二章2 侍女をゲット
こうして、ライラの王宮での生活が始まった。
初日の午後、楽師や楽器を紹介されると、ライラは初めて触れる音楽を気に入った。
自分も演奏できるようになりたいと言うと、レイルが教師をつけてくれたので、ピアノを習っている。
後日、レイルとともに訪れた図書室には素晴らしい蔵書があり、散歩に出かけた温室では色とりどりの花々も見せてもらった。
約束通り、レイルはライラが頼めば王宮内のどこでも連れていってくれたが、王宮の外は危険だからともう少し待つように言った。それでも、塔の狭い部屋と窓から見える世界しか知らなかったライラには、広々として自由だった。不満はほとんどない。
――ただ一つ、知人以外には怖がられる点を除いて。
今日も、ライラはメアリーをお供に、王宮内を散歩していた。
すると、向かいからやって来る女官を見つけた。彼女は十代半ばだろうか、ライラの周りには年配の女官ばかりで、近い年齢の女性に、ライラは興味を示した。緑色のお仕着せの衣装を身に着け、茶色の髪の上に、白い布の覆いをかぶせている。ライラが彼女を眺めていると、彼女はこちらに気付いて、分かりやすく青ざめた。すぐに壁際に寄り、頭を下げる。
「ごきげんよう」
ライラはただ声をかけただけだったが、何故か女官はその場に両膝を着いて、あろうことか床に両手を着ける。
「も、申し訳ございませんっ。何か粗相をしたのでしょうか!?」
この勢いにライラはびっくりして、唖然と女官を見下ろす。
「え? いえ、ただあいさつしただけよ? メアリー、この方はどうして謝るの?」
「姫様、高貴な方は、下位の使用人に声をかけたりなさいません。そうなさる時は叱責や注意、用事を言いつける時というのが相場です」
「よく分からないわ。だって使用人だろうと、城の一員でしょう?」
ライラは黒いドレスの裾を払い、女官の前にしゃがみこむ。
「ねえ、あなた。時計をご存知?」
「え? は、はい。玄関ホールにそれは見事な仕掛け時計がございます。ご案内を……」
「そういう意味ではないの。では、時計の内部を見たことは? 歯車や部品、振り子をご存知?」
「は、はい……」
ビクビクと首をすくめていた女官は、不思議そうに顔を上げる。ライラが目の前にいるのに気付いて、琥珀色の目がぎょっと見開かれる。
「あら、驚かせてごめんなさい」
「姫君、どうかお立ちください。ドレスが汚れてしまいます!」
「そうかしら。この廊下はピカピカよ。この程度では汚れたりしないわ。あなた達が掃除してくれているおかげでしょう?」
ライラは毎日出歩いて、人々をよく観察している。それぞれ色んな役割を持った人々が働いて、城という生活圏を上手く回しているのだと、すでに理解していた。
女官は頬を赤らめ、目を潤ませた。先ほどとは違い、顔には喜びが見える。
「もったいないお言葉です」
この女官は仕事に誇りを持っているのだろう。ライラの指摘が嬉しそうだ。ライラも自然と微笑む。
「それでね、時計の話に戻すわね?」
「はい」
「あんなふうに時間を刻むためには、歯車や部品、何一つ欠けてはならないの。王や貴族が表に見える部分なら、あなたがたは内部の部品でしょう。見えない部分を支えている。だから、私には区別はないわ。あなたもお城の大事な人よ。どうかそんなふうにおびえないで」
「……あ、ありがとうございます」
再び女官の目が潤み、ほろほろと涙が零れ落ちていく。気が緩んだのか、女官はぽろりと零す。
「お優しい方。災禍の悪魔より、この国の貴族のほうがよほど恐ろしいです」
「……災禍の悪魔?」
ライラは思わず訊き返す。
「あ……。申し訳ございません! 申し訳ございません!」
再び姿勢を戻し、女官は平謝りし始める。
ふと気付くと、周りがざわついている。公務で出入りしている貴族や官吏、使用人が遠巻きにささやいていた。
「災禍の悪魔が女官をいじめているぞ」
「かわいそうに。誰か助けて差し上げて」
「泣いているじゃないか」
ひそひそと聞こえてくる声に、ライラはまずい事態だと悟った。
「姫様、誤解されていますわ」
「この場面を見たら、そう思うわよね。私の印象、マイナスから出発してるんですもの。当然だわ」
「冷静に分析なさっている場合ではありませんわ。騒ぎになる前に、早く離れましょう」
メアリーが促したが、すでに遅かった。
「これはなんの騒ぎだ!」
レイルが護衛騎士とともにやって来る。人の波がさっと割れ、道が開く。
「姫、いったいどうされたのです。いえ、理由は後で聞きます。部屋までお送りしますので、参りましょう。――そこの女官も来るように」
レイルが冷ややかに命じる声に、女官の肩が大きく震えた。
ライラの部屋に戻ると、居間のテーブルでレイルと話すことにした。
「誤解しないで、レイル様。いじめてないわ」
「そんなこと、疑ってもいません! しかし、問題はその女官です」
テーブルの傍らに立つ女官を、レイルは鋭い目でにらむ。
「使用人には、姫に失礼な真似をしないように命じていたはずだ。どうしてあんなに大袈裟に騒いだ?」
「そ……それは……」
レイルの誰何に更に怯え、女官は青ざめて震えている。歯がカチカチと鳴って、言葉が出てこない。もしいじめているとしたら、レイルのほうだろう。彼女がかわいそうになって、ライラは女官の傍に行った。
「話も聞かないで怒るような方、私は大嫌いですわ」
「姫っ」
