秋田県 八郎潟 竜子姫伝説
【秋田県 八郎潟 竜子姫伝説】
秋田県の北部、海沿いの街には、八郎潟と呼ばれる干潟が存在しています。
干拓される前は、日本の湖沼の中で、その面積が、琵琶湖に次ぐ第二位であったそうですが、戦後、食糧問題を解決するために、農家の次男、三男を人足として、大規模な干拓事業が持ち上がり、今では、その大部分が、干拓(埋め立て)され、田んぼとともに『大潟村』と呼ばれる村へと変わりました。
そんな、八郎潟で語り継がれる伝承で、私が、幼少期、小学生低学年の時に年配の方々に聞いた話を、ぼんやりとしか覚えていませんでしたが、こんな話だったかも?と曖昧な記憶を頼りに物語として描きます。
昔々、八郎潟の近くを治める領主のもとに、一人の娘が生まれました。
雪の様に白い肌、まん丸な瞳、愛嬌のある口元、その娘は、親の贔屓目抜きに、美しい娘へと育つだろう、と誰もが、噂しておりました。
そして彼女、竜子は両親にたいそう可愛がられ育ち、玉のように美しい娘へと成長いたしました。
さて、昔から、八郎潟には、竜が住む、と噂され、春には豊作を祈願し祭りを、秋には、一年の実りを感謝し、作物を奉納することが習わしとなっておりました。
それは、いつからそうだったのか?どうしてそう言われるようになったのか?誰も分からぬまま、意味と、目的だけが風化し、ついには忘れ去られ、ただ、春と秋に八郎潟のほとりで村を上げて祭りを行う習慣が残されるようになったと聞きます。
村の年寄りは、幼いころから言い聞かされてきた祭事をとても大切にし、遠く、記憶のかなたに語られる竜の伝承を忘れはすれども、湖のほとりに建てられた大きな社にいつも感謝の気持ちと、参拝を忘れなかったそうです。
さて、竜子がまだ幼い時分のころ、初めて母に連れられて祭りに参加した時の話です。
父は、村を治める領主と言うこともあって、祭事をつかさどり、社を管理する巫女や、神主たち、そして村長たちがつきっきりなので、娘のことなど、構ってやれません。
母は、母でやはり付き合いがあるようで、あっちに挨拶をし、こっちに挨拶をし、まだ年若い竜子にとっては、退屈な時間でしかありません。
初めて見る大人たちは、皆竜子に笑いかけ、話しかけてくれますが、随分と甘やかされて育った竜子は、かなり人見知りする質だった様で、母の陰に隠れ、ほとんど口を開くことがありませんでした。
そして、幼い竜子にとって何より大変だったのは、母が、いろんな人たちに声をかけて歩き回るせいで、足が棒のようになり、痛くて、痛くて、しょうがないことです。
普段は見かけることのないほどの大勢の人並みも良くありません。村の中で、こんなに村人が一堂に会する機会は、年に二度、春秋の祭りの時だけだから、しょうがないのかもしれませんが、それでも幼い竜子にとっては、ひどく辛いことでした。
「もう歩げねが?」
おっかあが、心配そうに私のことを見てくるけれども、なんだか馬鹿にされているように感じるし、何より、ここで歩げね、って言ってしまえば、駄目なような気がして、
「だいじょうぶ!!!」
と意地を張る。
不貞腐れたような私の顔を見て、おっかあは、苦笑いを浮かべ、
「そうが」
と言って、また前を向いて歩きだしてしまった。
「あ・・・・!!」
やっぱり、正直に言ってしまえばよかったんだろうか?
すたすたと前を歩いていくおっかあの後を懸命に追っていると、なんだか無性に腹が立ってきて、悔しくて、悔しくて、涙が零れ落ちそうになってきた。
それでも泣いたら、もっと駄目な気がして、必死に上を向いて歩いていたら、一瞬目を離したすきに、前を歩いていたおっかあの姿が人並みの中に消えて行ってしまい、どこに行ったのか分からなくなってしまった。
「ああ・・・・・!!」
今度ばかりは、本当に涙が溢れ出てきて、その温かい涙が、頬を伝って流れ落ちて行く。
周りは、皆、見上げるほど背の高い大人たちがほとんどで、祭りの人並みにかき消され、私の声は消えて行くし、振り向きもされない。
―――こんなに人がいっぱいいるのに・・・・!!
どうしてだろう?こんなに寂しく感じるのは・・・・。どうしてだろう?私一人だけ、まるで見たこともない、今までいた世界から急に、全く知らない世界に飛ばされてしまったように感じるのは・・・・。
「なして泣いでるんだ?」
「・・・・え!?」
急に声をかけられたからだろう、びっくりして、思わず、涙も止まってしまった。
振り返ったそこにいたのは、ぼろぼろのすり切れた、粗末な衣服を身に纏った、私と同じ年くらいの少年。
恐らく、農夫の生まれなのだろう、真っ黒に日焼けした顔、体と、そして手のひら、特に爪の中には、洗っても落ちないのだろう、泥がこびりつき、一目に、小綺麗とはお世辞にも言えないような子供だった。
それでもこの時ばかりは、ようやく自分の知っている世界に、村に戻って来られたような安堵を感じて、そのまま、ほっとしたのか再び泣き出してしまった。
「うわーーーーーー!ん!!!」
「なした?なした?」(秋田の方言で、どうした?という意味です)
「ひっく・・・・!!ひっく・・・・!!」
「おらがなんかしてしまったか?なして泣いでるんだ?」
「あのね・・・!!あのね・・・・!!」
もはや呂律の回らない舌を必死に動かして、何とか、おっかあと離れ離れになってしまったこと、もしかしたらもう二度と会えないかもしれないことを伝えようとしたが、こみあげてくる嗚咽と、そして、涙を懸命に抑えていると、それも難しい。
「みんなさ見られで、おれがわりいみだいになってるがら、ちょっとあっちさ行ぐべ」
手を引かれ、連れられて行ったのは、湖のほとり、近づくなと、おっとう、とおっかあにきつく言い含められていた場所だ。
「こさ近づいだらごしゃがれる・・・・!!」(ごしゃがれる、怒られる、叱られると言う意味です)
慌てて止めようとしたが、私の手を引く男の子は、一向気にするそぶりを見せない。
むしろ、振り返った顔は、きょとんとしていて、本当にどうしてか分からないようだった。
「なして?」
「だって・・・・おっとう、とおっかあが・・・・」
そう言えば、なんで怒られるのか、今更になって分からないことに気付いてしまった。
どうしてだろうか?そんなことをふと頭の片隅にぼんやりと浮かんだが、それでも、心の中の大半は、怒られたくない、という感情が占めていた。
「なしてって・・・・。近づいだらよぐねっておっとうとおっかあが言うから!!」
自分でも、自分の出した大声にちょっとびっくりしてしまった。
兎に角、湖に近づいては駄目だ、そう教えられているから、何か危ない物でもあるのだろう。
「なしてだろうなあ・・・・?おれたちは、この湖でたまに釣りするんだ!!」
そう言って快活に笑う彼は、私の話を聞いていないのだろうか?
