私とあなたの生きる場所(3)
驚くほど静かに、そして何事もなくスムースに国境線を越えた。随伴する兵たちの肩には、まだ力が入っている。最後のその瞬間まで、気を抜くことは許されなかった。
大きな砂丘を迂回して進むと、一隻の空船が停まっていた。事前に聞いていた通りの場所だ。そこから降りて来た銀色の外套をまとったワルキューレの姿を見て、ようやく全員が緊張から解放された。
それと同時に、酷い郷愁に襲われた。背後を振り返って、レヴィニアの風景を瞳に焼き付ける。かの国は唯一の故郷。そこを捨ててこの空船に乗って、生き永らえることが使命だと言われても。
今この時にも、王家と共に歩むワルキューレ――イクラスは戦い続けている。
「すぐに出ます。お急ぎください」
執行者に急かされて、空船の中に乗り込む。兵たちはその場に整列して、黙ってその姿を見送った。彼らはまた、あの場所に帰っていく。彼らの信じた、レヴィニア王国に。
「どうか、お元気で」
浮上を始めた空船に向かって、兵たちが手を振った。眼下に広がる砂漠に、戻れる時は来るのだろうか。どんなに厳しい環境であっても、最後には逃げ惑うだけの日々であったとしても。
そこは自身が生まれて、育った国だった。
「お兄様……っ!」
ソミアは一人、うつむいて涙を流した。サファネとイクラスの想いが、レヴィニアから離れるにつれて強く理解出来るようになった。レヴィニアを守り続けてきた一族が、どうしてこの土地を捨てて生きていけようか。
それでも、生きなければならない。それがサファネとイクラスが、ソミアに託した願いだった。
かつて、レヴィニアには王国が存在した。そこを治める王族とワルキューレは、己の信念に基づいて行動し――
そして、滅びた。
体力の方は問題ない。マナの消費が若干激しかった。肉体の修復を急いだのだから、仕方がない。防護服の機能は半分は失われた。腹部装甲は現状、ほとんど意味をなしていない。帰ったらディノが半狂乱になること請け合いだ。
「どうして、サファネ王子は逃がさなかったの?」
エイラはイクラスと、距離を取って睨み合っていた。ソミア王女の国外脱出の情報は、まだレヴィニア解放軍には伝わっていない。ここにはこれから、更に援軍が駆けつけてくるはずだった。
仮にエイラが敗れることがあったとしても、今度はその包囲を突破する必要がある。いかに強い魔力を持っているとはいえ、単騎のイクラスにどの程度の勝算があるというのか。
「二人を亡命させてしまえば、この場はあたしの一存で収めてしまっても良かったんだ。あんたが形だけでも降伏してくれれば、戦闘士の権限でヴァルハラに連行出来る。そこで合流して、全員無事救出っていうシナリオだってこっちは用意してたんだ」
ワルプルギスの戦闘士は、力で相手をねじ伏せるだけが仕事ではない。エイラは師匠のユジから、それを戦闘士にとって最も大切なことだとして学んでいた。事実ユジは先の『ブリアレオス』の際に、首謀者であるイスナ・アシャラを傷一つ付けることなく『救助』してみせた。その時のユジの対応に、当時戦闘士の候補生であったエイラは心の底から感動させられた。
「今からでも遅くない。サファネ王子を国外に逃がす手筈さえ整えられれば……」
人間の社会の在り方に魔女が干渉するのは、魔女の掟に反する行為だった。しかしこれは、単純な人命救助だ。追われて、殺されようとしている者の命を助けて、何が悪い。たまたまその対象が、亡国の王族であったというだけだ。
「ふざけないで!」
イクラスの一喝は、サマルディンの隅々にまで響き渡った。大気が張り詰め、大地を轟かせる。声を詰まらせたエイラの前で、イクラスは激しい怒りに肩を震わせていた。
「サファネを、逃がす? ここはレヴィニア、サファネの国です。それを捨て置いて、王族であるサファネがどこに逃げるですって?」
レヴィニアを治めているのは、王族とそれを導くワルキューレだ。それがこぞってレヴィニアからいなくなれば、王国はどうなってしまうのか。亡命政権なんて樹立したところで、惨めな晒し者にしかなり得ない。レヴィニア王国はここにある。ここでなければ、意味がない。
「私たちがソミアを、どんな気持ちで送り出したか判りますか? いえ、判ってたまるものですか」
レヴィニア王国は滅びる。それはもう、歴史の必然だった。ただその終焉に、ソミアを巻き込むことだけは忍びなかった。ソミアはまだ若い。様々な未来の可能性を秘めている。レヴィニアの王族として以外にも、生きる道はあるはずだった。
レヴィニア王国の趨勢と、ワルキューレがいたという事実をその記憶の片隅に残して。サファネはソミアを、レヴィニアの外で生かすという選択をした。王国の存続のためではない。むしろその真逆、レヴィニアという国から、王家の一族が途絶えたことの証人とするために。
「ワルプルギスの魔女――貴女に何が判るというの?」
人類に飼いならされた、隕石を掃除するだけの魔女たちにワルキューレの苦しみなど理解出来るはずもなかった。人と寄り添い、生きることも死ぬこともその運命を共にする。たとえこの身が朽ちて、心が果てたとしても。その誓いは、永遠に残り続ける。
レヴィニアを守り、必ずや人々を安寧の地へと誘う。それがレヴィニアのワルキューレに課せられた、たった一つの使命であり……無二の正義だ!
