私とあなたの生きる場所(1)
ソミアは、夕暮れ時が好きだった。王宮のあちこちが茜色に染まって、やがて静かな夜が訪れる。この僅かな時間に、紫を帯びたぼんやりとした薄闇が世界を覆い尽くす。それがとても美しいと感じられて、よくテラスから日が沈むのを眺めていた。
「綺麗でしょう、イクラス?」
「ええ、素晴らしいですね」
その日に限っては、イクラスが隣にいてくれた。普段ならカウハと魔術の訓練をしている頃合いなのだが、ワガママを言って特別に許可してもらった。レヴィニアの王族とのコミュニケーションも、ワルキューレの大事な仕事の一つだ。何しろイクラスは、いつもサファネとばっかり一緒でソミアはつまらなかった。
サファネとイクラスは同い年だし、幼い頃からずっとこの王宮で育てられてきた。勉強も、遊びも、食事も。一日の内で、お互いの顔を見ていないことの方が珍しい。それも当然のことだ。二人は将来、揃ってレヴィニア王国を治める身分なのだから。
兄のサファネは、ソミアから見ても素敵な王子だった。浅黒く焼けた肌に、鋭く物事の真実を見抜くコバルトの瞳。武術や馬術で鍛えられた肉体は、細身でありながら筋肉質で引き締まっている。侍女たちや市井の娘たちからも熱い眼差しを向けられるが、本人はその辺りに対してまるで関心がない。ストイックな性格で、サファネはいつも国の政ばかりを考えていた。
「お兄様は、どうされているのでしょうか?」
「サファネは今頃、私の代わりにカウハから魔術論を聞かされていますよ。魔術師でもないのに、そういった知識には貪欲でいらっしゃる」
イクラスの方も、サファネに負けない素晴らしいワルキューレだった。レヴィニアを導くカウハは、本来なら自らの娘を次の代として残すのが筋だった。しかし、度重なる国際同盟関係の騒乱の対応に追われて、カウハには出産や育児にかまけている余裕がなかった。
……というのは、建前だ。イクラスによると実はカウハはそういった男女の睦事について、あまり興味が持てないでいるらしい。男性との間で、そういった関係になったことは一度もないのだとか。絶対に内緒にする、という条件でソミアはそれを教えてもらった。
そんな事情について知ってしまうと、それまでは冷たい雰囲気を纏っているようにしか思えなかったカウハが、可愛く見えてくるから不思議だった。カウハはレヴィニアの未来のことを案じて、強い力を持つワルキューレの子供を養女として貰ってきた。それがイクラスだった。
イクラスはワルキューレの裁定者であるヴァルハラの実戦部隊、執行者にも負けない魔力の持ち主であるという触れ込みでやってきた。ソミアにはそれは全く理解出来なかった。ただイクラスの燃える炎を連想させる赤い髪と、煌く黄金の瞳は勇壮で且つ優美であり、レヴィニアのワルキューレに相応しいものであると感じさせるに充分だった。
「あのね、イクラス。今日は、貴女に訊きたいことがあって無理を言わせてもらったの」
「ええ。そんな気はしていました。構いませんよ。何なりとお尋ねください」
ソミアにはレヴィニアの王女として、責任ある振舞いをすることが求められていた。街中で砂まみれになって遊んでいる、そこら辺の子供たちとは違うのだ。常に気品を持ち、淑やかに、殿方を立てるようにして。ワルキューレに導かれる民の代表として、恥ずかしくない者である必要がある。ソミアはいつかは兄のサファネを補佐して、レヴィニアの顔となって公務をこなさなければならない立場にいた。
それが突然、自分とイクラスの予定を夜まで全てキャンセルにしろと言い出したのだ。これには侍女たちも驚いた。ソミアが普段から、あまりそういうことをしない性格なのが功を奏したのか。何か特段の事情があるのだろうと、逆に周りがあれこれと気を使ってくれることになった。
「えっと、実は……お兄様のことなの」
「サファネ、ですか?」
イクラスが怪訝そうな表情を浮かべた。ソミアにとってイクラスは、本当の姉みたいなものだった。男兄弟に言い難くても、女性であるイクラスには相談しやすいこともある。今までにもそんなことはあったし、またそういった類の話であろう。イクラスは安易にそう考えていたのだが。
今回ばかりは、ほんの少し事情が異なる様子だった。
「イクラスは――イクラスは、お兄様のことを愛しているのですか?」
ソミアは勇気を振り絞って、以前から知りたかった疑問をイクラスに向かって真正面からぶつけてみた。
数日前、勉強部屋に戻ってこないサファネとイクラスを探していた時のことだ。ソミアは、中庭で話をしている二人の姿を目撃した。サファネも、イクラスも、二人ともソミアが見たことのない柔らかな笑顔を浮かべていた。結局ソミアは二人に声をかけることが出来ず、そのまま見つけられなかったことにしてしまった。
