砂の虚人(1)
幼少の頃から、ワルキューレはこの国を守る者だと聞かされてきた。王宮の式典で、国王と並んで笑って手を振る姿を見たのが最初だった。ワルキューレのことは、美しい女性だとしか思えなかった。彼女が屈強な戦士であることを知ったのはその数年後、小さな集落を襲撃してきた武装集団を排除してみせた時だった。
さしたる理由もなく住民を殺害した無法な武装集団は、全員がワルキューレによって始末された。銃も爆弾も、どんな武器もワルキューレには通用しなかった。この国を脅かす者は、一人として見逃さない。その殺戮劇は非常に頼もしいと感じさせてくれるのと同時に――たまらなく恐ろしいものだった。
手の中にある銃を、強く握り締めた。この武器は、特別製だ。効果は既に実証済みで、現実に一人のワルキューレをこの世から葬り去っている。ただしそれを成し遂げた者たちも共に、永遠に帰らぬ人と成り果ててしまったが。
大事なのは、その結果を得られたということだった。人の姿形をしながらも、人ではない力を持った女たち。恐るべきワルキューレを、殺すことが出来るという事実。そう考えれば、この武器が急に愛おしく感じられてきた。
――これは、人間がワルキューレの支配から脱却するための戦いである。
その言葉を聞いて、初めて自分たちはワルキューレに支配されていたのだと理解させられた。ワルキューレからしたら、人間なんてみんな同じ、無力な虫けらみたいなものだった。小うるさく感じられれば、踏み潰して殺してしまえば良い。
贅沢に優雅に暮らすため、王族に取り入って国の守護者を名乗っておく。きらびやかなその姿を、下々の民は雲の彼方に見上げることしか出来ない。文字通りに天空を駆り、逆らう者を抹殺する恐怖の天使。
――今やその時代は終わった。世界は人の手によってのみ歴史を紡いでいくべきなのだ。
抗魔術加工という力を手に入れて、レヴィニアは解放の時を迎えた。決起集会に参加し、革命の志士として隊列に加わった。これからのレヴィニアを、人が人を律するレヴィニアを作っていくという、熱い使命を胸に抱いていた。
……それなのに、どうしてだろうか。
心の、最も深いところで。もう忘れてしまったような遠い記憶が、ちくちくと自分の裡を突き刺してきていた。
郊外の、何もない農村で育った少年時代だった。よくは覚えていないが、祖父によれば流行り病で酷い高熱を出したことがあるらしい。市街の大きな病院に行くために、誰かが背中に負ぶってくれた。
強い夜風が、冷たくて心地好かった。優しい女性の声は、母だったのだろうかと思う。しかし、母親は自分を産んだ時に死んでしまったはずだった。
だから――それは幻。熱に浮かされて視た、幻覚だ。
レヴィニアにワルキューレは不要。母星に生きる人間たちは、その運命を自らの意志で決める。
前進の号令がかかり、部隊が進軍を開始した。荒れ狂う砂嵐の向こうに、ワルキューレがいる。この銃が、その命を奪うかもしれないと思う度に。
忘れかけた甘い匂いが、鼻腔をくすぐってきた。
どういう手違いによるものか、発注したケーキは三個ではなくて、ホールが一つという状況になった。それを五等分にするのか三等分にするのかで、魔女たちの間では母星に着くまでにみっちりと喧々諤々の大論争が繰り広げられた。
ファフニルの乗員で分け合うのなら、五等分が望ましい形だった。ただしその場合、フミオは自分の取り分をトンランに譲るし、ディノもラリッサとエイラで食べてもらえば良いと思っていた。そうなると、魔女三人の間で取り分に差が出来てしまう。じゃあ最初から三等分で良いじゃないかとなるのだが。
「そんなに食べたら太るじゃない」
もう何を言っているのか、ディノにはさっぱり訳が判らなかった。ラリッサに至っては、ケーキビュッフェとかいうカロリーの暴力みたいなイベントに参加するつもりであったはずなのに。
そのことについて言及すると、操縦席からペンやら何やらが飛んできた。とばっちりを受けたフミオが顔面に被弾して、トンランが看病をする羽目になった。それくらい自力で避けると思った、だそうだが、全くその通りだ。口ではあれこれと偉そうなことばかり言っているのに。新聞記者というのは、やはり貧弱な生き物だった。
そしてこの最高にくだらない争いは、「残した方がもったいないから食べるしかないんだよね」という無意味極まりない理屈によって平和的に終結した。仲良く三等分して、クリームのひとかけらも残さずにぺろりと胃袋の中だ。フミオが負傷しただけの価値は、恐らくは皆無だった。得られたものがあるとすれば魔女三人にいくらかのカロリーと、後は少々仲が良くなったくらいか。
「規定高度まで突入完了。減速します。トンランちゃん、お疲れ様」
