大理石の彫像、ベルヴェデーレのアポロン像の周囲に、嬉々として陣取っていた。
東屋のような屋根のある場所に設置された、ベルヴェデーレのアポロン像。
女子生徒を魅了して止まない、東屋の中央に立つアポロン像の周りには、クラスメイト達が、各々ベストポジションだと思う位置に腰掛け、麗しの彼を夢中になってスケッチしている。
中庭の奥にある小さな噴水から響く水の音が心地よい。そして同じ音を繰り返す、水音と共に私の耳に飛び込むのは、落ち着いた低い声。
「ここの部分は、アポロン像に見られる、表面の凹凸をもう少し、観察した方がいいかもね」
私の左斜めに陣取るリリアに、的確なアドバイスするのは、長い黒髪を持ち、深みのあるグレーの瞳が特徴的な美しい青年だ。
彼の名はコリン・ウィンドリア。年齢は二十六歳だった気がする。
そんな彼は、現在わが国の美術界を何かと騒がせている若手を代表する画家だ。
そもそもコリン様がその名を世間に知らしめるきっかけとなったのは、「森の奥深く、そして深く」という、深緑を基調とした中に、一人の少女が描かれた、油絵の作品。
森の中に佇む少女を描いた作品は、静けさと神秘さ。それから寂しさと、全体的に仄暗さを感じさせるような少し不気味なもの。しかし、深緑を基調とした作品全体の暗さが、人間の孤独感を実によく表現していると世間で評判になった。
その結果、今や美術界のみならず世界中の人々を魅了する彼の代表作となっている。
そしてコリン・ウィンドリアという画家が、何かと世間を騒がせているのは、その美しい容姿と、奔放な女性遍歴のせいでもある。
スラリとした長身で、血管が透き通るほど白い肌。鼻は高く通っており、細めの唇が上品な印象を与える。彼の目は深みのある青で、瞳孔にはまるで光が宿っているよう。どこか鋭い印象もありつつ、同時に優しさも感じる魅力的な瞳だ。
全体的に中性的な美しさを持つコリンは、多くのパトロンを持つことでも有名で、彼を奪い合った末に夫婦で殺傷事件が起きたほど。
老若男女を虜にする、大変危険な男性だと巷ではもっぱらの噂。
しかし彼の作品に、そして容姿に雰囲気に。コリン・ウィンドリアという青年に魅了される者が多いのも事実だ。
「みんなも、立体感を緻密に再現する事を心がけて描こうか」
「「「「「はい!」」」」
私たちはコリン様の声に、一斉に頬を赤らめ、元気に揃って返事をする。
「それにしてもさ、まさかコリン・ウィンドリア様が直々に教えて下さるなんて。すごくびっくりなんだけど。シャーリーはさ、今日いらっしゃるって知ってたの?」
私の隣に陣取るジュリエットが、小声で確認するように話しかけてきた。
「全然知らなかったわ。ヨシュア殿下のサプライズなのかな。びっくりだよね」
「そうなんだ。今回はシャーリーのお手柄ね」
「この身と精神力を削った甲斐はあったかも」
コソコソと会話する私のスケッチブックに黒い影が落ちる。
「お喋りさん達、進み具合はどうかな」
突然頭の上から、とても落ち着いた、コリン様の低い声が降り注ぎ、私はドキリとする。
「君は緻密な彫刻線をもう少し描き込むといいかもね。例えばここの部分」
説明しながらコリン様は、私が鉛筆を持つ手を上から覆う。
「ヒッ」
驚きで私は変な悲鳴をあげる。
まさか手袋もしていない手を、直に異性に触れられるなんて思っていなかったからだ。
「それと、これが正しい筆圧だよ」
コリンの低く優雅な声が耳元で響く。
私は驚きながらも、コリン様の手に従いなぞり始めるスケッチブックを見つめる。
コリン様の指先からは、力強さと優雅さが同居しているような感触が伝わってきた。私は自分が描いた線を、再び追いかける音を聞きながら、コリンの手を見つめる。
