虹、あるいは浮遊する音楽 §1 |〈孤狼の領域〉|
§1
真夜中の底で会いましょう
ほかの だれにも うちあけられない
本当の 思いを 伝えたいときには
10月8日土曜日、午後。
ゾエは踊り疲れた妖精みたいな、ひどくしどけない格好で居間のソファに座り込んでいた。
身にまとっているものといえば下着のほかは袖なしのワンピースが一枚きり。
あたりの床にはそこらじゅう一面に、脱ぎ散らした衣服やアクセサリーが落ちているのだった。
だらしなく投げ出されたゾエの腕や沈み込むゾエの重みを受け止める背を、一人掛けのソファは柔らかくその中に埋もれさせている。
あばら骨の間にじわじわと溜まってきた熱を逃すように、ゾエは向きを変えた。
その先で顔に当たったソファカバーのくすぐったさに思わず笑い声を立てる。
視界に入った金のきらめきのほうへ手を伸ばし、床から拾い上げたネックレスをつまみとって反対側の手首にぐるぐると巻いてしまう。
金鎖がすべらかな素肌をした腕を陶器の表面から噴き出した水滴かのように伝い落ちてゆく。
どれもこれもゾエのものではない。
保護者であり同居人のエイダが着飾って夜遊びを愉しむときに身に付けるための衣服や宝飾品を、ゾエが勝手に寝室のクローゼットから持ち出してきたのだ。
でも、また体の向きを変え、新しく目に入った花柄のドレスが気になるとゾエはすぐに金のネックレスを投げ捨ててしまった。
18Kも真珠もダイヤも値打ちのわからないゾエには玩具と同じことだ。
ソファに座ったまま、しわになるほどその花柄の布地を抱き締めて、似合うような気がしたことに満足してまた笑う。
本当に似合うかは知らない。
居間には一日中、全方位立体映像投影機が点けっぱなしになっていて、天井といわず壁といわず、装置の記憶から無作為に選び出したホームビデオの立体映像を映し出して回転させているから、見える物の正しい色なんてちっともわからない。
今もゾエの目の前の壁を、夏に旅行で南国風屋内リゾートに行ったときのエイダとゾエが笑い合いながら滑っていった。
見た目としては完全に仲睦まじい母子のように。
ゾエの幸せな気分は長くは続かなかった。
*
この前の日曜日、遅く起き出してきたゾエが、寝巻きに素足という格好のままで居間に足を踏み入れると、切れぎれの歌声が聞こえてきた。
今は怖れの 影すらもなく
闇間に溶けて 夢さえも見ずに
ゲルダがバルコニーの音響装置を、この部屋が17階という高さにあるのをいいことに、大音量でかけっぱなしにしていることはよくある。
でも、その派手好きな母は、昨夜から知り合いの弁護士が趣味で主催している室内管弦楽のコンサートに招待されて外出中であり、昼まで家には戻らないはずであった。
ゾエは台所の床に落ちていたいつものスリッパを拾って履くと、半開きになっていたバルコニーへ続くドアをそっと押し開けた。
濃紺に黄縞の地の花柄ワンピースに身を包んで、こちらに背を向けているショートボブの髪型の女性の姿があった。
このほっそりとした後ろ姿はエイダのものではない。
黒い帳の陰で そっと交わす秘密
この夜が明けるころ また近づく終わり
綴部芹那は歌を口ずさみながら全面ガラスの窓に向かって眼下に広がる街並みを眺めていた。
天井から生えるように向かい合う二つのスピーカー部分が突き出た音響装置からはかすかに器楽曲が流れている。
クラシックらしいがゾエの知らない曲だ。
左右一対のスピーカー部分は、寸胴のワイングラスを天井に貼り付けたような形をしており、なめらかに曲面をえがく乳白色のカバー部分には黒で幾何学的な意匠が施してある。
この、変に凝った形状が、奏でる音楽より先に人の注意を惹きつける音響装置は、7年前にエイダがどこかでデザイナー物を見つけてきて購入を決め、わざわざ取り付け工事までしてバルコニーに設置したものだ。
そのせいで元々天井にあった照明は外され、ここの明かりは入口脇のライトスタンドに取って代わられた。
以来、この奇妙な音楽機械は、朝な夕な何か掛けていないと気が済まない女主人の強力な庇護の下、このバルコニーの主として天井に鎮座ましましている。
――そう、言うなれば、ゾエと同じなのだ。
ただ「美しかったから欲しかった」という理由で、まるで犬の仔でももらうように、かつてエイダに引き取られたゾエ自身と、だ。