海月
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海月は、ふわふわと泳いでいた。
何処に向かうでも無く。何を成す訳でもない。
ただ、海の流れの儘に身体を任せていた。
海月はある時、海から出たいと思った。
群れから飛び出て、陸を目指した。
着いてくるもの。やめさせるもの。
後ろを見ても、誰も居なかった。
海月は、笑った。
そして流る儘に陸に流れ着いた海月は戻る力がないので干からびた。
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僕は歩いていた。
何処に向かう訳でもない。何を成す訳でもない。
これは目的と過程が逆転していてかつ、目的が存在しない外出である。この行動には終着点も、通過点すらないし全くもって意味が無い。
──ふらりと僕は、今迄の人生の事を思い耽る。
まるで僕は海の流れの儘に身を任せる海月のようだ。『自己』という概念が居ない人生───他者に紛れ、押し潰され、自分という存在が認識されずに、世界は今日も廻り続ける。
それに抗おうともせず叛逆の意思すら持たず。今日まで僕はここに居て、この変わらない毎日を送っている。
幸せな気持ちなど、在りはせず。創り出しもせず。
幸せな時間など、存在しないし、見た事などない。
自然と歩幅は小さくなる。
僕の心はやつれ傷ついていた。
────僕は多分、歩いていた。
自己の存在、自分を忘れてしまわぬように。
やっと『歩く目的』が出来たのだと内心驚いている。この流浪にも意味があるのだと。
何もないはずの道に価値が付き始める。おかしな事に、自然と自分の歩幅が広くなっていた。
だけど歩く目的が出来ようとも、このぽっかりと穴が空いた心を埋め合わせる事など出来ない。
何かに渇いている。何かを欲している。
『自分』が認識されない世界は今日も、僕を置いて回り続けている。
世界の歯車に、僕が組み込まれている訳では無い。いてもいなくてもさほど変わらない、そんな存在。
僕はふと、思った。
僕はこの世に必要なのだろうか。
僕の存在に価値はあるのだろうか。
この薄れていく身体に、誰が気付いてくれるのだろうか。
擦れ違う人々は、僕をすり抜けていく。まるで空気の様に。存在しないモノとして、気付かないふりをしている。
車道では庶民の生き方を改善する。生き方を改善すると煩わしい選挙カーが通り過ぎていく。
────誰かに必要とされたい。
この世界に、僕が在ることを証明して欲しい。
一度でいいから僕を見て欲しい。
あぁ、そうか。これが。
『これが僕の目的だったんだ』
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僕が歩いていると、一人の人間が立っていた。
今は夜。顔は闇に隠れて良く見えない。
すれ違ったその時だった。
腹が燃えるように熱を持ち始めたのは。
僕は笑った。嬉しさからの笑顔だった。
見ると、腹部が真赤に汚れている。
視界がぼやけて視えていた世界が段々と斜めに傾き始める。
自分の足にはもう力が入らない。
だらしなく引き摺って歩を進める。
しかし僕の歩幅は自然と大きくなっていく。
大きい道路に出よう。
こんな細い路地など誰も居やしない。
大きな道へと出ると、沢山の悲鳴と人々の唖然とした眼差しが、僕に向けられる。
面白くなって笑いが毀れる。
さっきまで見向きもせず擦れ違っていた人々が、ざわざわと集まってくるのだから。
僕は、海を意思も無く漂う海月ではなくなったのだ。僕は生きているんだ。今この人生で一番生きている。
死すらもう、恐れることはない。
世界に、自分が居ることを実感出来るのであれば。
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僕は歩いていた。歩いていた。
人々の目を釘付けにして。
とても面白かった。
僕は幼い。幼かったんだ。
だから、こんな事をする。
目はもう何も映さない。足はもう歩く事さえ許さない。
いいんだ。僕はそこに居るのだから。
僕は人々の記憶に生きているのだから。