サファネとイクラスは、本当の兄弟のように仲が良い。それはソミアも知っている。ただ、あれは何かが違っていた。ソミアはあれこれと思いを巡らせて、ようやく一つの回答に至った。それはある意味、一番当たり前の結論だった。
サファネとイクラスは、愛し合っている。王子とワルキューレという以上に、男と女として。
「ソミア、私はレヴィニアを守護するワルキューレです。サファネはそのレヴィニアの王族。私たちは協力してこのレヴィニアを豊かにしていく使命を帯びているのですから……」
滔々とそこまで語って、イクラスはソミアの瞳をじっと見つめた。それから、くすり、と笑みをこぼす。ソミアが求めている答えは、これではない。判っている。イクラスにとっても、ソミアは大切な妹同然だった。大人の振りをして誤魔化して、それで良いはずなんてこれっぽっちもない。
「――そうですね。私はサファネのことを愛しているのだと思います。大好きですよ」
素直な気持ちは、イクラス自身が驚く程にあっさりと表に出てきた。
夜になれば、外の空気はあっという間に冷たくなる。イクラスは自分の白いケープをソミアの肩にかけてやった。中に戻るのが一番の解決策なのだろうが、今はまだそんな気分にはなれない。ソミアもイクラスの次の言葉を待っていた。イクラスは夜空に輝く星々を見上げて、息を吐いた。
「先ほども言いましたが、私はレヴィニアのワルキューレです。サファネは王子。この国ではお互いに果たすべき役割があります」
あと何年かすれば、国王はサファネに王位を譲るつもりだと聞いていた。サファネ自身も、そのつもりで日々公務や勉強に追われている。国際同盟が力を付けてきているこの時代、ワルキューレ信奉国を支えることは容易ではなかった。サファネもイクラスも、自分たちが大変な世の中を生きていくという自覚を持っていた。
「普通の恋人同士のような関係を望むことは叶いませんが、私とサファネはレヴィニアという国にいる限り共にいることが出来ます。別れたくても別れられない。ある意味、婚姻よりも深い絆なのです」
イクラスは、サファネのことを愛していた。レヴィニアの王子として。そして、一人の男性として。その気持ちを、あからさまに吐き出してしまうことは出来なくても。
ワルキューレとしての繋がりは、何よりも強固なものだった。
サファネについて語るイクラスが、ほんの一瞬だけ――とても苦しそうな顔をしたのを、ソミアは見逃さなかった。レヴィニアのワルキューレであることの、喜びと悲しみ。サファネを守護する者であるイクラスは、サファネの正妻となり、この国の王族となることは出来ない。それはワルキューレは人の王にはなれないという、ワルキューレの誓いに反している。ソミアは胸の奥の方が、ちくりと痛んだ。
「ソミアのことも、愛していますよ。私たちはずっと一緒です。ここに、レヴィニアという国がある限り」
イクラスのその言葉を、ソミアは心の中に大事に仕舞っておいた。そしてイクラスが、兄のサファネと結ばれる未来が訪れることを願った。レヴィニアがそのまま、ワルキューレが直接治める国になってしまっても構わないとすら思った。
だってソミアの好きなイクラスは、ワルキューレであるのと同時に――ソミアと同じ、一人の女性なのだから。
サマルディンは隣国アサマンディアとの国境に位置する、小さな街だった。アサマンディアもワルキューレ信奉国であり、レヴィニアで革命が起きてからは軍事的緊張が続いていた。封鎖された国境線の周辺では、ひっきりなしに両国の兵たちが巡回をおこなっている。両国の行き来は完全に遮断されており、商店はほとんどが営業を停止していた。
「ここは元々は交易が盛んだったって話だけど、これはもうどうしようもないね」
人通りの少ない市場を眺めて、エイラはやれやれと肩をすくめた。事前情報では、ここはサマルディンで一番賑やかな場所だという触れ込みだった。それが正午前のこの時間帯に、すっかり閑古鳥だ。こんな状態が長く続くと、市民生活にまで支障が及んでしまうだろう。耳にはめた通信機から、ディノの声が流れてきた。
「人が少ないってのは、目立つってことだ。向こうもそうだし、こちらもそう。油断しないでくれ」
「一応光学迷彩してるよ。こっちの状況はモニター出来ているんでしょ?」
「ばっちりだ」
ディノはサマルディンの郊外に着陸した、ファフニルの中にいた。ラリッサの方もいつでも発進出来るようにと、即応状態で待機中だ。何か動きがあれば、レヴィニア解放軍からも連絡が入ってくる手筈になっていた。今のところ、イクラスが目撃されたという報告は上がってきていない。王の墳墓の砂嵐も変化なしだった。
「サクラヅカさんの方は?」
「さっきラリッサが最初の定時連絡を受けていた。そっちを気にしていても仕方がない。防御士もついているんだし、平気だろう」
