一章6 姫様、暗示をかけてみる
(もうっ、どうしてこの方は分かってくれないのかしら!)
ライラはその夜、ベッドの天蓋を締めきり、枕に苛立ちをぶつけていた。ぼこぼこと叩くが、そのうち手が痛むだけのことに虚しくなってやめる。
綺麗に枕を整えて、ベッドに置いた。
(こうなったら、帰りたくなるように仕向けるしかないわ)
天蓋の布をそっとめくると、寝椅子に横たわっているレイルが見える。
どうやら寝入っているようで、すうすうと寝息が聞こえる。ライラは忍び足でレイルの傍に行った。
だが、思い立ったはいいが、どうやったらそう仕向けられるのかよく分からない。
少し考えた末、寝ている耳元でこそこそと声をかけてみる。
「帰りたくなる。出て行きたくなる。帰りたくなる」
寝ている間に暗示にかければいいのだと、ライラはしばらくぶつぶつと言ってみた。
「うーん」
やがてレイルが身じろぎしたのに気付き、急いでベッドに戻る。
寝返りを打ったレイルがこちらに背を向け、また寝息が聞こえてきた。
(ふふん、これだけやればばっちりでしょう!)
ライラは満足して眠りについた。
まさか起きていたレイルが、声を殺して笑っていたなど一切気付かずに。
そして翌朝、レイルの様子を伺ってみたが、暗示の効果が全くなかったのでがっかりする。また違う手を考えなくてはと気合いを入れた。
(しばらく暗示作戦よ!)
本を選び、ライラは躍起になった。
事情を聞いたメアリーも微笑ましそうにしていたが、ライラは一生懸命だったので気付かない。
三日くらい試していたが、全く効かないので、そのうち飽きた。
「暗示が効かないなんて……なかなかやりますわね!」
「はい。姫様、次の手も楽しみにしています」
レイルがにっこり返すと、一気に怒りが爆発した。
「もうっ、出てってください! この悪魔っ」
ようやくレイルにからかわれていることに気付いたライラは、またレイルを部屋から追い出して、扉が開かないように見張るのだった。
◆
レイルが塔に勝手に居座ってから一週間が経った。
ライラは困っていた。日に日に花が増えていくので、置き場が無い。
メアリーが花瓶を持ってきてくれたが、それも足りなくなってきた。
「不思議ですわねえ、この塔、何か魔法がかけられているんでしょうか。お花が全然枯れません」
首を傾げるメアリーに、ライラは返す。
「封印の塔だもの、当たり前じゃない」
「いいえ。あれは王の作り話ですわ。実際は、姫様から溢れている魔力を回収する装置です。外に出てみれば分かります」
「私は信じないわ」
頑ななライラを、メアリーは困ったように見る。
「姫様のお気持ちも分かりますわ。本当に優しい方、私、姫様にお仕えできて光栄です」
涙ぐんだのを誤魔化すように、メアリーはパタパタと本棚にはたきをかけていく。そして、くしゃみをした。
「まあ、大丈夫? 風邪を引いたのかしら」
「季節の変わり目はいつもこうですわ。ここのところ、徐々に気温が下がってまいりましたでしょう? うつすといけませんから、しばらくこちらの仕事はお休みしますね、姫様」
「ええ、ゆっくり休んで、メアリー」
体調を気遣うライラに、メアリーは嬉しそうに微笑む。そこに、声が割り込む。
「いいですね、私も心配して欲しいです」
「まあっ、伯爵。ノックくらいなさったらいかが!」
遠慮なく入ってきたレイルに、メアリーは眉を吊り上げる。
「すみません、手がふさがっていまして」
そう言うレイルの腕には、ふわふわした長い毛並の白猫が乗っている。ピンク色の首輪には、金色のメダルが付いていた。猫を目にしたメアリーは、怖い顔をたちまちほころばせた。
「まあ、猫ですわね! なんて可愛らしいのかしら」
はしゃぐメアリーを横目に、ライラは初めて見る生き物に戸惑う。
「ねこ?」
「ええ、差し上げると約束していたでしょう? 大人しくて良い子を選んできました。どうぞ」