「ちょっと・・・!!もういいから・・・!!」
何とか彼の手を振りほどこうとしたが、それでも、彼の方が、力が強く、私はろくに抗えないまま、湖のほとりに連れられてきてしまった。
「今は春先だがら、水の中さは入れねども・・・・・。きれいな水だど思わねが?」
彼は、何にも考えていないようで、ずんずんと湖のほとりに近づいて行ってしまう。
私は、引き返そうと必死で、それが叶わないなら、何とか湖から遠ざかろうと、彼の背に隠れるようにしていたが、不思議と、湖に近づくたびに、肌に感じるほの熱さが引いていくような、涼やかな気がする。
今年の春は、少し暖かく、先ほどまでうっすらとかいていた汗も、今はすうっ、と引いて、どこか心地よかった。
「ほら!!見で見ればいいのに!!」
再三促され、見つめる彼に、何の不吉な予兆も出てこないので、意を決して、のぞき込むように湖を見る。
―――決して、少し興味があったわけじゃない・・・。
そう、内心で言い訳をするのは、未だ、僅かに罪悪感を感じるからだ。
「・・・・!!」
それでも、そんな罪悪感など、一瞬で吹き飛んでしまった。
真っ先に目に飛び込んできたのは、湖の底まで見えるのではないか?と錯覚するほどに美しく、澄んだ水。
どこまでも続くのではないか?と思うほどに遠く、地平のかなたまで続いたこの湖は、その広大さに自然と興奮を覚えさせ、そして、どこか、言い知れぬ恐怖を感じさせる。
古今、人は、広大な自然の前に、己の無力さと、そして、自分が、どれだけ自然に生かされているのかを見せつけられると、恐怖を感じるのは、太古から受け継ぐ本能なのかもしれない・・・。
そんなことは一切分からなかったが、それでも、間近で見る八郎湖に圧倒されっぱなしだった。
「すごい・・・・・!!」
「んだべ!?」
どこか自慢げに笑いかけてくる彼に、くすり、と笑ってしまった。
「やっと笑ったな。笑うとお前めんこいんだな!!」(めんこい、は可愛いの意味です)
快活に笑う彼に、そう言われて、頬が熱くなってきた。胸がドキドキする。いったい私はどうしたのだろうか?
一瞬だけ、心配になったが、「ほら!!」そう言って彼が指さす先を見て、それどころではなくなってしまう。
「遠くに見えるが?あの山が、寒風山て言うんだ!!」
「へえ・・・・・!!」
「とうが話してくれだんだども、木も草も、花も全く生えでねんだど!!」(とう、父のことです)
「え!?なして!?」
「わがんね!!」
―――わかんないのかよ!!
そう思ったが、なんだか、そう言ったら、今見せてくれている、太陽のように眩しい笑顔が、曇りそうで、口をつぐんでしまった。
「あれは何!?」
指さす先には、ほとりに咲く黄色い花、まるで鈴のような花弁を空に向けて開く、美しい花だ。
岸が湖に浸食され、そこだけ丸く、切り取られたように滾々と水を湛え、その中に、群生するその花は、美しく、それでいてどこか儚い趣がある。
「わがんね!!」
「何にも分がんねな!!」
思わず口をついて出た言葉に、はっ、としてしまう。しまった!!と後悔するのはすでに遅く、慌てて彼を見ると、そこには、先ほどと全く変わらない、輝くような笑顔があった。
「あどでかあに聞ぐがら、分がったら言うよ!!」(かあ、母の意味です)
「うん・・・・」
正直ほっとした。何より、嬉しかった。一点の曇りなく、快活に笑う彼に、私はこの時、知らずに惹かれていたのだ・・・・。
どれくらいそうしていたのだろうか?気付けば、かなりの時間が経っていたようで、祭りをしていた広場がにわかに騒がしくなっていた。
「あ!!おっかあと離れだんだ!!おっかあ探してるんでねが!!??」
「なんだ!?まさがお前、偉い人の娘なのが?」
ドキッとした。
何で分かったのだろう?もし、そうだと言ったら、彼は、私に対して他の皆と同じように距離を置くのだろうか?
