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日本の民間伝承  作者: 高橋はるか
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福島県二本松市 山姥②

前回のお話の中で、二本松の鬼婆のお話を取り上げましたが、じゃあ、どうして鬼婆は、鬼婆になってしまったのか?

そこに昔から住んでいたのか??

どうして人を食らうようになったのか??

そもそも、鬼婆の成り立ちを巡る物語をもう一つ。

できればお付き合いただきたいと思います。

(今現在の私)

私がそこを通りかかったのは、きっと偶然に違いない。

それでも、こんな偶然があるというのならば、今を置いて他にはなかっただろうし、こんな風に、日本各地の伝承を求めていたからこそ、本当に、神様の悪戯のように、その場に居合わせることができたのかもしれない、と、感慨深く思う時があるんです。


なにせ、一年近く。

伝承を描きたい、と思い続けてきたというに、次なる物語に全く出会うことができなかった今日この頃でしたので。

もうどうにもしようが無いなあ、なんて、そんなことをつらつらと考えていたものですから、皆さんには、非常に申し訳なく思っていて、それでも何も描くことができない私自身に、私もどこかで、諦めていたのかもしれません・・・・。



「むかーし、昔のお話のことだよ・・・・」


どこからともなく聞こえてきたのは、たまたまだったのでしょうか??

きゃらきゃら、きゃらきゃらと笑う少年少女の声に誘われて、偶然にも二本松市の城下町を、お城山の上へ、上へと向かっていた丁度その時のお話だったと記憶しております。


「おばあちゃん、昔って、どのくらい昔のお話なの??」

「ほんに随分と昔のお話だね・・・・」

「それは、おばあちゃんが生まれるよりも昔??」

「ああ、それは途方もなく昔、私が生まれた頃なんて、ついさっき、ほれ、それこそちょんの目と鼻の先、くらいのもんだけれどもねえ・・・・。今から私が話すこのお話は、それよりもはるかに前、私のおばあちゃんの、おばあちゃんの、そのまたおばあちゃんの代よりもなお、遡った昔のお話なんだよ」

「ふーん・・・・??良く分かんない!!!」

「そうかい、そうかい・・・・」


ニコニコと、それでも楽しそうに笑うおばあちゃんの語り口に惹かれて、思わず、見も知らぬ他人だというのに、私自身も側に近寄って聞き入ってしまっていました。

失礼なことだとは思っていても、不審なものだと思われることは分かっていても、聞かずにはいられない、と言う奴でしょうかね。


「今から随分と昔、むかーしの話だね・・・・。奈良の都にまだ、天子様がおわした頃のお話」

「難しくて良く分かんない!!!おばあちゃんの言っていること、分かんないよ!!!」

「あら、あら・・・。ごめんねえ・・・。でも私も、この話を語り継ぐのに、この言い方で昔から教わってきているから、他の言い方ができないんだよねえ・・・・」


随分と難しい言い方を子供に聞かせるんだなあ、なんて思っていた分に、私は子供の年齢など、身近にいないものですから、良く分かりませんが、五歳にもならない少女に聞かせる話ではいないのではないかな??と内心呆れていました。

それでも、そんなふうに皺くちゃの顔を、益々皺くちゃに歪めて困ったように笑う老婆と、頬を膨らませてむくれた少女に、思わずほっこりとしてしまったのは言うまでもありません。


「天子様とは、天皇様のことだよ・・・」

「分かんない!!」

「ああ、じゃあ、天皇様、と言う偉いお人がいるって言うことだけ覚えておいてくれないかい??」

「うーん・・・・。それはお父さんやお母さんよりも!?」


偉いのかって??そりゃあ、そうじゃないでしょうか??

まあ、少なくとも、奈良に都がおかれていた平城京の時代においては、いえ、武士が実権を握って権勢をふるいだす鎌倉幕府時代までは、確実にこの大和の国において一番に偉い方だったのは間違いありません。


「そうだねえ・・・・。勿論、まりちゃんのお父さんも、お母さんも、とっても偉いんだよ??」

「そうだよねっ!!そうだよねっ!!あとは・・・!!じゃあ、ゆかり先生よりも偉いの!?」

「保育園の先生のことだね??そりゃあ、ゆかり先生も偉いよ??でもゆかり先生はきっと天皇様と比べられたって聞いたら、きっとびっくりしてお目目飛び出しちゃうかもしれないねえ」

「おめめ飛び出るの!?くひひひっ!!見たいっ!!見たいっ!!!」


「まあ、とにかく、お偉い人がねえ、今の奈良県にいらっしゃったときのお話だよ」




いわて、と言う老女が、都の公家様にお仕えしておりました。


その公家様のお屋敷に、それはもう、可愛い、可愛い女の子がお生まれなすった時から、この物語は始まります。


それはもう、可愛くって、可愛くって・・・・。


親の贔屓目抜きにして、くりくりのまあるいお目目も、ふっくらと丸みを帯びた頬も、そして形の良い唇も、全てが全て、この女の子を、将来成長した時にはやんごとない男衆がきっと取り合いなさるに違いない、と思わせるに十分なくらいだったと言います。


それは評判に評判を呼び、外の者達も、お知り合いの方々も、連日屋敷へと何の用向きもないというに押しかけて、わざわざ女の子の壮健な様子をご覧になっては、「さて、私はこのあたりで」なんて言い置いて、はて??何の用があったやら、など、主様に気を揉ませていたそうです。


ところが、この娘がどんどん、どんどんと成長するにしたがって、屋敷の者達は、ひどく心を痛めるようになっていきます。


何故かって??


それは、いくつになっても言葉を話すことができなかったからに違いありません。


周りの子たちが、初めて言葉を話し始めた時も、この女の子は、ただ、泣き叫ぶことはできても、なかなか言葉を発しません。


二親も、ああ、きっとそのうち、少し育ちが遅い子に違いない、なんて、言い聞かせていたのですが、四つになっても、五つになっても、とうとう六つになっても、その気は全くありませんでした・・・・。


ついには、立って歩き、自分の意思をきちんと持ち始めるようになってからも、それでもなお、泣きそうな顔で必死に身振り手振りを交えて何かを伝えようとするだけで、ようとして口を開くことはありませんでした。


このころからでしょうか??


屋敷の者達が、気味悪がり出したのは。


昨日には花よ蝶よと愛でていた者共が急に手のひらを返し、今日には、気味の悪い子だ、何か化生のものに憑りつかれているのではなかろうか??いやいや、きっとご病気であらせられるに違いない、などなど、厄体もない噂をし始めるようになったのです。


これはいかん、と考えた主様は、一計を案じ、屋敷に勤めるすべての者に、娘が元来体を弱くしていて、病床に臥せっているとし、ほんの一握りの世話役だけを残して、それ以外の者達をほとんど解雇してしまわれたのです。


そして、残された者達は、口の堅い者達ばかりで、その中に、娘が最も懐いていた、いわて、と言う老女を、ただ一人、娘の世話役としてそれ以外の者を娘と関わり合いにならぬようにしてしまわれました。




(いわて)

・・・・可哀想に。

・・・・ほんに可哀想に。


このような子供を、どうして言葉が話せないというだけで、こうして屋敷の中、薄暗い奥まった部屋の一室に閉じ込めてしまわれるのでしょうか・・・??


齢三つを超え。

普通の赤子と比べても、あまり泣き叫ぶことの少ない子だ、可愛いだけでなく、手間がかからなくていい、なんて、にこにこ、にこにこと笑っていた者達が、いつしか、一人、また一人、と、口性のない噂を広め始めた頃からだろうか??


・・・・お嬢様は、どうやら普通のお子よりも、少し成長が遅いようだぞ??

・・・・ああ、違いない。まともな子であれば、もう何かしら、言葉を発していてもおかしくはないというに、どうしてうんともすんとも言わないのだろうなあ??


これくらいであれば何の問題もなかった。

怪訝に思っていたのは、数人程度のことで、私を含め、多くの者達は、なに、少し・・・・・、もう少し経てば・・・・、何て、大事には思っていなかったのだから。


けれども、それから半年たち、一年たち・・・・。

ついには、二年がたった時。


・・・・どうにも、成長が遅いようではなさそうだぞ。

・・・・ああ、すくすくと背は伸びるし、髪も、歯も生え揃っていくというに、これはまたどうしたことか・・・。

・・・・なんぞ、何かのご病気であらせられるのでは・・・・??


