ルアゴの狂詩曲(2)
あれから、半年が過ぎようとしていた。
王都では暖かい日が続くようになり、少しずつ木々に緑が宿り始めている。近いうちに冬が完全に追いやられてしまうことを、人々も生き物たちも感じていた。
春が、来たのだ。
その訪れを告げるように、フレートが在学していた王立学園の卒業式は執り行われた。
シュトル王国、とりわけ王都ザルハト周辺では、一般的に三年制の高等教育機関を卒業した時点で大人と見なされる。通わなかった者は、ほとんどの生徒が十八歳で卒業することから、その年頃になると成人と認識された。
大人になった彼らの進路はそれぞれだ。家業を継ぐ者、自ら事業を起こす者、王城に勤める者、騎士を目指して王城の門を叩く者、更に学びを深めようとする者、畑を耕す者、結婚する者、国を出る者――。
フレートは大人になって、よく知らない街に放り出される。
憧れの藝術学院への切符を手に入れたと、喜びを爆発させていた名前も知らない同級生の姿がまぶたの裏に蘇る。羨ましくて仕方がなかった。今も、そう思う。
それらを押し込めるようにフレートはトランクを閉じた。すっかり殺風景になった部屋を見渡す。
卒業式から数日。家を発つ日がきたのだ。
ずっと世話になってきた自室だが、生活感はベッド以外にはもう残っていない。まるで知らない人の部屋に居るような気さえした。そのせいか、思っていたよりも名残惜しさは感じない。宿屋を出るぐらいの気持ちだ。物の有無の大きさを実感しながら、重いトランクを持ち上げて部屋を後にした。
階段を下りて玄関へと向かうと、現在ヴァルザー家に居ると思われる人間が全員揃っていた。総勢八名。朝食を終えてそんなに時間は経っていない。本来なら彼らは仕事真っ盛りの時間帯だ。
想像よりもちゃんと見送りだな、とフレートは居心地の悪さを感じながらトランクをクラウスに預ける。
母親のルイーゼなんかは、モスグリーンの髪を揺らして駆け寄ってきた。
「今日……行ってしまうんですね、フレート」
その表情は心底寂しそうなものだったが、最近のフレートにはどうしてもそれを素直に受けとることが出来ない。
(行かせる、の間違いだけどね)
自分が自発的にルアゴへ行きたいと言ったわけではない。
父親に、勝手に決められたことだ。
心の中でそんな悪態をつきながらも、フレートは笑顔を繕った。
「そんなに悲しい顔をしないでくださいよ、母さん」
「そう、そうですよね……! 会えなくなるわけじゃないのに」
思わず涙を溢してしまいそうな母親に苦笑してしまう。そういえば数年前に兄が家を出る日も瞳が潤んでいたことを思い出す。変わらない母に、少しだけ安心した。
「貴方なら、ルアゴでもきっとやっていけます。母は、信じていますから」
長男よりも濃い茶の瞳で次男の姿を捉え、ぎゅっと両手を包み込む。それも、いつかの見送りで見た記憶があった。
メイドたちの視線が気になってしまい、フレートは母親の手を適当に振り払ってしまう。兄と同じように、母を引き寄せて抱きしめることは出来なかった。しなかった、が正しいか。
そんなフレートに、周囲とは異なる視線を送る人物が居た。
「そろそろ、行こうか。御者も待ってるから」
ローレンツはルイーゼの肩を抱きながら声をかけてくる。言葉の後半は、ほとんど別れを惜しむ彼女に向けられたものだった。
「行ってらっしゃいませ、フレート様」
気がつけば、クラウスをはじめとするヴァルザー家で働く者たちの、いつもの見送りの言葉に押し出されるようにドアの外へと踏み出していた。
――出てしまった。もう、一歩も退けない。
正しくは帰れない、だろう。父か祖父に認められるまでは、この家に戻ってくることは叶わない。勝手に帰ってくることは認めない、とローレンツには何度か言われている。同時に、勝手にムズィコルンに行くことも許さないと忠告されていた。
だから、今この瞬間にヴァルザー家から見放されてしまって気がして――本当は、出て行きたくなかった。今日が来るまでに、結果を出したかった。
