ルアゴの狂詩曲(4)
不揃いな車輪の音をしばし聞く。道がきちんと整っているわけではないので、時折音に合わせてフレートの体も跳ねた。男は鍛えた体のお陰か、慣れか。揺れに体が揺らされるというよりかは、揺れに合わせて体が軽く動く程度だった。隣に座るフレートがまるで子どものようだ。
男はそれきり黙ったままである。ちらりと窺い見てみると、視線に気づいた男が爽やかな空色の瞳を三日月形に細めた。先ほどのようにフレートの言葉を待っているらしい。
「……特に」
うんと間が空いたことで男の気分も高まっているのか、期待のこもった視線が向けられている気がする。
だが、なんでもないように投げかけられたそれに対して、適切に返す術をフレートは知らない。
「特に、ありません」
「えぇーっ」
あからさまに男が肩を落とす。
「特にないってことは、なんか、なんかどーでもいい質問とかあるってことだろぉ?! オレの歳とか、なんかそういうの!」
「じゃあそれで」
肩は落としても気は落としていなかった男が声をあげると、フレートは“例題”を男に投げかける質問として選んだ。
「44歳だけど、そうじゃなくてだな! オレのこととか、ルアゴのこととか、アホのローレンツのこととか。ひとつでも聞きたいこと、ねぇの?」
律儀に自分の年齢を答えるものの、男が今のやりとりに納得する訳なく。
しかしそう言われても、フレートには期待されるような質問はできない。
「だから、特には」
「特別聞きたいわけじゃないけど、質問したいなって思うことは!!」
「……ないです」
男は意地でも質問を引き出したいようだが、フレートがその引き出しを開ける様子はない。
「なに、オレじゃ頼りないか? やっぱり? オレ、質問するには不安?」
やがて男は諦めて拗ねたというより、何かに行きついたようで一人で勝手に凹みだした。これは自身の問題であり、男に思う所がなかったフレートは隣で困惑する。
「いや、その」
「エルナもなー、宿題のこととか相談してくれなくなったしなあ。ニコラが聞いてくれるのも、飯何がいいかってことだもんな、そうだよな。いや分かってんだ、税のこととか歴史のこと聞かれても、なーんも答えらんねえからな! さっぱり分かんねえもん。だから、聞きたくないのも分かるけどよお……」
「あの、別にそういうことは言ってないですから」
フレートの言葉を待つうちに家族内で頭を頼りにされていないことを思い出した男へ声を掛けてみる。が、その後もなんやかんや言っているので、男に声は届かなかったようだ。男の声が大きいあまり、フレートの声がかき消されてしまったのだ。
「分からないけど分かる」と自身の学のなさを自覚している独り言にしては声量が大きいものが、止まることなく流れ出てくる。内容の薄さには目を瞑るとして、フレートは誤って難しそうな質問を投げかけなくて良かったとひそかに息を吐いた。
会話、特に何かを訊ねるなんていうのは、やはりとても難しい。
「オレに分かるのは剣と馬と食べたいものだけだってか! そうだな! そうだよな……」
はああぁ。大きく吸って吐き出されたそれは、溜息よりも深呼吸に近い。
大きな大きな溜息に相応しい落ち込んだ顔をしているのかと思えば、その真逆と言ってもいい生気に満ち溢れたものである。
「まっ、適材適所だな! そうそう! フレートもそう思うだろ?」
「……はあ、」
どうやら先ほどのは本当に深呼吸で、気持ちを切り替えたらしい。フレートに同意を求める男の声には、先ほどまでの賑やかさが戻ってきている。
それからまた、昨日のような男の独演会がはじまった。自分の妻の手料理が美味しい話だとか、どこぞの家の娘が子供を産んだ話やら、その中に昨日と同じ内容があったことには二人とも気付いていない。フレートは今日も相槌を打つでもなく、次の予選で弾く曲を頭の中で辿っていた。
太陽に近づいたり遠ざかったり、水の流れる音が近づいたり遠ざかったりを繰り返していくつかの山を知らない間に越えて行く。今、自分が地図上のどのあたりに居るのかなんて見当もつかない。
振り返っても山、見渡しても山。平地も見えず、大きくて立派な王城の影も今や見えるはずがなく。名も知らぬ山々に隔てられて遠くへ追いやられていく感覚に、無意識に動かしていた指が止まる。
ヴァルザーは既に遥か彼方だ。
