虹、あるいは浮遊する音楽 §4 |〈孤狼の領域〉|
§4
そんなきっかけから、ゾエとエンマは、〈領域A〉で連れ立って行動するようになった。
とは言っても、訓練時間内は活動班が別々なので、会って話ができるのは、ほとんど食事時間と自由行動の時間に限られていたが。
翌日と翌々日も話すうち、ゾエはだんだんとエンマの生い立ちについて知るようになった。
16歳の(つまりゾエと同い年である)エンマは〈領域A〉に来てからだいたい8か月になるらしかった。
エンマこと前田島苑が〈領域A〉に送られたのは、兄の雀とともに参加していた反社会的なハッカー集団・栄光の勇士が、反体制武装集団B.B.B.の活動支援疑惑で摘発された際、エンマ自身は疑惑の活動に直接関与していなかったにもかかわらず、反体制側の協力者と見なされたためのことだった。
雀と苑は血のつながらないきょうだいだった。反体制活動の団体に参加していた父と母の元に、別々の団体関係者から引き取られ、家族として暮らしながら育った。
エンマは、ハッカー集団の基地に、まだ年端もいかないころから出入りしていた。
基地をほとんど第二の家として生活の場にしていたような子ども時代だったらしい。
そのようにして育つ間、年の離れた兄や他のメンバーから、コンピュータの知識やハッキングの方法についていろいろと教え込まれたそうだ。
とくに官公庁や企業のデータベースへの違法侵入や他人の作ったプログラムの不正な書き換えを得意分野としているようで、〈領域A〉内には入所者が自由に使える通信機器がないことを、エンマはたびたび残念がっていた。
ゾエのほうでも、自分の来歴について話さないとならなくなって、生き別れた産みの母のこと、離れて以来帰っていない故郷のこと、首都での育ての母との生活のことなどを徐々に打ち明けていった。
「ふーん」
うなずいたエンマの後ろで、活動室のスクリーンが、国営放送のバラエティ番組を画面いっぱいに放映しているのが見えていた。
ほかの入所者たちのざわめきと低音量のせいで音声はまったく聞きとれない。
「何申し分ない暮らししてたんじゃないんですか、聞くかぎり。
じゃあ、どうしてこんなところに?」
「育ての親が警察に逮捕されて……」
ゾエは少し言い澱みつつ、話しはじめた。
エイダの罪状は、オーナーを務める高級クラブで、深夜営業の時間帯まで未成年の店員を働かせていたことだった。
店は営業停止の処分を受け、さらに、この罪状を理由に、エイダは、養子として同居していたゾエの親権者としての権利についても制限されることになった。
〈領域A〉送致決定の根拠になる「逸脱青少年再適応支援法」の適用対象候補として、ゾエの存在を地区の福祉・生活支援センターに報告したのは、居住区域を担当していた公衆統制省の区域委員だったそうだが、ゾエはその委員の顔すら見ていない。
エイダや店の関係者への事情聴取を通じて明らかになった、ゾエの未成年らしからぬ暮らしぶりが、何らかの形で伝わり、問題視されたものらしい。
帰ってこなくなったエイダのことを案じながら、ゾエは二晩というものマンションにひとりきりで過ごしていた。
そうしたら、ある朝、 ベスト・モーメント社の社員たちと福祉エージェントが、連絡もなく部屋に踏み込んできたのだった。
ゾエは主のいなくなったバルコニーで、BM社の社員とエージェントから、自分の〈領域A〉送りについて通告された。
ものごころついてから、15歳のその日まで、母であり、姉であり、教師であり、ときには恋人ですらあったエイダとの別れは、そのようにいともあっさりと訪れた。母子の豪奢な蜜月の終わりは突然だった。
エイダは、ゾエの親元引き離しと施設入所について承諾した、という。
「きみも、いいね?」
判断も回答も求めていない口調で、福祉エージェントを名乗る居丈高な男は、ゾエに了承を促した。
ゾエは返事の代わり、片手に持っていた音響装置のリモコンを、思いきり天井のスピーカーに向かって投げつけた。
「ぅわっ!?」
金属質の破壊音とともに、セラミック製の暈の破片が雪片のように床の上に舞い散った。
音楽の止んだバルコニーに、大人たちの怒気を孕んだ叱り声が響いたが、ゾエは聞いていなかった。
涙のにじんだ目で、ただ、壊れた音響装置のことをにらみつけていた。
ゾエはその日のうちには、BM社の人と福祉エージェントに挟まれて協力会社の移送車両の後部座席に座り、〈領域A〉へと出発していた。
膝の上に、わずかに携行を許された、最小限の手荷物だけを抱えて。