一章2 植物は水がないと枯れるらしい
夕方、レイルが一人の女を連れて戻ってきた。
「姫様!」
「メアリー」
飛びついてきた四十代半ばの女を、ライラは慌てて抱き留めた。
茶色い髪を束ね、赤茶色の目を潤ませた痩せた女は、臙脂色をした足首まで隠すワンピースに、白いエプロンをつけ、頭には帽子を被っている。侍女兼家庭教師のメアリーだ。
「クローブ伯爵が姫様を保護するとお伺いしていたのに、全く音沙汰が無いので、押しかけてしまいました。何故、塔を出ないんです? もうリカルド王はいませんわ。あなたを脅かすものはないんです」
「あなたまで悪魔の言葉を信じてるの? お父様の悪口を言わないで」
「姫様……」
厳しく言ったせいか、メアリーは涙を浮かべた。ライラは焦る。彼女は乳母でもあったので、ライラにとっては母親と同じだ。
「ごめんなさい、強く言ったわ」
メアリーはひしっとライラを抱きしめる。
「おかわいそうな姫様! 分かりました、このメアリーもこちらに毎日参ります。本当はこちらに住みたいくらいですが、部屋がありませんので、城から通いますわ」
「何を言ってるの、メアリー。あなたに災禍があったら、私、生きていけない」
「姫様っ」
メアリーは感極まった様子で顔を真っ赤にし、何故かわっと泣きだした。ライラは対応に困り、メアリーの背中を軽くさすってあげる。
「メアリー、落ち着いてちょうだい」
「申し訳ありません、姫様のお気持ちが嬉しくて。それにしても……」
メアリーはハンカチで涙を拭いながら、キッとレイルを振り返った。
「どうして伯爵がこちらでお休みになってるんです! 姫様は結婚前ですよ! まさかもう手を出されたのですか?」
「手を出す?」
ライラが首を傾げると、メアリーは更に顔を赤くして叫ぶように言った。
「触られたりとかです!」
「ああ」
ライラは昨日のことを思い出して頷いた。メアリーの顔から血の気が引く。
「何かされたのですか!?」
「ええと、キスはされたわよ」
左手の甲に、とライラが心の中で付け足したところで、メアリーは棚へと向かい、文房具のハサミを掴んだ。完全に目が据わっている。
「不届き者は成敗して、私も死にます!」
「落ち着いてください、何もしてませんってば! あいさつで手の甲にキスはしましたけど」
さしものレイルも平然とはいかなくなったようで、慌てて弁解する。
「姫様も紛らわしいことを言わないでください!」
「本当ですか、姫様」
メアリーの問いに、ライラは頷く。
「ええ、でもびっくりしたわ。あれがあいさつなの?」
「そうです。身分の高い方へのものですわ。ああ、良かった。何かあったらおっしゃってください、このメアリー、刺し違えてでも報復してみせます」
恐ろしい目でレイルをにらむメアリーに、レイルは困って言い返す。
「そうなると、姫様が災禍を呼ぶ証明になってしまいますね」
「ぐぬぬっ、憎たらしいこと!」
メアリーは歯がゆそうに地団太を踏む。レイルは落ち着くように言う。
「大丈夫ですよ、私は騎士です。許可がなければ何もしません」
「殿方は皆そう言うんですわ! ですが、いいでしょう、その言葉、信じますからね。騎士たるものの見本を示してくださいませ、伯爵様」
「ええ、勿論です」
そうは言ったものの、メアリーの目は疑っていた。レイルは困り果てた様子で、頬を指でかいている。
(少しくらい困ればいいのだわ、いい気味)
一方、レイルを追い出したいライラは、心の中で悪態をついた。
ひとまずメアリーがハサミを元の位置に戻したので、レイルはほっと胸をなでおろしている。
「メアリー、お腹が空いたわ」
ライラの訴えに、メアリーはころりと笑顔に変わる。
「左様ですか、姫様。すぐにお食事をお持ちしますわね。伯爵のお陰で食事が豪勢になりましたのよ、栄養をつけてくださいませ」
メアリーは浮き浮きとした足取りで部屋を出て行った。レイルはありがたそうに口を開く。
「助かりました、姫様」
「え? なんのお話?」
「いえ、いいです……」
レイルは悲しげに溜息を吐き、テーブルへ移動する。そこで、野花の花束がそのまま置かれてしおれているのを見つけて、残念そうにした。
「野花でしたので、お気に召しませんでした?」
ライラはきょとんとテーブルを見る。
「珍しいから、見える所に置いているのよ」
「えっと、植物は水に入れないと枯れてしまいます」
「枯れるって?」
「死ぬということです」
「そうなの? どうしましょう」
ライラは慌てて席を立つと、洗面所に行って、洗面器に水を入れた。そして、テーブルに運んできて、花束を洗面器に突っ込む。
「これでどうかしら?」
「水に浸すのは、根本だけでいいんですよ」
「そう、決まりごとが多いのね」
面倒に感じたが、綺麗なので枯れてしまうのはもったいない。花の上のほうだけ水から出して、傾けて置いてみた。
「もしかして、花を見るのは初めてですか?」
レイルが恐る恐る問うので、ライラは頷いた。
「ええ、窓から見たことはあるけど、こんなに近くで見たのは初めて。図鑑の絵よりずっと綺麗ね」
純粋な感想を零してレイルを見ると、彼は額に手を当てていた。何やら決意を込めて、ライラに宣言する。
「分かりました、私がこの世の素晴らしい物を、全てあなたに教えて差し上げます! あの王より、ずっとずーっと大切にしますからね!」
「何を言ってるの? お父様は大切にしてくれていたわ。ドレスに食事、部屋の調度品も見て。不自由なんて一つも無いの。素晴らしいことじゃないかしら」
「いいえ、全然足りていません。私は負けませんから!」
「はあ」
よく分からない方向に熱くなっているレイルを、ライラはきょとんと眺めた。
(外の人って、皆、こんな感じで変わってるのかしら)
ライラは小首を傾げた。