「なして・・・・?」
「なしてって、そんたらこと簡単だ。だって、村のがきだば、とうも、かあも、いつものことだがら探さねど?俺らは腹減ってえさ帰るんだ」(えさ帰る、家に帰るの意味です)
「なにそれ・・・?」
思わず笑ってしまった。
悪いとは思いつつも、くすくすと笑っていると、彼も少し困ったような顔をしていたが、どこか嬉しそうに、「そういうもんでねえの?」と弁明している。
それが、また面白くて、気付けば、二人、目を見合わせて大笑いしてしまった。
「行かねば」
名残惜しい、そう正直に思ったが、おっかあも探してくれているはず。随分と心配をかけているんじゃないかと思うと、急いで戻らなきゃと思ってしまう。
「気付けでな」
「うん・・・・」
そう言って、祭りの広場近くまで私を送り届けてくれた彼に別れを告げ、すぐに、くるりと振り返った。
訝し気な彼の顔を見ていると、そのままずうっと見ていたいと、どこかで思ってしまったが、それでも別れの時は近い。
「名前」
「え・・・!?」
「名前、教えてくれねが?」
恥ずかしかった。
男の子に名前を聞いたのは、初めてだし、そもそも、同年代の友達、と呼べるような子もいないのだから、どうやって仲良くなればいいのかもわからない。
そんな私だからこそ、相手の名前を聞くのは失礼なのではないか?とか、なんでそんなこと聞くんだ?とか思われないか心配で、今の今まで聞けなかったのだ。
「八郎っていうんだ!!」
それでも、彼は、何とも思わなかったようで、ああ、忘れてたな、って顔して、すぐに教えてくれた。
それが嬉しくて、嬉しくて、心が躍った。
「八郎!!わたし、竜子!!じゃあね!!」
「竜子か!!気付けで帰れ!!」
そう言って手を振って見送ってくれる八郎に私はうきうきした気分で祭りに戻った。
勿論、私のことを探し回ってくれたおっかあと、そして村の人たちに随分と心配され、どこに行っていたのか?何をしていたのか?もう二度と迷子になるんじゃない!!と厳しく叱られたので、いろんな意味で、思い出深い祭りになった。
それから月日は経ち、竜子は、姫と呼ばれるにふさわしい年齢になった。その頃には、匂い立つような美しさと、溌剌とした明るさと、何より、際立った生命の輝きを放つ、それは、それは可憐な女性へと変貌を遂げていた。
彼女の美しさは、その村の中だけではなく、周囲の村々にまで鳴り響き、あちこちの領主、豪農、地主、果ては商人に至るまで、ありとあらゆる身分、経歴、財産を持った男性たちが彼女を求めて求婚を繰り返していた。
しかし、どれだけ両親が彼女に婚約を持ちかけても、彼女は一切首を縦に振ることは無く、誰からの誘いも断り続けていた。
いつしか、誰かが噂した。
―――どこかに思い人がいるのではないのか?と。
また口性のない誰かが、噂した。
―――もしかしたら、結婚できないいわれがあるのではないか?と。
それは何だ?と聞かれたときに、ある者は、病気だといい、ある者は、彼女の容姿のたぐいまれな美しさから、もしや、只人ではないのではないか?と噂する・・・・・。
こうして、真相は誰にもわからぬまま、月日だけが過ぎ、ついには、彼女の両親が、一計を画策する・・・・。
それは、秋の豊作を祈願する奉納祭の時の話。
彼女は、いつも、年に二度の祭りのときを心待ちにしている。その理由は簡単で、唯一大っぴらに、彼に会うことができたからだ。
身分違いであるがゆえに、普段はほとんど会うことができない、誰よりも愛し、誰よりも大切に思う、彼、八郎と―――。
どうしてそうなったのか?当人同士ですらも分からない。
しかし、あの祭りの時から、人目を忍んでは、何とか、逢瀬を重ね、いつのころからか、お互い惹かれ合い、ついには、好き合う者同士となった二人。
今回も、祭りを抜け出し、二人で、山中の小さな祠の前に来ていた。
そこは、眼下に八郎湖を見渡す、視界が開けた高台のような場所で、背景に真っ黒い洞窟がぽっかりと口を開いており、どこか不気味で、風が吹き抜けるびゅう、というわずかに甲高い音が、まるで獣の唸り声の様に聞こえる。
昔から誰も近寄らない、その理由を知る者がいなくなった過去から現在に至るまで、しかし、村の人々は、決して近寄らないようにしており、だからこそ、竜子と八郎にとっては、都合のいい場所だった。
何より、湖を見渡せるこの場所は、背後の洞窟にさえ目を瞑れば、景観はいい。
「あーあ・・・・・・」
ため息交じりに吐き出した言葉は、遠く、抜けるように蒼い、雲一つない秋晴れの空に吸い込まれて、消えて行く。
「ため息ついだら幸せ逃げるど?」
隣に立つ、八郎は、しょうがないな、というような苦笑いを浮かべながら私の方を見てくるので、頬を膨らませて、私、怒ってますよ、と言う表情を作る。
普段は絶対に人に見せない顔だ。
村人は、とかく私のことを、まるで人ではない、高潔な存在の様に慕ってくれているので、滅多なことでは表情を変えることができない。
だからこそ、唯一八郎にだけは、素のままの私を見せることができるので、彼のそばは、一番安心する。
「なした?」
「私たち、どうなるの?」
一瞬の沈黙の後、私の問いかけに彼は、ぴたりと口をつぐんでしまった。
「・・・・・」
しかし、すぐに困った表情を浮かべる。本気で困った表情だ。
「どうにもできんべ?」
またこれだ・・・・。
少しがっかりしてしまったのは、否定できない。
何か、どうにかしてほしい、と心のどこかで、本気で考えているのだ。
彼が一番、苦しいと知っているにもかかわらず・・・・。
「私を連れて逃げでよ」
はっ、と息をのんだ彼の顔がみるみる歪んで、しまいには泣き出しそうな顔になってしまった。
「俺は・・・・!!」
嫌だ―――。見たくない・・・・。そんな顔。嫌だ―――。聞きたくない・・・・。その言葉の先を。
「なあんて!!嘘だ!!」
分かっている。叶わない恋だとは・・・・。
分かっている。決して私と彼が、この先一緒になることなどないことくらい・・・・・。
それでも、本気で、一割くらいでも、この村から二人で逃げ出して、どこか別の村で、生きていきたいと、願ってしまうのは、悪いことなのだろうか・・・・?
遠くから、祭りの喧騒が聞こえてくる。
誰も彼も幸せそうで、この音を、声を聞いていると、気が狂いそうになってしまう。
耳を塞いでしまえば聞こえ無くなるんだろうか?