ファフニルは母星の大気圏に突入した。摩擦で生じた熱の壁の処理は、トンランが防御壁を張ることで対応した。普段なら機体制御と一緒に、ラリッサがこなさなければならないところだった。こういう時に防御士がいてくれると大助かりだ。もう一人くらいメンバーがいてくれた方が、ファフニルの作戦行動はスムースにこなせるのかもしれなかった。
「いいなぁ、トンランちゃん。ファフニルに来なよ。可愛いし即戦力だし、あたしは大歓迎だな」
早速エイラにスカウトされて、トンランは照れたような――そして困ったような表情を浮かべた。おでこをさすっているフミオの方に、そっと視線を送る。まあ、そこは野暮というものなのだろう。ディノはトンランの意志を察した。
「無理を言うな、エイラ」
「うーん、ダメかぁ」
エイラはあっさりと引き下がった。現状は、この三人でなんとか回せているのだ。戦闘士周辺の人員を増強するとなると、国際同盟の常任理事会にまでかける必要性が出てきてしまう。どうしてもという強い理由がなければ、実際にメンバーの増員にまで持っていくのはかなり難しくて面倒な話だった。
「この後、レヴィニアまでは通常航路を使用します。一般の空船には公社から飛行禁止の通達が出ているので、静かなものだとは思うけど」
レヴィニアを制圧しているレヴィニア解放軍は、空船や魔女たちの領空内飛行禁止を言い渡してきていた。それを破る者には、国際同盟を介して重い制裁を加えられる。なんとも物々しい状況だ。極北連邦が後ろで糸を引いているせいもあってか、妙に強気な対応だった。
ファフニルはもちろん、特例として飛行が許可されていた。逃亡中の犯罪者を守護する違法なワルキューレを、一刻でも早く排除してほしいとのことだった。何をかいわんや、だ。
「俺たちはどこに着陸するんだ?」
「レヴィニアの東側に、解放軍の駐屯地があるって話です。まずはそこに向かいます」
フミオの問いに、ラリッサが操縦席から応えた。レヴィニア国内では抗魔術加工が施された銃器で武装した解放軍の兵士が、そこかしこをうろついている。その辺りともうまく連携を取らなければならない。間違って後ろから撃たれたりなどしたら大問題だ。まずは味方の顔と姿を、よく覚えておいてもらわないといけなかった。
「……ありゃ?」
ラリッサの素っ頓狂な声に続いて、激しいノイズがファフニルの船内に響き渡った。全員が咄嗟に耳を塞ぐ。通信機器の電波干渉だ。少なくとも、念話を主体にしている魔女やワルキューレではない。「失礼」とラリッサがすぐに回線を正しくチューニングした。
「事前に聞いていたレヴィニア解放軍の回線です。えーっと、何だって? これはちょっとマズいなぁ」
「どうかしたか?」
「レヴィニア解放軍の部隊がワルキューレと会敵、戦闘状態に入ったそうですが……現在敗走中、至急援軍を求む、だそうです!」
ディノはエイラと目を合わせると、厳しい表情で頷いてみせた。船内を一瞬で支配した緊張感に気付いて、フミオはカメラを抱いて船室の壁際に身を寄せた。ファフニルが戦闘態勢に入った場合には、そうしていろとの指示だった。トンランがその脇にしゃがみ込む。エイラは四肢を突っ張って身体を支えると、操縦席に首だけを突っ込んだ。
「最大船速、現場に急行せよ。それからその回線と、他の全周波数に向けて通達。これより戦闘士が戦闘状況に入る。条約に従い、一切の介入行為を禁止する」
「了解!」
ファフニルが、一気に加速を開始した。加重と大気との摩擦を、トンランが相殺する。雲を突き抜けて、空を切り裂いて。ワルプルギスの戦闘士を、ラリッサの操るファフニルはあっという間に戦いの現場へと運んでいった。
「現場周辺に到着。すごい砂嵐です」
ぐらぐらと、これでは荒れ狂う波の上に浮かんだ船みたいだった。窓の外は、黄土色一色の世界だ。怪物の唸りに似た風の声が、辺り一面に轟いている。地上は砂漠地帯ということだが、これではファフニルが今どのくらいの高度にいるのかも把握出来なかった。
「この嵐、普通の自然現象じゃないです。魔力が感じられる」
トンランの言う通りだった。ラリッサはファフニルの姿勢を水平に保つのが困難となっていた。右に、左に。前に、後ろに。不安定に揺さぶられる船内で、フミオはその辺の手すりに掴まって振り回されていた。写真とか、それどころではない。ディノやエイラはどうして普通にしていられるのか。ぼよん、とトンランのお尻に顔がぶつかって、慌てて離れたら後頭部を壁にぶつけた。当のトンランはそれどころではないので、まるで気にしている様子はない。色々と損をした気分だ。
「あそこだ。敗走兵を確認」
じっと目を凝らしていたエイラが、正面の一点を指差した。砂のヴェールの向こうで、小さな人影が蠢いているのが微かに見て取れた。船室に戻ってきたエイラに、ディノがヘルメットを投げて寄越した。
「今度は勝手に取るなよ」
「判ってるよ。死なないから、へーきへーき」
