ルアゴの狂詩曲(1)
ピアノコンクール予選落ち。
それは、何度目だろう。
悔しくないわけじゃないが、もう、不思議と驚きも涙もない。
もしかしたら、慣れてしまったからなのかもしれない。だとしたら、悲しいことだ。
だが、何度予選に落ちても恥ずかしさだけは、それだけは、なくならない。むしろ回を重ねるごとにその感情が強くなっている気さえする。
兄はヴァイオリンで人々の心を魅了したかと思えば、自ら創り出した旋律でも人々の心を掴んで離さない。
父も、オペラの作曲家として名を馳せている。「月の花嫁」「トゥーラサンの戦い」などは父の名前を知らずとも、広く人々に親しまれている作品だ。
自らの楽団を持ち、国内を転々としている指揮者の祖父に、ソリストとして名高い叔母。曾祖父も、その母も、妹も。伝説のフルート奏者も、誰もが知る牧歌の編曲も。
長い音楽史の中にヴァルザーの名前は数多く出てくる。
ヴァルザー家はずっと昔から続く音楽の名家として知られていた。
なのに、自分は。それなのにどうして、自分はこうなのだろう。
「ヴァルザーの次男は今回も予選落ちらしいぞ」
「何回目かしらね?」
「さあ。でも一度も予選を通過したって聞かないよな」
「ヴァルザーの血なんて流れていないんじゃなくて?」
「おいおい、そりゃあさすがに言い過ぎだろ。本人に聞こえるぞ」
「だって、あれがヴァルザーの子だなんて信じたくないんですもの。それなら私の方が相応しいですわ」
本選への出場が叶わなかったと知る度、結果が伝えられる度に恥ずかしさが込み上げてくる。
自分は、家の恥晒しでしかない。そんなふうに思ってしまう。
毎日毎日頑張って練習しているのに。半ば独学でも半年前の自分よりは上達しているはずなのに。音楽理論も、楽器の知識も、音を奏でる知識は学んできているのに。それなのに。それなのに、どうして。
実際のところ、父も母も自分のことをどう思っているのだろうか。
結果を残せない次男のことを。勝負の場にすら立てない自分のことを。
表立って責められたことはない。詰られたこともない。今もピアノを続けさせてくれている両親はきっと優しいのだろうが、でも、心の奥底では何を思っているか分からない。
要らない子と思われていないとは、断言できない。思われていても、不思議じゃない。
結果が出ない日々がとても重苦しくて、後ろめたささえあった。ひどく、おそろしい。
けれど、それを盾にしてはいけない。
何故なら、自分はヴァルザー家の次男であるから。
フレート・ヴァルザーなのだから。
王都ザハルトの住宅街の中でも、静けさが漂うノバリ通り。曇天の下、屋敷と呼ぶにはこじんまりとした住家の前に一台の馬車が停まる。やや大きめのトランクを片手にフレートが馬車を降りるが、足はその場からしばらくの間動かなかった。
両親に結果を報告するのは、やはり気が重い。
(申し訳ないな、皆に)
はあ。大きなため息が漏れる。報告せずに自室に戻りたい。
とは言えずっと玄関前で佇んでいる訳にもいかず、フレートは仕方なく足を進めた。
なるべく音を立てないようにそっと扉を開けてみたが、そこには老いた執事のクラウスが腰を折ってフレートの帰宅を待っていた。
「お帰りなさいませ。フレート様」
「……あぁ、ただいま」
白い頭を上げたクラウスと目が合って、無言でトランクを預ける。
考えてみれば馬車の音で誰かが家に来たと分かるのだから、こそこそと泥棒の真似事をするだけ無駄だった。己の考えの浅さにまた息が零れそうになる。
「お疲れのところ申し訳ないのですが、ローレンツ様がお呼びですよ」
フレートが羽織っていた薄いコートも預けると、クラウスは言付かっていたことを伝えてフレートの部屋がある二階へ向かっていく。
ローレンツとは、フレートの父親のことである。何処と場所は指定されていないが、父親はだいたい自分の部屋で楽譜と睨めっこしている。そこに居なければ、サロン室。ひとまず目指すは父親の部屋だろう。
相変わらずの足取りで、廊下をゆっくりと進んでいく。明かりは突き当りの窓から差し込む曇天の隙間の日光しかなく、陽も沈んでいないのに仄暗く、少しだけ不気味さがあった。
食堂の方からは、母やメイドたちの談笑が聞こえてくる。皆で仲良くおやつを食べている頃か。
普段なら「ただいま」と声を掛けるところだが、今日みたいな日は素通りだ。
そこを通り過ぎれば、ローレンツの部屋はもう目の前だった。
ろうそくの灯りもない廊下でドアを軽く叩く。返事はすぐに帰ってきて、フレートはゆっくりとドアを開けて中へと足を踏み入れた。
部屋の中は廊下の暗さに反して明るい。窓の前にある父の仕事机を、本棚とびっしりと詰まった本の数々が取り囲んでいるが、一角だけは本棚でなく練習用のピアノが置いてある。机の上には本棚から引き抜かれた分厚い本が山積みにされ、丸められた紙がいくつかあった。くしゃくしゃのそれの中から、五線譜と無数の黒い丸が断片的に見える。どうやら今回は難産らしい。そして座り心地が大変よい特注の椅子に、父親が深く腰かけていた。