この時分からでしょうか。

屋敷に、高名な薬師の方々が呼ばれるようになったのは。

けれども、どれほど高名で。

されども、どれほど賢明な方であっても。

首を横に振るばかり。

原因は分からじ、と。

それでも何とかしてほしい、金ならいくらでも払う、と主様に懇願され、幾許かの、これこれは、これこれに効くのです、という薬草を煎じてもらっても、それでもやっぱり効果はありません。


どころか状況はますます悪化するばかりで・・・・。


・・・・おい。この前に来た薬師の方が置いて行った薬を、嫌がりもせずに飲み下すらしいぞ・・・・。

・・・・ああ、女中の者が言っておったが、とかく苦く、とてもではないが、我らでも飲めぬくらいにまずいと聞く。

・・・・ましてや、薬師も知らぬ病なのだろう??

・・・・いやいや、病ではないと、呼ばれた薬師は皆口を揃えて言っておったそうじゃぞ??

・・・・じゃあ・・・・??

・・・・なんぞ化生の類でも憑いておるのではないか・・・??


・・・・と。


不吉なことです。

でも、ほんにそれでお嬢様が言葉を発することができるのならば、と。

主様は考えなすったに違いありません。

今度は、不思議な道力を持った修験者を。もしくは、なになにという有名な寺社仏閣で功徳を積む高僧を。

その者らが、連日のように屋敷に押しかけては、お嬢様の枕もとで、なにやらぶつぶつ、ぶつぶつと秘密めかしてこの世のものとは思えない言葉を吐き出すのですから、それはもう、怖くて、怖くて・・・・。

何人も入ること叶わじ、と言われ、その様を見ることはできませんでしたが、お嬢様は、声一つ漏らさず、大人しいものです。対して、彼らは汗だくになって、瞳を獣みたいにぎらつかせて一心不乱に理解もできぬ言葉でご祈祷とやらを唱えるわけですから、むしろ私には、どちらが憑りつかれているのか訳も分からなくなっておりました・・・・。



『ねえ、いわて』

「はい??なんでしょうかお嬢様??」

『また何か、話をして』

「またでございますか??今度は何のお話をしましょう??この前は、どこまでお話をしましたでしょうか??ええと・・・」

『近江の地にある海ほども大きな湖の話を聞いた』

「そうでした、そうでしたね」


ついこの頃ではこのように、お嬢様は文字と言う物を知り、私や、奥方様、主様へは文字を使ってご自分の意思をきちんとお伝えできるようになりました。

にこにこと。近づく者達が、皆、おどろおどろしげな顔や、不安げな顔、思いつめたような顔ばかりしているからでしょうか。

健気にも笑ってばかりで、そのお顔を曇らせたところを見たことがありません。

そして、私も、幼いころ、若いころは、父に従って、行商の旅をしていましたので、旅の思い出をつらつらと語って聞かせていたのがよかったのでしょうか??

随分と私に懐いてもらえるようになりましたが、むしろ、これ幸い、とばかりに、世話役を仰せつかってこの方、主様も、そして奥方様ですらも、この奥まったお部屋から足が遠のいていくばかりです。

ですので、私のしたことは良かったのか、それとも悪かったのか・・・・。



「あれは、私が、その近江の土地で、海ほども大きな湖に辿り着いたときのお話です」

『海と湖って、何が違うの??』

「それは、お嬢様、辛いか、辛くないかの違いですよ。海の水を飲むと辛いですが、湖の水は飲んでも辛くありません(*この場合の辛い、は塩辛い、と言う意味です)」

『どうして海の水は辛いの??』

「そりゃあ、お嬢様。私たち人は、だれしも、塩を舐めねば生きてはいけませんからね。だから、海の水を、それはもう暖かい日に、外に干していると、塩が出来上がるって寸法なのですよ」

『海がお塩を作っているの??』

「そうですよお嬢様。それでですね。きっと天邪鬼か何かに憑かれていたんでしょうね。湖を海と言い張り、逆に海を湖と言い張る男がいました」

『それで、それで??』

「男は皆の見ている前で、湖の水を一口、口に含んだかと思ったら、思い切り吐き出して、辛い、辛いと言い張るんですよ・・・・。何だか見ているこちらまで、段々とそうなんじゃないか??と思えてくるくらい真に迫ってね・・・・。逆に海の水を飲んでなんて言ったと思います??」

『辛くないって??』

「そうなんですよ!!これまた不思議なことに!!辛くない、と言い張るんです!!それでも、普通の人が口に含めば、その辛さに眉を顰めてしまいます。何なら飲みすぎれば、体を壊してしまうこともあると言います。なのでお嬢様は決して機会があっても真似なさらないでくださいね??」

『機会があればいいけれど・・・・。その人はどうなったの??』

「さあ??どうなったのでしょうね??何せ、海に舟を漕ぎ出して、この湖の先へ、先へと漕いでいけば、いずれ対岸の近江の国に出るんだ!!皆の者よ、そこで会おうぞ、と言って、そのまま大海原へと漕ぎ出してしまいましたからね」

『へえ。海の先には何があるの??』

「何も。なーんにもありはしないと、私は、そう教わっております。ただし、その先を見た者はいません。何やら、北の方へと船を進めれば、もう一つ、隋と呼ばれる国があると聞きますが、大変な船旅には違いないでしょうね」

『ずい??そのずいの国、と言うところはどんなところなの??』

「さあ??私もあまり詳しくはありませんが・・・・。聞いた話によりますと、私たちと背格好は似ているが、角ばった顔形をしていて、獣のような甲高い咆哮を上げながら、意味も分からぬ言葉を発しているそうです。あとは、私たちとは違う色とりどりの染め物をしていて、それはもう、目に鮮やかな衣服をまとうそうですよ」

『見てみたいな』

「いつかはきっとご覧になることができると思いますよ。何せ、毎年船団が組まれ、交流があるようで、時たま、この都にも使者の方が見られますから」

『見られるかな??海と湖も、全部見られるといいな』

「ええ、そうでございますね」


彼女にとっては、私の話だけが、世界を知る唯一の術だったのです。

それでも、私は、いつも、いつも、悩みに悩んでおりました。

何故かって??それは、私の話が逆に彼女を苦しめているのではなかろうか、と。見果てぬ夢を見せて、悲しみを、寂しさを、孤独を深めているのではないだろうか?と、そう思わずにはいられなかったからです。


そんなときのことです。


「いわてよ」

「はっ!!どうなされましたでしょうか??主様」


突然に、普段であれば声もかからずにむしろ避けられているかと思うほどに冷たい態度を取る主様に呼び止められたではありませんか。


「本日、隋からの使者がこの屋敷に見えられる」

「・・・・っ!?それは・・・・。随分とまあ、唐突な話ではございますね・・・・」


何せ屋敷には人出が少ないものですから。

主様ほどの位におわせられるご貴族の方が、本宅にこの程度の使用人しか置いていないとなれば世間の体裁はやはり悪いものです。

それが、異国の使者の方にも伝わるかどうかは知りませんが、それでも、この時は、およそ、私にも娘のもとを離れて異国の使者を迎える奥向きを仰せつかるとしか思っておりませんでした。


「娘のことを(うら)なってもらうように懇願し、願いが叶ったのだ。これでなんぞ変わればよいが・・・・」

「・・・そ、そうでございましたか・・・・」


それだけ返すのが精一杯でした。

他にどんな言いようがあったでしょうか??

おめでたい事でございますね、と喜べば??

それとも、これ以上は彼女に負担をかけないように下さいまし、と願えばよかったのか??

そんなことを一介の女中ごときが差しで口できるわけもありません。


「娘の方は大丈夫だろうな??」

「は、はあ・・・・」


何が大丈夫なのでしょうか??機嫌でしょうか??それとも健康??はたまた、言葉を話す兆候が見られるか?と言うことでしょうか??

