ルアゴの狂詩曲(3)
少し早めの昼食をとり、太陽が高くなって風が温くなる頃には、王都の隣町・ポーダンの中心部に差し掛かった。ザルハトの食糧庫ともよばれるポーダンは王都の隣ということもあり、田舎くささはなく人々には華やかな活気があった。
王都の人間にとって手近な小旅行先でもあるから、すれ違った人の中には王都の者も居たはずだ。北部の花畑は見る価値があるとかで、フレートも半ば無理やり連れて行かれたことがある。
円形広場を抜け、町の暮らしを支える川を渡り、徐々に家よりも畑が目につくようになると王都を離れている実感がいよいよ強くなってきた。男は土を耕す人を見つけては「何植えるんだろうな」と一人で盛り上がっていた。知りもしなければ、興味もない話題にフレートが返事をするわけはなく、ずっと頭の中で練習中の曲のことを巡らせていた。耳に入れてすらいなかったといえよう。
やがて石畳の道が終わり、僅かに土煙をあげながら荷馬車は真っ直ぐに進む。視界もひらけ、風が先ほどまでよりも顔によく当たっている気がした。
と、フレートは思わず後ろを振り返る。
既に中心部の賑わいは遠い。
「ん? どうかしたか」
「いや、その……荷物、」
男は、確か隣町におつかいがあるとかなんとか言っていなかったか。
ついでのついでに記憶の片隅に置いていたフレートがぼそぼそと喋る。
「荷物? なんか忘れもんでもやったかい」
「いえ……あの、隣町に荷物を届けるって」
「隣町にぃ?!」
初めて聞いたと言わんばかりの反応にぎょっとする。聞き間違えだったか。
「あ~! 隣町、隣町な! 確かに隣町って言ったわ多分!」
少しの間をおいて、男が大きな声をあげる。合点がいったらしい。
彼の声はよく通るので、フレートは更にぎょっとした。うるさいというか、声が通り過ぎるのだ。
「オレはルアゴの隣町ってつもりだったんだよ。そりゃそうだよな、お前からしたら隣町つったら、さっきん所だよな。おつかいは次の町だ、ルアゴの手前」
男はルアゴを起点に「隣町」と言ったのに対し、フレートは王都起点で考えていた。どうやら、男にとっての「隣町」とフレートにとっての「隣町」が違ったことで起きた勘違いのようだった。
御者が「隣町におつかいがある」と言ったことには間違いなかったが、忘れていたわけでなかったのなら、フレートにはなんとも言えない恥ずかしさが込み上げてきた。こういう事があるから、会話が苦手だ。
そもそも、後ろを見るんじゃなかった。そんな後悔さえ込み上げてくる。
「まあでも、言ってくれてありがとな」
態度に出すぎて気遣われたのか。
フレートは勝手に居心地の悪さを感じて眉間に皺を寄せた。
「確認を取るのは大事だ。それに、オレは隣町に着いて覚えてる自信ねぇからな! 頼りにしてんぞ、フレート!」
青い空の下、男の豪快な笑い声が響く。
その影でフレートはまたひとつ溜息をつくのだった。
太陽が沈んですっかり暗くなる頃、フレートを乗せた荷馬車は男が言う「隣町」に着いた。途中二回ほど休憩を挟みはしたが、王都を出た時から馬の速度を落とさないで夕食時の到着。御者が「一日目は最悪かっ飛ばす」と言ったのも納得の距離と時間である。
王都やポーダンとはまるで雰囲気が異なり、静寂が支配する街だった。夜だということを差し引いても、建物の外も中も静かすぎるほど静か。暗い中うっすら見える建物たちも黙した灰色。町の背後に控える山の連なりが、自然と人々をそうさせているのかもしれなかった。
だから簡素な宿屋の食事場でやいやいと、道中と同じように一方的に喋りながら食事をとった男はここではやや特殊な存在に映っただろう。一人でも賑やかな男はしじまの中だととても喧しいふうにも聞こえた。
カウンターで相手をしていた宿屋の女は時折苦い笑みを浮かべながらも、黙って相手をしていた。この町は男には合わなくても、フレートには一種の心地よさを抱かせてくれるだろう。同伴者が異なるか、一人で訪れた場合の話だが。
そうしてあくびを噛み殺しながら男が「おやすみ、よく眠れよ」と声をかけ、部屋の前で別れようとして、
「どうした? 食い足りなかったか?」
ドアノブにかけた手を引っ込めた。
自分に体を向けたまま動かない、「おやすみなさい」と返してもこないフレートを不思議に思い、首を傾げる。
「その……いや……」
「なんだ」
「……あの……」
「なんだなんだ」
「…………その、」
フレートは躊躇いながら何度か意味を持たない音を漏らす。下唇を噛んでもうしばらく唸ると、フレートより幾分か背の高い男を窺うように見上げた。
「……おつかいの、荷物」
「あ、あー!」
