そして明日が来る(1)
――石になれ。
軍隊の訓練の中で、最も基本的かつ厳しいものがこれだった。この命令が下されたら全身を動きを止めて、文字通り石になる。指一本どころか瞬き一つ、可能であるならば呼吸も心臓の鼓動さえも控える。真に統制された部隊においては、それは出来て当たり前の行動だった。
偽装用のマントを被って、もうどれだけここでこうしているのか判らなかった。時間の感覚は、とっくに麻痺している。強烈な暑さだけは相変わらずだ。汗の球が浮かんで、肌の上を伝い落ちる。通りがかった小さな砂トカゲが、べろり、とそれを舐め取った。
トカゲなんて可愛いものだ。ここでは猛毒を持った蛇や、蠍なんて奴らも珍しくない。そいつらに悟られたら、全てが台無しだ。蛇が背中の上を通り過ぎたとしても、ここにあるのは石。例え顎の下で握り拳大の毒蜘蛛が涼んでいたとしても、やはり石だ。
口の中に放り込んだ上着のボタンのお陰で、じんわりと唾液が染み出してきている。この水分を摂取する時には注意が必要だ。咽喉が動くだけでも拙いのに、むせてボタンを飲み込んでしまっては洒落にならない。乾き過ぎず、ただそこに在り続ける。重要なのはそこだった。
いかに壮絶な爆発が連鎖的に発生して、砂の中に埋もれそうになったとしても。
空を覆うような空船が現れたとしても。
執行者がレヴィニア解放軍に警告を発しようとも。
与えられた命令は、有効なままだった。そう、「石になれ」。然るべき時が訪れるまで、今のこの姿勢を保つ。砂漠の一部と化し、意識もなくしてひたすらに待ち続ける。
その瞬間を逃すことなく、確実にものにする。他に考えることなど、何もなかった。
執行者が操縦席の前まで飛んできて、ラリッサにハンドサインを送ってきた。現在の地点で待機、だ。ラリッサは手を振って応えると、ファフニルをゆっくりと降下させ始めた。出来ることなら今すぐにでもエイラのところに飛んでいきたかったが、ここはヴァルハラの指示に従うしかない。事態は明らかに好転している。変に焦る必要はないだろう。
「ティアマトだよ、ディノ君」
「ああ、僕も久しぶりに見たよ」
余程高度な政治的問題でも発生しない限りは、ヴァルハラの巫女がコリドールを動くことはまずない。ティアマトが母星に降りるのは、国際航空迎撃センターの迎撃司令官との会談以来ではなかろうか。コリドールに頻繁に出入りするエイラたちであっても、ドックに係留されていない状態のティアマトを目撃するのは稀だった。
それをこんな、砂漠のど真ん中にまで呼びつけてしまうとは。新聞記者の力というのは大したものだ。ディノはふぅ、と溜め息を吐いて床の上に座り込んだ。
「エイラとは連絡はつくのか?」
防護服のモニター装置は、機能していない。最後の反応は、エイラが自身で防護服を解除したというものだった。あの炎熱虚人が相手では、装甲がもたなかったのだろう。通信装置もノイズしか返してこない。ラリッサとの念話だけが頼りだった。
「まだだね。生きてるのは判るけど、念話が出来るくらいにはマナが戻ってないみたい」
この付近一帯のマナの濃度が、著しく減少しているというのも関係していると思われた。あるだけ燃やし尽くした、といったところか。これだけ派手な魔術的戦闘は、滅多に見られるものではない。イクラスの望み通り、歴史に残る一戦だった。忘れたくても、当分の間は忘れることが出来ないだろう。
戦闘士と、ワルキューレ信奉国の守護者の激突。一つの王国の終焉。極北連邦が絡んだ軍隊を交えた国際条約違反に、ティアマトの出現。これだけ並ぶと、どこに注目して驚けば良いのかいまいちピントがぼやけている。後世の歴史家は、事実関係の蒐集と編纂が大変なことになりそうだった。
「心配?」
「そりゃあな。抗魔術加工の影響とか、まだまだ判っていないことが多いんだ」
連接剣や貫通兵器は、まだまだ試作品の段階だった。指向性抗魔術加工も、実用化には程遠いと判断されているものを無理を言って使わせてもらっていた。魔女がそれを使うことによる副作用など、実証が追い付いていない項目はごまんとある。エイラはそういう未完成品を、むしろ喜んでホイホイと使いたがるので困りものだった。
まあでも、今回イクラスに勝利出来たのはそれのお陰だ。早いところディノ自身の眼で、エイラの無事を確認したい。そして今度こそ、ワルプルギスで休暇を得てもらいたかった。
「ヴァルハラから連絡。エイラとイクラスの回収を開始。元気過ぎて迷惑だってさ」
「なんだ。だったら歩いてこっちまで戻って来れば良いじゃないか」
