虹、あるいは浮遊する音楽 §7 |〈孤狼の領域〉|
§7
1月16日月曜日、午後。
芳竹先生が「経済初級」の課程終了を告げたとたん、ゾエは筆記具をまとめて講義室から飛び出した。
ゾエが着いたとき、8号棟の出入り口はまだしんとしていた。
建物の外壁に沿って、窓のある側に回り、窓枠に手をかけて製図室の中を覗き込む。
等間隔に並べられた製図机に座り、製図実習を割り振られた活動班の少女たちがまだ黙々と作業をこなしているのが見えた。
ゾエは建物の陰に隠れて実習が終わるのを待った。
エンマはゾエに、ペッパーポットの貸し出し料は一人で集めるように命じた。
てっきりエンマが手伝ってくれると思っていたゾエは最初嫌がったが、“蛇”を捕まえたいと言い出したのはゾエさんでしょう、とエンマは譲らなかった。
その代わり、考えがあるので開封パスコードの解析に関しては任せてくれていいと言った。
“蛇”を捕まえたければ、“蛇”がどこにいるかがわからなくてはならない。
自分たち以外の人間に頼れないのなら、どうにかして自分たちで開封パスコードを割り出さなくてはならない。
つまり、データの存在する理論空間上の座標を。
エンマはそれについては自分が引き受ける、と言った。
というわけで、パスコードの解析はエンマが行うことになったので、その間、ペッパーポットの貸し出し料集めをゾエが行なうことになった。
*
――建物の中でみなが動きはじめた気配があって、8号棟の入り口からぞろぞろと製図担当の少女たちが吐き出されてきた。
ゾエは、エンマからあらかじめ見た目を聞いていた摩美々《マミミ》という少女の姿を集団の中に認めると、体を少女たちの間にすべりこませ、そっと横に並んだ。聞いていたとおり、長い髪を頭長部近くの左頭で一つに結わえている。
1号棟のほうへ歩く摩美々と歩調を合わせ、ブラウスの袖を引いてこっちに気づかせ、裏門脇の守衛室から丸見えの位置にくる手前で、3号棟の陰に引っぱりこむ。
製図実習の報奨品をただで分けてほしい――
ゾエのそんな申し出に、当然といえば当然のことだが、摩美々はなかなかうんと言わなかった。
現在の〈領域A〉入所者のうちでも、1位か2位を争うほどに手先が器用だという摩美々は、今日も生産枚数トップの報奨として書簡箋を手に入れていたし、保養室のサイドボードにだって今までのものをいくつもしまいこんでいるに決まっていた。
といってもちろん、摩美々にはそれをただでゾエにあげる理由などないのであった。
「うまくいけば、金曜日の夜には、ここではかなりめずらしいものが手に入る予定なの。
少し後にはなるけど協力者にもあたしたちの成果は分けられる。
だから、あなたのものをあたしたちにくれる意味は充分にあるってわけなのよ」
ゾエはせいいっぱい愛想のいい口調で言って、摩美々をその気にさせようと試みた。
摩美々は自分より背の低いゾエのことを苛立たしげに見下ろした。
「これって、べつにほかのことに利用したくてもらってるものじゃないのよ。
報奨品がめあてで生産枚数の上昇をめざしてるわけでもない」
ゾエは、エイダが機嫌を損ねたときにいつもそうしていたように、口を鎖して待っていた。
言いたいことを言い終えれば、言うべきことを言ってくれるはず。
「あちこち痛い思いをするほどがんばって手にしたものを譲るほど大事なことなの?
一瞬だけ、めずらしいものが見られるていどのことじゃ、差し出せないわよ」
急に問い詰められてゾエはめんくらった。
ここで芹那に対するゾエの気持ちをいきなり打ち明けたとしても、初対面の相手に理解してもらうのは難しいだろう。
ゾエがまだどこかに、曲の開封が果たせなければ、芹那に負けたままになってしまうという気持ちを抱えていたとしても、摩美々にもエンマにも関係のない問題だ。
では、芹那の音楽にこだわる理由について、自分以外の相手にはいったいどう伝えればよいのだろう。
それを考えたとき、ゾエの口をついて出たのは、本人にすら思いがけないことばだった。
「宝物なの」
あごを上げ、摩美々の顔を見返すと、ゾエは言った。
「たった一つの宝物になるはずのものなの、あたしの」
エイダの部屋にいたころ、何不自由のない生活を送ることができていたが、ほとんどすべてのものはゾエにとって借り物でしかなかった。
〈領域A〉に連れてこられてきてからは、わずかにあった自分自身の持ち物まで、すっかり取り上げられてしまった。
何もかもなくした。
……いや。
本当にそうだっただろうか? エイダと出会う前は?
「あたし……生まれてこのかた、何か自分の物を持ったということがない、という気がしているのだけれど……。
今から手に入れようとしているものは、生まれて初めて、たった一つ自分のものになる。
そんな気がしているの。
だからとても大事」
ゾエが言い終わっても、摩美々は腕を組んで考え込んでいた。
でも、見ているうちに、心なしか頬のあたりのぴりぴりした感じが、だんだんとはがれていった気がした。
軽く息を吐いて、摩美々は言った。
「〈領域A〉の入所者は、活動も同じ、制服も同じ、食事も同じ。
時どき何かで確かめないと、立上摩美々《タテガミ・マミミ》がだれだったのかわからなくなりそうになっちゃう。
だから、自分とみんなに違いがあると確かめられる、製図の時間だけは、ぜったいに引けをとらないって決めた。
でも、まぁいいわ――ここまではこっちのことだものね。
あなたは、その宝物を手に入れたら、〈領域A〉を出ていく前に、ここでだれかのために何かするって約束できる?」
摩美々の、きっとした視線に見返され、ゾエは目を逸らしたくなったが、がまんして答えた。
「何かしてみるって約束するわ。
ぜったいにだれかのためになるとは言い切れない。
でも、あなたがそう言うなら、何かする」
摩美々は毛先を捻りながら、ゾエの答えについて考えているふうだったが、やがて再び口を開いた。
「今、手元にあるのは5つ。明日、渡すから」
話を終えて礼を言うと、ゾエはエンマに結果の報告をするため、5号棟のほうへ駆けだした。
これで残りはあと半分の書簡箋に、ゾエとエンマの手持ちを引いた分のノートが3冊。
支給品希望の聞き取り結果を盗み見ようとしたり、書き物をしている入所者を見つけては使用量を覗き込もうとしたり、ゾエはその日とその翌日もちょこまかと〈領域A〉じゅうを動き回ったが、結果ははかばかしくなかった。
水曜日の夜に、すべては集まりそうにないと相談しに行ったゾエとエンマに対し、魅羅は貸し出し料の不足分の代わりとしてちょっとした用事を言いつけた。
明日の夜に〈喫茶〉を手伝え、と。
ゾエとエンマは、〈領域A〉ではおよそ似つかわしくない単語に顔を見合わせたが、ほかに不足分を補う手立ても思いつかず、その頼みを引き受けることにした。