いつも通りの父、ローレンツ・ヴァルザーの仕事場だ。
「おかえり、フレート。どうだった?」
真正面に立つフレートを、夕暮れ色の瞳が穏やかに映す。
「……ごめんなさい」
フレートには、そう言うことしかできなかった。父に結果を伝えるとき、いつも不甲斐なさや申し訳なさでいっぱいになる。
眼差しから逃れるように、頭を下げた。
ローレンツはそうか、とだけ言葉を返す。それだけだった。
「失礼、しました」
少しの沈黙も耐えられなく、居辛さだけが増大していく。フレートは逃げようと、ドアノブに手を掛ける。
それを、父が止めた。
「待ちなさい、フレート。……話が、あるんだ」
振り返ると、ローレンツはなんとも言えない複雑な表情を浮かべていた。
何を、言われるのか。焦りもあったが、心当たりがないわけじゃない。父親にそんな顔をさせてしまう理由を、フレートはいくつも持っている。
いくつかの悪い筋書きが脳裏に浮かびあがった。
“お前は、もう二度とヴァルザーを名乗ってはいけない”
“ピアノを触ることは、やめなさい”
“君に音楽の才能なんてものは、ひとつもない”
“明日から、クラウスの元で頑張りなさい”
“はやく荷物をまとめて来なさい”
――。
自然と拳に力が集まる。無言の時間が、先ほどまでよりもずっと恐ろしい。
実際には一分も経っていないのだろうが、フレートには長い時間が過ぎたように感じられた。
「君は、ムズィコルンに進学しない」
長い沈黙を破ったローレンツの言葉はフレートの筋書きの中にはなかったが、それに似た話の流れは頭の中にあった。可能性のひとつとして考えてはいたが、実際言葉にされてしまうと、父親に面と向かって言われてしまうと、瞬きの一つもできやしなかった。
声を絞り出すのにも、時間を要する。
「――それ、は。どう……いう、」
フレートは来春に今の学校を卒業したら、美術・文芸・舞台・音楽――芸術の都と呼ばれるムズィコルンの藝術学院へと進学するつもりだった。数々の芸術家を世に送り出した、芸術系教育機関の最高峰。芸術家を志す者たちの憧れ。
夏の終わりにあった筆記の一次試験を潜り抜け、二次試験の知らせが届いたのはつい最近だ。
「学院には、二次試験を辞退すると既に伝えてある」
「なっ……」
「他の学院にしなさい、ということでもない」
開いた口が塞がらないとは、このことか。
最悪の筋書きを想像することは、その結末を受け入れることではない。心構えが出来ていたとも、言い難い。心のどこかで、まだやらせてもらえると思っていたのだ。
音楽家を目指すフレートにとって、藝術学院への進学は当然の選択だった。そのために毎日学びと練習を積み重ねてきた。コンクールでのいい知らせは出来なくても、ムズィコルンへの進学を自分の手で掴み取れば両親も皆も喜ぶだろうと、陰口をたたいていた彼らのことも少しは見返せると思っていたのに。
それも出来なくなってしまった。
「フレート。君には、しばらくルアゴで学んでもらうよ」
父親は淡々と事実だけを告げる。口調は柔らかいが、反対意見を受け付けるようには見えない。
ルア、ゴ。あまり馴染みがない地名だ。
口の中はすっかりからからになってしまい、音を吐き出せない。
しかしここで声にしなければ。言葉にしなければ。伝えなければ。最悪の中の最悪が、現実になってしまうかもしれないのだ。
「まだ、まだ……っ! まだ、おれは、やれますっ! でき、ます! 兄さん……兄さんより時間はかかるかもしれないけど! でも! できますから、だから!」
悲痛な叫び声にも聞こえるそれに、ローレンツは顔をわずかに歪める。涙を零しはしなかったが、見捨てないでくれと訴えかける深い青の瞳から目を逸らしてしまいたかった。
だがそれは、ローレンツが父親として対峙しなくてはならないものだった。今まで少なからず軽んじてきてしまったもの。
事態は、想像以上に深刻なところまで来ていた。
「ピアノを、音楽をやめてくれという訳じゃない。ルアゴで学んできて欲しいんだ」
音楽を取り上げるわけじゃないと聞いて、フレートはほんの少しだけ気持ちが落ち着く。目元が僅かに和らいだのを見て、ローレンツも少し安心した。
が、それも束の間。再び次男の夜色をした瞳が徐々に曇ってくると、それを隠すように部屋を去って行ってしまった。父親は何も声をかけられなかった。
やはり突然で尚且つ、強引過ぎた。
僅かに開いたままのドアを見ながら反省する。しばらくして、夕食時にならないとクラウスが部屋にやって来ないことを思い出すと、ローレンツはすっと椅子から立ち上がる。
「立てるのにな」
誰にも聞こえない自嘲気味のそれを部屋から出さないように、そっとドアを閉めた。