ううん。だって、この時、この場所から、離れてしまえば、また私たちは別々の時を、場所を生きて行かなければならなくなってしまうんだ。
その時、どれくらい耳を塞いでも、どれだけ目をつむっても、背けられない現実があって、それがなおのこと私を、彼を苦しめるんだ・・・・。
もう時間が無いことなど、どこかで分かっていたのに、この時は、私も彼も、どうしてか、いつまでもこの時間が続くのではないか?と錯覚してしまって、ついぞ、頭の中にすら夢想していなかった・・・・。
だから、あんなことになってしまったのかもしれない・・・・。
名残惜しくも、帰宅した私を待っていたのは、神妙な顔をした父と母の姿だった。
そこには、見たこともない、いや、よくよく見ればどこかで見たことのある男が座っていた。
随分と、濃い顔をした、武人を思わせる、鋭い目つきをする人だ。
しかも、よりにもよって、彼は、私の家なのに、我が物顔で座り込んでいるし、帰宅した私を一瞥して、それから、まじまじと不躾なくらい見つめてくる。
―――なんだか・・・・。品定めされている様で、嫌だな・・・・。
本当にいったい誰なんだろう?
そう思いながら、挨拶をしようと口を開いた瞬間、私の機先を制するように男が口を開く。
「随分と見ぬ間に、美しく成長されたな。竜子姫よ。決めたぞ!!私の嫁として是非にももらいたい!!」
「・・・・え・・・!?」
唐突すぎて二の句が継げなかった。
―――彼はいったい何を言っているのだろう?とか、今何と言ったのか?とか、そんな疑問ばかりが、ぐるぐると頭の中に浮かんでは消えて行く。
私のおっとうと、おっかあは、そんな私に声をかけてきた。
「良かったな!!お前!!この方の目に留まって随分と幸せだぞ」
「そうよ!!この方は、この辺一帯を治めている方で、都からこちらにやってきた武官でもあるのよ?将来安泰だし、私たちの村も、今後、何かあった時にはこの方に守ってもらうことができるようになるのよ?」
私の沈黙をどうとらえたのだろうか?随分と好意的に話す二人とは裏腹に、私は、目の前が真っ暗になったような、そんな気分がして、顔から血の気が引いていくのが自分でも分かった。
「・・・そんな・・・!!」
「なんだ?不満なのか?」
じろりとにらまれ、すごまれれば、喉元まで出かかった言葉は飲み込むしかない。
ただひたすらに怖くて、おっとうと、おっかあも、心配そうに私と、そして男の顔色を窺っていて、それが一層、重圧となって私にのしかかってくる。
断りたい・・・。そうは思うが、今までとは違って、有無を言わさぬ雰囲気がある。
「今日はめでたい!!祝いを行うぞ!!!」
男は、急に大声を上げたかと思うと、そのまま、私の両親を巻き込んで、酒宴を開いてしまった。
あれよあれよという間に、流されるまま婚約が決まってしまった私。
飲み込んでしまった言葉は、その日初めて飲んだ、いや、飲まされた酒よりも苦くて、喉の奥に、いつまでも、いつまでも残り続け、まるで何かが詰まっているかのような不快感だけが、残っている。
その日、私は男が帰った後に、おっとうと、おっかあを前にして、初めて己の心境を吐露することにした。
「おっとう!!おっかあ!!私、今まで隠してたども、好きな人がおる!!だがら!!今回の話、無がったことにしてくんねえが!!??」
「なんだって!!??」
「・・・今更なんてことを言うんだい!!??あんたは!!」
この時ばかりは・・・。この時ばかりは、蝶よ花よと育ててくれたおっとうと、おっかあが、今までにないくらい失望したようなまなざしを送ってきたが、そんなことに怯んではいられない。
「私!!嫌なんだ!!あんなよく知りもしねえ男と結婚するなんて!!私!!昔っから好きで好きで・・・・好きな奴がおるんだ!!」
終いには、泣き出してしまった私を慌てて慰めるおっとうとおっかあは、随分かけて私を説得しようとして、「今回の縁談は無かったことにできないんだ」とか、「あのお人の何が嫌なんだ?」とか、「今まで育てだ私たちの苦労をあんたは知りもしないで・・・」とか、最後の方は、おっかあが泣き出し、おっとうが、怒鳴りつけるように私に命令する。
「いいから!!あのお方と結婚しなさい!!」
それでも私は、最後まで、うん、と首を縦に振らなかった。
瞳から零れる大粒の涙を拭うでもなく、ただ、馬鹿みたいに嫌々と駄々こねる子供の様に首を振り続け、そこから先は覚えていない・・・・。
竜子姫は、その後、正式に、両親に結婚を村中に、いや、近隣の村々にまでも知らされ、もう逃げ場がないところまで追い詰められました。
そして、彼女の両親は、食事すらろくに摂らなくなった彼女を見て、これでは駄目だと、思い、婚姻を早めることにしました。
それは、秋の夜長の、これから冬に向かうだろう、寒さが厳しくなってきた早晩のこと。
雲が天を覆い、月も、星明りも届かぬ、暗い室内で、彼女と、両親を照らし出すのは、僅かなろうそくの明かりのみ。
そこで両親は彼女に、もう来週には婚姻を執り行うこと、そして、そのまま、男の妻として、娶られていくことを説明しました。
彼女の口ぶりから、竜子姫が好いている男が、村人だとは知っていましたが、あえて誰とは聞きませんでした。
それは、聞くのが怖かったからなのか、それとも罪悪感からなのか、誰も今となっては知りませんが、竜子にとっては、いや、八郎にとっては、何よりの幸運だったのかもしれません。
「おい!!聞いだが!!??やっと竜子姫がご結婚されるんだどよ!!」
「なに!?本当だが!?相手は誰だ!?」
「聞だ話だば地方領主らしいんだども・・・。都がらやってきた男らしいど!!」
「都の男が!?そいだば・・・・残念だどもしょうがねな・・・・」
村は、憧れ、恋い焦がれ続けた竜子姫が、ついに結婚すると言うことで、大騒ぎだった。
この時ばかりは、男も、女も、老人も、子供も関係なく、皆が竜子姫の結婚を残念に思い、そして、その次には、幸せになってほしいと願った。
たった一人を除いては・・・・・。
あの時、こんなことになるくらいなら、彼女の言う通り、二人で逃げればよかったのだろうか?
いや、決して生きられはしなかっただろう・・・・。
だったら、あの時、正直に彼女の両親に願い出て、彼女を娶っていればよかったのだろうか?
いや、決して認めてはもらえなかっただろう・・・・。
それでもこんなことになるくらいなら・・・!!
