ルアゴの狂詩曲(5)
次にまぶたが開いたとき、荷車の中は薄暗かった。そろそろ陽が沈む頃らしい。耳を澄まさなくとも車輪と蹄の音がして、まだ着いていないことに息が漏れる。到着は日没後と考えた方がよさそうだ。
毛布代わりにしていたコートを横に置いて起き上がると、手元に皮袋と紙袋があることに気付く。恐らくは水と、昼食。途端、体が渇きと空腹を思い出して切に訴えだした。考えれば朝食以来飲まず食わずで、フレートは素直に欲に従う。
水を一口飲んでから紙袋を開けた。小麦と甘酸っぱい香りがフレートの鼻を抜けて、ますます腹が減っていることを自覚せざるを得ない。片手に収まるぐらいのレーズンパンはすぐになくなってしまった。がっついたつもりはないが、想像している以上に腹ぺこのようだ。
昨日の昼食を思い返すともういくつかあっても良さそうだったが、紙袋に手を重ねるとくしゃりと容易に潰れてしまった。
実際はどうあれ、ここはあの男の気遣いと思うことにしておく。
「おー、フレート、元気かー?」
突然の男の声は、よく響いた。
後ろでがさがさと音が鳴っているのが聞こえていたからか、男は起きていると確信している口ぶりだ。
「……はい」
しっかり男の耳に届くよう、声量を出す気はさらさらない。
だが男は聞こえていたように思わせる適当な沈黙を経てから荷車に声を響かせた。
「もうしばらくしたらルアゴだ! けどすまん! 今からちょっと道が荒れるから、気を付けろー! うっかり舌噛むなよ!」
自分よりよっぽどお喋りな男の方が可能性が高そうだと思いながら、取りあえずその忠告に従って無言を返事とする。
がたん、と車輪が石か何かに乗り上げて通り過ぎる音とともに、積み込まれた荷物もそれぞれ音を立てて揺れる。あまりの衝撃に、フレートは一瞬自分が宙に浮いてしまうのではと予感して近くの荷物にしがみついた。
昼から寝ていたので分からないけれども、でもこんな悪路を通っていたら揺れで目覚めていたに違いない。だから恐らく、今日一番の山場を迎えているのだろうと予想しつつ下り坂を積み荷と一緒に揺れて過ごす。
闇は目覚めたときよりも濃くなってきていた。どれもこれも似たような色になり夕闇に溶けていくようで、フレートは荷物との一体感を覚える。
がた、がた。車内でぐらつく荷物。掴む手の感触だけがフレートだった。
もう何度か大きな音と揺られるとやがて荷馬車が発する音は大人しくなり、平地に入ったのだと察する。荒れた坂道の感覚が抜けない体はなんとも言えない余韻に浸っていた。
揺れの残響が体から消える頃、車輪の音色がまた変わる。からからと軽やかになったそれに、荷物を離れて垂幕から下を覗くと石畳が見えた。町が、近い。
ついでに周囲に目を向ける。太陽は沈んだばかりのようで外の方がほんの少し明るいが、遠くが見えにくいので比べてもあまり意味はなかった。暗がりの中、特に目につくものもない。道端も何ら変哲のない普通のものだ。
それでもトランクや本の山に囲まれて揺れるよりかはましで外の観察を続けることにする。越えてきた山々の一部は夜闇に紛れ、勿論その向こう側が見えることはない。本当に、遠くへ来たものだ。
黒い山は南北にずっと連なっているが、どこからがドラコ山脈かはすぐに分かった。突如山が高くそびえ、それよりも高い山々が南に並び立つ。フレートたちが越えてきた山を山と呼んでいいのかと躊躇うほど立派な山脈。
だがそれより北のものを丘と呼べるかと言えば、やはり山と呼ぶ方が相応しい。一日かけて越えたそれらは、間違いなく山だ。
だから前を見ても後ろを見ても取り囲まれているようで――決して逃しはしないぞ。山にそう言われている心地がした。大きな大きな塀に、見えた。
どごん、とまた音が変わるので下を見ると木の道になり、通り過ぎてから川を橋で越えたのだと知る。遠ざかるそれを見ながら、また木の橋。
何本か川を渡り、ちゃぷちゃぷという水音がそれとなく耳に伝わる。水面を揺れる音は、波と呼ぶにはあまりにも素朴で間抜けで雄大な。
