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短編集

鬼灯

作者: さばみそに

 ひどい熱が、内側からわたしを食らおうとしている。

 体を襲うその熱のせいでむしろ頭が冴えて、聴覚が敏感になっていたのだろう。障子の外に下がるほおずきの実が風に吹かれてからからと擦り合う音がやけに耳についた。

 わたしはただひたすら熱に耐えるため、この狭い座敷の中で固く目を閉じ、横たわって胎児のように体を丸めると、己の体をぎゅうと抱いた。



「かわいそうに」



 しばらくそうしていると、かすかにそんな声が聞こえた。けれど熱に耐えることに必死で、目を開けられない。

 頬に、なにか触れた。それから唇に。すっかり乾いて固くなった表面を撫でるのは、誰かの、指のようだった。指は唇を何度かなぞると、下唇をべろとめくる。そうしてしばらく感触を楽しむかのようにもてあそんでいたが、ついに指は唇をもう一度なぞってから離れていった。

 それから、頬にまた何か触れる。じとりと汗をかいた頬に吸い付いたものは冷たくて、やわらかくて、どうやら手のひらのようだった。

 手のひらはわたしの顔を少し動かして離れたかと思うと、すぐに戻ってきて、指で頬をつついた。それから唇に触れる。先ほどと同じように乾いた表面を撫でて、下唇をめくり、二、三度つまんでもてあそぶと、上下の歯をこじ開けて口の中に侵入した。指が下の歯を押さえつけ、下へ引っ張るとわたしの口が開く。

 そして、口がふさがれた。唇をふさいだのは、同じ唇らしいと気が付くのと同時に、なにか、水のようなものが口の中へ流れ込んできた。

 顎のあたりに手が触れて、わたしの口を閉じながら唇が離れていく。



「飲んで、熱が下がるから」



 不思議な声だった。

 頭の中を優しく揺らすような、少し、低い声。その声に従うように、口の中のものをごくんと飲み下した。のどをすうと降りていく感覚がよくわかる。

 すると、わたしを食らおうとしていた熱が少しずつ引いていき、やがて、すっかり生ぬるいものに変わってしまった。

 体を抱え込んでいた腕に手が触れる。腕からはもう力が抜けていたから、簡単にほどかれた。それから優しく体を転がされて仰向けになると、体になにか布のようなものが掛けられたのがわかった。

 手がまた頬に触れて、もう一度声がする。



「さ、眠りに落ちるまで傍にいるから、おやすみ」



 手が、額に触れた。そして頬、耳、首に。手は最後に胸元に触れると、一定の間隔で優しく叩き始めた。それが心地よく感じて、頭が、ふわりと浮きあがって、また沈んだ。それは眠りに落ちていく感覚だと知っている。

 そういえば、いつのまにかほおずきの擦り合う音が聞こえなくなっている。風が、やんだのだろうか。そもそも風は吹いていただろうか。

 そもそも、どうしてあの音がほおずきの擦り合う音だと思ったのだろう。障子の外のことを、わたしは、知っていただろうか。

 様々なことが頭に浮かんでは消えていく。そのうちに意識はもうすっかり深い地の底へたどり着こうとしていた。

 ああ、もう、たどり着く。









 目が覚めたときに見えたのは、見慣れた、しみのついた天井だった。

 不思議な夢を見た。頬に、唇に、触れられた感覚が思い出せる。



「おはよう」



 突然聞こえた声に体が震えた。体を起こして声のした方へ顔を向けると、そこには橙色の羽織がまぶしい、人の形をした存在がいた。



「といっても、もう日はだいぶ高いけれどね」



 閉め切られた障子の傍に座るそれはそう言って笑った。まだ、夢を見ているのだろうか。



「熱は下がった?」



 それにそう言われ、やっと体を襲う熱がなくなっていることに気が付いた。

 ――飲んで、熱が下がるから。

 夢の中で言われた言葉を思い出す。やはり、まだ夢を見ているのだろう。随分と長い夢だ。

 それが立ちあがり、こちらに歩いてきて傍に座った。



「退屈しているだろう? 囲碁の真似事でもしないかい?」



 それは着物の袖から、ころころと、何かを出した。固い殻に包まれたものが畳の上に落ちてぱたぱたと音を立てる。落ちたものはふた種類の木の実のようだ。小さな岩に見えるほうはくるみで、くりの実に似た、つるりとしたほうはとちの実だった。それから、懐から細い、針のようなものを取り出す。松葉だ。それは松葉を畳の上に並べて四角を作り、くるみを選んでつまむと四角の中に置いた。



