一章8 約束の一ヶ月目
そして、とうとう一ヶ月が経った。
初冬へと差し掛かり、窓の外では木枯らしが甲高い音を立てて吹きすぎていく。
「さあ、姫様。約束ですよ! 私はこの通り、ピンピンしております。この塔を出て頂けますね?」
その日の朝、勝ち誇った顔でレイルが言った。
ライラは首を横に振って言い募る。
「でも、レイル様、風邪を引いたじゃないの」
「あれはカウントされません! メアリーがうつしたから、メアリーのせいです」
「その言い方は腹が立ちますが、一理ありますわね」
レイルの返事に、メアリーがしかめ面のまま頷いた。
「うう、でも……っ」
尻ごみするライラの肩にマントを羽織らせ、レイルとメアリーはもう遠慮せず、部屋の外へと連れ出す。階段を下り、外へ続く扉が開けられた。
ライラはあまりの怖さに、ぶるぶると震えた。
自分がここから出たら、災厄がばらまかれるのだ。
「わ、私、無理よ。怖いわ」
立ちすくむライラを、レイルは軽々と両腕に抱え上げる。
「きゃあっ、何するの!」
慌ててレイルの肩にしがみつく。下ろすようにと彼の肩を叩いたが、レイルの腕はびくともしない。
「私はこれ以上、待つつもりはありません。悪いことが起きたら、私のせいにしてください。あなたは無理矢理連れ出されたんです、いいですね?」
「ひどいわ、レイル様っ。下ろしてちょうだい!」
ライラは足をばたばたさせて暴れたが、まったくもって歯が立たない。レイルはそのまま、外へと一歩を踏み出した。
ライラはぎゅっと目を閉じた。
何が起きるのか見るのが怖い。
地震が起きたり、雷が鳴るかもしれない。どこかから悲鳴が上がるのかも。
だが、何も聞こえない。
恐る恐る目を開ける。
明るい日射しの中、風が頬を撫でた。小鳥のさえずりが聞こえてくる。
外は色鮮やかで、光り輝いていた。青い空と、黄色や茶色の枯草に覆われた草地。白い石で出来た塔には、鮮やかな赤い蔦が這っている。
レイルが微笑んだ。
「ほら、姫様。外はこんなに綺麗で自由なんですよ」
「大丈夫ですよ、何も起きていませんから、姫様」
メアリーも励ますように言った。だが、ライラは目の前の光景に目を奪われ、呆然と呟く。
「綺麗……」
レイルが満面の笑みを浮かべた。
「ええ、だからあなたを外に出したかったんです。上から見ると、もっと素晴らしいですよ」
「え?」
上とはなんだと思った時、レイルの背中で、トンボの羽が広がった。
嫌な予感がした瞬間、レイルがライラを抱えたまま、空へと飛び上がる。
「きゃあああ!?」
浮遊感が怖く、ライラは悲鳴を上げて、レイルの首にしがみついた。
「ちょっと、伯爵! 姫様が怖がってるでしょう!」
怒ったメアリーも羽を広げ、レイルに続いて空を飛ぶ。だが、レイルの飛ぶ速さにはついてこられないようで、かなり遅れている。
あっという間に上空へ来ると、風が冷たく、高さに身がすくむ。
だが、地平線まで見えるアンバーガット国は綺麗だった。
「これが、この国なのね」
目を細めるライラに、レイルは頷く。
「森と草地が多いでしょう? 緑豊かな良い国ですよ。黒アゲハ族は、二十歳が成人だとか。姫様も成人して羽が生えれば、空を飛べるようになります。いつでもこの景色を見られますよ」
「ええ、そうね。トンボ族は成人が早いのでしたっけ?」
「羽化が――羽が生えるのは早いですよ。十三歳です。成人は十六ですよ」
「そうなの」
ライラが勘違いを頭の中で修正した時、ようやくメアリーが傍に辿り着いた。
「はあ、はあ。流石は元騎士団長様ですわね、空を飛ぶのが速いこと!」
メアリーの言葉に、ライラは目を丸くする。
「あなた、騎士団長なの?」
