虹、あるいは浮遊する音楽 §3-1 |〈孤狼の領域〉|
§3-1
1月10日火曜日、夜。
〈領域A〉の談話スペースはこの時間、少女たちのおしゃべりのさざめきに満ちていた。
時折、焼き菓子に入った砂糖の粒みたいに甘やかなしのび笑いが漏れ聞こえてくる。
談話スペースは、日中に活動室として入所者の教育活動に使われている部屋が、就寝前の短い自由時間に開放される形で設置されている。
ゾエがここに来ようと思うときは、大抵、ひとりきりで退屈しているときだ。
休憩や談話目的の使用は食事どき以外の食堂にも許されていて、あちらではお茶やお水くらい飲めるし、手元にあれば菓子類だって持ち込んでいい。
こちらのスペースは、飲食禁止の代わり、帯出不可ではあったが、備品の雑誌やボードゲームを借りることができるのだった。
一月半前の入所以来行動をともにしていた、物言いは蓮っ葉だが面倒見のいい安瀬上睦舞が先週末退所になってからというもの、ゾエは新しい話し相手を見つけることもできず、一人で過ごすことが増えていた。
3日前の16歳の誕生日にも、祝いらしいことは何もできなかった。
ゾエは活動室の壁際のマガジンラックからファッション誌の5年も前の号を一冊抜き取ると、ざわめきの間を縫って歩き回り、どうにか空いた席にすべりこんだ。
活動室の、楕円形の大テーブルと組み合わされて使われている四つ脚の椅子は、座面が布製のクッションになっているほかはグラスファイバーが使われていて軽いわりに丈夫だ。
エイダなら家にほしがったかもしれない。
〈領域A〉の教育棟や食堂棟のあちこちで同じ種類の椅子が使われているところを見ると、この施設のために特注されたものなのかもしれない。
椅子に腰を下ろし、すっかりめくりぐせのついた雑誌の頁を数回めくる。
そこで、ゾエは自分の向かいに同じく雑誌を読みながら座っているのが、5号棟では“エンマ”で通っている前田島苑であることに気づいた。
同じ5号棟の入所者であるとはいえ、活動班も使用部屋も別々のエンマのことを、ゾエが覚えていたのは、講義の時間に頻繁に質問する姿が目立っていたからだ。
――それに、もう一つの理由もあった。
ほとんどいつも何かしらの運動になる〈領域A〉の「体育活動」の時間、昨日も、ゾエは体操着に着替え、ほかの少女たちと屋外運動場に集まっていた。
その日の活動は陸上競技だった。
短距離走のタイムを取った後、長距離走の出走順を待っていたときのことだ。
ゾエは体操着の少女たちが同じようにトラック脇で手持ちぶさたそうにしている中で、一人だけ変わったことをしている少女がいるのに気づいた。
卵型の顔に眼鏡を掛けた、一見地味な雰囲気の少女。
その少女は同じ場所をなんどもぐるぐると走り回っていた。
時たま立ち止まっては、片手のストップウォッチの盤面を確かめる。
そしてまた走り出し、同じ場所をぐるぐると回る……
教官の指示通りに、一かたまりになって行動することに入所者みなが慣れきったこの〈領域A〉で、周囲からすっかり浮いた別行動を取る少女。
エンマのその姿は、ゾエの目には完全に異彩を放って見えた。
だから、今日のゾエは思いきって、このエンマという少女に話しかけてみることにした。
「ねぇ、エンマよね、あなた?
みんなからそう呼ばれてる」
エンマは読みかけの雑誌を卓に置き、ずり下がった眼鏡を片手でかけ直して、ゾエの顔をちらりと確かめた。
向かい合うゾエとエンマは、小柄な体格も、年格好もよく似ていた。
エンマは今日も長めの前髪を二つに分け、左耳の上の赤い髪留めで留めていた。
「503号室のゾエさん。お話するのは初めてですね。
あ、それとも、空像幸波さんとお呼びしたほうがいいのでしょうか。
どちらにしても、入所者どうしは「さん付け」で呼び合うのがここの決まりですよ」
驚いたことに、前田島苑はゾエの本名をフルネームで覚えていた。
「ゾエさんでいいわ。あたしもエンマさんって呼ぶから」
育ての親であるエイダが付けた“ゾエ”という愛称のほうが、産みの親が付けた本当の名前より気に入っていた。
それに、いちいち「空像さん」などと呼ばれたのでは、堅苦しくてたまったものではない。