あの時こうしていれば、あの時ああしていれば、という、後悔が押し寄せては、彼を、八郎を苛む。
八郎は、彼女を諦められるほど、潔くは無かったし、何より、あの娘を、誰にも渡したくはない、という強い気持ちが、村の誰よりも、下手をしたら彼女の両親よりもあった。
それでも・・・・・。
一向にたどり着かない答えは、まるで、緑深い森の中で、迷子になった時に似ている。
焦燥が、己の心を焼き、恐れが、己の足を、体を竦ませる。
―――こんなにも!!こんなにも苦しむのだったら!!いっそのこと彼女に出会わなければよかったのか!!??
そんなことを考えては、自分を責める。
もはや、八郎にとって、彼女のいない生活は、生きているとは言わなかった。
だからこそ、あの時鈍った決心を固め。あの時、躊躇った足を、前へ、前へと進めることにした。
婚姻の当日、それはそれは多くの村人たちが集まり、近隣の村々からも、伝え聞く彼女の美貌を一目見ようと、多くの人が詰めかけてきた。
皆が、竜子姫と、その両親、そして、隣に座る婿に声をかけ、お祝いの品を手渡していく。
両親はどこか晴れ晴れした顔で、婿となる男は、心底に嬉しそうに、しかし、竜子姫だけは、無理して作った笑顔を顔に張り付け、どこか苦しそうに・・・・。
だからこそ、村人たちは、竜子姫がどこか具合でも悪いんじゃないか?と心配そうにしていた。
そんな中、近づいて行ったのは、みすぼらしい身なりをした、若い農夫の男。
長年の肉体労働で、日に焼けた顔は黒く、ごつごつとした手は、泥にまみれて真黒で、顔は精悍な顔立ちだったが、どこか思いつめた表情をしていて、普段であれば、人好きのする笑顔も今日は鳴りを潜めており、その容姿も相まって近寄りがたい雰囲気を出していた。
しかし、彼には誰も目を向けない。
彼のことをよく知る友人ですらも、今日はなんだか機嫌が悪いな、くらいにしか思わなかったはずだ。
まあ、それも村の男たちなら、祝福しつつも、どこかで無念に思っているのは一緒だから、ますますのこと気にはしなかっただろう。
たった一人、主役のはずの竜子姫だけ、彼の登場に目を丸くする。
それは、たった一瞬の出来事。
普段は、余所行きの顔で、作り笑いを浮かべる、彼女の、およそ人前で初めて見せた人らしい表情。
それでも、気付いた者は少なかっただろう。
両親ですら、あれ?としか違和感を覚えなかったのだからなおさらだ。
それなのに、彼女の隣に座る男は、誰よりも、彼女を見つめてきたからこそ、違和に気付いた。
「おめでとうございます・・・・」
ぶっきらぼうに言って一輪の黄色い花を手渡し、去って行った彼を見て、それを受け取った竜子姫に、すかさず男は問う。
「さっきの男はいったい誰だ?」
「・・・・・さあ?分がりません・・・」
いつも以上にぶっきらぼうな答えに、一層不信感を募らせる男は、更に問う。
「その花は何だ?」
まるで鈴のような花弁を天に向かって開かせるその花に、見覚えは無かった。
珍しい花で、何かの意味があるのかと疑ったが、対する竜子姫の答えは、更にそっけない物だった。
「分がりません」
そう言う竜子姫の表情は、本当のことを言っている様で、たまさか嘘偽りは無いように思えた。
「そうか・・・・」
婚姻の宴が進んでいくと、どんどん顔色が悪くなっていく竜子姫を心配し、村人たちが、休ませるように申し出たため、本当のことを知っているだけに気が気ではない両親は、それでもしぶしぶと、納得し、彼女を家に帰した。
宴は、そのままお開きとなるかと思えたが、婿となる男の思惑で、その後も続けられることとなり、誰も竜子姫がその後、思いがけない行動に出るとは夢にも思っていなかった。
こうして、湖の水面を見つめていると、昔のことを思い出す。
どうしようもなく幼く、彼女のことを、領主の娘だとは知らずに、可愛い女の子だと浮かれていた浅はかな自分・・・・。
こんなことになるのなら・・・・・。
「・・・!!居だ!!良がった!!」
後ろから、遠くからでも分かる、この声は、この足音は、彼女だ!!
まさか!!本当に来るとは!!
期待をしていながらも、どこかで諦めていただけに、本当に彼女なのかと疑ってしまう。
くるりと振り返った先には、美しい装束を身に纏い、それでも、一切、その華やかさに負けることなく、輝くような彼女が、立っていた。
夢じゃないのか?と疑いたくなる。
はらはらと、涙が零れ落ちてきた。
どん!!
気付けば、彼女が、俺にぶつかる様に、勢い良く抱き着いてきた。
その温もりが、その優しい体の柔らかさが、匂い立つような、どこか甘やかな香りが、彼女が本物だと言う何よりの証左で、暗く沈んだ心が、一瞬でひっくり返る。
それで思い知らされた。
―――俺はやっぱり彼女がいないと生きていけないんだ・・・!!
「良がったのか?」
「いい」
聞かなくてもいいことだったかもしれない。
それでも聞かずにはいられない。
「俺で、良がったのか?」
「八郎じゃないと嫌だ」
だったら、もう心は決まっている。
あの日言えなかった言葉を、あの日、躊躇った覚悟を・・・。
「俺と一緒に逃げでくれ!!」
「うん!!」
「んで!!俺と一緒に生ぎでくれ!!」
「うん!!!」
これが、俺にとっての精一杯の言葉。
この言葉を言うのに、どれくらい緊張したか分からない。
この言葉にどれだけの覚悟を込めたのか分からない。
前途は多難で、これからどうするかも分からない。
生きて行けるのかも、どこで生きて行くのかも、分からない・・・・。
それでも、彼女だけは、手放したくなかったのだ。
命に代えても、手放したくなどなかったのだ!!
こうして、二人は、婚姻の宴の日に、逃げ出しました。
しかし、残された両親は大慌てです。それはそうです。婿となるはずだった男の怒りようと来たら、それはそれは大変なものでした。
彼女を手放したくないのは、彼女を自分の物にしたかったのは、彼もまた、同じなのですから・・・・。
「人をやってくまなく探せ!!!いいか!!??見つけ次第男は殺せ!!竜子姫は、傷一つ付けずにここに連れてくるんだ!!!」
ずらりと、竜子姫の家に集められた武人たちは、どれくらいの数に及んだだろうか?