私の手を包む、彼の手は大きく、指は太くて堅い。手の甲には血管が青く浮き上がり、指先には小さな傷跡があった。私の視線が捉えたコリンの手は、私と違う生き物で、男性らしい力強さと精力的な生命力を感じさせた。
「こんなもんか。よく描けてる。君には才能があるよ」
コリン様と一緒に描いたスケッチは、私が今まで描いたものとは違う質感を持っていた。それは彼の影響が色濃く反映されていたからだろう。
「君の対象物の捉え方には、年頃の女の子独特な、無邪気さが残る中にも、女性らしい魅力が開花し始める初々しい感じが良く表現されているね。君の名前は?」
「わ、私は」
すっかりコリン様のペースに飲み込まれた私が、思わず本名を答えそうになったその時。
「シャーロット嬢から離れてください」
背後から聞こえた声に振り向けば、そこには王立騎士学校の生徒を示す、青い騎士服に身を包む、ヨシュア殿下がいた。
「コリン、君は兄に呼ばれていたはずだ。なぜここで油を売っているんですか。私はここへの立ち入りを君に許した覚えはない」
不機嫌さを隠さない様子で、コリン様に詰め寄るヨシュア殿下。
「ああ、そういえばヘルフリート殿下に呼び出されていたんでしたっけ。可愛らしい生徒たちと楽しい時間を過ごしていたので、すっかり忘れてました」
コリン様はヨシュア殿下の剣幕にも動じず、さらりと受け流す。
「まったく君は……。とにかく、兄上が待っているはずです。早く行った方がいいかと」
ヨシュア殿下は呆れたようにため息をつくと、視線でコリン様に退散しろと促す。
「仕方がないですね。それじゃあね、みんな」
コリン様は私たちに別れを告げる。
「シャーロット、またね」
「あ、ありがとうございました」
名指しされた私は、慌ててお礼を口にした。
「気にしないで。楽しかったから」
コリン様は優しく微笑むと、颯爽と去って行く。
「あいつはいつからここに?」
ヨシュア殿下は不機嫌そうな顔のまま、私に声をかける。
「えーと、わりと最初の方からです」
「私たちがこちらに案内されて、スケッチブックを広げた時にはいらっしゃいましたわ」
ジュリエットが私の言葉を補足する。
「本日は、このような機会をいただき、ありがとうございます。おかげでアポロン像の細部まで観察できましたし、コリン様にもご指導いただけて幸せです」
クラス代表を勤めるリリアが、ヨシュア殿下に淑女の礼をとる。それを見た私たちは慌てて立ち上がると、一斉にヨシュア殿下に向けてお辞儀する。
「そんなにかしこまらなくてもいいよ。それに、今日の事は、その、深い事情があってのことだし。と、とにかく。君たちにお茶の用意をしたんだ。一休みしたら、あちらで休んでくれていいから」
ヨシュア殿下が視線をチラリと横に向ける。
するとそこには、いつの間にか三角の白いテントの下にテーブルが置かれており、ティーセットやお菓子が並べられていた。
「では、お言葉に甘えて」
リリアは笑顔で答えると、クラスメイト達の方に振り返り、休憩しようと声をかける。
「殿下、今日はありがとうございました」
私は改めて礼を言う。するとヨシュア殿下は困ったような表情を私に向けた。
「感謝されると調子が狂う。そもそも僕が悪かったわけだし。だから気にしないでくれると有難いんだけど」
ヨシュア殿下はボソリと呟くと、黒い騎士服を着た近衛達と逃げるようにその場を去っていく。
何だかあそこまで気にされると、逆に悪い気がしてくる。
「そっちこそ、気にしないでいいのに」
一人呟くと、私は他の生徒達と共に白いテントに向かうのであった。