気を揉むだけ無駄だったみたいだ。ディノはそのままごろんと仰向けに横になった。エイラはいつでもそうだ。殴り合って、それで初めて理解し合える。今では何ともない頬を一撫でして、ディノは思わず噴き出した。
ヴァルハラの回収班が到着した時、エイラはイクラスを羽交い絞めにして抑え込んでいた。レヴィニア解放軍が動き出したことを知ったイクラスは、マナのない状態でサファネの救助に向かおうとした。そんなのは、自殺行為どころの騒ぎではない。せっかく助けたイクラスに死なれてはかなわないと、エイラは魔術抜きでくんずほぐれつのレスリングを展開する羽目になっていた。
「救護班は……必要かね?」
「ああ、特盛で頼むよ」
執行者たちにも協力してもらって、エイラは半狂乱になったイクラスの説得を続けた。髪を振り乱して暴れていたイクラスは、周囲の状況に気付くと段々と落ち着きを取り戻してきた。魔力も体力もないのに、よくもここまで動けるものだ。ようやく大人しくなってくれたイクラスを解放して、エイラは砂の上にもう一度ぶっ倒れた。
もう搾り滓だって出ない。殺すだけの仕事なら、こんな苦労はしなくても済む。戦闘士というのは本当に骨が折れるものだと、エイラは改めて思い知らされた。
「――貴女方はヴァルハラの者、なのですか?」
「はい。レヴィニア国内に戦闘士が派遣されることは事前に通告されていました。事後確認のために衛星軌道上で待機していましたが、条約違反を認めて急遽駆けつけてきた次第です」
イクラスの質問に対して、執行者はすらすらと答えてみせた。確かに戦闘士が作戦を遂行した際には、必ずヴァルハラによる検分を受けることになっている。それ自体は正しいことだ。イクラスは目線を持ち上げると、上空に浮かぶ荘厳な空船の姿を視界に収めた。
「この空船……ティアマトで、わざわざ?」
「はい。何か問題が?」
問題、大アリだ。ティアマトが来ているということは、ヴァルハラのリーダーである巫女がこの件に注目していたということになる。それは即ち、ワルキューレの世界全体がレヴィニアの事件に対して強い関心を持っているということだ。
その歴史的な重大事象に於いて、国際条約違反がおこなわれた。これは国際同盟で、大きな問題として取り上げられるだろう。レヴィニア解放軍とその背後にいる極北同盟は、他の列強諸国から激しい非難の的とされるのが目に見えていた。
「つきましては、レヴィニア王国のワルキューレ、イクラス・レリエには重要参考人としてコリドールまでご同行願います」
実に丁寧に、そしてわざとらしく執行者は一礼してみせた。そういうことか。イクラスは寝っ転がったままのエイラを睨み付けた。エイラはイクラスに向かって、にやにやとした笑みを浮かべている。ここまで全部、ワルプルギスの戦闘士が考えたシナリオ通りだ。なんと腹立たしい。
「それは逮捕、ということですか?」
「形式上は任意です。ああ、それから本件の関係者であるサファネ・レヴィニアにも任意同行を求めることになります。地上暮らしの長い王族の方が、慣れない宇宙生活を一人でなさるのはさぞかし心細いでしょうな」
この執行者も、とんだ大根役者だった。何から何まで至れり尽くせり、ということだろうに。ふん、とイクラスは鼻を鳴らした。ワルキューレの裁定機関、ヴァルハラの命とあれば従わない訳にはいかない。よくもまあ、こんな危ない橋を渡ろうと考えたものだ。
「――了解しました。その代わり、時間をください。もう少しだけ、レヴィニアの風にあたっていたいので」
イクラスはくるり、と執行者に背を向けた。強制連行でないのなら、これぐらいの自由は認められて然るべきだろう。誰もイクラスを引き留めようとはしなかった。
正面に、王の墳墓が見えた。そこにはサファネがいる。王子ではない、サファネ。守護者ではなくなったイクラスは、サファネと共に生きていける。レヴィニアという王国を犠牲にして。
それは、とても悲しいことのはずだった。守るべき王国の消失。長い長いワルキューレの誓いの終わり。新しい秩序に対する敗北。
自然と涙が込み上げてきて……どうしてだろう、笑顔が浮かんだ。嬉しくて、幸せで。イクラスはそのあまりにも不自然な表情を、少なくともエイラには見られたくなかった。
サファネたちのところにやって来た執行者は、兵たちが差し出した武器を受け取らなかった。その表情は、全て判っている、とでも言いたげだ。サファネに仕える者たちに、戦意はない。レヴィニア解放軍の部隊の方ではそこかしこで小さな混乱が起きている様子だったが、こちらは静かなものだった。