イクラスは地を蹴った。砂が全身を覆い、いくつもの拳を浮かび上がらせる。さっきの打ち合いで、エイラの力量は大体掴んでいた。勝てない相手ではない。国際同盟が送り込んできた戦闘士を、この手で叩き潰す。それは後世に於いて、レヴィニアのワルキューレと王国の強さが語られる際、伝説の一つにさえ数えられるだろう。
「判りたくなんかないよ、そんな遠回しな自殺願望!」
エイラもそれに呼応して、砂鉄の拳を展開した。守ったら負けだ。手加減すれば、そこを突かれて致命打を浴びることになる。さっきは本気で危ないところだった。
魔術はマナに対する集中が途切れれば、その時点で無力だ。どんなに訓練を重ねても、肉体の痛みを完全に意識の外に忘れるようにはなれない。エイラの防護服には、緊急の手段として強力な麻酔を注入する機能が組み込まれていた。
腹の中身がぐちゃぐちゃになる程の衝撃を受けた際、その機能が作動した。無理矢理にでも痛覚を麻痺させて、その間に再生魔術を実行する。麻酔は肉体再生の過程で排出するように努力はするが、いざという時には早々そこまでの余裕は持っていられなかった。
吹き飛ばされるコースの変更に、化石燃料の爆発からの防御と。これを同時にこなしながらの蘇生術というのは、通常ではあり得ない状況だった。
エイラがこれまでにこの機能を実戦で使用した回数は、数えるくらいしかなかった。それも本格的な生命の危機というのは、初めてのことではなかろうか。イクラスは恐ろしい程に強いワルキューレだ。それは間違いない。
ただその強さを支えているのは――あまりにも悲壮な覚悟だった。
一撃の威力と持続力が互角なら、マナの消費量でエイラが不利だった。肉体再生はかなりコストが高い魔術だ。それに加えて、注入された麻酔が微かに残っている。痺れはそこまで酷いものではないが、魔術の集中への妨げにはなっていた。
それを知ってか、イクラスはじりじりと距離を詰めてきていた。二人の間が狭まれば狭まるほど、より素早い判断と正確な対処が必要になってくる。エイラの顔のすぐ近くで拳が打ち合わされて、衝撃でヘルメットに亀裂が走った。押される。エイラは鋭くそう察知して、背中に手を回した。
――出し惜しみは、無しだ。
ディノの言葉が、エイラの脳裏をよぎった。腰の後ろに固定してあった切り札を握ると、そのまま前方に向けて構える。この一連の動作は訓練によって、半自動化されたがごとくに身体の方が勝手におこなってくれた。砂と砂鉄の嵐の隙間を縫って、黒光りする拳銃の銃口がイクラスに狙いを定めた。
「喰らえ!」
魔女もワルキューレも、魔術に傾倒するのは共通した悪い習慣だといえた。抗魔術加工が出回る前から、銃を含めた通常兵器は戦闘士たちの重要な切り札となっていた。攻撃に全てのマナを注ぎ込んでいるこの状態ならば、エイラの銃撃を防ぐ手立ては何もない。防御壁を張ったのなら、今度はイクラスが殴り飛ばされる番だ。
数発の銃声が鳴り響いた。弾頭は抗魔術加工ではない通常弾頭だった。それでも充分に効果は期待出来る。イクラスはなんらかの手段で、それを防ごうとするはずだ。その隙をついて、一旦仕切り直せる距離まで離脱する。
果たしてイクラスは――構わずに真っ直ぐ突進してきた。
一発は外れて、一発は耳元を掠めて、一発は右肩に命中した。イクラスは顔色一つ変えずに、大きく踏み込んで前蹴りを放ってきた。馬鹿な、と思う間もなくエイラの手から拳銃が蹴り飛ばされた。それを砂の拳がすかさず破壊する。エイラの砂鉄が一瞬遅れてイクラスに襲いかかり、余すところなくブロックされた。
「せぃ!」
気合と共に、イクラスは全ての拳を一つにまとめて突き出してきた。この一撃は、防ぎ切れない。エイラはガードごと後ろに弾かれた。衝撃が貫通して、全身に襲いかかってくる。固い地面の上を勢い良くバウンドして、防護服の部品が外れて撒き散らされた。エイラは玩具のようにごろごろと何度も転がった後で、仰向けになってようやくそこで止まった。