それならば、はっきりと申し上げたい。

機嫌はすこぶるいいです。

ですが、異国の、それも言葉の通じぬ、我々の国の慣習も知らぬ卜師ごとき蒙昧な輩が現れたとして、お嬢様はどうお考えになるでしょうか??

健康も、問題はありません。

あれだけ部屋に閉じ込められているというに、風邪ひとつ引かなければ、流行り病にかかることもありませんから。

はたまた、言葉をお話になる兆候でもありそうかと、そうお尋ねになっているのでしょうか??

だったらなおのこと、一つ言いたい。

ご自分でお嬢様とお話になって、きちんと何を思っていて、何を考えているかを理解するようにした方がいいのではないでしょうか??


・・・・まあ、そんなこと、口が裂けても言えないんですけれどもね。


「なんだ??その曖昧な返答は??なんぞ変事でもあったのか??」

「いいえ、そのようなことではございませんが・・・・。ただ・・・・、ええと、何と言いましょうか・・・・。その卜師のお方は、きちんとしたお方なのでしょうか??」

「ああ。何せ向こうでは、相当に評判のいい、宮廷御用達の、何たらなんたらとか言う流派の卜い(うらない)を得意とするお方だそうだ」

「はあ・・・・。何たら、なんたら、でございますが・・・・」


随分とまあ、胡散臭い話ではないでしょうか??

しかし、主様は、私が胡散臭げにしていることに、僅かにむっとした様子で、


「元々、何百年と歴史がある(ぼく)いだそうだぞ??秦と呼ばれる国だったころ、偉大であらせられた始まりの皇帝に最も寵愛を受け、晩年の健康を管理していた薬師の流れをくむんだとか・・・」

「はあ・・・・??」


私は、そも、その隋と呼ばれる海を挟んで向こうの国のことなど、全く持って分かりませんので、秦??だとか、皇帝??だとか言われても、ああ!!なるほど!!なんて思うはずないじゃないですか。

それなのに、そんなことをつらつら、つらつらと。

むしろ、そんな賛美の言葉が並べば並ぶほど。賞賛の言葉が並べば並ぶほど。空虚に、そして、何とも陳腐に聞こえては来ないでしょうか??

いえ、どちらかと言うと、自分を慰めよう、何か縋るものを求めよう、と。

必死に、探し求めるような、そんな虚しさが在りはしないでしょうか??


・・・お止めくださいませ、と。言葉にできればどれほど心安かったでしょうか。


しかし、私がどれほど言葉を尽くしたところで、主様は止まるはずもなく。

そして、時すでに遅く。


表がなんぞ騒がしくなりました。

馬の嘶き。

人々の話し合う声。

そしてその中には、確かに、甲高く、叫ぶような、それでいて全く意味を理解できない言葉が混じっていて、それがますます私を不安にします。


「ああ!!着いたようだな!!どれ!!私自ら迎えに行こうか!!」

「主様・・・・!!そのう・・・・!!」


伸ばした手は・・・・。しかし届くこともなく空を掴み。


「いわてよ!!お前は娘の側にいるようにするのだ!!すぐに隋からの卜師と共に向かう」

「・・・・あの!!」


挙げた声は・・・・。しかし、届くこともなく空に消える。


主様が去っていく後姿を眺めながら、ただ、ただ、呆けたように突っ立っていた私は、しかしすぐに、このままではいけない。せめて私だけでも、お嬢様のもとへといなければいけない、と思いたち、お嬢様の起居しているお部屋へと転ぶように向かいました。


『いわて??どうしたの??そんなに慌てて』


お嬢様が目をまん丸にして、そんなことを書いたものですから、ああ、なんだかんだ言いながらも、私自身が一番動揺しているのか、と思い知らされました。

そして、それを知るにつけ、この子はきっと、最後の最後まで大人しく、年に似合わぬ冷静さで、ただ為すがまま、為されるがまますぎるのを待つのだろうなあ、と。

それが、気の毒で、気の毒で・・・・。


でも、やっぱり私には、何もできませんので、


「いいえ。何でもありませんよ。ただ、お嬢様のご容態を見るために、主様が、特別な薬師の方をお呼びになられましたので、私も一緒に居ることができたらと思いまして」

『父上が??いわてが一緒なら嬉しい』

「お嬢様・・・!!」


思わず抱きしめそうになったその時です。


「入るぞ??大丈夫かや??」


主様のお声がかかりましたので、お嬢様の身づくろいが終わったのを見届けて、しかし、それほどお待たせすることもなく、戸口を開けました。

するとそこに立っていたのは・・・。


「大公殿、これが例の子アルカ??」


にこにこ、にこにここと、人のいい笑みを浮かべているけれども、それでもその瞳は一切笑っていない。

ぎらぎらと、まるで油を塗りたくったような肌の艶。頭皮は後退して禿げかかっているし、とても血色が言いようには見えない、ぶくぶくと不健康に太った大男。


生理的な嫌悪感すら抱いてしまうような。この男が、まさか!?と思う私の不安を感じ取ったのか、それとも、意に介していないのか、そんなことは分かりませんが、それでも、


「私、この国来たときに、言葉話せる者ね。先生はこの国の言葉、話せないカラヨ」


ところどころ独特な抑揚でもって、聞き取り辛かったものですが、ああなるほど、と言う得心と、良かった、と言う安堵に胸をなでおろしたのもつかの間。


「先生!!こっちアルヨ!!」


呼ばれてはいってきた男は、神秘的な、とは到底言えず。

驚くほどに痩身で。

そして、何より怖くなるほどに無表情。

その瞳には、生気すらも宿っていないし。

ましてや、どこを見ているのかも分からないくらい瞳の焦点を失っています。

薄いベールのようなものを被り物の上から顔に纏い、袖と裾の長い真っ赤な光沢のある衣服をずるずる、ずるずると引きずりながら、重々しく両手を胸の前に突き出して合わせると一礼し、そのまま口を開くこともなく入室してきました。


「・・・うっ!?」


なんでしょうか!?

失礼とは重々承知ではありましたが、それでも、思わず衣服の裾で鼻先を抑えてしまうほどに、強烈な甘い香りが・・・。そしてそれと共に、思わず顔をしかめてしまうほどの腐臭が・・・。

しかし、それは私だけではなかったようで、隅で小さく蹲る奥方様も、そして、二人を案内してきた旦那様も同じ。

唯一全く意に介していない風だったのがお嬢様ただ一人とは・・・。何と健気なことでしょうか・・・。


「・・・・」


先生、と呼ばれた男は、ゆっくりとお嬢様を見下ろすと、そのまま音もたてずにするりと枕元へ。

そして、その、まるで生気のない瞳をようやく一点に集中して、お嬢様の深い黒色の眼をのぞき込みました。

じい、と。

じい・・・と。

息が詰まるような緊張感の中、私は、思わず、止めてください!!と上げそうになった声を必死になって抑えていると、

す、っと手を後ろに。すると、するり、とこちらも音を立てずに、付き従って来ていた弟子のような方が何やら壺のようなものを手渡し、


「这是香」


何と言ったのでしょうか??確かに甲高い鳥の叫びのような、それでいて、まるで歌のように・・・・。


「これ、とても効果高いお香だソウネ。体が軽くなるソウヨ」


ぼう、と仄かに立ち上がる甘く香しい匂いは、確かに部屋の中、くらくら、くらくらと立ち込め、全てを包み込んでいきます。

ゆらゆら、ゆらゆらと・・・。

立ち上る煙は、白く、それでいて、紫紺に。

怪しくも優しく、まるでこの世の物とは思えません・・・。

霞む眼の裏に映る室内は、薄暗く、開けた障子の隙間から差し込む僅かな薄明かりが、一条の帯となって、まるで橋のように壁と壁を繋ぎ・・・。

見慣れているはずの狭い部屋の中・・・・。


・・・まるで、見も知らない世界の中に誘われたかのような・・・・。


なんでしょうか??ぼんやりと、まるで視界に霞でもかかったかのように、うっとりと・・・。

ああ・・・。立っているのか?それとも今私は座っているのか・・・??


「・・・慢慢来」


今言葉を発しているのはいったい誰なのでしょうか・・・??