そう言って、レイルはライラに猫を差し出す。
おっかなびっくり受け取ったライラは、メアリーの指導のもと、猫を抱える。ふわふわしていて、ニャアと鳴く様子は可愛らしい。金と緑の目は宝石のような美しさだ。
レイルは猫を覗きこみ、ライラに頼む。
「名前を付けてあげてください」
「名前?」
「ええ、今日からここで共に暮らすんですから。ルームメイトその二ですよ」
「ここで暮らすの?」
ライラは眉をひそめた。
「こんな可愛らしい生き物にも、災厄を与えろというんですの、レイル様」
なんて残酷な人だろう。ライラは悲しくなって、目を潤ませた。ライラが泣きそうな顔を見せたので、レイルは分かりやすくひるみ、頬を指先でかく。
「……これは私が悪かったですね。気遣いが足らず、申し訳ありませんでした」
そして、レイルは提案する。
「では約束の一ヶ月が過ぎましたら、また再会としましょう。私の屋敷で預かっておきますので。ですから、今はお名前だけお願いします、名前が無いのはかわいそうでしょう?」
「そうですわよ、姫様」
珍しく、メアリーがレイルの意見に賛同した。ライラもそう思ったので、ふわふわした猫の毛を撫でながら考え込む。
「雪みたいに白いから、白雪はどうかしら?」
「素敵! 可愛らしいですわ、よろしくね、白雪ちゃん」
メアリーの言葉にこたえるみたいに、猫がミャアと鳴いた。
レイルが頬をほころばせる。
「名前を気に入ったみたいですね。メアリー、戻る時に、私の使用人に白雪を預けておいてくれ」
「ええ、喜んで。姫様、しばらく白雪と遊んでやってくださいませ」
「え?」
驚き、遊ぶと言われても……と戸惑うライラの前に、レイルが猫じゃらしの玩具を取り出してみせた。
それからメアリーが帰る時間まで、ライラは長椅子で猫と遊んだ。猫は自由気ままに部屋を歩き回り、カーテンの細い桟の上を危うげなく渡ったりする。棚の上にのぼり、上にある物を落とした時は、猫が怪我をするのではと焦ったが、何事もなく床に降りてきて、気まぐれにライラの膝によじ登ったりもした。
その可愛らしさに、ライラはあっという間に白雪に夢中になった。だが、ずっと傍に置いておくわけにもいかないので、夕方には渋々見送る。名残惜しく、戸口からメアリーが階段を降りていく背を眺めるライラに、レイルがすねた口調で言う。
「あの猫がうらやましいです」
長椅子にいるレイルを、ライラは振り返る。彼の言いたいことが、よく分からなかったのだ。
「何が?」
「私はいつも追い出されるのに、あの猫は引きとめたそうになさるので」
「あなたは悪魔だけど、あの猫は可愛らしいわ」
「猫は小悪魔ですよ」
冗談ともつかないことを言って、レイルは自分の寝椅子に移動して、ごろりと横になる。
「おかしな方ね。まるで、猫にやきもちでも焼いてるみたい」
「そう、それです。私のことも、引きとめて下さって構わないんですよ?」
「ふざけないでちょうだい、この悪魔。出て行って!」
「ひどいです」
レイルはふてくされて、こちらに背を向けてしまった。ライラは呆れる。
「あなたがあの猫を連れてきたんでしょう? どうして機嫌を悪くするのかしら」
「連れてくるのではありませんでした。姫様の関心を独り占めなんて、ずるすぎる」
「訳が分からないわ」
付き合ってられないと、ライラはテーブルに移動して、お茶を淹れ始める。薔薇の香りが立ち上り、ライラは頬を緩めた。
「レイル様もいかが?」
「……いただきます」
声をかけてみると、レイルは思ったよりも素直に起き上がり、テーブルについた。
(お茶を淹れただけで機嫌が直るなんて、単純な方ね)
ライラはまた呆れたが、なんだかそんなレイルが可愛らしく思えた。
(いやいや、可愛いって何? 意味が分からないわ)
心の中で自分へ疑問を呟きながら、ライラはお茶の時間を満喫するのだった。