「あなたの番だよ」



 それがわたしの手に実を握らせてくる。つるりとした手触りはとちの実だった。

 囲碁。囲碁とは、どんな遊びだっただろうか。たしか、陣地をとる遊びだったはずだ。それが置いたくるみの傍に、握らされたとちの実を置いてみる。次の手で、それはまるで遠いところにくるみを置いた。

 真似事、と言った通り、囲碁の真似事は遊び方も、勝敗も定まらないものだった。

 ただ松葉で作った四角の中に、くるみととちの実を交互に置いていくだけのことだ。四角の中がふたつの木の実で埋まれば、それが、勝ちと言ったり、負けと言ったり、引き分けと言ったりする。そうしてまた四角の中を空にして、くるみととちの実を交互に置いていくのだ。

 けれど不思議なことに、たったそれだけのことを飽きることなく何度も繰り返した。



「ああ、もう、暗くなってしまったね」



 やがて障子の外が暗くなり、灯りのないこの座敷も暗くなる。



「それじゃあ、また明日にしようか」



 それは松葉と木の実をまた着物にしまうと、わたしに横になるように言った。それの声は、低くて、頭の中を揺らして、素直に従ってしまう力がある。

 それが橙色の羽織を脱いで、わたしの体に掛けた。羽織越しに胸元へ触れた手が、一定の感覚で優しく叩き始める。



「眠りに落ちるまで傍に居るから、おやすみ」



 眠る? これは、夢ではなかったのだろうか。いや、夢の中でだって眠ることはあるだろう。けれど夢の中で眠れば、次に目を覚ましたときに、夢は終わってしまう。

 胸を優しく叩く一定の感覚が心地よくて、頭がふわりと浮いて、沈む。眠りに落ちる感覚だ。

 夢が、終わる。

 ふわりと浮いて、沈む頭の片隅で、この夢が終わらなければいいのに、と思ったような気がした。



 はたしてそのせいだったのか。

 不可解なことに、この長い夢はなかなか終わることがなかった。


 何度寝たと思って、目を覚ましても、それは、そこにいるのだ。そして「おはよう」と言って囲碁の真似事に誘う。それと囲碁の真似事をしていると時間が早く過ぎていくようだった。あっという間に手元が見えない暗さになって、それが橙色の羽織を掛けて寝かしつけてくる。

 そして眠ったと思って、目を覚ませば、それはそこにいて、穏やかに「おはよう」と声をかけるのだ。

 そうなると、次第に感覚というものは麻痺していく。

 夢なのか、現実なのかというのはまるでわからなくなって、やがて考えることを諦めるほうへと導かれる。

 ただ、目が覚めればそれがいて、明るいうちは囲碁の真似事をして遊び、暗くなったらそれの手によって寝かしつけられる。それだけのことなのだ、と。

 そして、この夢が終われば、それがいなくなるだけ。

 たったそれだけのことだ。

 けれど、できることなら、なるべくこの夢が長く続けばいい。

 ふわりと浮いて、沈む頭で、わたしは毎晩そんなことを思いながら意識を手放した。







 これが夢だとしたらおかしな話なのだが、その日、わたしは夢をみた。


 神社の参道を、幼い子どもが父親らしい男性に手を引かれて歩いていく。狭い参道は人で賑わっていて、どうやら、四万六千日のようだ。両端に並ぶ屋台には鮮やかな橙色が並び、店主と客の間で盛んに取引されていた。鉢に植わったり吊り下げられているその橙色のものは、ほおずきだ。

 子どもは羨ましそうに見ているが、父が手を引くので、通り過ぎていくだけだった。

 お参りをして、参道へ戻ってきたころには屋台に残る橙色は数えるほどになっていた。子どもが父親にねだって、今度こそ、一鉢のほおずきを買ってもらった。子どもは嬉しそうにほおずきの鉢を抱えたけれど、父親の手を掴めないことに気が付くと、途端に泣きそうな顔になる。見かねた父親が子どもの手からほおずきの鉢を預かり、片手で抱えて、子どもの手を取った。子どもが、とても嬉しそうに笑う。