それでも、どうしてか??深く、重々しいこの言葉が、典雅な歌のように・・・・。嫋やかな曲のように・・・・。


「・・・慢慢来」


・・・・ああ・・・駄目です・・・・。びっくりするくらい瞼が重くて・・・・。重くて・・・・。眠ってしまっては駄目だということは、頭の片隅にきちんと残っているのですけれども・・・。


自分の与えられた役割とか・・・。


お嬢様のこととか・・・。


そいう諸々が、それでもどうしてか、今この瞬間に、手から零れ落ちそうで・・・・。



「はい!!良いね!!良いね!!」


柏手のようにぱんぱんと打ち鳴らされた手と、太った男の声で、まるで突然に夢の中から起き上がるような、朝方にびくっと飛び起きるような、そんな感覚に襲われ、はっと目を覚ますと、首をがっくりと落としまま、それでもしっかりと両足で地面に立っているではありませんか!?


いえ。私は一体何をしていたのでしょうか・・・??

一体どれくらいの時間が経っていたのでしょうか・・・??


「駄目アルネ。これは普通の治療じゃ治らないアルネ」

「・・・・え??は!?」


突然に何を言い出すのかと思えば・・・!?今の数瞬で一体何が分かると・・・・!?


「ただし!!先生こう言ってるネ!!秘伝の仙薬を煎じて飲ませれば、あるいは回復の余地あるかもしれない、とね!!」

「・・・・は!?え・・・??いや・・・!?」


先生と呼ばれた男は一言も口を開いていないのに、そんなことをいつの間に言ったのか!?とか。

治る見込みがあるのか!?とか・・・・。

色々混乱の極みにあったのは私だけではなかったに違いありません。

旦那様が、まるで次の言葉でも探す様に口を開いては、閉じて、閉じては開いてしておりましたが、先生と呼ばれた男はそれを遮るようにぱっと手を挙げると、弟子に向かって、手を向けました。


「ケシの実!!」


茶色の、何でしょうか??ふっくらと膨らんだ、まるでホオズキのようなものを。どこか甘ったるい、それでいて腐ったような不思議なにおいを漂わせた植物を手のひらから床に。


「真金」


どろりと、私たちが日常的に使う刃物と全く同じような色味と光沢をしているというに、どうして真金と呼ばれたあれは、まるで生きているように壺の中でうねり、そして波打っているのでしょうか??


「珍珠」


似たようなものを奥方様が持っていらっしゃったのを覚えています。あれは、貝殻の中、稀に取れる艶のある玉に似てはいないでしょうか??

もしそうだとしたら、たいへんにまあるくて綺麗なあの玉を砕いてしまわれるなんて、何と勿体ないことを・・・・。


「生熊の丹中」


カラカラに乾燥させられた、それなのにもかかわらず生臭い匂いを発する何かを。


「冬虫花草の粉末」


随分と苦い匂いがしますが、若草色のその色味から見ても何かの草花であることは間違いないのでしょうが。


「ここに八種の漢方を混ぜて・・・・!!ああ・・・!!でも、ごめんヨ!!大変にごめんなコトヨ!!」

「・・・あの・・・??一体・・・??」


随分と大袈裟な身振りを交えて、困ったような顔を浮かべる男に、堪えきれなくなった主様が問いただすと、


「あと一つ。あと一つだけ材料足りナイネ・・・」

「・・・そんなっ!?そ、それは・・・??いったい何なのかや!?もし・・・!!もし私たちにできることがあれば・・・・!!」


焦る旦那様と奥方様と、私も同じ気持ちです。

早く、早くと気持ちばかりが急いて。もしそれで治る見込みがあるのだとすれば、それに縋りたいですし、どうしてでしょうかね??何故か、この人たちの雰囲気と言うのでしょうか??それともおどろおどろしい、とでも言えばいいのでしょうか??そんな声音に、すっかりと、信じ込んでいる自分がおりまして。

しかし、そんな私たちをあざ笑いでもするかのように。


「それの入手、私たちには大変難しかっタネ!!並みのことでは手に入らないネ!!それは、ずばり・・・・。女の腹の中に入ったまま、生まれる前の赤子の生き胆ヨ」


「・・・そ、そんな・・・・」


膝から崩れ落ちるとはまさにこのことではないでしょうか??

この後にどんな話をして、どんなことを言われたのかすらも、全く覚えておりませんし、奥方様なんて、心労のあまりに、そのまま気を失われてしまいました・・・・。


・・・それでも。

それでも、お嬢様が、お声を取り戻すのであれば。

と言う考えが一瞬よぎったことは否定できません。

それでも!!

そんなことをして万が一に、いえ、治ったとしても、お嬢様が喜ばれるでしょうか!?

それは、つまり、何の罪もない女と、生まれる前の子供を殺せ、と言うことに他ならないではありませんか!?



彼の方々がお帰りになられた後に、私は、たった一人、旦那様に呼ばれ、いつぶりでしょうか??久しく足を踏み入れることのなかった奥のお座敷へたった二人、旦那様と対面させていただいております。


「いわてよ・・・・」

「旦那様・・・・」


とてもではありませんが、見ていられないほど憔悴しきった旦那様にいったい何と声をかければいいのでしょうか??

いえ、もしかしたら、それは、私もそうであって、旦那様もまた、同じことを思っているのかもしれませんが。


「いわてよ・・・・。娘は・・・・、もう一生口をきくことができぬのではなかろうか・・・??」

「な、何をそのようなことを仰いますか!?いつか!!いつの日か!!必ずお嬢様はその楚々としたお声をお聞かせになるに違いありません!!」

「そうか・・・・。そうだとよいが・・・・」


何を仰りたいのでしょうか??

この時分から、もくもく、もくもくと。

まるで野焼きの煙が空を覆うように、不安な気持ちが胸いっぱいに押し潰さんばかりに広がって来て、次の言葉を聞きたくない、と言う気持ちと、それでいて、何を言い出すつもりなのか、という思いで胸が張り裂けそうです。


「・・・・このまま成人するまでに言葉を発しなければ、あの子は、間違いなく病死することになるだろうのう・・・・」

「えっ・・・・??」


病死、の言葉に。

そして、何より、まるでそれを当然とでも言うかのような言葉尻に、嫌な考えが浮かんでまいります。

それは無いように、そんなことは無いように、とどれほど祈ったことでしょうか??


「つ、つまりそれは・・・・??お嬢様を、亡き者になされる、と言うことですか??」

「いわてよ・・・。そのように口に出すものでは・・・・」


困ったような主様のお顔を見て、ああ、やっぱりそのつもりだったんだなあ、と、理解させられてしまいました。

そして、その瞬間に、私の中で、今の今まで、ギリギリのところで、まるで身も凍るような寒さの冬に、湖の上に張られた薄氷の上を歩くような、それでいて何とか一歩地上に踏みとどまっていることができたような理性が、割れて壊れる音が聞こえました・・・。


「なんと言うことを仰るのですか!!??旦那様はそれでも人の親なのですか!!??」

「・・・・いわてよ。そなたこそ、どれほどの年月こうして貴人に仕えてきたのだ??我らにとって、人々の口に忌子として登ってしまうような者をいつまでも家に置いておくわけにはなるまいて・・・・」

「それは・・・・!?ですが!!ですが・・・・!!それでもこうして、今と同じように病として奥の座敷に匿っておけば・・・!!」

「貴人としてそういかぬことくらい、お前とて理解しているだろう??それにお前こそ、人の親なのだ。娘もいると聞く。もし、娘が年頃になっても外へ出ることを禁じられて、ずうっと座敷の奥に閉じ込められていたら、何と思うのだ??」

「だったら!!だったら外へ出してあげればいいではないですか!!いいえ!!今の状態がきっと悪いのです!!お嬢様も外へ出られたらきっと何かお感じになられることがあるはずです!!」

「そうはいかぬことくらい、身近で接してきたお前が一番わかっているだろうに!!」

「分かりません!!!!」


お互いに一歩も引かぬことくらい分かっておりますとも。

それでも、どうして!?と。

胸が張り裂けそうなほど、声を枯らして叫び散らしたいほどに。何より、気が狂いそうなほどに、どうして一つも理解してくれないのだ!?と。

お嬢様のことを、一番身近に接してきたからこそ、どれだけ尊くて、どれだけ気の毒で、そして、どれだけ何もかもを我慢しているかを知っているからこそ。

ただ、お嬢様の父親と言うだけで、なに一つも分かろうとはしない、この目の前に座る男にいったい何が分かるのか!?と。


「成人するまで、と言うのが私から娘にかけられる最後の恩情だ。私とて娘に死んでほしくはない!!」

「だったら何とかできないのですか!?」

「しようとは思っている!!すでに手は打ってある!!・・・・・だが。そんなに容易く赤子の生き胆など手に入るものか・・・・。どれだけ牢番に話しをつけようとも、そもそも、赤子を抱えた女など、罪人として裁かれることもなかろうに・・・・」

「・・・・たったそれだけですか??」

「たったそれだけとはなんだ!?」


馬鹿馬鹿しい。

手を打ってある、とはいくら言ったところで、そんな尋常の手段でどうやって手に入るというのでしょうか??