でも、立てなかったのが現実だ。大事な息子が泣き出しそうな顔をしているのに、抱きしめることはおろか、近づくことさえできなかった――否、しなかった。躊躇ってしまった。かける言葉を、見つけられなかった。
フレートがあんなにも思い詰めていたなんて。こうなってしまうまで何も手を施せなかった自分が情けない。こうなってしまっても、手を差し伸べられなかった自分が情けない。
「父親失格だって、笑われてしまうな」
遠い地に居る友人が見たら、思い切り自分を指差して笑うだろう。そんなことを思いながら、先ほどまでフレートがいた場所に立ってみるが、もちろん何かが見えてくるわけもない。
ローレンツも、長男のホルストも今日に至るまで色んな山や谷を越えてきたが、音楽家を志す者として重大な危機にさらされたことがなかった。苦労せずに「音楽家」と呼ばれるまでに至ったとも言える。気持ちが分からないと言ってしまえばそれまでだ。それでも、抱きしめてあげられたら何かを与えられていただろうか。
本当のところ、ローレンツはフレートに音楽の才がないと思っているわけではなかった。むしろ、それを信じているからこそルアゴに送り出すことを決心したのである。現に半ば独学状態で難解な曲をするすると弾いてしまうし、正確さも極めて高い。知識欲も高いようで、この部屋にある本の多くは知識として吸収されてしまっている。けれど大きく欠如している部分があるとも思っている。
それは学院ではなくルアゴで見つけることができるものだと、ローレンツは信じていた。
ルアゴといえば、湖の畔にある街。フレートの中にある知識はそれっぽっちだ。それはすなわち、音楽とはあまり縁がない街とも言える。偉大な音楽家の故郷でもなく、大きな劇場があるわけでもない。
父親はああ言っていたが、きっとやっぱり、本当のところは音楽なんてさっさと捨ててしまって、新しい街で新しい人生をはじめろということなんだろう。
フレート・ヴァルザーには見込みも何もないと判断されてしまったのだ。
それじゃなきゃ、どうしてそんな田舎で。
「なんで、ルアゴなんだよ。なんで、」
今日のコンクールも駄目だったんだよ。
音は全て、ふかふかの布団に吸い込まれてしまった。自室に戻ったフレートはベッドに全身を預けて、表情を失くした顔で考えることを放棄しようとする。今日のことはすべて、すべてなかったことにしたかった。
だが心地よいふかふかに包まれたところで、目蓋を閉じればいやでも今日の演奏を思い返してしまう。たくさんの目、演奏が始まる前の静寂、前の演奏者の熱気が抜け落ちひんやりとしたピアノ、空間に吸い込まれてしまう音、弾き返される音、続く三連符、慌ただしい左手、ペダルを踏んだときの音、揃った拍手、身なりを整えた自分、審査員の表情――。
今日も目立った失敗なく弾けたと思っている。悪い演奏ではなかった。ただ、結果はついてこなかった。
こうも本選に出られないとなれば、フレートが「自分には何かが不足している」という答えにたどり着くのは自然のことだった。しかし、その「何か」が一向に分からない。講評は芸術家の性か、審査員たちの流行りか、あまりにも詩的で難解だ。答えを導けたとしても、それはあくまで解釈のひとつに過ぎない。
本選出場を決めた演者たちの演奏もきちんと聞いていた。人によってはフレートより音を間違っていたし、テンポがぐちゃぐちゃな者も居た。彼らは自分より何が良かったのか。優れていたのか。フレートには検討さえ出来なかった。分からない。
ずぶりと思考の海に沈んでいきそうになり、どうにか気を紛らそうとゆっくり体を起こす。ベッドから離れて無意識のうちに手にしていたのは、棚にしまっていた手のひらに収まる程の小さな箱だった。少しの年季を感じさせる白の箱。その箱を開けると、中から更に箱が顔を出す。次は木箱だ。白い箱の底にしまった紐付きの棒を取り出すと、慣れた手つきでそれを木箱に挿し数度回して机に置いた。
一瞬の静寂を経て、かわいらしい音を纏った簡単な旋律が奏でられていく。
それはとても静かで、穏やかで、静か。
いつの頃からか、このオルゴールと時間を共にすることが、気持ちがしょぼくれた時の習慣になっていた。旋律が途切れてきたら、また巻いて。人によってはどこか寂しさを感じる音色は、フレートにとってはとてもきらきらしたもの。それは、自分に不足している部分を埋めてくれるような気さえしていた。不思議と気持ちが満たされていく。
ベッドに腰かけて耳を傾けていると、音がぱたりと止んだ。まるでつまらない現実に引っ張り戻されたような感覚で、まだ体はあの音色を望んでいる。もっと、もっと。
欲に従い再度棒に手をかけようとしたが、それよりも遥かに大きな欲求が突然フレートに襲いかかってきた。どうやら長時間の馬車移動で疲れた体がいよいよ限界らしい。
フレートは今度こそ、ベッドに全てを預けた。