両親は、見たこともないほどの数と、そして、隅々に至るまで統率された、兵の姿に恐れおののき、何もできずに陰で震えていた。
「くそ!!まだ逃げられてから一日しか経っておらん!!人の足で行ける範囲なぞ限られている!!人を集めろ!!そうして街道の隅々まで調べ尽くせ!!!」
即座に検問が敷かれ、近隣の村々までお触れが出され、竜子姫を見た者、もしくは、捕えることができた者には、決して少なくない金額のお金を出すとまで通達され、もはや彼女の逃亡は、すぐに見つかる物と思われた。
それでも、何の収穫もないままに、一日、また一日と過ぎて行き、日に日に機嫌を悪くしていく男に、誰もが最悪の事態を想定していたその時、ある二人のみすぼらしい農夫の夫妻が連れてこられた。
「ようやく見つけたか!!」
二人はなぜ呼ばれたのか、訳も分からぬまま、厳めしい顔をした大勢の武人に囲まれ、気の毒にもガタガタと震えて、声もろくに出せないような始末でした。
「お主ら二人に聞きたいことがある!!」
「な、なんだ?」
「お前らの息子はどこに行った?」
「さ、さあ・・・?」
「なんだと!?」
「ひいっ!!」
突然の怒鳴り声に、ただただ身を寄せ合って震えることしかできない。
「もう一度聞く!!息子はどこに行ったのだ!?」
「さ、さあ・・・?私だちも探してるんだども・・・・。どさ行ったが分がんねんだ・・・」
「お前らの息子はもしかしたら竜子姫を連れて逃げ出したかもしれん!!」
「そ、そんたらこと・・・!!」
「どこか逃げ場所に心当たりはあるか!!?隠し立てするのなら・・・!!」
殺気も露わにすごまれた二人は、ますます身を縮め、訳も分からぬままに、ぽつぽつと話す。
確かに息子の身も心配だが、何より、自分たちの息子が、そんな大それたことをするわけがないと思っているし、何より、目の前に座る男が怖くてしょうがなかったのだ。
そして、二人の話を聞き、ようやく男は、山中に建てられた小さな祠と、そしてその背後にぽっかりと口を開く洞窟の存在を知る。
それでもすぐに見つけることができないと睨んだ男は、一計を案じる。
夜、皆が寝静まった頃、相変わらず不気味に口を開く洞窟の中から、二人の男女が出てきた。
八郎と竜子だ。
ここが誰も人が近寄らない洞窟と言うのなら何かいわれがあるのだろうが、今見る限りでは八郎と竜子には何も異変は見受けられない。
二人は、すぐに、何かに気が付いたようだ。洞窟の目の前にある小さな祠の前まで来ると、そこに置かれていた手紙を手に取った。
「なんて書いでる?」
八郎は字が読めないので、畢竟、竜子がそれを手に取り眺める。
『息子八郎へ。
お前が竜子姫と惹かれ合っていたとは全く知らなかった。
今、こうして村中が上へ下への騒ぎになってようやく知った不甲斐ない親を許してくれ。
お前はもしかしたらひどく苦しんだのかもしれない。
いや、随分と悩み、苦しんだのだろう・・・・。
だからこそ、こうして竜子姫を伴って、姿を消したのだろうが、恐らく取る物取りあえず山中へと逃れたのだろうと思う。
明日、辰の刻に、この祠の前に来てはくれないだろうか?
それまでに、旅に必要なものを揃え、供えて置く。
お前に対して何もしてやれない情けない父母からの、はなむけと思って受け取ってくれ。
こんなことしかできず本当に申し訳ない・・・・。』
読み上げた後、竜子は間髪入れずに「罠だ」と言うが、八郎は困ったように眉をしかめる。
「罠だどしても、困ってるのは本当だべ?それに・・・・・」
その続きは、竜子に遮られてしまう。
「罠だど分がってるなら無視すればええ!!」
そう言って、真っ二つに破り捨てた手紙は、風に流され、湖の方に消えて行く。
「・・・・あ・・・・!!」
八郎は、一瞬、手を伸ばしたが、それは、決して届かず、八郎を置いて竜子が洞窟の中へと姿を消してしまったので彼女の後姿を慌てて追いかける。
それでも二人にとって、この二日は夢のような時間でした。
例え、水も食料もろくに無かったとしても・・・・。
例え、未来が無かったとしても・・・・。
そして、自分たちが、苦境に立たされていることをはっきりと理解していたとしても・・・・。
肌を重ねるたび、唇を重ねるたびに、別れがたい思いが募っていく。
こんなにもお互いに惹かれているのに、どうして?
好き合った者同士で、一緒になることが許されないのだろうか?
お互いがお互いを求めあい、もう、二人の心は決壊寸前だった。
そして、果てのない逃避行にも、ついに終わりが近づいてくる。
翌日の辰の刻、洞窟から、八郎が、ひょっこりと顔をのぞかせました。
まだ、眠っている竜子を残して、やはり、何か気になることがあったようです。
―――昨日はああ言ったども・・・・。俺のとうと、かあは、ろくに字も書けねえ・・・。だどしたら、あれは誰が他の奴が書いだんだ・・・・。とうと、かあは、無事なんだべが・・・?