そびえる山が見えない右側の一面の黒は何かしらの畑ではなかった。ようやくフレートは理解するに至る。
――これが、レデン湖。
黒い水面はどこまでも果てしないように見えるがしかし、垂幕から顔を出すとずっと遠くに対岸の灯りが微かに見える。その遠さに、ただただ大きいと思うしかなかった。
海に面するムズィコルンの広場で感じた磯臭さは全くしない。これだけたくさんの水が目の前にあるというのに、潮の香りもしないのは変な感じだ。
湖のことは池よりも大きい水たまりぐらいにしか考えていなかったが、認識を改めるべきだろう。フレートははじめて湖を目にした。
びゅう、と一際大きな音がして温もりを失った風がシャツの隙間から入り込み肌をひやりと撫でる。今朝より寒さを感じた気がして、慌てて垂幕の外に出した顔を引っ込めるとコートに袖を通した。
荷車の中は真っ暗で、もうどこに何があるのかもさっぱり分からない――だったのがうっすらと明るくなりはじめ、それとなく本の山の形が見えるようになった。
ちらりと寒さ対策に隙間から外を窺えば両脇にレンガ。一人、二人と人の足も見える。
「帰りに一杯どうだい!」
「今度な!」
「今日の宿はお決まりかい?」
「おいおい、ルアゴの男に二言はねぇ! やってやらぁ!」
速度を落とした荷馬車がしばらく進めば、喧しい声があちこちから飛んでくる。ぽつぽつとしか見えなかった人の足もそこら中に溢れており、フレートはあっという間に喧騒に呑み込まれてしまった。
この騒々しさを生み出すこの町が、ルアゴ。
「寒い! そんな時はやっぱり酒だァ!」
「何言ってんだい! こういう日はうちの店でポトフだよ、ポトフ!」
「嫁さんに会いてえ……!」
出来うる限り迅速にこの場所から離れたいのに、安全運転のため速度を落とした男が恨めしい。垂幕から窺うことは一旦やめた。
耳を塞ぎたくなるような騒がしさは王都の華がある賑やかさとも、ポーダンの明るさとも異なる。どちらかと言えば学園内で根も葉もない噂に盛り上がる生徒たちのような、安っぽい会話の盛り上がりでフレートは実に不愉快だ。
本当に耳に当ててしまおうかと持ち上げた手は、徐々に喧しさが小さくなっていくことに気付いて再度振動がよく伝わる床へ。騒々しさが集う場所を抜けたらしい荷馬車は、速度はそのままなだらかな坂を上って行く。
車内の明るさも一段階落ちて、外からは時折家族の団らんが聞こえてきた。だがそれもまた笑い声が喧しい。
芸術の都・ムズィコルンのような華々しさなど欠片も感じられない。
もし仮に建築物がどんなに歴史的、美術的価値の高いものであろうとも、だ。
今この瞬間にも行き場のない「なぜ」「どうして」がフレートの中からとめどなく溢れ出てくる。ルアゴに連行される理由は何一つ分からないままだった。
賑やかさが続いた広場から先はまたレデン湖に沿うような道を辿っていて、ゆるやかな左曲りのカーブが男とその愛馬を待っていた。それが終わると町並みを背に最後の上り坂。呼吸を合わせて荷車を引っ張る。
そして上った先の岬というより、ちょっとした出っ張り。
そこに、ヴァルザーの別荘はある。
鉄門の前で一旦止まると手早く降りて躊躇いなく門を押す。実は門の鍵は深夜以外、かかっていることはほとんどない。男がここを預かる前からそうで、ヴァルザー家も公認していることだ。
敷地内へ少し進んだところでもう一度止める。いそいそと門を閉じれば、男の仕事はほとんど終わったようなものだ。
席には戻らず、愛馬の横に並び立って労いながら少し歩く。
「お前はよくやってくれたよ、お疲れさん」
頭を撫でられても、男の愛馬チェルはそれに甘えることも反抗することもしない。ツンとすました顔でしっかりと着実に玄関前まで荷車を運んだ。
「よっしゃ、着いたぞー! フレートー!」
男はそう声を掛けて後ろへ様子を見に行こうとしたが、無事に仕事を終えたチェルが黒い頭を男胸に埋めてくる。甘えたさんだなあ、と笑いながら受け入れてされるがままになっていると、荷車からのっそりとフレートが降りてきた。