「お前は・・・・!?まさか、私に、娘のために人を殺せと!?それも、全く罪のない者を、二人も殺せと言うのか!?」

「人の親ならそれくらいはして当然なのではないのですか!?」

「・・・・馬鹿な!!そんなことが許されるはずもなかろうに!!」


だったらもういい。


困ったように、というよりももはや、怯えるように私を見つめる旦那様のその瞳に、どうしてでしょうか??頭の中が、急に、冷めてきました。

今まで体の奥から燃え上がるように感じていた熱も、一瞬で冷えて来て。


「そうですか。でしたらもうお話は無いのですよね??では、私はこれで」


一方的に頭を下げてその場を辞去し、


「いわてよ!!待て!!待つのだ!!!まだ、話したいことが・・・・!!」

「私にはありません!!」


止める声も聞かず。

私の主だというのに。


・・・いいのです。別にもう、どうでもいいのです。


明日からは、どうせ私はこのお屋敷にはいないのですから。


誰もできない、と言うのでしたら、私が。いいえ。私こそが!!私だけが!!きっとお嬢様をお救いすることができるはずなのです。




早速と家に帰って身支度をしていた私に、その鬼気迫る様子に、気圧されたようにだんまりを決め込んでいた夫が、


「いわてよ・・・・。もう、いいだろう??もう、人様の子供のことなんて、そろそろ気に掛けるのは止めて、娘のことを考えたらどうだ?」


と。なんて馬鹿なことを言っているのでしょうか??

本当に男はどうしてこうも馬鹿ばかりなのでしょうか??嫌気がさしてきます!!


「娘は言葉を話すことができます。ですが・・・。ですがお嬢様は!!」


落ち着け・・・・。

落ち着くのよ私・・・・。

ここで冷静さを欠いては、まるで私が間違っているみたいではないですか?

私が間違っているなんてそんなことは断じてありませんから。


「娘もまだ、母が必要な年齢ではないか?お前がこれ以上口の聞けない人さまのことを慮ったことで、一体何があるというのだ??なあ!!いわてよ!!そろそろ目を覚ましてはくれないか・・・??」


おずおずと切り出すようなその口調。

怯えるようなその声音。

困り果てたような表情。

全てが私の神経を逆なでしてきます。


何ですか!?それではまるで・・・。まるで私が一から百まで悪いみたいではないですか!?


「あなたと言うお人は、たとえ人さまの子供であったとしても、言葉を話すことができない、口をきけない、と言うだけで、人ではないというのですか??きちんと文字を書けて、こちらの言葉をも理解できるというのに」


いえ。むしろ、お嬢様はあの御歳で、あれほど文字を勝達にお書きになることができるのですから、そこら辺の鼻垂れた小娘よりもよほどご立派です。

だというに・・・。


「いや・・・・。いわてよ・・・・。言い辛いのだが、むしろ、そちらの方が心配なのだよ・・・・。言葉を理解できるくせに、話すことができない??それはいったいどのような化生の類が憑りつけばそうなるのだ??もしくは、その、お前が言うお嬢様自体が、あやかしか何かなのではないか?と・・・・」

「そんなはずはありません!!!」


どうして分かってはくれないのだろうか??

どうしてここまで、悪しざまに言えるのでしょうか??

どうしてお嬢様を気味悪がるばかりで、その真を見ようという者はこんなにも少ないのでしょうか??


・・・・いえ、例え、どれだけの者が敵になろうとも、だからこそ、私は・・・。私だけは最後の最後、お嬢様の味方でいなければなりません!!


「行きます。娘を頼みますよ」

「行くな!!いわてよ!!行くんじゃない!!!お前が旅をしたところで一体何になるというのだ!?お前がそこまで背負って本当に救われるのか!?口伝てに、顛末は理解しているからこそ・・・・!!」


口伝に聞いた話を真のように言われたところで私の足は止まらない。

何せ私が。私だけが、一番の間近でお嬢様を見てきた、という自負があるのですから。


「どれだけの高名な方々が・・・!!一体どれだけの高名な方々が治療に当たられたと思っているのだ!?高僧・・・・、薬師・・・・・。数え上げればきりのない者達がそれでも手に負えないと言ったのだろう!?」


だから何だと??誰もが手に負えないと口々に語りましたが、その者たちが一体何をした??

ただ、獣のようにうなるばかり。もしくは、体を舐めまわすように見つめて、原因不明と。何をするでもなく、言い切るのです。

それの何を信じろと!?


「・・・・っ!?娘はどうするのだ!?娘はっ!?」


その言葉にようよう私の足は止まってしまった。

ぴたり、と。

娘のことを考えないようにしてきたけれども、今この期に及んで、ただ、その一言で、足が止まってしまった。


「今だ成人を迎えていない一人娘を置き去りにして・・・!!それで後悔はしないのか!?娘が・・・!!娘が、実の母親が自分を置き去りにして、言葉を話すことができない妖しの娘一人のために!!それもただの赤の他人のために!!一人、旅だったと知ったら一体どう思うのだ!?」


・・・・どう思うのでしょうか??

裏切られた、と落ち込む??

それとも、自分は、その娘よりも価値がない、と嘆き悲しむ??

はたまた、何も言わずに出ていく薄情な母に腹を立てる??


・・・でも。


「・・・でも、娘は、きちんと嘆き、哀しんで、腹を立てることができますけれども、お嬢様は、生まれてこの方、我儘を言ったこともございません・・・・。腹を立てて声を荒げたことも、泣き叫んだこともなければ、怨嗟の言葉を吐き出したこともありません・・・・」


ただ、ただ、困ったように。

周りの目を気にしながら。周りの大人たちが好きなように、されるがまま。

それが私はただ、ただ哀しい・・・・。


だってそうではないですか??

このまま彼女は、誰に対して我儘を言うこともなく。怒りをぶつけることもなく。喜怒哀楽の感情を持つことすらも憚って、自分の気持ちを押し殺して。

ただ、ただ、死ぬまでのわずかな時間を、外への憧れと、誰にも心を開くことのできない孤独を抱えたまま、ダラダラと過ごしていかねばならないというのでしょうか??


「前世に大罪を犯していたとしても」


ずうっと。一人になるたびに考えてきました。

どうして??と。


「お嬢様の御父上である主様が、贖いきれない罪を犯していたとしても」


呪いなのではないでしょうか??と考えたこともあります。

お嬢様に向けられた、ではなく、誰かお身内に向けられた。


「それとも何か、異国の方にしか知れない病であったとしても」


赤子の生き胆を調合して、それでも治らなければ??

あまりにもおぞましすぎるその治療薬は、素人の私には到底理解できるものではありませんが。


「・・・・私にできることがあるのであれば、最後の最後まで望みをつなぎたい。ただ、それだけなのです」


前を向け。

私にしかできないことがあるのであれば、それを叶えるために。

歩みを進めろ。

命尽きるその時まで。例え腕を失っても、歩くことができなくなったら這ってでも。

手を伸ばせ。

例えほんの僅かな、叶うか叶わないかもしれないほんの少しの光明しかなかったとしても、それを掴むために。


「行きます」


もう誰も私を止められない。

私を止める者はいない。

旅立ちは密やかに。


宵闇の中を。

雲一つないにもかかわらず。

月明かりの一切差さない深い闇の夜。

それでも瞬く星明りだけを頼りに。

川のせせらぎ。草木のささめき。そんな些細な物事に導かれるように。

空はそれでも深く。そして、途方もなく遠く。

まるで、のしかかってくるような程に重苦しいかと思って見上げれば、しかして、全てを包み込むようなほどに嫋やかに。

水底をゆらゆら、ゆらゆらと流れるようで。

足の向くまま。気の向くまま。


・・・・ああ、それでも、どこでもいい訳ではない。


考える時間はいくらでもあったから。

目的地は決めなかったけれども。


・・・・この京の都からはできるだけ離れたほうがいいだろう。


どちらに行くか??南か??西か??はたまた、全く見も知らぬ東の土地にするか??