心優しい八郎は、全てわかっていました。すべて分かったうえで、何か父と母の痕跡があるのではないかと、心配をして出てきたのです。
するとそこにはやはりと言うか、何かが置いてありました。
急いで駆けつけた八郎は、置いてあった袋を開くと、その中には二日、三日分の食料と、旅の路銀が入っていました。
「よがった・・・・!!やっぱりとうと、かあは、無事なんだ!!」
喜びがこみあげてきた。
これで、とうと、かあの、無事を確かめられたし、何より、自分たちの旅を後押ししてくれる。
そう思った次の瞬間―――。
「居たぞ!!!やはりここに居やがった!!」
「だが待て!!竜子姫の姿が無いぞ!!」
「いや!!恐らくこの近くにいるんだろう!!探せ!!もしくは奴を捕えて居場所を吐かせろ!!!」
間近で聞こえた複数の男たちの怒鳴り声に、心臓がひっくり返ったかと思うほど、飛び上がらんばかりに驚いた八郎は、慌てて洞窟とは反対の方向に逃げ出した。
決して竜子を見捨てたわけではない。彼らの目的は竜子だと分かっていたからこそ、竜子の近くに戻りたくは無かったのだ。
幼い時分から、何度も駆け抜けたこの森でなら、決して捕まる気はしなかった。
逃げる・・・。逃げる・・・。逃げる・・・・。
木の根を飛び越え、草の葉をかき分け、崖を駆けあがり。
バシャバシャと、しぶきをあげ、腰ほどの深さの沼を突き抜け、八郎は逃げ続けた。
どれくらいの時を走ったのだろうか?
どれくらいの距離を駆け抜けたのだろうか?
それでも、後ろから、追っ手が追いかけてくる足音が聞こえる。
それは、どんどんと増えて行き、横から聞こえたかと思うと、前方から聞こえ。
だったらばと、方向を変え、駆け抜けているうちに、どんどん、どんどんと、追い詰められていくのを実感する。
八郎は、一つ、己の無知を、嘆かずにはいらえなかった。
―――こんたら数の人・・・・!!一体どうやって・・・!?
それは、竜子の婿となる男の執念、そして何より、彼の力量だ。
それを見誤っていたのだ。
これほどの数の兵士が、この山に潜伏し、そしてそれ以上の数の兵士が、街道を塞いでいる・・・・。
今更になって、八郎は、己が敵対した男の怖さを、思い知ったのだ。
「くそ!!」
いくら悪態をついたところで、もう、時を戻すことはできない。
からからに乾いた喉が、口蓋に張り付き、不快だった。
息が上がってきて、空気を求めるように天に向かって顎をあげ、必死で荒い吐息を吐き、吸い込む。
胸が痛い・・・。腹が痛い・・・・。
全身を、張り出した枝や、尖った葉に引っ搔かれ、あちこちからうっすらと血が滲んでいた。
「しまっ・・・・!!」
踏み出した足が木の根にとられ、一転、二転、ゴロゴロと転がり、大きな幹にぶつかってようやく止まる。
「・・・うう・・・!!」
息が止まるほどの衝撃だった。
必死に起き上がろうと地面をかくが、遠ざかる意識は、それを許してはくれない。
「全く!!てこずらせやがって!!」
「ああ・・・!!ようやく捕まえることができたな!!」
「はあ・・・!!はあ・・・!!」
そこに、集まってきたのは、八郎を追いかけていた兵士達で、彼らも皆、慣れない山道に随分とてこずったようで、中には八郎よりも、ひどい身なりの者も何人もいる。
瞬間、髪の毛に激痛が走る。
「ぐう・・・!!」
思い切り髪を掴まれ、無理やり、頭を上げさせられたのだ。
「おい!!正直に言えば今なら許してやる!!竜子姫はどこにいる!?」
「・・・・そんたごど・・・・」
未だ呼吸は乱れており、ろくに言葉を発することができない八郎に、目の前の男が髪を掴む手にさらに力を籠める。
「ああ!!??なんて言ってるのか聞こえねえよ!!!??」
「ぐう・・・!!」
懸命に歯を食いしばって痛みに耐えるが、それも限界なようで、苦痛にゆがんだ顔には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「なんだこいつ!?泣くほどならこんなことするんじゃねえよ!!」
「そもそもお前と竜子姫なんてつり合いが取れてねえだろうが!?ただの農夫が夢見てるんじゃねえよ!!」
どれだけ、罵声を浴びせられても、どれだけ、否定されても、それでも八郎は必死に耐えた。耐えて、耐えて、耐えて・・・・。
そうしてようやく口を開く。
「・・・絶対教えねえ!!」
「この野郎!!」
男たちは拳を振り上げ、中には、足を持ち上げた者もいる。これから来るであろう衝撃から身を守ろうと、身を竦ませ、目を瞑ったが、そこに、遠くから、叫び声が聞こえてきた。
「おーーーーい!!!見つけたぞ!!!!竜子姫を見つけたぞおおおおおお!!!!!」
「おお!!やったか!!」
想定していた衝撃はやって来なかった。それでも八郎にとっては、それ以上に衝撃的なことが、光景が、目に飛び込んできた。
それは、後ろ手に縛られ、二人の兵士に抱えられるようにして歩かされてきた竜子の姿だった。
「八郎!!!??」
竜子は八郎の姿を見た瞬間、顔色を変え、必死に駆けよろうとするが、それを彼らは許さない。
「こら暴れるな!!」
「あなたを傷つけることが無いようにと言われてるんですよ!!」
「竜子!!なして出できた!?」
「だって!!」
「ほら!!もういいから!!二人の時間は終わったんだよ!!」
そこに、問答無用に竜子の口元を抑えたのは彼女を拘束する兵士の一人だ。
「んーー!!んーー!!」
竜子は必死にその拘束を振りほどこうと、今まで以上に暴れるが、相手は男で、しかも、鍛え上げられた武人である上に、数人がかりなのだ。敵うはずもない。
「竜子を・・・!!離せ・・・!!」
今にも射殺さんばかりの視線をぶつけ、必死に睨み付ける八郎だったが、それでも彼らは一顧だにしない。
「何を強がってるんだ!?ただの農夫の分際で!!」
「己の分を知れ!!」
ゆっくりと、しかし、無理やり立ち上がらされ、八郎は、それでも暴れ続ける竜子の目の前で、にやにやと笑う兵たちに、蹴飛ばされ、無様に転がる。
竜子の押し殺した悲鳴が上がり、八郎の苦痛の声が漏れる。
何度も、何度も地面を転がされ、気付けばぼろぼろの八郎は、もう意識を失う寸前だった。
対して、愛する人のそんな姿を目の当たりにした竜子は、もう見ていられなかったのだろう、ぽろぽろと大粒の涙を流し、ぎゅっと目を瞑り、顔を背けている。
「もういいだろう!!竜子姫を連れて行け!!」
「んーーー!!んーーー!!」
今まで以上に必死に暴れるが、それでも戒めを解くことはできず、竜子はそのままどこかに連れて行かれてしまう。
「そして、お前にもう用はない・・・・。死ね!!」
地面に倒れる八郎に、白刃が振り下ろされ、半ば意識を失った八郎にそれを避けるすべはないかに思われた。
しかし、最後の力を振り絞ったのか、八郎は身をよじってその白刃を逃れた。
それは、ともすればただの時間稼ぎでしかなく、その場に居合わせた兵士たちも、彼の行動を嘲笑う者がいただろう。
そうならなかったのは、八郎が身をよじって逃れたほうに崖があり、そのまま八郎は、転がり落ちて行ってしまったからだ。
「あ!!」
兵たちは崖際に駆け寄り、八郎を見つめるが、木の幹に全身をぶつけ、岩に頭をぶつけ、あちこち強打しながら転がり落ちて行く彼は、もう生きてはいないだろう。
その姿が見えなくなっても、彼の転がり落ちて行った先を見守っていた兵士たちは、誰とも言わずにゆっくりと立ち上がる。
「あれでは生きていないだろう・・・・」
「そう・・・だな・・・・」
「まあ、竜子姫を捕えて連れ帰ると言う目的は達したんだ・・・・。それで良しとしよう」
こうして兵士たちは山を引き上げていき、竜子姫は彼らに伴われ、己の家まで連れ帰られてしまった。
彼女はどれだけ失意の中にいただろう?