あれからも、何度かコンクールには挑んだ。あの時の「音楽をやめさせるわけじゃない」というのが事実なのか、最後の思い出作りぐらいと思っているのか、最終審判なのかは分からないが、藝術学院のときとは違いそれを止められることはなかった。
だが、結果は全敗。何なら講評の点数はそれまでよりも下回っていた。
何故かは、分からない。
視線に押されるように、気乗りしない足取りで幌がついた荷馬車へと足を進める。フレートの所持物は多いわけじゃないが、一度に全てを運ぶことになっており、余裕を持って荷物を乗せるために移動手段として荷馬車が選ばれた。
「来たな、青年! 隣座れ、隣!」
朝日を浴びて目映いほどの金の髪を揺らし、見知らぬ男が手綱を持ってフレートを招いた。体格のいいこの男が、ルアゴまでフレートたちを運ぶ御者らしい。
荷物に囲まれて、自分も荷物のようになるのは気分がよくないと思ったフレートは、言われたように御者の横に並んだ。目的地まで二人の体を守るように、緑の生地に刺繍が施されたクッションが尻に敷いてあった。
「よし、そろそろ出発するぞ!」
「フレート、貴方に、女神ルクロのご加護がありますように」
最後に、とルイーゼが胸の前で手を組んでフレートの無事を祈る。
女神ルクロというのは万物の母とも呼ばれる創世の神のことで、王室をはじめとする多くの人々が信仰するルクロ教の主神だ。とても簡単に説明すると、シュトル王国で一番祈りを捧げられており、揺るがぬ知名度を誇る女神といえよう。
「……フレートのこと、頼んだよ」
「任せとけってんだ」
気安い態度で言葉を交わす男は、どうやら父親の知り合いのようだ。ローレンツはがははと豪快に笑う御者に気を悪くすることもなく、僅かに体をずらしてフレートに視線を向けた。
「フレート」
何かを躊躇うような声で名前を呼ばれる。思わず身構えて次の言葉を待った。
「君なら大丈夫だと、信じているから」
何が。
その言葉の真意が分からずフレートは父親の瞳をちらりと伺うが、自分の何がどれくらい信じられていて、どう大丈夫なのかさっぱり読み取れない。大丈夫だと言うわりには、不安だとかそういう色合いの強い眼差しに映るのは、気のせいか。
不甲斐ない息子を悲しんでいる。フレートには、そう見えてしまった。
やっぱり、フレート・ヴァルザーは――
まともな返答はひとつも出てこないで、代わりにこぼれ落ちてきた溜め息をかき消すように荷馬車が前に進み出す。徐々に速度が早くなっていくと、あっという間に角を曲がって家は見えなくなってしまった。
ヴァルザーが、遠くなっていく。
まだ朝市の賑わいに包まれている大通りを横切って、荷馬車は西へ、西へ。
大切なフレートの荷物が載せてあるというのに駆け足気味だ。
最後にはひやりと冷たさが刺さる、生温いだけではない風が次から次へと頬を撫でる。幌もいくらか音を立てている。春になりきらない朝夕特有のものだろう。陽がもっと高くなれば、ましになるはずだ。
馬はそこそこ速いが、かといって男の手綱捌きが荒いわけではなく、クッションのお陰もあってか揺れには今のところ悩まされていない。腹の中に残っている朝食がせり上がってくることはなさそうだ。
「気分悪くなったらすぐ言えよ。ついでのおつかいで、今日中に隣町に届けなきゃならねぇもんがあっから、一日目は最悪かっ飛ばすけどな!」
大口を開けて笑う男に、そうですかとだけ答えて黙った。
この時フレートは、ルアゴは一日で辿りつける距離ではないと、はじめて知った。思っていたよりも遠いらしい。あと、自分の荷物以外も積み込まれているようだ。「ついで」がどっちかは、考えないことにした。
ルアゴ行きを知らされてから十二分な時間があったが、大して興味もないので能動的に調べることは一切しなかった。フレートが現在有するルアゴの知識は「湖の畔」と、今新たに加わった「馬車で二日かかる」ぐらいである。
「あぁ! 小便我慢できなくなったときも、しっかりオレに言えよな! ニコラ特製のクッションを汚されたら、さすがにオレもまいっちまう」
大事なことを思い出したように、大きな声をあげた後で続けられた言葉に対して、フレートはため息に近い返事しかできない。はあ。