ああ、そうだ。いっそのこと私のことなんて誰も知らない東にしたがいいだろう。


・・・・川を辿って、東へ、東へ。


人の少ない村で、それでいて、旅の者が足繁くなくてもよいから月に数回はあるようなところで。


・・・・あまり大っぴらに動いて捕まってしまえば縛り首。


縛り首になれば、お嬢様を助ける者はもういない。

かと言って、遠慮をしていればお嬢様の命が尽きるほうが早いかもしれない。


そんなことをつらつらと考えながら、東へ東へ旅をして。ついには北へ、北へと旅をする。

どうしてか?足が向いたから、とでも言うほかはありません。

やはりと言うかなんと言うか、東へ向かっても、人の気は多く、誰も彼も、子を抱えた母親に一人旅路をさせようという困り果てた人間なんていなかったものですから。

結局辿り着いたのは、北の果て。


平野を突き進んでゆくと、大きな峠道に差し掛かり、その峠をひい、ひい言いながら、それでも年の割には随分と健脚なんですね、なぞと同じく旅の者に笑われて。

下ったそこは、まるで別世界のように凍える凍原の村々。


吐く息は白く、冷たく凍えて。

真っ白に積もった雪は、京の都で見た泥まみれの汚い雪とは違って、深々と深く、柔らかく重なり、どこまでも美しくも、そして、どこかおどろおどろしい。

踏みしめる雪原は、音という音をすべて飲み込んでしまうように、静かで、ただ、ただ、自らの踏み出す足音が、きゅ、きゅ、と子犬の鳴き声のように擦れて響く。


・・・・ああ、こんな土地なら私の願いも叶うかもしれない。


ここに生きる者共は、皆、こんなにも寒く、凍える雪野っぱらを、まるで、何でもないことのように、いや、むしろ嬉々として、顔を朱に染めながらも駆けずり回っていて、女も子供も、皆等しく健脚で、皆等しく、頑強に見える。


それでそのまま川幅の広い大河を目印に、どんどん、どんどんと北上していき、ついには、起居するのにちょうど良さげな岩屋を見つけてしまった。


・・・・ここなら丁度良いなあ。


川は間近。目と鼻の先にあって、飲み水の確保は容易く。

起伏の激しい山道という訳でもなし、季節を通して天の気は優れ、何より、南と北を丁度、峠道が挟み込むように連なっているために、旅人が一夜の宿を求めやすいのではなかろうか?

そして、優れたるのは、この岩屋ではなかろうか??

洞窟の中ほどに、三人ほどが寝起きしても大丈夫な広さが確保でき、雨の心配もなければ、凍える風の不安も、照り付ける陽光の脅威もありはしない。


「ここで待っていればいつかは・・・・」


そのいつかはいつやって来るのか?

その時までにお嬢様は無事でいられるのか??

もし仮に。もし仮に赤子の生き胆を手に入れたとして、戻るまでにどれくらいの時間を費やすだろうか??


・・・・旦那様は、もしかして、最後まであきらめずに手に入れただろうか??


ここまで京の都から離れた土地にいると、全く何の話も入ってこない。

人の気もほとんどないこの地で、年に数回、往来をただ、見渡すだけ。

気持ちばかりは急くけれども、時間がゆったりと流れていくこの場所で、恐怖だけが日に一日と募っていく。

季節が回れば、お嬢様のことを考え、沈み。

また季節が回れば、残してきた娘のことを考えて、悔いを抱き。

三度季節が回れば、ゆったりと流れるこの場所で、このままゆっくりと年を取って果てていくことに何よりも恐怖を感じる。


・・・・このままこうして居ればいいのではないか?


そんな諦めと投げやりな気持ちが募ってくると、全てをなげうってまでここに来たことに、何のためにここまで来たのだ、と怒りを感じる反面、そんなことを感じている自分に怒りよりも何よりも恐怖が勝るのだ。



そうしたら。

その時は、ついにやって来た。

どれほどの歳月を待ちわびただろうか??

もうこれ以上ここに居たら気が触れていたのではないか?と恐ろしく思う反面、京の都を飛び出してきたあの日が、つい昨日のことのように感じるその日は、今まで見たこともないほどの大雨が、朝からざあざあ、ざあざあ、と降りしきる、そんな日だった。

ただ、ただ、雨は嫌だなあ、とそんな思いしかなく、予感めいたものは無かったかもしれない。

いや、後々になって考えれば、もしかしたら、その雨が凶兆だったのかもしれない。



「一夜の宿を求めておりまして・・・」



降りしきる雨の中。

重苦しい分厚い雲が覆いつくす曇天は、冬の到来を告げるかのように、薄闇で空を濁らせ、汚い川面を掻きまわしたかのようにぐるぐると渦を巻く。

そんな曇り空から、まるで轟々と流れる滝か何かのように、雨が流れ落ち、視界を埋め尽くす水の膜が、全てをかき消していく。

ほんの一歩。

岩屋の外に足を踏み出しただけで、およそ全身ずぶぬれになるに違いない。

大地も、大河も、草も木も。水色に、いや、そんな綺麗な色では決してない、泥色に塗りつぶされて行く。

そんな薄闇の中から、まるで突然降って湧いたように、飛び込んできたのだ。


二人の年若い男女が!!


それは明らかに恋仲と思わしき男女で、男が女を支えるように手を取って、導いている。

そうして、ああ、ちょうどここに雨宿りできる岩屋があるよ、なんて雨に掻き消されないようにと大声で、それでも雨音に潰されてかすれた声音で聞こえてきたから何かと思ったら、道行のようないわくありげな二人だったのだ。


「・・・!?こんなところにどなたか先客がいらっしゃるとは知らず・・・。ですが・・・!!ですがどうか!!どうか一晩だけ!!・・・一晩が無理でしたら、せめてこの雨が止むまでは、この岩屋へと一緒に泊めさせてもらっても宜しいでしょうか!?」


嫌に真剣な男の声音に、切羽詰まったものを感じながらも、特段に断る理由もありませんでしたから、


「ええ、どうぞ、どうぞ。普段はここを住まいとさせてもらっておりますが、なに、こんな雨ですからね。随分とお困りのことでしょう。一晩と言わず、雨が止むまで二晩でも好きになさると宜しい」

「・・・・っ!?それはよかった・・・・!!随分とご親切な方で・・・・。どうにも、女房の、恋衣と申しますが・・・・。連れの者が、旅の道中で子を授かったことに気づきましてね・・・・。引き返そうかと思ったのですが、彼女のたっての希望でこうして旅を続けていたものでして・・・」

「・・・っ!?なんと・・・!!なんとまあ、それは、それは・・・・!!!」


まさか、という気持ちと、内心の興奮に、声が震え、血の気が引きましたが、それを見て、怪しまれるどころか、益々もって二人は感極まる始末。


「ああ・・・!?私たちのことでそんなにも感じ入ってくださるとは・・・・!!身重を押して旅をしていることに叱責を頂くかと身構えていたものですが・・・・」

「まさか叱責するなんて!?」


・・・・そんなことをするわけがない!!何せ待ち望んでいた、獲物なのだから!!