「これは、サクラヅカ殿が仕掛けたことか?」
「厳密には、俺が持っている伝手を最大限に活用させてもらいました」
前の晩の遅くまでかかって、フミオはトンランを経由して連絡が付く限りの相手にレヴィニアの救済を頼み込んだ。ヤポニアの大使館に、国際航空迎撃センター、コリドール。その中で最も乗り気になってくれたのが、これまで手をこまねいて見ているしか出来なかったヴァルハラの巫女だった。
「エイラとイクラスが共倒れになれば、レヴィニア解放軍は状況終了を待たずに踏み込む公算が高いだろうと。そうでなくても、ヴァルハラならば戦闘士の活動への横槍は入れやすいとのことで」
その夜のうちに、巫女はワルプルギスとも打ち合わせを持ってくれた。国際航空迎撃センターでは前々から国際同盟からの突き上げを受けていた事情もあって、エイラにイクラスの無力化を指示することが決定された。エイラならば、この命令の意味するところを汲んでくれる。ユジのその判断は正しく、エイラは見事にイクラスを殺さずに止めることに成功した。
巫女の側も、急遽ティアマトの出港を準備させた。領空を侵犯しないぎりぎりの高度に部隊を待機させて、光学迷彩で姿を隠して忍ぶ。後は王の墳墓に乗り込む口実と、タイミングが勝負だった。
「ジャコース将軍は、勲功を急ぐタイプの人だったみたいですし。機を見てサファネ王子を狙ってくるとは思ってました」
ご期待通りに、ジャコース将軍は突撃の下知を下した。結果として、ヴァルハラは介入への最大のお墨付きを得るに至った。国際条約違反となれば、一切の遠慮はいらない。人間が自分で作ったルールを、自分で破るのだから世話はなかった。それでもヴァルハラは人命を最優先に考えて、誰一人殺さずにいるのだから文句を言われる筋合いは一つとして存在しないだろう。実に迅速、且つ完璧な対応であるといえた。
「サファネ王子にはコリドールで証言をしてもらう必要があります。何しろ、本件の当事者ですからね」
レヴィニアの内乱は、ヴァルハラの水入りによって一旦その幕を降ろした。レヴィニア王国に政権が戻ることはないだろうが、革命の在り方や極北同盟の関わりについては様々な調査がおこなわれることになる。それが一段落するまでは、関係者の身柄は厳重に保護される決まりだった。
国際同盟によって滅ぼされた王国の王子であるサファネを――皮肉にも、今度はその国際同盟が守ってくれる。つまりは、そういうことだった。
「イクラスも一緒です。申し訳ありません。お二人を助ける手段を、俺にはこれぐらいしかお出しすることが出来ませんでした」
サファネもイクラスも、レヴィニア王国に強い想いを抱いている。それを無碍に踏み躙って、国際同盟によって生かされるというのは二人にとっては屈辱かもしれない。
しかしそれでも、生き伸びることは可能だ。ここでレヴィニアという王国が消えたとしても、そこに生きていた人たちまで消える訳ではない。記憶も、歴史も残り続ける。二人が示した強いレヴィニアは、これからずっと語り継がれていくだろう。
その伝説を胸に、後はひっそりと余生を過ごしても良いではないか。あるいは、イスナ・アシャラのようになるのも一つの道だ。フミオはレヴィニアというワルキューレ信奉国の終わりを、もっと厳かで、美しいものにしておきたかった。
「いや……構わぬよ。サクラヅカ殿、我はそなたたちに礼を言う。ありがとう」
サファネの視界の隅に、イクラスの姿が映った。砂の向こうで、こちらを見ている。ずっとサファネの傍にいて、レヴィニアの王子を支えてくれた立役者。そして今は、サファネの愛するたった一人の女性だ。
無意識の内に、サファネの足は動いていた。イクラスに会いたい。この腕に抱きたい。王子とワルキューレとしてではなくて、ごく普通の一組の男女、愛し合う恋人同士として。
今ならそれが出来る。サファネは駆け出した。居ても立っていられなかった。ただひたすらに、イクラスを――
「サファネ王子が防御士から離れた」
千載一遇のチャンスだ。スコープの中心にその頭部を捉える。引き金にかけた指に力が入った。長かった。石が石でなくなる時。ようやく次の命令がこなせるのだ。歓喜の瞬間の訪れに、全身がわなないていた。
「魔術貫通弾はそれしかないんだぞ。外すなよ」
「誰に言っている」
当てるのが仕事だ。そこはしっかりとこなしてみせるさ。今更どう足掻いたって、手遅れだ。
そして一発の乾いた銃声が……砂漠の空気を震わせた。