「元ですよ。事故で負傷して辞めたんです。ああ、もう治りましたので、そんな心配そうな顔をしないでください」
レイルに苦笑混じりに言われ、ライラはしかめ面をする。
「心配なんかしていなくってよ!」
「はいはい、そういうことにしておきます」
ライラはむすっとしたが、レイルの言う通り、事故と聞いて大丈夫なのかと思ったのは本当だ。なんとなくバツが悪い。
「あなたの言うこと……信じますわ。塔から魔力の線が伸びて、城下町を回って城で回収されています」
美しい景色の中に、光の線がキラキラと見えて、ライラは溜息を吐く。
「魔力の線?」
「姫様、何か見えるんですか?」
レイルとメアリーはきょとんとしている。ライラは指で示した。
「光の線が見えるでしょう? 塔から紐が伸びて、あちこちで繋がっているみたいに見えるわ」
「はあ、これはすごいな。黒アゲハ族は、本当に魔法に特化してらっしゃるんですね。我々にはそんな光は見えません」
レイルは感動を込めて言った。メアリーもびっくりしている。
「塔の中にいる時は見えなかったわ。何か仕掛けがあったのかもしれない」
そう返しながら、ライラは気持ちがどんどん沈んでいくのを感じていた。
「本当に、お父様は私を騙していたのね」
信じたくなかったけれど、これを見たら信じずにはいられない。悲しさで涙が溢れてくる。
「姫様……」
レイルは気遣わしげに名を呼ぶと、ゆっくりと地面へ降りていった。塔の前へ着地して、ライラを地面へと下ろす。
「あなたが傷つくのは分かっていました。ですが、それでも私はあなたを連れ出したかった。どうか私の屋敷へ来てください」
ライラはレイルを挑戦的に見つめる。
「今度はあなたが、私を閉じ込めるの?」
「いいえ。姫様の自由を尊重したいんです。ただ……」
言葉を濁すレイルに、ライラは続けるように促す。
「リカルド王のせいで、この国では、黒アゲハ族は災禍の民だと嫌われています。お一人だと危険でしょう。言って下されば、私がどこでも連れていって差し上げますから、一人にならないで欲しいんです。これはお願いです」
ライラは手の甲で涙をぬぐうと、こくりと頷く。
「……そうね、言いたいことは分かるわ。私は外に出たことがないから、何が危ないのか分からない。小さい頃、暖炉の火でやけどした時みたいに、無知で怪我をすることもありえる」
「あなたは賢くて、美しい方ですね」
レイルはにこりと微笑んだ。ライラはぷいっと目をそらす。
「お世辞は結構よ。行きましょう、それで、そのお屋敷とやらはどこにあるんですの?」
「ええと……その前に、私も嘘をついていたことが一つあります」
「あなたも?」
ライラはけげんに思ってレイルを見上げる。
「実は、私は伯爵ではありません。あちらが本物のクローブ伯爵です」
レイルが示した先には、金の装飾が美しい白い馬車がとまっていた。その脇に、長い金髪と琥珀色の目を持った、白い騎士服をまとった青年が立っている。
「ステファンと申します。レイル様の近侍を勤めております、今後、どうぞよろしくお願いします」
ステファンはその場で膝をつき、あいさつをすると立ち上がる。
「きんじ?」
「傍付きの護衛のことですわ、姫様。あのかたは騎士です」
メアリーが教えてくれたが、ライラは目をぱちくりとさせる。メアリーの教育のおかげで、城の階級については知っているのだ。
「まるで王族みたいな扱いね」
メアリーは真顔でライラの手を取り、覗き込むようにしてこくりと頷いた。
「そうです、姫様。この方は、リカルド王の一人息子。現王のレイル陛下ですわ」
気遣いを込め、メアリーはことさらゆっくりと告げる。
予想を大きく飛び越えての真実に、ライラは唖然とレイルを見つめた。