あからさまにショックを受けて、レイルが固まる。壁際に立つメアリーがくすくすと笑った。
「こちらにいらっしゃいな。倒れてしまいそうよ」
ライラは女官の手を引いて、近くの椅子に座らせた。その隣に腰を下ろし、改めて向かいのレイルを見る。
「落ち着いて話をしましょう、レイル様」
「……分かりました」
レイルが頷いたので、ライラは経緯を説明した。聞き終えたレイルは額に手を当てる。
「なるほど、そういうことでしたか」
「こんな扱いは、ひどいのではありません?」
「しかし、姫。もし私が下位の使用人をひいきするようなことを言ったら、今度はねたまれて、仲間内でいじめられることもあるんですよ。上の者は距離を置きませんと、逆効果なんです」
「そうなの?」
ライラはびっくりして、女官の顔を覗き込む。彼女は気まずげに沈黙した後、こくんと頷いた。
「あいさつも駄目なの?」
「いえ、そのくらいはよろしいかと。しかし、それとは別に、災禍の悪魔と呼ばれているなど教えるとは許せません。何か処罰を与えなくては」
厳しいことを言いだすレイルに、ライラはふっと笑う。
「嫌だわ。それってつまり、私が彼女に声をかけたから、災いが起きたってことになるじゃない。噂が強化されてしまいそう」
笑い混じりにライラがレイルをたしなめると、レイルはまたもや固まった。
「レイル様って賢い方なのに、私のことになると、頭の回転がにぶそうね」
「うぐぐ。ええ、そうです! あなたが馬鹿にされるのは、ほんの少しでも許せない! 冷静であるように戒めて生きてきたのに、すぐに頭に血が昇ってしまうんです。私の気持ちも、少しは汲んでいただけませんか」
悔しげに言ってから、レイルはじぃっとライラを見つめる。
「汲むってどうやって?」
「味方してくださるとか」
「間違えていると思ったら、そう言うのが私の優しさよ。場合によるわ」
「優しさですか? つまり、私は、少しはあなたの特別でしょうか」
「え……? まあ、そうね。どうでもいい人には注意しないわ」
「姫、ありがとうございます!」
ぱあっと明るい顔をして礼を言うレイル。どうして彼がそんなに喜ぶのか、ライラには理解できない。メアリーがうつむいて笑っているのが気になったが、ライラは話を進めることにした。女官が困惑した顔で場を伺っている。
「罰するより良い案があるわ。私の侍女にするの」
「えっ」
思わずというように、女官が声を上げる。
「失礼しました」
慌てて顔を伏せる女官に、ライラは問う。
「あなた、お名前は?」
「ニコラと申します」
「ニコラ、私を災禍の悪魔と呼ぶ人のほうが多いのでしょう?」
「ええと……」
困りきった顔でニコラはきょろきょろする。レイルが促す。
「正直に言いなさい。処罰したりしない」
「は、はい。あの……そうですね。裏ではそんな話で持ちきりで、担当する使用人がかわいそうだと言う者もおります」
「まったく」
レイルが怖い顔をすると、ニコラは首をすくめた。息をするのも怖いと言いたげな怯えように、ライラはレイルをじろりとにらむ。レイルは渋々態度を改めた。
「わたくしの年齢をご存知? レイル様」
「もちろん。もうすぐ二十歳になられるんですよね? そうだ、お誕生日パーティーはどうしましょうか」
「その話は今は置いておいて。つまりね、レイル様。お父様の嘘が二十年かけて浸透したの。簡単にくつがえせるわけがないでしょう? 時間がかかるわ。私は気にしていなくってよ」
「姫様は懐が広くていらっしゃる。その通りですが、私が嫌なのです」
しかめ面で返し、レイルは問い返す。
「それで、侍女にするというのはどうしてです?」
「だってそんな状況なら、むしろ同情する者が多いのでは? 下級使用人が、上級使用人になってもねたむ者は少ないでしょう。でも、最初は怯えていたニコラが、次第に楽しそうに働き始めたらどうかしら?」
「なるほど。災禍の民と接しても、意外と大丈夫そうだと感じると思いますね」
「印象がマイナスから出発しているから、少しでも好印象な面があれば、大幅加点間違いなしよ。ね、良い案だと思わない? それに私、年齢が近い者と話してみたかったの。あなたが良ければ私の侍女になって欲しいわ」
打算的なことも口にしたが、ライラの希望は後半だけだ。レイルを説得できて、ライラの要望も通る。我ながら素晴らしい提案だ。
ニコラは戸惑っているが、レイルは感心している。
「まさかこの状況をポジティブにとらえてらっしゃるとは。御慧眼には感服いたしました。――して、ニコラ、お前はどうしたい?」
「ひゃ、ひゃいっ、喜んでお仕え致します!」
国王に問われて拒否できるわけがない。ニコラは涙目で、噛みながら返事をした。レイルはそれで満足して、席を立つ。
「では、決まりだ。私は公務がありますので、これで失礼します。晩餐はご一緒しましょう」
「ええ」
ライラは頷き、ニコラは慌てて椅子を立ってお辞儀をする。
レイルが去ると、ライラは小声でニコラに問う。
「嫌だったら、私から上手く言っておくわよ?」
「いえ、とんでもありません。私のような下位の者を取りたてて頂けるなんて、名誉なことにございます。姫様の優しさに、感謝に耐えません!」
無理を通したかと心配になったが、お辞儀をして顔を上げたニコラは、頬を赤く染めて嬉しそうにしている。
ライラは話し相手を手に入れたことが嬉しくて、にっこり微笑んだ。