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虹、あるいは浮遊する音楽 |〈孤狼の領域〉|  作者: Mareureu08
第2章 受け取り期限
6/13

虹、あるいは浮遊する音楽 §5 |〈孤狼の領域〉|

§5



1月13日金曜日、夜。


「“蛇”を捕まえる手伝いをしてくれない?」


だしぬけにゾエからそう切り出され、エンマはぽかんとした顔つきになった。


「蛇ですって? ここの敷地内で?


そりゃ、茂みぐらいはあるから、いる可能性がないとは言い切れませんけども」


ゾエはそれを聞いて笑いだした。


夕食がすっかり空になった角皿を前に両手を組み合わせる。


〈領域A〉に来た当初、なんてがさつな味だろうと残してばかりいたここの食堂のグレインパフが、最近はすっかり味を気にせず食べられるようになっていた。


エイダが買っていた天然酵母のパンの味はなるべく思い出さないようにしている。


「本物の蛇だなんていつ言ったかしら?


 あたしが黒く焼いた蛇でまじないでもすると思った?」


「黒ミサかもしれません……というのは冗談にしても。

 

 隠れて虫やなんかを飼ってる子だって、いないわけじゃないですから」


「歌う蛇。虹の道をわたる蛇。空の上を巡りつづける蛇」


ゾエはどこか夢見るような目つきで続けた。


食堂の喧騒の中とは思えないくらい、エンマの耳にはゾエの高く澄んだ声だけがはっきりと響いた。


「ゾ、ゾ、ゾ、ゾエさん?


 あなた、いきなり自分の夢の世界に行っちゃったんですか?


 だから黒ミサだの、幻想の世界の魔物だのは、ぜんぜんわたしの専門じゃありませんよ」


「だから実在はしないんだってば。


 あたしのいう“蛇”が生きてるのはインターネットの中」


さっきまでうろたえていたエンマの目に、ふいに光が点った。


「へえ。それなら引き受ける気になるかもしれません」


食堂棟から、一定時間ごとに探索灯サーチライトのよぎる屋外部分を通り、二人の寮舎である5号棟へ戻る。


〈領域A〉の外の世界では、今どんなことが起きているのか、建物の隙間に覗いた夜空のまばらな星の光からだけでは、少女たちにわかることはない。


ゾエが“蛇”についてより詳しい話を始めたのは、戻った5号棟で活動室に空席を見つけてからだった。


ひそめき声で向かいのエンマに“蛇”を捕獲しなくてはならない事情について伝える。


ことばを交わしながら、卓上の紙にペンで、日中の活動に関するまったく話の内容と関係のない単語や図を代わるがわる書きつけているのは、監視カメラの目をごまかすためで、このごろのゾエとエンマの習慣になっていることだった。


ゾエが以前エイダにねだった誕生日祝いの曲は、いまだに芹那から受け取れないままになっていた。


……芹那は、今思うと、もうすぐエイダが逮捕されるということを、不思議に見越していたふしがある。


エイダの依頼から約2週間後、芹那は曲の完成を連絡してきた。サンプル代わりにエイダから聞かせてもらっていた副店長の退職祝いの曲と、同様であるなら、それは人工音声で歌声を合成した電子音楽に仕上がっているはずだった。


非肉体由来の音声使用でありながらも聴く者に血の通ったぬくもりを感じさせるポップソングはCERINAの得意とするところだった。


しかし、芹那から“Drop of Daylight”と曲名だけ伝えられた楽曲は、結局、依頼主であるエイダですらどういうものかわからないままになった。


原因の一つは、芹那が、完成曲のデータを自宅の情報端末デバイスから直接エイダに転送せずに、レターリングというオンラインのファイル共有サービスに預けたことにあった。


芹那からは、託したサービスの名前と「CERINA7210」というデータ取得に必要なID、そして二種類のパスコードのみがエイダに伝えられた。


初期パスコードと、開封日のパスコードだ。


レターリングというサービスの特徴であるが、預けられたデータはIDごとに定められた曲線のグラフ上をストレージ内を表す理論上の空間内で移動しつづけていると仮定されている。


現実には存在しない座標のみ配置された理論上の、あるいは仮定上の3次元空間。


いわばレターリング空間とでもいうべきもの。


データを意味する点がある日の時点で位置する理論空間上の地点を示す座標(x,y,z)をxyz順につなげて表した9桁の数字が、つまりその日の時点での開封パスコードになる。