 ああそうだ、これは、幼いころのこと。

 確かにあった、けれど、思い出したとしても空しいだけの過去の時間だ。これ以上見たくはないのに、わたしの意志とは関係なく、過去の時間は流れていく。


 家路をたどる途中、わたしと父はあるものを見つけて立ち止まった。

 散乱する割れた鉢。根をむき出しにしたほおずきが、地面に落ちていた。

 罰当たりがいるものだ、と父がつぶやく。その隣でわたしは、かわいそうと言うと、父の手を離して両手でほおずきを拾い上げた。

 手が土で汚れても、着物が土で汚れても、そして父の手が掴めなくても気にせずに、わたしはそのほおずきを抱えて家へと帰っていった。


 家に帰ると、縁側の傍に拾ったほおずきを植え付けた。縁側ではお腹の大きな女性が優しい顔でこちらを見下ろしている。母だ。大きなお腹には弟を宿している。四万六千日にお参りに行ったのは、母の安産を願うためだったのだ。

 庭に植えたほおずきは、毎日世話をするとみるみる育った。父に立ててもらった支柱を這い、すっかり屋根の上まで伸びたほおずきは立派なものだ。

 そうして育ったほおずきは不思議なことに何年も実をつけた。わたしが愛情を込めて世話をしているからだ、と褒められると、その気になって、ますますほおずきを大事にした。

 だから弟が勝手に実をむしったときは、ひどく怒った。弟を強く叩いて、わたしのほうが叱られた。

 叱られて泣いたわたしを、母は抱きしめた。背中を撫でて、肩をさすり、ぽんぽんと叩く。そうされるとわたしはすっかり安心して、弟に悪いことをしたなと思うのだ。

 母の肩越しには、鮮やかな橙色の実をつけた、ほおずきが見えていた。



 場面は急に暗転して、また別の過去の時間が始まった。

 子どもだったわたしは、十代の少女になって、庭のほおずきが見える座敷で母に浴衣を着つけてもらっている。夏祭りの日だ。この日は、こちらとあちらの境が曖昧になる日だった。

 いやだ、と思うが、やはりわたしの意志など関係なく、過去の時間は流れていく。

 着つけてもらった浴衣で、わたしが夏祭りに出かける。やめて、と思う気持ちは声にならず、過去のわたしには届くはずもなかった。

 夏祭りからの帰り道、一本道のはずだというのに、歩いても歩いても家へ着く気配がない。

 こわい、と、過去のわたしと気持ちが重なる。恐ろしさのあまり駆け出して、途中で転んだわたしの目の前に、その存在は現れた。

 人の形をしたその存在は、けれど、人とはまるで違う風貌をしていた。

 人と同じ数の瞳は人と同じ色には光っていなくて、すっかり乾いてこびりついた血の色をしている。人と同じ数の口から覗く歯は、すべてが糸切り歯のように鋭く尖っていた。

 そしてなにより、人にはあるはずもない、鍾乳石に似た、額から伸びる二本の角。

 恐ろしい存在が、恐怖に怯えるわたしに手を伸ばした。その腕もまた人と同じ数ではあるが、表皮は人のものとは違って、まるで赤黒い溶岩石である。逃げることができないわたしの肩を掴んだ指の数も、人と同じだけあるが、長い爪は刃物のように鋭く固いので、肌にぎりと食い込んだ。

 いつの間にか過去のわたしと、過去を見ているわたしの感覚が重なり合っていた。肩が、焼けるように熱くなる。ああ、ああ、と声にならない悲鳴がもれて、視界が暗くなった。



 過去の時間はまだ終わらないようだった。

 布団に横たわるわたしの枕元には、一人の年老いた僧侶が座っていた。わたしはこの僧侶を知っている。和尚さまだ。傍では母と、父が、苦しい顔をしていた。恐ろしいものに襲われた、すぐ後の時間だ。障子の外では、激しい雨がばたばたとほおずきの葉を打ち鳴らしていた。

 ひどく険しい表情をした和尚さまが、鬼憑きです、と告げる。

 母が泣き、父が顔を覆った。わたしは、恐ろしさに息をのみ、いやだ、と悲鳴をあげた。

 鬼憑きになった人間は、身に巣食った鬼に魂を食われ、身はやせていき、心をすり減らし、そうして、やがて死んでしまうのだ。

 その鬼憑きに、わたしが。わたしがその鬼憑きに。

 ただこわくて、たまらなくて、震える体を抱いた。けれど、この体は鬼に巣食われているのだ。そう思うと自分の体さえ恐ろしくなって触っていられず、布団を引きちぎるほどに強く掴んで、いやだ、こわいと悲鳴をあげた。そのうち悲鳴をあげるだけの息を吸い込むことができなくなり、浅い呼吸ばかり繰り返し、やがて呼吸すらできなくなってしまうと、目の前が暗くなる。



