変わりゆく世界(2)
中央大陸の北西に位置する小国、ヒパニスの上空は厚い雲で覆われていた。作戦を遂行する上では好都合だ。空船ファフニルの操縦士、ラリッサ・シラーはゆっくりと高度を下げ始めた。
ファフニルは定員八名の小型船だ。操縦席のスペースも狭くて、ラリッサが一人で全てを制御していた。この高さだと気流が激しくて、船体を水平に保つのが困難だった。これから後部ハッチを開けることになる。余計なものまで落っことさないように、細心の注意を払わなければならなかった。
「降下地点に接近。後部ハッチ開けるよ。準備は良い?」
「こっちはいつでも。ディノ、ちゃんと掴まってる?」
「ハーネスは繋いである。降下準備完了。問題なし」
ディノとエイラの返事を確認すると、ラリッサは操縦板にあるレバーを操作した。船体に取り付けられた装備類は、可能な限り機械でコントロールする作りになっている。いちいち細かいところにまで魔術を使用していては、操縦士であるラリッサのマナが切れた時点で、この船はただの棺桶に成り下がってしまうからだ。
たった一人で幾つものオペレーションを同時にこなせるほど、魔女だって万能ではない。物事はそれに適した解決方式によって、スマートにこなしていくものだ。がごん、という音が船体に響いて、ファフニルの背面にある機密扉が開放されていくのが判った。
「うっは、何も見えねぇ」
眼下に広がっているのは、一面の雲の海だった。目視では、降下地点を確認することは不可能だ。強い風がファフニルの内部に入り込んで、ぐらぐらと揺さぶってくる。暴れまくるじゃじゃ馬を、ラリッサは意識を集中して押さえ付けた。
空船の構造を要約すると、船体の中央に通された一本の芯を本体とする大きなホウキだった。そこに人が乗るスペースや様々な機械等が、ごてごてと貼り付けられているイメージだ。操縦士はそれらをうっかりとこぼしてしまわないように、絶妙なバランスを保ちながら飛行していることになる。
「降りるなら早くしてよ。結構つらいんだからさ」
実際、かなりきつかった。これから宇宙空間で、塵向けの防御壁を展開している方が断然マシだ。船室の方から、ラリッサのいる操縦席まで冷たい空気が流れ込んでくる。ここでもたもたしているようなら、強制的に放り出してやってもいいくらいだった。
「アイサー、それでは行ってきます」
軽い調子でそう宣言すると、エイラはファフニルの外に向かって身体を投げ出した。各種装備、正常動作。振り返るとハッチの扉が閉まる途中で、支柱にしがみついているディノの姿が見えた。手を振っておいたが、気が付いているのかどうかは怪しい。
さて、それではこれより快適な空の旅の始まりだ。
都市部から離れた郊外の森は、一年を通してうっそうと茂っていた。昔から神隠しの噂が絶えず、地元の人間なら恐れて近付こうともしない。特に二つの月どころか星すら見えない闇夜とあっては、尚更のことだった。
その奥地に聳えているのは、かつて魔女たちが築いたという城塞の跡地だ。このヒパニスではかつて、ワルキューレと魔女たちが大きな戦いを繰り広げた。正確には、魔女派の人間たちとワルキューレ派の人間たちだ。ワルキューレによる支配を良しとしない人民たちが、人間による統治を求めて魔女と手を組んで戦いを始めた。
結果として、ヒパニスからワルキューレたち立ち去った。ヒパニスは今でも魔女友好国であり、国際同盟の常任理事国である。国を挙げて徹底した魔女派を貫いており、ワルキューレに対しては過激な排斥論を取る立場にいた。
低い鳥の鳴き声が、夜のしじまをかき乱した。ぱきん、と小枝を踏みしめる音がする。長い間放置されて朽ちかけた城塞の扉の前で、小さな影が揺らめいた。
「ただいま。とってきたよ」
囁くような呼びかけは、耳が痛む程の静寂の中では良く通った。誰も、何も応えない。ざわり、ざわりと木々が梢を触れ合わせて騒ぎ立てた。
「あ、そうか。合言葉。えーと、『魔女の真祖はかく語りき』」
「『この星を母となし、母星と呼ぶ』。よし、ご苦労さん」
閂の外れる重い音がした。続けて、微かな足音。誰もないはずの城塞の扉がほんの僅かに隙間を開けて、何者かをその内側に招き入れた。
「よくやったな、チビ」
扉を抜けると、そこは光と温かさに満たされていた。松明に炎が掲げられ、石造りの内部構造を煌々と照らしている。それらは外からは見えないように、魔術によって仕掛けが施してあった。
「チビじゃないよぅ、モラだよぅ」
「そうだった、そうだった。モラ、いい子だ」
お使いから帰ってきた小さな女の子を、妙齢の女性が抱き上げた。頬に数回、キスの雨を降らせる。それからぐりぐりとモラの髪を撫でてから、ようやく解放して床の上に戻した。
「オッケー、成果は?」
「これで良いのかな?」