「どうかしたか?」
旋律を奏でるような指の動きに気付いた男が少し前から口を閉ざしていたことを、フレートは知らない。びくり、と肩が揺れると男は耳に馴染みはじめている笑い声をあげた。
「すまんすまん、集中してたかい」
「……はい」
集中していたのは本当であるが、それ以上に素直に頷いたらここで会話が終わると思い、丁寧に首を振る。
「ローレンツもぜんっぜん話聞いてくれない時があってよお。そういう時、決まって音楽のこと考えてやんの」
しかし男にはそのつもりがない。フレートは僅かに顔を歪めた。
そんなフレートを改めて眺めた男は口元に笑みを乗せる。
「ほんとローレンツそっくりだな」
「……それは、どうも」
「褒めてねぇよ!」
「分かっていますよ、それくらい」
幾度となく言われてきたお世辞だ。改めて言われなくても分かっている。
真夜中を吸い込んだような髪色も、穏和そうな印象を与える下がり気味の目の形も、ほっそりした体つきも、形のいい鼻も言葉数が多くはないところも、長兄より似ているというのに――。
似ているところを褒めそやして後に続くのは、期待外れとフレートをヴァルザーから引きずり落とそうとする言葉たちだ。もしくは、髪色以外あまり父親に似ていない兄の格を高めるものか。
少しずつ硬くなっていく表情に何を思ったか、男は左手で乱暴にフレートの髪を乱した。
「ちょっ……」
「分かってねぇぞ! ぜってー分かってねぇ!」
「分かってますからっ」
すぐに手を離すと素早く手綱を拾い上げ、言えるだけの「分かっていない」を並べる。
結果を出せない自分を過大評価するつもりなんて毛頭ない。フレートは乱れた髪を手櫛で軽く整えつつ思い上がっていないと抗議するも、男は聞き入れようとしなかった。
「オレがそっくりだって言ってんのは、人の話を聞かないで音楽のことばっかり考えてるところだからな! お前もアホのローレンツも人の話をちょっとは聞け!」
最初から「そっくり」の認識の違いを感じていた男は更に声を大きくしてついに言った。
体も思考も全部含めて、フレートはぴたりと止まる。
男は別にフレートの音楽の成績と「そっくり」を結び付けているわけではなかった。考えてみれば、前の会話から男が言いたいことは簡単に読み取れたじゃないか。思い違いが恥ずかしく居たたまれない。反射的に反応してしまった自分が嘆かわしい。
これだから、だから会話なんていうのはひどく難しくて、きらいだ。
流れていく景色に置いていかれる前に、ふうぅと長めの息を吐いてフレートは頭を下げた。
「すみま、せん」
「いや、オレこそなんかまずいこと言ったか? 話聞かないこと結構気にしてた? はっきり言いすぎたか?」
男には、フレートがひどく辛そうに映った。
想像以上に繊細な子だったのかもしれん、と内心反省をしながら声をやわらげて訊ねるがフレートは首を横に振る。
「おれが、勘違いしてただけですから……話、聞いてなくて」
すみません、と頭を下げながらの言葉はせせらぎを掻き分けてなんとか男の耳に届いた。
会話の種になればいいなと思ったぐらいで、男は真面目な謝罪を心の底から聞きたかったのではない。話を聞かない旧友に声を荒げたことは遠い昔に何度かあるが、一方で自分がお喋りすぎる自覚も多少なりともある。この話の着地点は「どっちもどっち」と決まっているようなものだが――今の青年がそれをきちんと聞いてくれるようには、見えなかった。
大真面目と評すれば聞こえはいいが、男はそう断ずるには何かが違うと伏せったままのフレートを少しの間眺めた。男には、黙する青年の心の内は読めない。
石に流れがぶつかってぶつかって、勢いを纏った賑やかなせせらぎの行進曲の上を渡る。手すりもない簡素な造りの木の橋は車輪と蹄に新しい音色を与え、二人の間に流れる沈黙の邪魔にならない程度に川の旋律と混ざり合う。
橋の幅は十分余裕があるとは言えない。視線を前に戻すと丁寧な運転を心がけて荷馬車を進める。腕に覚えがあっても下手な余裕は命取りだ。無事に渡りきって涼やかな川の行進曲が遠ざかるのを聞きながら、男は言葉をかき集める。
「でもなあ……オレ、フレートをそんなふうにしたくて言ったわけじゃなくて。そりゃあ、ちょっとは注意する気もあったけど。でっけぇ声だし、ちょっと必要以上に怒ってたように聞こえたかもなあって思うし。何にしたって、オレもちょっとばかし悪かったなあって思ってるんだ。やっぱりオレもごめんなさい、だ」