 場面が、狭い座敷になった。天井に染みがあるこの場所は、今のわたしがいる場所だ。

 けれど、畳の上に座り込んでいるのは、過去のわたしのようだった。食われるのはいやだ、と泣いている。死んでしまうのはこわい、と震えている。

 そんなことをしていてはいけない、と過去のわたしに向かって思った。和尚さまは、気を強く持ちなさい、と言った。身の内に巣食う鬼に立ち向かう心を保っていれば、望みがあります、と。だから、いやだと泣いてはいけないのだ。怖いと震えていてはいけないのだ。

 わたしがそうしていると、母が悲しむ。わたしがそうしていると、父が悲しむ。弟も悲しんで、皆を不幸にしてしまう。

 だからやめて、やめて。いやだと泣かないで。こわいと震えないで。そんなことをしていてはいけない。

 今のわたしがそう叫ぶ声は声にならず、当然、過去のわたしに届くはずはなかった。むしろ、過去のわたしがいやだと泣く声に、見ているわたしのほうが引きずり込まれていってしまう。



 ……いやだ。

 食われるのは、いやだ。

 死んでしまうのはこわい。

 ――だれか、たすけて。



 気が付けば、過去のわたしは、今のわたしになっていた。いや、違う。

 過去の時間が終わったのだ。

 なぜなら明るかった座敷は暗くなっていて、わたしは、それの腕の中で、いやだ、こわい、と泣き叫んでいたからだった。

 食われるのはいやだ、死んでしまうのはこわい、と訴える私の背中を、それの手が撫でて、肩をさすり、力強く掴む。



「食わせはしない、食わせるものか」



 それの低い声が、頭を揺らした。



「あなたを鬼になど食わせはしない、必ず、必ずあなたを救う」



 あるいはそれは、わたしが作り出した幻影だったのかもしれない。

 なぜなら、それが言ったのは、わたしが欲しかった言葉にほかならないからだった。いやだと泣いて、怖いと叫んで。

 助けて、と。

 そう言葉にしたかったわたしが欲しいと願って、でも、欲してはいけないと思っていた言葉。

 これは夢だった。それは幻影だった。

 けれど、わたしにとっては、どうしようもなく、現実でもあるのだと思った。








 わたしがそれという幻影を見たのは、眼前に迫っていた()()()()からの逃避だったのか、あるいは、すっかり受け入れるために心残りを晴らしたいためだったのかもしれない。


 ひどい息苦しさに目を覚ました。体がとても熱い。内側で何かが脈打っている。いや、何かではない、鬼だ。

 鬼が、内側からわたしを食おうとしている。

 障子の外は雨が降っているらしく、ばたばたと地を打つ音が響いていた。ごう、ごうと音がして風も吹いているようだが、ほおずきの擦り合う音は聞こえない。雨の音にかきけされてしまっているのだろうか。熱と苦しみにあえぐ中で、わたしはなぜかそんなことを考えた。

 ひどく熱い頬に、冷たいものが触れる。それの手だと思った。それという幻影は、まだ、ここにいるらしい。いったい、わたしはどれほど往生際が悪いのか。それの腕の中で泣いて、それで、すっかり心残りはなくなったと思っていたのに。