モラが差し出した袋の中身を、女は確認した。頼んでおいたものは全部揃っている、文句なしだ。モラは優秀だった。きょとんとした真ん丸の目に、満面の笑顔を向けてやった。
「上出来だ。モラは賢いな。下に行って、ご飯をもらってきな」
「わぁい」と歓声を上げて、モラは階段の方に駆けていった。その背中を見送ってから、女はため息と共に肩を落とした。首尾よくことが進んで順調であればあるほど、罪悪感が増してくる。モラは自分のやったことが何なのか、正しく理解なんかしていないのだろう。
いや、知るべきではない。この場所が何であって、何がおこなわれようとしているかなんて。子供は無邪気に、明るく笑っていられれば良いんだ。それが自分には出来なかった。モラがこの後も笑顔で生きていける世界を作るためなら。
まずはモラの手柄を使って、仕事を一つ終えてしまおう。女――ワルキューレは袋を肩にかけると、城塞の奥にある工房の方に足を運んだ。
寒い。外装の表面が凍結している。今これを解凍しても、またすぐに凍り付いてしまうからこのままにしておくしかなかった。インナーに保温機能があるからといって、完全な防寒には至らない。この辺りは何度改善要求を出しても、ディノによって却下されていた。一度自分でやってみればいいのに。
「エイラ、現状を報告せよ」
「寒くて死ぬ」
「了解。地上班より報告。先ほど目標地点に泳がせておいた子供が入り込んだとのことだ。今回はビンゴだ。気を引き締めていけ」
エイラの話なんか何一つ聞いてなかった。通信機のマイクを噛み潰してやりたくなる。とりあえず、降りたら運動が待っているということだ。軽く手足を振ると、しゃりん、という音と共に霜が剥離した。これじゃあ、地上に着く頃には立派な氷人形と化しているだろう。
雲を突き抜けて、途端に視界が開けた。目の前にあるのは、真っ暗な森だった。遠くには街の灯りがきらめいている。耳元を抜けていく風の爆音が凄まじい。エイラは目標の位置を改めて確認した。
「軌道修正。もうすぐ到着する」
「了解。通信状況良好。モニター継続する」
エイラの行動は、逐一ファフニルにいるディノの下に届けられていた。現場には単独で突入を試みることはあっても、バックアップは常に必要だ。「特にエイラは馬鹿だからな」と、ディノには酷い評価を受けている。一度作戦区域と反対側に向かっただけなのに、いつまで根に持っているのだか。男のくせに、そういうネチネチとして口さがないところだけは女々しくていただけなかった。
ヒパニスのワルキューレ勢力は、風前の灯火だった。元々この土地からは追い出された身分だ。再度盛り返そうと思っても、そう簡単にはいってくれない。まずは時間をかけて、少しずつ影響力を拡大していくしかなかった。
今出来ることは、せいぜい国際同盟に対して反抗している勢力への連携だった。人間同士の戦いなんて、ワルキューレからしてみればお遊びだ。たった一人で、一個師団をも上回る破壊をもたらせるのだから。
もっとも、そんなことをすればあっという間にワルプルギスの魔女たちに目を付けられて、戦闘士が派遣されてくる事態となるだろう。ワルキューレならば、誰でも戦闘のプロという訳ではない。そうなると可能な限り目立たずに、それでいて魔女たちには嫌がられるような手段に頼らざるを得ない。それが現状に於ける、精一杯の反抗作戦だった。
「不足していた材料が届いた。これで完成出来るな?」
工房の中では、数名のワルキューレたちが腫れぼったい目で作業をおこなっていた。机の上に乗せられた小さな機械は、高性能な爆弾だ。魔力を込めてあるので、その爆発力は通常の火薬のそれを遥かに上回る。それでいてこいつは魔術師でもない普通の人間にも起爆が可能なので、取り回しの上でも非常に便利だった。
メイドインワルキューレ。世界各国のテロリストたちから、引く手数多の人気商品だ。このヒパニスにおけるワルキューレたちの目下の活動は、この爆弾の製造だった。
「……子供に盗みをさせたのか」
ワルキューレの一人が、そう独りごちた。いくら爆弾が高く売れるとはいっても、原価まではタダとはいかない。爆弾の材料の大部分は、盗品から成り立っていた。この城塞跡に住んでいるワルキューレたち全員が食べていくためには、それ以外に有効な方策は存在していなかった。
「ワルキューレだから、それで済んでるんだ。力がなければ売春に走るしかない。あの子たちは幸運だよ」
ヒパニスはそれ程裕福な国ではなかった。また魔女友好国だからといって、魔女が特別に優遇されているという訳でもない。たとえ魔女の力を持っていたとしても、身寄りのない子供達が生きていくのには厳しい環境であることに変わりはなかった。
「だからって政府の保護機関を頼ったところで、動物みたいにあちこちいじくりまわされて、実験体にされちまうのがオチだ」