愛する者と離れ離れにされ、そして、目の前であれだけ痛めつけられたのだ。
僅かに見た夢が幸せであればあるほど、目覚めた時の儚さ、そして苦しみは否応もなく。
彼女の身を、心を苛む・・・・。
ようやく彼女を手に入れた男は、心だけは自分の物になっていないことを少し残念に思ったが、それでも時間をかけて、己の妻としようと笑みを深める。
「すぐにでも我が領地に行くぞ。ここにおれば、お前にとっても辛いだろう?」
きっ、ときつく睨み上げた竜子の目は真っ赤に腫れ、随分と泣きはらした跡があり、それでもなお、美しい彼女が、もしかしたら悪いのかもしれない・・・・。
「ようやくお前の本当の表情を見ることができたな。今はそれが恨みの感情であってもいい。今に、私にも喜びや、そして愛しいと言う感情を見せてくれ」
しかし、すぐに竜子の瞳から色が消え、表情が抜け落ちる。
それを少し残念に思いながらも、まあ、それでいい、と己を納得させた。
一方その頃、八郎はまだ、生きていた。
死の淵に立ち、全身を激痛が襲い、もうすでに歩く気力さえ残っていなかった。
それでも彼は生きていた。
半身を湖に浸し、薄れゆく意識の中で、自分がどこにいるのかもわからない。
―――喉が渇いたな・・・・。
寒さは、もう感じなかった。
ただ、ただ、喉が、焼け付くように乾いていた。
―――ああ・・・。おあつらえ向きだ・・・・。
口元を濡らす、湖の水を、ゆっくりと喉の奥に流し込む。
するとどうだろうか?
不思議なことに、どれほど飲んでも、飲み足りない。
ついには、喉が、焼けるような、熱を持ち、ひりひりと乾くような、そんな感覚に苛まれ、ごくごく、ごくごくと、いつまでも、いつまでも湖の水を飲み続ける。
いつしか夜になり、辺りは薄暗くなっても、八郎は、水を飲むことを止めない。
意識を取り戻し、手足の感覚が戻っても、痛みよりも、何よりも、たった一つ、強烈に感じるのは―――。
―――熱い!!熱い!!!もっと水を飲みたい!!!もっと!!もっとだ!!!
それはどうしようもないほどの渇き。いつまでも、いつまでも、それが八郎の心を、身を苛む。
一つ夜が明け、そうして、もう一度、闇があたりを包んでも、八郎は、水を飲み続けた。
もう一つ朝日が顔をのぞかせ、そうして沈んでも、八郎は水を飲むのを止めない。
どうしてこうなったのだろうか?彼に力が足りなかったからだろうか?もっと早くに、竜子を嫁にと望んでいればよかったのだろうか?そんなことを、望むことなどできたのだろうか?
ふと、喉の渇きから解放され、気付けば、三日三晩、八郎は湖の水を飲み続けていた。
そうして、ようやく己の体を見て、ぞっとする。
その身は、緑の、てらてらと不気味に光る鱗に覆われ、太く、長い体はもはや人の身にあらず。
―――なんだこれは!?
言葉を発することすら忘れ、腕を見れば、そこには、鋭くとがった爪が伸び、まるで―――。
―――俺は・・・・竜になったのか!?
何が八郎の姿を変えたのか?積もりに積もった欲望だろうか?強さを渇望する心だろうか?それとも竜の呪いなのだろうか?はたまた・・・・・。
私たちには分かりませんし、その理由は伝わってはいません。
そしてその後、一匹の竜と、その竜にさらわれ、大空に姿を消していってしまった竜子姫を、何人もの村人、兵士たちが目にしましたが、竜子姫と、八郎と、そしてその竜がどこに行ったのか?知る者はおりません。
一説には、湖に姿を消した、とか、そのまま大空を飛び、国を出た、とも噂されております・・・・。
*このお話は、私が、実際に小学生の頃に語り部の方に聞いたお話を、随分と脚色しております。
この機会にと、八郎潟について調べましたら、三湖伝説なるものがあり、八郎は、友のイワナを盗んだために、竜にその身を変じた、ともされており、辰子姫とは、また別に書かれておりました。
私は、曖昧な記憶ですが、イワナの話など聞いたこともありませんでしたし、辰子姫と恋に落ちた農夫の青年、八郎の話だったと覚えております。
まあ、随分とフィクションのお話ですから、民間伝承など、語り継がれるうちに、どんどんと異なるお話になるのかもしれません・・・・。
どうかお許しを・・・・。
こっちじゃなく、本作を更新してくれ!という方・・・・。大変申し訳ありません・・・・。今しばらくお待ちください・・・・。