二人はしきりに感激しきり。

そうして、私は、突然に、本当に降って湧いたような僥倖に。

ただ、ただ溺れるように打ち震え、こうしてここに、奇妙な一体感が生まれる。

それは、私にとっては願ってもない勘違いであり、一体感であり。

向こうにとっては、悪夢のようなものになるかもしれない。


・・・・それでもそんなことは構うものか。


「何かのご事情があるのでしょうから、私は深くは問いません。ささっ!!それよりもこの雨で体が冷えるとよくありません!!中に入って!!すぐに火を足しますからな!!体を温めなさると宜しい!!」

「これは恐縮です・・・。本当に面目ない・・・・。一晩の宿を頂けるだけでなく、薪まで私たちのために使っていただけるなど・・・」


感激しっぱなしの二人よりも、この時は、およそ私の方が震えるほどの、この身に起こった僥倖と呼べる幸運に心の底から感じ入っていたに違いない。


・・・・お嬢様!!もうすぐです!!もう少々お待ちください!!!まもなく・・・・!!まもなく念願叶う時が訪れるでしょう・・・・!!


そうして、当然のようにその時はやってきます。


「ふぁあ・・・・。随分と話し込んでしまいましたな」


夫と思われる男が身重の女性を気遣ってか、寝床をきょろきょろと探し始めたあたりから、ついに轟々と燃える薪の火に指でもくべるのではないかと思うほど近づけてもまだ感覚が戻らないほどに冷たく、凍えているのは、緊張からに違いない。

何せ二人の話はほとんど上の空で、それでも怪しまれないようにと相槌だけは仰々しくうっていたのですから。


「ああ!!これは、これは気付かずに申し訳ありません。私が普段寝床としている奥の部屋がありますが、そこには藁など敷いて寝心地を良くしておりますれば、どうぞ、奥様はそちらの方でお休みくださいな」

「えっ!?そんな・・・・滅相もない!!一夜の宿を求めただけでなく、そのように常床を奪うほど落ちぶれてはおりません。それに私は身重とは言え、このように未だ体は元気でおりますれば、どうぞ、お身体を悪くされたりなどいたしませんように・・・・」


なんぞと、遠慮の言葉ばかり並べるものですから、もしかしたら、この二人は、都の方から旅をしてきたのではなかろうか?とほんの一瞬頭を掠めましたが、どうして??何の目的があって??このような辺鄙な土地に??などなど、面倒な考えばかり起こりますので、まあ、どうでもよいことと無視してしまいました。


何せ。


「いえいえ!!そんな、そんな!!お腹の中のお子よりも大切なことがありますでしょうか??私の年老いたこの身など、もはやどうでもよい事です。ただし!!奥の部屋は、どうにもこうにも一人ほどしか入れないものですから、お二人別々になっても宜しいのであれば・・・・」


私の言葉に顔を見合わせる二人。

男の顔には、滅多にない申し出なのだから、是非にも、という色があり。

反面、女の顔には、いやいや、それでもやはり、僅かに遠慮する向きが見られる。

しかし、遠慮されてはたまったものではない!!

何せ、ここで、二人を殺すよりも、一人一人確実に始末する方がよほど簡単なことに違いありませんからね!!


その後もいくばくかの押し問答を繰り広げて、しかして大勢は決していたでしょう。

何せ、私は、そのような理由から、是が非にも二人には別々の部屋に分かれて眠ってもらいたい。

男は身重の奥方を気遣って、できれば固くない地面で眠って欲しい。

ここまで来てしまえば、後は容易き事。

ついには女が折れて、重たい腹を抱えながら、ゆっくりと、では失礼して、なんぞと嘯き、そのまま奥の間へと姿を消していきました。


その夜はきっと、今までにない以上に眠れなかったに違いありません。

旅の空に初めて身を置いた幼少のみぎりにも、これほど興奮して眠れなかった時は無かったでしょうし。

この齢になって久方ぶりに旅の空に出た時に、硬い大地で土の匂いを感じながら眠った時もこれほどではなかったに違いない。


・・・・いえ。きっとこれほどまでに興奮して、神経をとがらせている瞬間は今まで無かったでしょうね。


二人の鼻息。

外の雨音。

風が轟々と岩屋の中に吹き込んでくる音。

大地の匂い。

目だけは真っ暗闇の中、爛々と輝かせて、いつ何時でも、暗闇で立ち上がれるように慣らしておきながら。

その瞬間を今か、今かと待ちわびる。

それは、何とも生きた心地のしない時間だった。

もし、手探りで男に近づいたときに、夢うつつでは無かったら??

もし、何かの拍子で、一瞬で命の火をかき消すことができなくて叫ばれてしまったら??

もし、万が一にも、私が身じろぎした音で二人を起こしてしまったら??

今日この夜。

この一夜。

たった数刻。

この瞬間にしか、訪れない、またとない機会。


・・・・だからこそ、慎重に。


今までにないくらいの慎重さで。


早鐘を打つ自分の心の臓の音が、もしかしたら、男に聞こえるんじゃないか!?と怯えながら。


それでも、鼻息が、深く、ゆったりと、静かになってしばらく待った後に。

ゆっくり、ゆうっくりと体を起こして。

寝る間際に、薪の近くに、灰の中に突き刺しておいた包丁へと手を伸ばし。

足音を立てないように。

鼻息すらも吹きかけないように。

静かに、静かに忍び寄って。

その喉元に、冷たい刃の先を押し当てて。


勢いよく引き切った!!


ずぶり。と。


肉を掻き切る感触が生々しく手に残ると同時に、生暖かい何かが指先と手のひらをひたひたと濡らし。

それが、暗闇の中で、真っ赤な返り血だと気付く間もなく、かひゅっ!!という空気の漏れるような音と共に、男の目玉が勢い良く見開かれた!!


まずいっ!?叫ばれる!!


一気に湯が沸くように熱く、真っ白になっていく頭と呼応するように、包丁を持つ両の手のひらに全身の力を押し付けて、がちん!!と硬い骨に当たってそれでもなお、万力を込めて首元を斬りつけ前後に扱ぎ切る。


いつの間にか、体が自然とそうしたのか、男の口元を肘で押さえつけ、力なく暴れる右手が、それでも難を逃れようと私の眼もとへ迫って来てもなお、ぎりぎり、ぎりぎりと全身を叩きつけるように・・・・。


ごりっ!!


何かが捩じ切れるような感触を手のひらに残して、首半ばまで深々と埋め込まれた刃と、口元を抑え込むように押し付けた私の体の下で、ようよう力なく上がりかけていた手を落とした。


「はあ、はあ、はあ、はあっ!!・・・・はあ・・・・、はあ・・・・、はあ・・・・・!!」


息も絶え絶えな私と。びくとも動かない包丁を残して、男は息絶えたのだ。


「・・・・はあ、はあ、はあ・・・・」


力を籠めすぎたのだろう。包丁を手放そうと思っても指が固まって全く動かなくなってしまっている。

体のあちこちが痛むけれども、一番痛むのはどうしてでしょう??首元が酷く痛む。

これはもしかしたら自分の、というよりも誰かの利益のためだけに全く罪も関係もない通りすがりの人間を殺してしまったことに対する罰なのでしょうか??

そしたら、私は、まだこの世に生まれてもいない赤子と、本来であれば命をこの世に生み出してくれる母をこの手で殺してしまったら一体どうなってしまうのでしょうか・・・??


「・・・・まあ、だからと言ってここで引き返すことなどもはや到底できないのですけれどもね・・・・」


そもそも引き返す気もない。

これは全てお嬢様のため。

この世に生まれて、外を見ることもなく。

誰かと笑いあって冗談を飛ばし合うこともできず。

薄暗い狭い部屋の中に押し込められて、生涯を終えようとしている彼女のためだけに。


指が開かないのならむしろ好都合。

節々が痛むのはどうせ歳のせい。


あとは、夫となるはずだった男性が、冷たい骸となってもう目覚めることのない眠りへとついたことも知らずにこんこんと眠りこける彼女を起こさずに始末し、腹の子供を引きずり出して生きているうちに肝を頂戴すれば、全てが叶うのだ。


どうか。

どうか起きていないでくれよ、と願いながら。

静かに、そっと。

自力で設えた粗末な扉を開けると、そこには、僅かに隙間から漏れ差す外の光に照らされて、静かに、死んだように眠りこける女の姿が。


「・・・・よかった」


全部悪い夢なのではないか?と。

怖くなったことも何度もあった。

昏い闇の中。男が眠りへとつくまでに、もしかしたら、女がいたのは、自分の願望が見させた錯覚で、実は男の一人旅なのではなかろうか?と。

そう思っては、怖くなって。

だって、身重の女がどうしてこんな豪雨の中を旅しなければならない事情があるというのか?と。


だからよかった。

・・・・きちんと眠ってくれていて。


そう、っと。ゆっくりと。

さっきと同じように。

それでもさっきと違うことが一つだけ。

それをてっきりと失念していたのは、所詮相手はすやすやと安心しきって眠りこけているだろうし、何せ女なのだから、肉も固くなければ、筋肉だってありはしないだろう、と高をくくっていたこと。


ずぶり、と。

同じように肉を斬り裂く前に。

ああ、そうだ!!赤子の生き胆と言うことは、つまり、赤子を殺す前に母親を殺してしまったら、赤子も死んでしまうのではなかろうか?と思ったために、手足を縛って、腹を掻っ捌こうと思ったのだ。

しかし、いや待てよ。

そうしたら、万万が一にも起きて随分と暴れまわられてしまうだろうし、その間に赤子が死んでしまっては元も子もないではないか??