サマルディンに向かう途中で、フミオはファフニルから降ろしてほしいと願い出てきた。レヴィニアの市民の、生の声を聞いてみたいのだとかなんとか。このタイミングで、とんでもなく無茶な申し入れをしてくる男だった。
定期的にトンランが念話で状況を報せるということで、とりあえずは手を打っておいた。ファフニルから離れたところでフミオの身に何かがあったとするならば、それこそ山のような問題が発生する。フミオが自己責任という言葉の意味をちゃんと理解しているのかどうか、ディノは不安で仕方がなかった。
「そうだね。サクラヅカさんには、サクラヅカさんなりの考えがある。これからここで何が起きるのかは判ってるだろうし、この近辺をウロチョロしててくれなきゃそれで良いか」
「それがちゃんと判ってりゃ良いんだけどな」
いざイクラスとの戦闘が始まると、エイラもそこまで周辺に気遣うことは出来なくなる。流れ弾に当たってぶっ倒れても、恨みっこなしだ。エイラにとってイクラスは、それだけ余裕のない相手だった。
前回の遭遇戦を受けて、ディノはエイラの防護服にあれこれと改善の処置を施していた。特に、砂が相手となると厄介だ。隙間に入り込んで機能を破壊したり、内側のエイラ本体を狙ってこられると対処が難しい。かといって気密服みたいな構造にすると、可動に影響が及んでしまう。
最終的にはエイラ自身の防御壁に依存してしまうのが、ディノには不満だった。
「エイラ、何回も言うけど――」
「ん、防御面の不安については承知しているよ。完璧なんてものは存在しない。あたしはあたしのベストを尽くすだけさ」
ははん、とエイラはいつも通りの軽い調子だった。ワルキューレを相手にして、百パーセントの安心なんて過信にしかならない。いつだって、そういった緊張感は保持していた。ただ、それでも。
今回ばかりは不思議と、ディノの中の胸騒ぎが収まってくれなかった。
「出し惜しみするなよ。いくら情報収集って言われてても、衝突するならやるしかないんだ」
作戦総指揮官ユジからの指令が何であれ、現場ではその場の判断が最優先とされる。イクラスが話し合いに応じないというのなら、無理にでもテーブルの前に縛り付けるしかない。結果的にそれがワルキューレの排除に繋がるとなれば、戦闘士の仕事とはそういうものだった。
「ディノ、緊張してる?」
エイラに訊かれて、ディノははっとした。そんなことはない。否定したかったが、すぐには言葉にならなかった。
今までだって、危ない橋は何度となく渡ってきた。エイラはベテランというほどではなくても、新米には当たらない。生命の危機にさらされたこともあった。任務の失敗を覚悟したこともあった。それでも、ファフニルのメンバーたちは全員でここまで生き残ってきていた。
戦闘士エイラと。それを支えるディノ、ラリッサの三人だ。今回だって同じ。このメンバーなら、きっと乗り越えることが出来る。
エイラはふと、道端にうずくまる二人の子供に目線を向けた。戦闘士が行くどんな国にも、こんな子供たちがいた。痩せて、薄汚れて。希望を失った表情で、じっと地面を見つめている。
戦闘士が戦って、悪い魔女やワルキューレを退治したとして。それで少しでも、この子たちは救われるのだろうか。ヒパニスで出会った、モラもそうだ。その戦いの果てには、何が待っているというのか。
それを確かめたいのなら――生きて、自らの目で見届けるしかない。
「リラックスリラックス。前に出て戦うのは前衛のあたしの役目なんだから。ディノは冷静に、しっかりとあたしを見ていて」
「……ああ。判った」
ディノはエイラを守る。そう決めていた。焦っていても、何も成し遂げられはしない。そう考えて気持ちを引き締めたところで。
街の一角で、激しい爆発音が轟いた。砂煙が高く立ち昇る。国境ゲートの付近か。エイラは素早く反応すると、近くにある建物の屋根の上に飛び乗った。
「ラリッサ、何か情報は?」
「アサマンディア国境ゲート付近、レヴィニア側にて爆発を確認。警邏中のレヴィニア解放軍兵士が不審人物に対して尋問をおこなおうとしたとの目撃情報あり」
十中八九、それだった。エイラは脚に力を込めると、一息にそちらに向かって跳んだ。光学迷彩を解除する。エイラを発見して、こちらに集中してもらった方が攻撃は読みやすい。それが最終的には、街への被害も減らせることに繋がるのだ。空を舞う漆黒の影が、サマルディンの人々の目に留まった。
「ファフニルは浮上して待機。レヴィニア解放軍並びにアサマンディア国軍に通達。戦闘士が現場に到着する。国際条約に基づいて、軍隊の介入行為を禁止。エイラ・リバード、状況を開始する!」
風を切って飛ぶワルプルギスの魔女の姿を、うずくまっていた子供たちが呆然と見上げていた。