「ここが今日からお前の家だ!」
目の前に構えるヴァルザー家の別荘を見上げて、思わず息を呑んだ。
陽が落ちてしまったので正確な色合いは分からないが、坂の下に広がるルアゴの町並みを色づける赤や橙などのレンガよりは確実に暗い色合いのレンガ。冴えない灰色っぽい外壁はヴァルザーらしい地味さだ。
しかし、その大きさはヴァルザーらしからぬ。
「まあ、ザルハトがアレだとヴァルザーの持ちモンだとは信じらんねえよな」
ザルハトの実家を優に超して、まるでどこかの貴族の屋敷のようだ。奥に細長いザルハトの家はみすぼらしい訳じゃないが、名のある家にしてはあまりにも質素で控えめ。派手を好まないローレンツらしいといえばらしいのだが。
それに比べてこちらは目を引く派手な外観ではないが、夜になってもその存在感を堂々と示している。家を見つめたまま動けないフレートの反応は模範的解答とも言えた。
「さて、中であったかい晩飯が待ってるぞ!」
頃合いを見計らって男が声を掛ける。
フレートは荷車からトランクを引きずり出して大きな黒い扉の前に立つ。ぺしゃんこにした紙袋はコートのポケットに、空になった皮袋はどうするか思案してその場に置いておくことにした。
待っているように、と艶やかなたてがみを撫ぜてから男はずんずんと荷車に乗り込む。いくつかの荷物を持つと扉に付けられたノッカーを器用に叩いた。
ガンガン、と大きな音が二回。
待たされた感覚が芽生えないうちに、頑丈な扉の内側から音がして淡い金色の頭が現れる。
「おかえりなさい……ませ!」
その人は男の横に居るフレートに気付いたようで、澄んだ声で慌てて丁寧さが付け加えられた。
伏せた頭が上がると、扉を開けたのがあどけない可愛らしい顔立ちの少女だと知る。彼女はフレートの目線ぐらいの背丈で、顔まわりの波打った金髪はふわふわと漂っているが、後頭部の高い位置でひとまとめにされた髪はきつく縛り上げられているように見える。それが少女に凛とした印象を加えていた。
くりんとした灰色の瞳はフレートをしっかり捉えており、彼女も同様にフレートを凝視していたのだった。
「中に入れてくれ!」
待てない男がそう言うまで二人はお互いを見つめ観察しあっていた。
一拍早く反応した少女が慌てて扉の片側を開けきって、二人を中に案内する。
今日からフレートの家となる場所は、その内側もザルハトの実家より色味があってヴァルザーの家に相応しい。
「フレート、トランク貸せ」
既に両手に荷物を持っていたはずの男だが、右手で持っていたものを左腕に抱えてフレートの荷物を要求する。
「……丁寧に、お願いします」
「任せろってんだ!」
一抹の不安をそれとなく口にすると、男はそれを吹き飛ばすように笑ってみせた。不安は拭えない。
トランクを預かりながら男は少女にも言葉を投げかけた。
「飯出来てるか?」
「うん、もう出来るところ。だから食堂に」
「あいあい了解」
軽い調子で頷いて階段を上っていく男の背中を見送り、開けたままの扉を丁寧に閉めてからフレートに向き直る。膝まで隠す青い裾をひらりと揺らした少女は何かに気付いたようで、分かりやすく表情を変えた。
「あ! コート、お預かりしますね」
「あぁ、ありがとう」
素早くフレートの後ろに回るとコートを脱ぐ手伝いをする。丁寧にコートを持つ少女は何やら嬉しそうに深い青の瞳を見つめた。
「わたし、エルナ・レーデラーと申します。ええっと、これから身の回りのお世話などをさせていただきます。至らぬところはたくさんあると思いますが、これからよろしくお願いいたします!」
少女、エルナはにっこりと笑って頭を下げる。
「はじめまして、エルナ」
田舎町の少女と仲良くなるために来たのではないから、あまりよろしくするつもりはない。言外にそんな雰囲気を漂わせて、フレートは短い言葉を返す。
顔を上げたエルナは一度ぱちくりと瞬いてから笑みを深めると、フレートを導くように前を歩きはじめるのだった。