1日1回の座標移動に従って開封パスコードは変更されるが、データ――ゾエいうところの“蛇”――が、今日どこにいるかを座標で言い当てる――つまり正確なパスコードで入力することができれば、目的データのダウンロードページへのサインオンを行うことができる。


なお移動速度は保存期間の長さに応じて決められており、どのデータも期限終了と同時にそれぞれのグラフを移動し終わるように設定されている。


だから、曲線グラフが尽きる終点に着いたタイミングでデータは消える。


「最初からレターリングって言ってくれれば、わたしだってすぐわかりましたよ。


 それを歌う蛇だの、空を飛ぶ蛇だのと言うから」


ゾエは顔をしかめて唇に手を当てた。


この名前が漏れたら、今からしようとしていることが台なしになるとわからないのだろうか。


できることなら、背もたれの後ろに回ってエンマの口を塞ぎたいくらいだ。


「虹の道を飛んで渡る蛇って、あたしはぴったりの言い方だと思うわ。


 虹は地上から神の国に架かる橋だという説も、神話の中にはあったでしょう」


レターリングの概要を聞いたときから、虹と蛇の空想はついて回った。


地上から見る虹のように半円形の軌道を移動しつづける蛇。


ゾエには、その空想が自分だけのものであるということが意外なほどだった。


「その蛇が飛んだり歌ったりするかは知りませんけど」


「とにかく、これは“蛇”を捕まえる話なのよ、いいわね?」


エンマに一方的にそう念を押しておいて、ゾエは注意深く言葉を選びながら、手伝ってほしいことの中身について説明を続けた。


レターリングについてエンマは知っていたが、ネットに数あるファイル共有サービスの中では、どちらかといえばマイナーなほうの一つだ。


今からちょうど10年前の連邦暦63年6月に「情報空間防衛法」改正法が施行されたことによるウェブページ閲覧の地域制限後、65年に国内ネットのみのサービスとして日本企業レターリング社により開始されている。


エイダからデータのIDとパスコードを伝えられたとき、自宅の端末から複数のサイトにアクセスしてレターリングに関して調べているから、ゾエは知っている。


会員登録のいる無料サービスなのはファイル共有サービス同様だが、他社に比べてアップロードファイルの保管期間が長い。


3か月、6か月、12か月と選べる保管期間のうち、芹那は3か月を選択していた。


期限が過ぎたデータは、レターリング社により抹消され、消されたデータの復元に関して管理会社は一切の責任を負わない、とレターリングのサイトにはあった。


芹那がどうしてレターリングを知っていたのかわからない。


でも、芹那ことCERINAが自作楽曲の制作過程で一風変わったファイル共有サービスのことを知ったとしてもおかしくはない。


あんなことがなければ、今年の誕生日には、いつもの料理宅配サービスに注文したたっぷりのごちそうとバースデーケーキの載ったテーブルを囲み、家族と集まった客たちとで、パーティーに夜更けまで騒いでいたはずだった。


でも、ゾエの誕生日にあたる1月7日まで1か月余りを残して、エイダは逮捕され、養女であるゾエの身柄は〈領域A〉に移された。


今となっては、開けなかったバースデーパーティーのことはあまり考えたくない。


――食べ過ぎて吐き気を催すほどの豪勢な料理、見た目にもきらびやかなテーブルセッティング、客人たちの華やかな衣装に宝飾品、いついかなるときでも流れつづける快い旋律……


どれもこれもエイダの部屋ではありふれたものだったのに、〈領域A〉に連れてこられたとたん、いっぺんに何もかもなくしてしまった。


ゾエがここで涙を流すときは、大抵、さびしさやひもじさからではなく、かつて当たり前にあったのに気づいたら消えてしまっていたものに焦がれてうなされるようなときだ。


「それで“蛇”を捕まえる方法が知りたいと言うのですか」


エンマは、ゾエに調子を合わせて、レターリングに預けられている楽曲データの取得と開封の実行についてそのように言い表した。


「あと1週間よ。あと1週間で、“蛇”は消え、永久に飛び去ってしまう。


 だから、捕まえないと」


「“蛇”が消えてしまう前にってわけですか」


 ふむとうなずいてエンマは腕を組んだ。


「できない相談じゃありません。


 ほかならぬこのエンマ様なら」


その返答を聞いて身を乗り出したゾエに、エンマは「ただし、」と条件を付けた。


「もちろん、あなたにも協力していただきます、ゾエさん」

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