043 満月の夜はアトリエで2
コリン様は私が殿下のツガイだから、絵描きとしての未来が絶たれると発言した。
けれど私はそうは思わない。なぜなら、ヨシュア殿下は私が絵を描くことをバックアップしてくれると口にしていたことがあるからだ。
現にウルトラマリンブルーの絵の具だってたくさん買ってくれると言っていたし、彼の裸だって、いつでも好きな時に見放題だと約束してくれた……ような気がする。
とにかく私は、殿下と結婚する事になっても絵を描く事はやめたくないし、やめないつもりだ。
だからこそ、コリン様が私の絵描きとしての未来をないものとして語る雰囲気が、物凄く気になる。
私はジッとコリン様を見つめる。すると彼は居心地の悪そうな表情をこちらに向けた。
そんな表情を返されると、まるで私が彼をいじめているような気分になる。もちろんそんなつもりはない。
ただ、コリン様が発した言葉が、自分の未来に物凄く大事な事のような気がして気になってしまうだけだ。
するとコリン様は観念したように「こんな事言いたくはないんだが」という前置きをした後、ゆっくりと口を開いた。
「今後君の絵が人々の目に晒された場合、世間の多くは、ヨシュア殿下のツガイが描いた作品だと、先入観を持ってしまう。そうなると、君個人が何を考え、悩み、表現しようとしているのか。作品に込められた本質に「殿下のツガイ」というフィルターがかかってしまう事になると思うんだ」
「それは」
確かにそうかも知れない。
「そもそも王族の人間となった君が、反社会的な作品を描く事は難しくなる。賛否両論別れるような、私が描く「死」というテーマについても無理だろうな。となると、君がこれから描く事が出来るのは、この世界の上澄みだけをすくい、幸せに満ちたように見える偽りの世界のみ。殿下のツガイという枷を背負った作品だけをキャンバスに描く事を余儀なくされる。私にはそれが残念でたまらない、そう思うんだ」
私は一気にどんよりとした気持ちに襲われる。
コリン様に指摘されるまで、気付くことがなかった考えだ。けれど言われてみれば、なんだかそんな未来が見えてきた。
確かに妃殿下となる者が、貧困にあえぐ、肋骨が浮き出て、虚な目で世界を見据えた子どもを描く事は色々な憶測を生みかねない。
今はまだ世の中に出たばかりの私には、見えていない世界がいっぱいある。
でもこれから歳を重ねるごとに感じる思いや、見つめる先は変化する。そしてそこから感じたものにインスピレーションを受け、良くも悪くも私が描きたいと願う事は確実だろう。
今までは好きな題材を選べた。けれど、今後は何があっても幸せ溢れる風景しか描けない。
そんな状況で、果たして私が絵を描く意味があるのだろうか。
私は新たな悩みに直面し戸惑う。
「画家というものは、思うままに作品に向き合うべきなんだ。描きたいものを描く。それが私たちをキャンバスに向かわせる原動力だ」
コリン様はそこで一呼吸おくと、私の顔を真っ直ぐ見つめ続ける。
「だからこそ、人に良くも悪くも刺激を与える事ができる作品が生まれる。これは私の勘だけど、君なら人間が内側に抱える隠したいような部分だって、うまく表現の一部に組み込めるはずだよ」
まるで全てを見透かしたような言葉に私は、何も言えず黙ってコリン様の瞳を見つめ返すことしか出来ない。
すると、彼は少し困ったような顔をして、「すまない」と謝ってきた。
「説教臭いことを言っちゃったね」
「い、いえ」
「けれどどうしても伝えたくて」
外の喧騒が響くアトリエの中、コリン様は私をジッと見つめる。
「私なら」
短く言葉を吐き出した彼は、こちらに向かってゆっくりと手を伸ばした。
「この痣を消してあげられるけど」
「え」
驚く私の首元の痣に、コリン様はそっと指で触れてきた。先程触れられた時と同じように、私はびくりと体を揺らす。
「どうする?」
私から目を離す事なく、彼が小さく首を傾げた。
「そ、そんなこと出来るんですか?」
「もちろん」
戸惑う私を置き去りに、彼は優しく微笑む。
そんな魔法みたいなことがあるなんて、にわかには信じられない。しかし、冗談を言っているようには見えないコリン様を前に私の心は揺れ動く。
「ど、どうすれば良いのでしょうか」
思わず質問してしまう。
私を取り巻く現状の先には、絵を描く題材を制限される未来が広がっている。今後ヨシュア殿下のツガイという肩書きを背負ってでしか、絵を描けない暗い未来だ。
でも、もしこの痣が消えてくれたら。
そうしたら私は自由になれるのだろうか。
そんな思いが頭をよぎったからだ。
「消えて欲しい?」