魔女であることは果たして、幸福であるといえるのだろうか。ワルキューレたちはストリートチルドレンの中にいる魔女の子供たちを、ひっそりと仲間に加えていた。同志として共に戦う仲間に育て上げる――そんな崇高な意思なんかは、どうでもいい。
ただ、助けたかった。人並みの食事を与えて、何事もなく成長してほしかった。かつて自分たちが、そうやってヒパニスのワルキューレとして育てられたように。
「それとも、今更ワルプルギスに泣きついてみるかい?」
ワルプルギスは、魔女の国だ。母星の空の上、輪の中にある大きな岩塊の上に街を作り上げている。そこにいる限りは、地上にいる人間たちからの干渉は最小限で済んだ。成人したワルキューレはともかくとして、まだどんな思想にも染まっていない子供たちだけならば、或いは。
「冗談だろ? あたしの母親はコキュトスで死んだんだ」
魔女はワルキューレを捕らえると、マナの極端に枯渇した監獄衛星に送り込む。そこで起きた未曽有の事故によって、数多くのワルキューレたちが見捨てられて、死んでいった。魔女たちはほんの数年前までその事実を隠蔽し、さも善人であるかのように振舞っていたのだ。そんな相手を、そう簡単に信じられるはずもない。
「今はとにかく、やれるだけのことをして、あの子たちを食べさせていく。そうするしかない」
ワルキューレたちは、疲れ切った表情でうなずき合った。血で汚れていようが何であろうが、金は金だ。この時代、この場所に魔女の力を持って生まれたことを呪っていても始まらない。
まずは納品を約束している分を完成させる。そうしたら、ちょっとだけ豪華な食事をしよう。子供たちには、新しい服と靴を買ってやっても良い。これから沢山の人間を殺すことになるであろう道具を仕上げながら――ワルキューレたちはささやかな幸せの夢想に浸っていた。
自分の分が終わったら、屋上の見張りに食事を持っていってやってほしい。そう言われて、モラはパンにソーセージを挟んだ弁当を手に階段を昇った。この砦跡には、子供の他にもワルキューレの大人が一杯いる。まだ顔も名前も覚えきれていない。みんなに共通しているのは、モラに優しいということだ。
街に住んでいた頃は、モラは独りぼっちだった。気が付いたら、お父さんもお母さんもいなかった。魔女の力。これがモラの家族を壊してしまった。ぼんやりと、そんなことだけを記憶していた。
鉄道の駅の近くにある廃屋が、モラの寝床だった。他にも何人かの子供たちがいたが、モラは仲間はずれにされていた。モラが魔女だからだ。魔女はこんなところにはいない。お前は、ワルキューレだ。そう言われたが、意味が判らなかった。
毎日ご飯を盗んできて食べていたのもまずかった。モラはすぐに警官に目を付けられて、追いかけまわされた。そのせいでとばっちりを受けて、廃屋にいた他の子供たちが捕まった。モラは寝る場所を失って、あてもなく街の中を彷徨った。
『君は、魔女の力を持っているんだね?』
そんな時に、ワルキューレたちがモラを見付けてくれた。モラは初めて、自分と同じ人たちに出会った。ワルキューレたちはモラに、新しい洋服と、温かい寝床と、食べ物を与えてくれた。モラはワルキューレだ。モラはあの町に居てはいけなかった。こここそが、モラが生きていける場所だったんだ。
モラはワルキューレたちに従った。大人の言うことはまだよく判らなくても、それが正しいのだと信じた。仕事の手伝いがしたいと言い出したのは、モラの方だ。盗みは、町に住んでいた頃には日常茶飯事だった。何を盗ってくればいいのか。それさえ教えてくれれば、簡単なことだった。
「よう、ちっちゃいの」
屋上に出ると、歩哨の当番はモラのことをいつも可愛がってくれる若いワルキューレだった。モラの姿を認めて、笑顔で手を振ってくれる。モラは今日、ひと仕事を終えてきたのだ。これでいっぱしのワルキューレの仲間入りだ。モラはそのことを話して、若いワルキューレに褒めてもらいたかった。
「あのね――」
いそいそと小走りに近寄りながら。
その言葉が、モラの喉から完全に出切る前に。
猛烈な衝撃が、砦跡全体を大きく振動させた。地面が、大気が。立っていられない程に、前後左右に震えている。前のめりに転んだモラの手の間から、するりとパンが抜け落ちた。
ああ、と思う間もなく。
その先で、立っていたはずのワルキューレが倒れ伏しているのが目に入った。
黒い影が……闇の中に浮かんでいる。
モラは恐怖で動けなくなった。長い金属の棒を持って、その先端をモラの方に向けている。背の高い、全身が漆黒で覆われた女。
誰かが噂をしていたのを思い出した。「あまり派手にやりすぎると、戦闘士に目を付けられるぞ」まさか、これがそうなのか。
いっぱいに見開かれた幼い瞳に、その姿はあまりにも異様で――醜悪だった。
「戦闘士、エイラ・リバード。状況を開始する」