 ああ、でも、それがいてくれたら、少しだけ、怖がらずに死んでしまえるかもしれない。

 そんなことを思って冷たいそれの手にすがりつき、顔をあげたとき。

 わたしは、ひ、と息をのんだ。


 そこにいたのは、確かにそれであって、しかし、わたしの知るそれではない存在だった。

 人と同じ数の目は、熟れすぎた柿のような、黒ずんだ橙色をしていて、人と同じ数の口からは、全てが糸切り歯のように鋭く尖った歯が覗く。

 そして何より、額から伸びる、くすんだ白色の、鍾乳石に似た二本の角。

 その姿は、まさに、この身を襲った存在と同じもので。



「食わせはしない、食わせるものか。あなたを別の鬼になど、絶対に食わせはしない」



 それは幻影ではなかった。けれど、幻影であったほうがどれほどよかっただろう。それがいたら、少しだけ怖がらずに死ねるなど、どうしてそんなことを思ってしまったのか。

 鬼憑きの身に寄ってくるものは、同じ、鬼しかあり得なかったのだ。鬼憑きは鬼に食われて死ぬ。どれだけ心を保ったとしても、その他の道はない、ありはしないのだから。

 それの、浅黒い色をした、木の根のような手が伸びてきて、わたしの肩を抱いた。いやだ、こわいと思うのに、体はそれの手を跳ねのけるようには動かない。

 体が熱い。息が苦しい。視界がにじむ。



「いやだ、いやだ」



 声をふりしぼって、拒絶の意を示した。死ぬのはいやだ。鬼に食われて死ぬのは、いやだ。しかし、そうしたからといって目の前に迫る鬼が、死が、消えてしまうはずはない。

 にじむ視界の中で、それが口を開けたのが見えた。鋭く尖った糸切り歯が迫る。



「あなたを救う、絶対に」



 体に牙が食い込む感覚はわかったけれど、痛みはなく、ひどく冷たかった。

 内から鬼に食われ、また、外からも鬼に食われたのだと理解して、わたしは、生を手放した。









 目が覚めたときに見えたのは、見慣れた、しみのついた天井だった。

 目が覚めた?

 そんなことはあり得ない。わたしは、ふたつの鬼に食われて死んだのだ。あるいはここは、彼岸なのだろうか。けれど、彼岸は河原なのではなかったか? どうして、見慣れた天井を見ているのだろう。

 指がぴくりと動いて、自分の体が畳の上に横たわっているのだと気が付いた。少し腕を動かすと、手に何かが当たってかさと音が鳴る。何だろう。頭を傾けてみれば、すぐに音の正体を知った。

 そこには、外側の苞が溶けて葉脈だけが残り、中の鮮やかな橙色の実が透けて見える、ほおずきの実があったのだ。ひとつだけではない。わたしの周りを囲むように、畳の上に、いっぱい。いや、そんなものではなかった。

 わたしは体を起こして、見慣れたはずの、狭い座敷を見渡した。

 透けた葉脈の中に橙色を灯すほおずきの実が、狭い座敷の、畳の上を埋め尽くしている。

 これは、夢? 彼岸につこうとしている自分が見ている夢なのだろうか。困惑の思いに視線をさまよわせていると、わたしの目は、ぴっちりと締め切られた障子をとらえた。外と、この座敷とを隔てるもの。

 どうしてわたしは、あの障子の向こうに行こうとしなかったのだろう。

 どうしてわたしは、あの障子の向こうでほおずきが鳴っていると思ったのだろう。

 いてもたってもいられず、立ちあがって、ほおずきの実を足でかき分けながら障子の傍へ行き、勢いよく開け放った。

 光が差し込んで、視界が、白く染まる。








「姉さん!」



 視界が戻って、見えたのは、こちらを覗きこむ三つの顔。指がぴくりと動いて、自分の体が柔らかい布団の上に横たわっていることに気が付いた。



「ああ、大日如来様! 感謝します、感謝します……!」

「よかった……本当に、よかった……!」



 見上げたところに見える母が、父が、弟が、泣いている。悲しくて泣いているのではない、とわかった。でも、それなら、どうして泣いているのだろう。

 そもそも、ここはどこだろう。彼岸なのだろうか? でも、けれど、そうだとしたらなぜ弟が、父が、母がいるのか。もしかすると、まだ、夢を見ているのかもしれない。

 でも、けれど、わたしの頬を撫でるこの手の感触は、本当に、夢だろうか。夢だというなら、どうしてこんなに、温かいと感じるというのか。母が、父が、弟が、わたしの名前を呼ぶ声が、どうしてこんなに胸をしめつけるというのだろうか。