優しく微笑むコリン様は、まるで悪魔のように美しい。
だからうっかり魅惑的な、けれど絶対に正しくない提案に頷きそうになる。
「それとも、消したくない?」
その言葉と同時にコリン様の手は私の首元に沿って上に移動し、彼の指先は優しく私の頬の輪郭をなぞりはじめる。
それは、適切な距離を解除された夫婦同士にだけ許されること。つまり未婚である自分はそんな事をされたのが始めてで、私の思考は恥ずかしさとむず痒さのあまり混乱を極めた。
「どう、なんでしょうか」
自分でも曖昧すぎて良くわからないけれど、何とか言葉を発する事に成功する。
消えたくないと言えば嘘になる。けれど、どうしても消して欲しいかと言えば、よく分からない。
そもそもこの痣が目に入る度にヨシュア殿下の事を思い出してしまうのは事実で、彼の苦しみを思うとやっぱり少し胸が痛むし苦しい。
そんな私の葛藤に気付いたのだろうか、彼は優しく微笑むとそのまま耳元に口を近付ける。そして小さく囁くように私に告げた。
「もしツガイの証を消して欲しいなら、代わりに君を貰えるかな?」
「え」
あまりに突拍子もない発言に、私の思考回路が一瞬停止する。
けれど次の瞬間にはもう彼は私から離れており、「冗談だよ」と笑い出した。
そして何事もなかったかのように椅子に戻り腰を下ろすと、再びスケッチブックに向かい始めてしまう。
そんなコリン様を見て私はようやく我に返る。しかしすぐに顔が一気に熱をもっていることに気付く。きっと今の私の顔は、熟れすぎたりんごのように真っ赤なはずだ。
「じょ、冗談なんですか?」
動揺する私に、コリン様は「そう」とだけ。あまりにそっけなく返す。
「で、ですよね」
一体私は何に動揺しているんだろう。
落ち着け私。冷静になるんだ私。
懸命に自分に言い聞かせるも、ドキドキする気持ちは一向に収まらない。
「実のところ、本当は君の首にキスマークでもつけて、消したよって誤魔化そうとしてた。ごめんね」
「キ、キ……」
キ、キスマーク。
そのあまりにみだらな単語に私の思考は爆発しかけた。
「私に靡かないなんて、流石に伯爵家のご令嬢だ、と褒めたいところだけれど。お陰で私の自尊心は、まるでボロ布のように成り果てた。しばらくは女性をベッドに誘う事を躊躇しそうな気がする」
言葉とは裏腹に、爽やかに微笑むコリン様。
「す、すみませんでした」
「つくづく残念だな。明日は君を横にして同じベッドで朝を迎える事が出来ると、それなりに期待していたのに」
「…………」
頭の中にコリン様と私が同じベッドで横になる、それはもう口に出せないくらい破廉恥で大人な情景を思い浮かべてしまい、私はもうこのまま死ぬんじゃないかとさえ思った。
「動揺する君の顔をしっかりスケッチしておかなければいけないみたいだ」
あっけらかんと笑いながらコリン様は私を見た。その瞬間、私はからかわれていたのだとようやく悟る。
「こ、今年社交界にデビューしたばかりなので、そういうのにはまだ疎い事は認めますけれど、これからだ、男女の駆け引きだってしっかり学ぶつもりですので」
何だか子ども扱いされたような気がした私は、慌てて負け惜しみのような事を口にする。
「それはとても楽しみではあるけれど、私の自殺願望もここまでだ。流石にヨシュア殿下に殺されたくはないからね」
それは……確かにその通りだと思った私は、大きく頷く。
「今は一方的で重たく感じるかも知れないけれど、君もすぐに殿下の気持ちが理解出来るようになるはずだ。結局のところその痣があるという事は君は殿下のツガイなのだから」
「そうですね」
「前向きに助言するとすれば、そうだな。君は恋をして、そこから生じる感情により、明るく色鮮やかなで、情熱的な筆致が感じられる作品が生まれるかも知れない。その逆もしかりだけれど」
「できれば、楽しくありたいです」
私の率直な感想にコリン様はクスリと微笑む。
「初めて知る感情からインスピレーションを受け、もっと意欲的に絵画制作に取り組めるようになるかも知れない。だから、悩む事は悪いことばかりじゃないさ」
「だといいんですけど」
そんな私を見てコリン様は嬉しそうに笑った。
「君に会えなくなるのは残念だけれど、有意義な時間をありがとう」
コリン様の明るい笑顔に胸が高鳴るのを感じた。そして同時に思う。
私をからかいつつも、最後はきちんと励まして終わる事ができるコリン様は、やっぱりヨシュア殿下とは全然違って、大人だな、と。
そして私は、そんな彼を素敵に感じ、心が惹かれている。
その事をはっきりと自覚してしまうのであった。