ぼそぼそと呟いたフレートの言葉を釣り上げた男は分かりやすく、しまったと顔に表す。それはもう盛大に。
「やらかしたー!」
語気は強いが、他の客を思ってか声量はかなり抑えられている。
周囲に気を遣えるのかとフレートには一瞬意外に映ったが、仮に男に冷静さがあって――例えば、これが演技だったらどうだろう。
道中のやりとりをまだ気遣われている。そんな可能性が頭をかすめた。
「もっと早くに言ってくれよ、フレート! なんで今日あんな馬車走らしたんだよって話だよなあ! あぁー今から行ったんじゃどうだろうな、微妙か……? それならいっそ明日の朝一番に……いや……いや! オレは明日の朝になって覚えていないオレを信じるぞ! というわけだから、ちょっと行ってくるわ! 助かった、ありがとうな! おやすみ!」
わざとなのか、本気で忘れていたのか。
片手をひらりとあげてばたばたと階段を下りていく後姿を見ても、フレートには分かるはずもなかった。
まだ、男の名前さえ聞いていないのだから。
翌朝。布団の隙間に入り込んだ空気が昨日実家で感じたものよりも冷たく、まだまだ寝ていたいのに思わずまぶたが開いた。宿屋の布団は貧相なものではなく、しっかりとフレートを温めてくれていた。体が痛いということもない。単に王都よりも寒い地域だからなのだろう。ずっと西を進んできているが、道は僅かに北も向いていた。
ひんやりした空気を吸って目覚めはじめる頭の中は無視し、二度寝を敢行しようと頭に布団を被せたところでドアを叩く音。相手は金髪の男に違いない。
「フレート、起きたかー? おはようさーん」
宿の人間が客を相手にこんなぞんざいな音を出すはずがない。響いた声は案の定、昨日からの同行者。もう少し優しくドアを叩けないものか。フレートが寝たままなら目覚ましにもなり得たその音に、不満が募る。
男に声が届くように喋るのも気が乗らない。
「おおーい」
再度、ドアを叩く音が二回。最初のは力加減を誤っただけなのか、次はフレートが求める適切な音量である。
しかしそれで、「起きてます」の一言を発する気力が与えられるわけではない。どうにも声を発したくなかった。かと言って更にノックされるのも気に食わない。
二度寝以外の全てのことに気が乗らないが、今より機嫌を悪くするのも自分自身が面倒くさくて、とても面倒くさい。もう既にそんなことを考え始めている時点で、フレートは苛立ちを更に募らせかけていた。
フレート・ヴァルザーは、朝が苦手である。
いやいやながら、ばっと布団から顔を出して冷たい床に足を乗せる。冷たい。分かっていたが、冷たい。足元に漂うひえっとした空気がまた寒い。無性に腹が立ってきた。寝たい、寒い、冷たい。その上五月蠅いなんて勘弁してくれ。
肘を抱えてドアの前まで向かうと、乱暴にドアを開けて――開かない。昨晩男と別れて部屋に入るとすぐに鍵をかけたことは、頭の中からすっぽり抜け落ちていた。漏らした舌打ちは無意識のもの。手早く開錠すれば乱暴に今度こそドアを開けた。
朝の挨拶にと片手をあげた男だが、身長差の都合でフレートを見下ろす形になる。
「……」
目が合ったので、これで十分だろう。フレートは垂れ目気味ではあるが、寝起きの人相が悪いことに定評があり、寒さも相まって眉間に皺が寄っていた自覚もある。男からはきつく睨み付けられたように映ったかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
開けた時の勢いままにドアを閉めた。やたら大きな音が部屋に響く。これでは人のことを言えたものではないが、今のフレートはそんなことを気に掛けようとも思わなかった。
鍵をかけたままドアを開けようとするなんて、みっともないところを見られてしまった。不愉快だ。いい気分なはずがない。ああもう、苛々する。
などと苛立ちを重ねている間に、ドアの前を離れて階下に向かう足音がした。ふう。息を吐く。
朝は、とても苦手だ。やっぱり。
穏やかな光を浴びても静けさが支配している町は、だからと言って無音な訳ではない。町の人たちの声も足音も生活音も聞こえてくる。ただそれらは喧騒と共にあるのではなく、静寂の中に溶け込むようなおとなしいもの。夜は不気味さを醸し出したかもしれないそれは、朝になると高尚さが潜んでいるように思わせた。
北上する車輪と蹄の音も、例外なく吸い込まれていく。
男が言うに二日目は山道が主だそうだ。進行方向に見える山はとても小さい。となると左側、すなわち昨日の大まかな進行方向であった西側に連なる山々を一日かけて越えるということか。
二日目も晴れたことを喜びつつ、男は今日もお喋りをはじめた。
早朝のやりとりで気まずい思いをしているのは、フレートだけのようだった。