明るくそう口にして、エイラはヘルメットを装着した。ヒパニスの作戦から何日も経っていないのに、外観や装甲に幾らかの改善が施されている。心持ち、軽くなったような気もした。ディノの仕事はいつだって、万全だった。
エイラは、ディノに守られている。そう信じているからこそ、戦える。エイラにとってそれは、何よりも大切なことだった。
「ハッチ開けろ! レヴィニア解放軍の撤退を支援するため、ワルキューレの足止めを試みる!」
ファフニルが後部ハッチを開口すると、船体が大きく風にあおられた。ラリッサの悲鳴が聞こえる。トンランも必死で協力しているが、浮かんでいるのがやっとという感じだった。これはワルキューレの魔術によるものなのか、それともこの土地特有のものなのか。いずれにしても、ファフニルからの援護は期待出来ないことに変わりはなかった。
「戦闘士エイラ・リバード、状況を開始する!」
戦闘開始の宣言と共に、エイラは砂の世界へと飛び込んでいった。
地表近くまで降下すると、風は思ったよりも弱まっていた。気流が荒いのは、ある程度の高さより上だけだ。日差しが遮られて薄暗かったが、汗が噴き出すほどの暑さは健在だった。火傷しそうなくらいに熱された白い砂の上に着地すると、エイラはまずレヴィニア解放軍の姿を探した。
風の音に交じって、乾いた銃声が聞こえた。そっちか。足場が悪いが、マナは充分だ。エイラは音のする方角に向かって、大きく跳ねた。ホウキで飛ぶよりは、このまま滑空した方が体勢は整えやすい。防護服に無数の砂粒がぶつかってきて、ばらばらと耳障りな雑音を奏でた。
――あれだ。
数名の兵士が、よろめきながら走っているのが視認出来た。たまに後ろを振り返って、手にしている銃で攻撃している。その先にいるのは、人の姿をした『何か』だった。
兵士たちを追撃している者たちは、ぼんやりとしていてどうにも輪郭がはっきりとしなかった。銃弾が当たると、その部分だけが霧散して破裂し、すぐに元の形を取り戻す。まるで、砂で作られた人形だ。砂が集まって人の形を模って、生きて動いているという方が正確か。
「……砂虚人!」
良く見れば、無数の砂虚人がレヴィニア解放軍の兵士目がけて追いすがっていた。この砂嵐は砂虚人たちの突撃によって巻き起こされた魔力のうねり、害意を伴った暴風だった。
固定した実体を持たない砂虚人に対しては、いかに抗魔術加工がなされた銃弾であっても有効打を与えることは困難だと思われた。せいぜい着弾時に、一握りの砂を分解する程度だろう。この砂の海の中で、そんな抵抗は焼け石に水でしかあり得なかった。
「射撃中止! ワルプルギスの戦闘士が殿を任される。全員、後方まで走れ!」
エイラは兵士たちに向かって大声で指示を出した。聞こえていてくれないと、エイラまで敵と誤認されて撃たれてしまう恐れがある。どうやら無事に声は届いたらしい。隊長らしき一人が手を振って応えて、兵士たちは振り返ることなく黙々と移動を始めた。よし。これで後は、心おきなく砂虚人の相手をしてやれそうだ。
迫りくる砂虚人どもの正面に、エイラは立ちはだかった。レヴィニアを守護するワルキューレの力は、なかなかのものだ。大人よりも大きなサイズの砂虚人を、同時に数十体も操れるとか。エイラがこれまで対峙してきたワルキューレの中では、間違いなく最強の部類に入った。
出来ることなら――話し合いで決着を付けたいところだが。
エイラの周辺で、ゆらりと黒い影が揺れた。一対多数の戦闘なら、それに向いたやり方というものがある。幸いにもここは砂漠のど真ん中だった。向こうにとっても得意な地形なのだろうが……残念ながら、エイラにはそれが不利に働くということはなかった。
むしろ有利。そっちがそれなら、こっちはこっちでいかせてもらう。
砂虚人の拳が、エイラ目がけて振り下ろされた。砂とはいえ、魔術によって十分な密度と質量が与えられている。直撃すれば、防護服越しでも骨の数本は持っていかれる程の威力を持つと推測された。
黒い衝撃が、その力を正面から押し返した。エイラの足元から、そいつはのっそりと起き上がると、砂虚人目がけて強烈な右ストレートを見舞った。
砂の塊が砕け散り、声にならない断末魔が響いた。エイラは腰に手を当てて、ゆるゆると自分を取り囲む砂虚人たちを見渡した。全部で二十五体か。魔力の総量は同等と見た。
「じゃあちょっくら、力試しといきますか!」
エイラ・リバードは、魔女の中でも特に稀有な能力の持ち主だった。エイラを守るようにして、無数の黒い人型が砂の中から身を起こした。その構成要素は、鉄だ。細かく砕かれた無数の鉄の欠片。黒い虚人は、砂鉄で構築された砂鉄虚人だった。
磁力を操る魔女――磁力制御士。エイラはその特異な素質を見込まれて、戦闘士となることを承認されていた。