男に気の利いた言い回しは思いつかない。なんたって、訊ねられても剣と馬と食べたいものぐらいしかはっきりとした答えを導けないのだ。貴族みたいに意図を読み取らせる会話は出来やしないし、そもそも頭を使うのは得意でない。
伏せた顔が上がってくる気配はないが、男は馬鹿正直に伝える。
「なあフレート。オレは、お前のことが知りたいぞ」
ぴくりと背中が動いた気配を感じ取り、これまでのように話を聞き流していないと断じて頭の中から更に言葉を寄せ集める。あれもこれもと溢れ出して早口にならないよう、あまりにも支離滅裂にならないよう気を付けながら。
男だってフレートの倍以上の年月を生きているのだ。昨日から自分のお喋りが耳にさえ届いていないことはそれとなく感じ取っていた。時として態度は言葉より多くを語る。そういうこともあると、男はローレンツ青年から学んでいる。
「一つ屋根の下、一緒に暮らすことになるんだ。家族になろうとは言わねえが、折角なんだ、仲良くしてえよ、オレは。フレートが何が好きで苦手で、どんなことに興味があって、どんな疑問を抱くやつなのか。そういうことを、ちょっとずつ知り合えたらなって思ってる」
男がフレートに「聞きたいことはないか」と訊ねたのはそういうことだった。質問には答えられないかもしれないが、男はそれでいいと思っていた。ただただフレートの関心事に興味があっただけである。
「ローレンツと似てないとこもな」
茶目っ気を含んではいたが、付け足したそれは余計だったか。
睨みが返ってくることも想定したが、背中はゆっくりと呼吸していることを示すだけ。
「いっぱい話して知り合おう。――ルアゴは、そういうとこだ」
フレート・ヴァルザーは、会話を得意としない。
男の言葉を聞いて、フレートは絶望に近い何かを感じた。もういくつかの山を越えれば男みたいなのが町のそこかしこに居るというのか。お喋りで、喧しくて、学のない輩が。
父は、ピアノよりも口を上手に鳴らせとでも言いたいのだろうか。自分だって口数が少ないというのに、人のことを言える立場じゃないのに――でも、父には音楽があるから。音楽は、ローレンツ・ヴァルザーの味方だから。
だからきっと、フレートは地上人になる準備をしなければいけないのだ。
じゃなければ、どうしてルアゴなんかに。
……けれど。だけれども、昨日父は言った。確かに言った。「信じている」と。男もルアゴでは自由に過ごしていいと言っている、フレートはまだピアノを奏でてもいいはずだ。そのはずだ。
フレートには分からなくなっていた。同時に、腹の底から苦しさがせり上がってきているような気がした。自分が置かれた状況も苦しいが、それ以上にローレンツの言葉を疑ってしまっていることがどうしようもなく堪い。
ならば疑わなければいい。頭の片隅で自分が囁く。「信じている」を信じて明日からもピアノに打ち込めばいいじゃないか、何を悩むことがある、お前はローレンツ・ヴァルザーの息子なのだぞ。
――でも、でも。
果たして「信じている」を信じていいのだろうか――?
「フレート?」
身を丸めたフレートが視界に入り、困惑した男が思わず声をかける。そろそろ昼飯にしようと思っていた頃だ、下り坂が終わって比較的平地になると男は荷馬車を止めた。
「酔ったか?」
山道を選ぶ際に酔わせないと豪語はしたが、男が丁寧に運転をしてもその日の調子次第では少しの揺れも体が受け付けないことはある。
荷馬車を降りた男はフレートを覗き込んだ。
「巡りあわせが悪かったんだろうなあ、大丈夫かい」
自分の腕への自信が揺らがない男を苦々しく思いながらフレートはほんの少しだけ首を動かした。実際のところ車酔いではないが、体調が思わしくないように見えるのならその方が都合がいい。
「……後ろで、横になります」
男を一瞥もせず、フレートは緑のクッションから離れると後方に向かう。垂幕をめくりあげると寝るには十分な空間があった。フレートは荷車に乗り込みすぐに横たえる。体は昼食も水も求めていない。
日光をあまり通さない微妙な明るさがフレートを迷路から連れ出して眠りへと誘う。微睡みの中、無性にあのオルゴールを聴きたいと思った。