これはマズい。エイラは起き上がろうとして、筋肉に力が入らないことに気が付いた。麻酔の副作用だ。派手に動いたせいで、その成分が身体中に回ってしまった。この戦いの最中に、そんなケアに気を回している暇なんてあるはずもなかった。
イクラスがエイラにとどめを刺すべく近付いてきた。白いケープが、自らの流した鮮血でべったりと濡れている。幻術でも何でもない。エイラの撃った銃弾は、確実にイクラスに命中していた。
急所に当たれば、イクラスは即死だった。
エイラはレヴィニア解放軍の駐屯地でフミオから聞いた、兵たちの話を思い出した。イクラスは相手がレヴィニアの民であれば、攻撃の手を抜いていた。もしその兵に撃たれたのならば、自らの命が危機に晒されると知っていながらだ。
そうだ。イクラスは、戦場で死ぬことをまるで厭わなかった。レヴィニアの民に殺されたのなら、それは仕方のないことだった。レヴィニアにはもう、王国は必要ない。その引導を渡したのがレヴィニアの民であったと、イクラスは素直に諦めて受け入れるつもりでいた。
相手がワルプルギスの戦闘士だというのなら、尚のことその結果には従えるものだった。国際同盟という世界の潮流によって、ワルキューレは討ち倒される。それで一向に構わない。その方が、世界の在り方としては間違ってはいない。
――本当に……歪んだ自殺願望だ。
その最後が、どんな形で訪れようがイクラスには同じことだった。ただその場所が、レヴィニアであればそれで良かった。レヴィニアのワルキューレは、レヴィニアの地で死を迎えなければならない。それがイクラスに残された、レヴィニア王家を守護するワルキューレとしての最後の矜持だった。
「貴女に恨みはないけれど、レヴィニアのワルキューレの力を示すためにここで死んでもらいます」
「そいつは勘弁だなぁ」
今のエイラは、普通の魔女であればただの女と変わりがないレベルのマナしか持っていなかった。砂鉄の拳で殴りかかるような真似は、しばらくは出来そうにない。母星では空気の中までもマナで満たされてはいるが、それを使用可能な状態で取り込むのには時間がかかる。イクラスがどんなに呑気な性格のワルキューレであったとしても、エイラがそこまで回復するのを待ってはくれないだろう。
「勝手に伝説にされるのは御免なんでね。謹んで辞退させてもらうよ」
イクラスがそれを察した時には、もう手遅れだった。無数の小さな刃が、音もなくイクラス目がけて襲ってくる。飛び退いて一つを弾き飛ばしても、その数は次から次へと増えていった。
不意打ちのせいで、いくつかの小さな傷を負うことになった。イクラスを攻撃してきたのは、小さな金属の破片――エイラが身に着けている防護服から剥離した残骸だった。
「磁力制御士!」
すっかり失念していた。道理で気配も殺意も感じなかったはずだ。エイラは磁力をコントロールして、辺りに散らばった鉄製の破片を用いてイクラスを狙っていた。
なんという往生際の悪さか。だがエイラ本体の方は、身動きが取れないことには変わりがない。それを始末してしまえば、と身構えたところで。
イクラスは、上空から迫りくる影の存在を認めた。
「エイラ! 今援護する!」
戦闘士の空船、ファフニルだ。エイラとの距離が近いので銃撃はしてこないが、イクラス目がけて特攻でも食らわせようかという軌道だった。
「ラリッサ、そのままだ。エイラとイクラスの間に割り込め。かっさらって急上昇!」
「オッケー、任せてディノ君!」
どうやらここらで、潮時だった。計画通りに、ソミアはヴァルハラに保護してもらえたのだ。無理にワルプルギスの戦闘士とやり合って、消耗したところをレヴィニア解放軍の外人部隊に討ち取られるのは面白くない。
イクラスは後退した。ファフニルの操縦席にいる二人と、一瞬だけ目が合う。守るべき人がいるのは、お互い様だ。
――せいぜい、大切にしてやれ。
今頃になって、撃たれた傷がずきずきと痛み出した。サマルディンの包囲網を突破するまでは、なんとか持たせられるだろうか。イクラスは流星のようにレヴィニアの空を駆けた。
消えていくその姿に向かって、エイラは残された力を振り絞って右手を伸ばして。そして、意識を失った。