それに、よくよく考えたら、まずもって、縛るものが一切ないではないか。

だったら、殺さぬ程度に、弱らせてからにしてしまえば一石二鳥ではないか?

と言うことで、同じように喉元を深々と切り裂くことにしたが。


失念していたのだ。

いいや、あまりにも興奮しすぎて冷静さを欠いていたに違いない。


疲れ切って、思いのほか体に力が入らないことに!!


深々と喉元を切り裂くよりも前に、思いのほか包丁の刃が肉に刺さらなかった!!

それはもしかしたら、男の首元を深々と切り裂いたがゆえに、血糊が固まって切れ味が鈍っていたことも関係しているかもしれない。

それにしても、女は、すぐに目を覚ましたのか、何が起こったのかも分からない闇の中で、それでも暴れる、暴れる・・・・!!

主導権は私にあるというに!!

体は上から押さえつけられ、死ぬほどの痛みが全身を襲っているに違いないのに!!


「・・・・わた・・・しは・・・・!!」


どうして言葉を発する余裕があるんだ!?早く死んでくれ!!


「幼き頃に・・・・!!」


ええい!!この期に及んでなにをぶつぶつと!!


「生き別れた・・・!!母と会うまで・・・・!!」


母、という言葉にほんの一瞬、それこそ、息を吸うくらいの一瞬だけ気が緩んでしまったが、何を自分の境遇と比較して憐れんでいる余裕があるというのだ!?

私には、そもそも母親としての資格なんてものありはしない。


「死ねないんです・・・・!!」


いや!!

どんなに気の毒だろうが。

どんなに苦しかろうが。

それでも言葉をきちんと話して相手に想いを伝えることができているのだ!!だとすれば、そんなの、お嬢様の境遇に比べれば、大したことは無いだろう!!


「いいから早く死ね!!早く死んで!!!赤子の肝を寄越せえええええ!!!!!!」

「・・・・っ!!!!!」


全身の力を込めて、どれだけの時間暴れていた女を抑え込んでいただろうか??

いつまで続くのかと思われる苦しみの中で。

ついにようやく女の体から力が、すう、と失われて行った。


「はあ、はあ、はあ・・・・!!!ふうぅぅぅぅ・・・・・!!ついに!!!ついに終わったぞ!!!あっ!?」


そこでようよう気付いたのだが、母体は息絶えているが、赤子は大丈夫なのだろうか!?

慌てて女衣服を引きはがすように斬り裂いていると、胸元から何かがポロリと零れ落ちてきた。

それは、夜目にも、何かのお守りのように見えたが、そんなことはどうでもいい。そんなことよりも、赤子の方だ!!

腹を切り裂いて、生暖かい血と、破水の水の中から、びっくりするほどに軽い赤子を引きずり出す。

・・・・出すのだが、それよりもどうしてか、この時は、どうしてかお守りが、気になって、気になって仕方がない。

一体何があるというのか??

赤子を切り裂いて、肝を引きずり出すのが先決だというに。

それなのに、何故??

どうして??

この何の変哲もないお守りが気になって仕方が無いのだ??

ゆっくりと。

ゆっくりと手に取って、表面をなぞるように手で触っていると。

お守りの裏に、ざらざらとした手触りを感じ、刺繍で何かが編み込まれていることに気付いたが。


「いったいこれは・・・・??」


どうしてか??

今まで感じたこともない胸騒ぎが、ざわざわ、ざわざわと・・・・。


ゆっくりとなぞって。

その文字を、確かめた

始めは、気付かなかったが。

何度か、何度か手でなぞっていくうちに、それが文字だと。

彼女の名を刺繍した文字だと気付いた。


「こ・い・い・・・・??っ!?まさかっ!?」


恋衣っ!?だとっ!?


「・・・・あああっ!?そんなばかなっ!!??もしかしてっ!!??もしかしてこの娘はっ!!??」


私の娘ではないか・・・・??


ぶつん。と頭の中で何かが切れた音がした。

目の前が真っ赤になって。

あとはもう、何が何かも分からなくなって。

気が付いたら。朝露の中。


轟々と流れるそれでもなお澄んだ川面に立って、血まみれの両手を、いつまでも、いつまでも洗っている自分に気が付いた。

まるで、そうやって綺麗な澄んだ水で洗い流せば、全てが悪夢か何かのように流れていって、無くなってくれるのではなかろうか、とでも願うように。


「ふふふ・・・・・。ははははははっ!!!!」


随分と酷い顔をしているぞ。

ぼろぼろで土気色の肌。髪はぼさぼさで、色つやもなく。眦は吊り上がって、頬がげっそりと窶れ。

まるで今まで見たこともない、おどろおどろしい老婆の姿へと一夜にして変貌している。


・・・・いや。きっと私は、私ではない別の何か。妖しのものへと姿を変えてしまったのだ・・・・。


あれ??そう言えば、どうしてわしはここに居るんだっけか??

はて・・・・??何のためじゃったか・・・・??

おおっ!!そうじゃ、そうじゃ!!赤子の生き胆を食さなければならぬのじゃったわい!!いや・・・・。

この際、男でも、女衆でもなんでもよいわ・・・・。


喉が渇く・・・・。腹が減った・・・・・。


「ああ、そうじゃ。昨夜に殺した獲物の肉が、余っておるんじゃったわい」



本来のお話を乗せておきます。

皆さんが読みやすいように、若い方でも馴染みやすいようにと思ってアレンジしているだけで、ところどころ史実と違うこともあると思いますがそれもご愛敬と思ってください。

【昔、京の都に、いわてと呼ぶ老女がいて、可愛いお姫様のお世話をしていた。

ところが、お姫様は、大きくなっても口をきくことができなかったので、医者にみてもらったがどうしてもなおらなかった。

今度は、占師にみてもらったところ

「おなかの中にいる子どもの生ぎもを飲めば」 と教えられた。

いわては、生ぎもをとるために、京都を出て、奥州まで下って来た。

阿武隈川のほとりまで来て、いわては、生ぎもをとるのにちょうどよい場所を見つけ、そこに棲みついて、旅人を泊まらせては、生ぎもをとっていたという。

或る晩秋の寒い日のこと、若い二人の男女が、宿をこうて訪ねて来た。

この二人は、生駒之助。恋衣と呼ぶ夫婦で、

「泊まる所がなく、この寒さで困っております。それに、恋衣の腹には、子がおりますので・・・」とのことであった。

いわては、この話を聞いて、喜んで、泊めてやることとした。

その夜のこと、恋衣が、急に腹痛をうったえだしたので、生駒之助は、急いで薬を求めに出かけていった。

いわては好機とばかり、台所から出刃包丁を取り出して、恋衣の腹をさいた。

恋衣は苦しい息の下から

「私は、母を尋ねて歩いております。心当りの旅人がありましたらお話し下さい」

と語って、息絶えた。

いわては、恋衣の持ち物を調べたところ、お守り袋があったので、これを開いてみて驚いた。

恋衣は、いわての娘であった。

知らなかったとはいえ、いわては自分の娘を殺し、孫を殺したので、苦しみに苦しみ続けたいわては、遂に発狂して、鬼婆となったのだという。】

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