「休憩は適当に挟むから、そこまで心配することでもねーか、そうだな!」
「はあ」
「あー、あと今日の宿はそんなに期待するなよ! おそらく、坊ちゃんにはちと硬いベッドになるだろうからな」
「……はあ」
「心配するな! ルアゴではきちんと寝心地最高のベッドだ!」
「はあ」
どうやらこの男、なかなかのお喋りだ。
フレートの相槌とも言えない何かを聞いているのか、いないのか、次から次へと言葉を繰り出してくる。一方的なお喋りに、学生時代のとある女がフレートの脳裏にちらついた。あの女もたいがい喋りたい放題だったな、と。
「ルアゴはいいぞ、湖がある!」
「後ろは山ばっかりだ!」
「水がしょっぱくないから、釣れる魚が海とはちげぇんだ。湖魚は湖魚でうめぇぞ。酒との相性もバツグンだ!」
「ニコラの手料理はいいぞ! ウマい!」
「真っ赤に染まった夕日がきれいでよお」
御者と会話をして情報収集する気もなかったので、ついに相槌のようなものもなくなった。どうでもいいので、女子生徒のこともさっさと頭の中から追いだす。
しかしそれでも男の口が止まることはない。黙ることを知らないらしい。若しくは本当に、フレートの相槌の有無など関係ないのかもしれなかった。
「屋敷から見えるレデン湖もいいぞ」
「あれを毎日屋敷から拝められるんだ、青年も幸運だな!」
レデン湖とは、ルアゴを湖の街たらしめているそれの名前だ。それくらいは、一般教養としてフレートも知っている。
「それでなあ……ん? なんだその顔」
「あ、え、いや」
いくらフレートがルアゴに興味を持っていないとはいえ、己の今後の生活さえ無関心なわけではない。
そういえば父は「ルアゴで学びなさい」と命じただけで、肝心なことは何も聞かされていないではないか。
屋敷という単語に戸惑うフレートを見て、御者は頭を掻いた。
「ローレンツのやつ、ひょっとしてなんも言ってねえな!?」
ぴたりと当てた男に、フレートはゆっくりと首を小さく縦に振る。
「っかー! アホーレンツは相も変わらず、だんまり男かよ!」
かの有名な音楽家をそんな風に呼ぶ男は、想像以上にローレンツと親交があることが窺えた。古くからの知り合いなのだろう。
しかし父を情けない呼ばわりする御者は、フレートをまじまじと見つめて、こうも言った。
「あの親にしてこの息子アリってか。フレート、お前もお前でアイツになーんも聞かなかったのか! 親子揃って口下手だな!」
フレートを責める口調ではないにしても、不愉快の三文字が頭をよぎる。
顔を伏せて黙りこくることで、強制的に会話を打ち切ろうとする。が、お喋りな男にそんなものが通じるわけはない。
「そういう所もそっくりだな」
それどころか、その行為すら指摘されてしまう。無性に逃げ出したい気持ちになったが、この状況では逃げようもない。腿の上に乗せていた拳を更に固くすることしかできなかった。
この男は苦手だ。フレートは強く思った。
「まあ、今はそんな湿気た話はいいんだよ! お前はルアゴにあるヴァルザーの別荘で過ごす! 身の回りの世話とかは、オレとオレの家族がする!」
あっさりと話題を切り替える男。それに救われつつ戸惑いもあるフレートは、与えられた情報に思わず、視線を御者にやってしまった。
別荘があるなんて、知らなかった。
前方を見る男の横顔は、相変わらず笑みを携えている。
「よってお前は、自由なお気楽ぷーちゃんだ! よかったな、好きなように過ごせ!」
言い方は気に食わなかったが、男の言うことが本当ならば、フレートはルアゴに行っても音楽を続けていいのだ。ピアノに触っても、いいのだ。自分は父親から完全に見放された訳ではないのだ。
そのことが、フレートにひどく安心をもたらした。家を出る前のあの言葉も、今なら前向きな言葉として捉えられる。大丈夫、おれはまだやれる。大丈夫、父さんだってそう信じてくれている。期待されている。大丈夫、大丈夫だ!
(ルアゴで練習に打ち込んで、早く王都に帰ろう――!)
フレートの新たな決意も乗せて、荷馬車は更に西へと進む。
新しい場所での生活を少しは楽しんでやってもいいかもしれない、そんなふうにさえ思えてきた。