 痛い、痛い、胸が苦しい。この痛みは、はたして、夢で有り得るだろうか。

 また、別の声がわたしを呼んだ。そちらを見ると、和尚さまがいて、優しく微笑んでいる。和尚さまは「よく頑張りましたね」と言った。



「あなたは、鬼に勝った、打ち勝ったのですよ」



 打ち勝った? あんなに、いやだと泣いて、怖いと叫んだわたしが、本当に打ち勝ったのだろうか。

 そう思ったとき、手の中で何かがかさりと音をたてた。見れば、手のひらの中には、鮮やかな橙色をしたほおずきの実が握られていた。弟がばつが悪そうに頭をかく。



「姉さんに持たせてあげたいと思ったんだ、勝手にむしってしまったことは、その、ごめんなさい」



 弟の言い分は耳を通り抜けていく。わたしはただ、手のひらの上にあるほおずきの実だけをじっと見つめた。

 鮮やかな、橙色をした羽織が目の裏に浮かび上がる。いや、違う。浮かび上がるのは、優しく笑う、それの姿だ。

 目を覚ましたわたしに、おはようと言う姿。着物の袖からくるみと、とちの実を出して、囲碁の真似事に誘う姿。


 そして、わたしを鬼に食わせるものかと言う姿。必ず、救うと言ったその姿。


 頭が冴えた心地になって、しかし、すぐに押し寄せる感情でいっぱいになった。

 わたしが打ち勝ったのではない。弱いわたしが、打ち勝ったはずがない。

 どうしてわたしは、あの瞬間、それを恐ろしがってしまったのだろう。それは、言ったではないか。食わせるものか、と。必ず救う、と。

 それは幻影ではなかった。まして、恐ろしいものではなかったのだ。

 それは。彼は。ほおずきは。


 手の中のほおずきの実を胸に抱いて泣くわたしに、弟は、慌てたように謝った。けれど、違うのだと、彼がほおずきの実を勝手にむしったせいではないのだと、そう言ってやることはできなかった。

 なぜならわたしは、わたしのほおずきへの罪に対する思いでいっぱいだったからだ。

 ごめんなさい、いやだと言ってしまって。ごめんなさい、恐ろしがってしまって。

 あなたは、わたしを、救ってくれたのに。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。







 それから一日、一日と過ごしていくうちにわたしは、これは夢ではなく、現実であることを少しずつ確信していた。そして、ほおずきのこともまた取り返しのつかない現実なのだと、日々思い知らされている。

 あの日、庭のほおずきは残らずすべて枯れてしまっていた。ほおずきは、命を賭してわたしを救ってくれたのだ。それなのに、わたしは恐ろしがった。枯れたほおずきが目に入るたびに、わたしはわたしの罪に苦しめられるので、枯れたほおずきはそのままにしている。わたしは、罪から逃れることを許されないのだ。



「あなたが精魂を込めて育て上げた、立派なほおずきでしたのにな。一晩の嵐で枯れてしまうとは、残念なことです」



 わたしの様子を見に来てくださった和尚さまが、座敷から見えるほおずきを眺めてそう言った。

 違う、ほおずきを枯らしたのは、わたしだ。和尚さまの言葉にそんなことを思うと目の奥が痛くなって、気が付いたときには涙が出ていた。

 和尚さまがわたしの肩に触れる。「どうしました」と聞かれ、わたしは耐え切れずに、和尚さまに自分の罪を打ち明けはじめた。

 ときに言葉につまり、そのたびに和尚さまに優しく肩を叩かれながらようやくすべてを話すと、和尚さまは「毒を以て毒を制す、ですか」と言った。



「いや、鬼を以て鬼を制したと言うべきなのでしょうね」



 和尚さまはそう言いなおして、枯れたほおずきに向かって手を合わせた。わたしも手を合わせる。目を閉じて、ごめんなさい、と心で唱えながら。



「あなたは今、ほおずきに何を思っておいでですか」



 和尚さまに問いかけられ、目を開けた。ほおずきに何を思っているか。その答えは、ひとつしかない。



「後悔、しています」

「後悔?」

「ほおずきは、命を賭してまで、わたしを救おうとしてくれたのに、わたしは、恐ろしいものだと思い込んで、あのとき、彼を拒絶してしまいました。けれど、どれだけ後悔しても、きっと、許されることはないのでしょう。わたしは、この罪を、一生背負うべきなのです」



 わたしの後悔を聞いた和尚さまは、うんと頷いて、口を開いた。



「たしかに、自分の行いを悔いることは大切なことでしょう。しかし、それだけではいけない」



 驚いて聞き返すと、和尚さまは、諭すような口調でこう続けた。



「ほおずきは、ほおずき自身の意志で、命を賭してあなたを救った。だから、ありがとうと、言っておやりなさい」



 和尚さまの言葉は、紙に落ちた墨のようにわたしの中に染みて、広がった。

 もう一度、ほおずきに手を合わせる。今度はしっかりと、枯れたほおずきを見据えて。

 ありがとう、とつぶやくと、涙が出た。涙は止まらなくて、まばたきをするたび頬を滑って落ちていく。もう一度、ありがとうと言った。声が震えた。けれど構わずに、ありがとうと繰り返す。何度も、何度も。

 この先一生繰り返すその言葉を、何度も。









 先日助けていただいたほおずきです。

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― 新着の感想 ―
[一言] とても面白かったです! 夢?の表現がとても美しくて、思わず魅入ってしまいました。 こんなに短いのに、これほどの余韻を感じるのは初めてでした。
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