「南下して、ほとんど山を越えない道もあるんだけどよ。そっちは王都行く時に使ったからなあ」
「は?」
思いがけず、刺すような声が零れてしまう。
男は気にしたふうもなく、ひとり騒がしい笑い声をあげた。
「フレートは山道苦手だったか?」
「……」
「お、苦手ってわけじゃないのか?」
無言を肯定の意とは受け取らないで、男はちらっとフレートを見遣る。
今日は荷物と一緒になっていれば良かった、と昨日布団の中で考えたことをすっかり忘れてしまった自分を恨んだ。
「……あまりにも揺れるのは、好きじゃないです」
山道を減らせるのであればそれに越したことはない。特別急いでいなければ、だいたいの人は平らな道を選ぶだろう。それがフレートの意見だが、そこまで言葉を割く必要もない。
フレートの静寂に溶けるような返答に男は同意の頷きを見せるも、今から道を引き返す気配はなかった。
「すまん! 帰りは違う道を使いたいオレと“アイバ”の我儘に付き合ってくれな」
むしろ、ワハハと悪びれもない様子である。一応の謝罪の言葉はあったが。
言って手綱を改めて持ち直した男の視線の先には、黒い毛並みの馬。
アイバ――愛馬、か。
「チェル……コイツのことな。チェルも久々に森を走りたいみたいだし、馬車酔いさせねぇから!」
自信にあふれた男の言葉を聞きながら、馬の背を眺める。確か、昨日も同じような背中だった気がしなくもない。馬を乗り換えることはせず、昨日の健脚さを今日も発揮するというのか。今のところ荷馬車の速度は一日目とほぼ変わらないように感じた。
それに、と男は言葉を続ける。
「南の方はチェルの脚でも、あともう一日かかる。かなり南下するんだぜ? それに一日、そっから北にのぼるのが丸一日ってとこか。早く着くならそれに越したことはない!」
フレートは振り返らなかったが静寂の町から南に連なる山々はドラコ山脈と呼ばれ、かつて大空を舞っていたというドラゴンの背もこれぐらい大きく長いと言われている。北上できる地点まで一日かかるというのは本当のことだ。
また町より北にあるものはイソゾ山地と呼ばれ、フレートたちが越えていくのはこちらの方である。
「まあ……そう、ですね」
山道ならそうじゃない方が、一日でも早く着くならその方がいい。
男との意見は一致しなかったが、フレートはふと思い直す。この男と一緒に過ごす時間が減るならそれはそれで歓迎するべきじゃないか、と。
同意を得られたことに男は嬉しさを顔に表した。
「よし! じゃあ、今日もかっ飛ばして行くぜ!」
手綱を操ると荷馬車は左に大きく曲がる。細い道の入口を芽吹き始めた緑がそれとなく彩っていた。
ゆるやかな山道に枝の隙間から陽が差し込んではいるが、フレートの体をぽかぽかと暖めるほどのものではない。晴れを感じさせる程度だ。ジャケットを着ているが、念のためにとコートをトランクから出しておいて正解だった。
隣の男は昨日と変わらず白いシャツに茶色のズボン、黒のブーツと簡素なもので、それでいて見るからに寒そうに映った。本人は微塵もそんな感じを醸していないが、フレートが寒く思ってしまう。男をちらりと見てコートを羽織り直し、思わず身震いしてしまったほどには。
それを視界の端で捉えていたらしい。男の笑い声が森に響く。
「やっぱり王都の人間には寒いかい?」
寒さではなく、笑われたことで眉間に力が入る。
馬鹿にされているわけではないのだろうが、それでも不快なものは不快だ。
フレートには返事をする気も起こらなかった。
「すまんすまん。フレートは寒いの、苦手かい」
黙りこくる姿を見て気を悪くさせたと謝罪したが、質問の内容は変わらない。
がらごろと山を登る車輪と蹄の音が絶え間なく山道を奏でる。枝がわさわさと揺れる音や小鳥たちのさえずり、遠くから聞こえる川のせせらぎが沈黙を少し華やかなものにしたりして。
男は、フレートの返事を待っていた。
「暑い方が苦手か?」
いつもの祭りみたいな賑やかさを抑えた落ち着いた声色は、目尻に小さな皺が見える男に年相応さを与える。
昨日みたいに一人でやいやいと喋り散らかす気配がないその様子は、フレートと会話がしたいのか。「どうだ?」とフレートをちらりと見て再び言葉を待つ。
「……どっちも、好きじゃないです」
肩に届くぐらいまで伸びたフレートの黒い髪を撫でるそよ風のようにささやかな声。
質問されているのに答えず黙っている方が悪者のように思えてきて、それにフレート自身が耐えかねて言葉を返した。
「両方かー、なるほどなぁ。じゃあフレート、」
フレートの返答を聞いて、それから男は、事もなげに言う。
「オレに聞きたこと、ねえか?」