第5話
早く起きた日は家でまったりするよりも学校に来て、しんと静まり返った教室で本を読んでいる方が好きだ。
今日も一人、ひっそりと静かな教室で一人文字をひたすら目で追っていた。
普段、家で読書の出来ない私にとって、この時間が一番落ち着く一時なのだ。
「今日も早いのね、美子」
足音をさせずに入って来たのは、私の親友である和歌だった。
私の頭を撫でまわしている親友は、私を甘えさせてくれる唯一の存在だ。
「ああっ、和歌。今日は早いんだね?」
「そうね。なんか、美子が面倒臭いことに巻き込まれてるみたいだから、愚痴でも聞いてあげようと思ったんだけど、余計な心配だった?」
微笑を浮かべる和歌は、それはもう美しく、男子曰く女神さまのようだ。だがしかし、この美しい微笑を向けるのは限られた人間にだけなのだ。特に男子に対しては、冷たい視線で見下している。これまた男子曰く、それがまた堪らなくいいのだ。あの冷たい視線で見下し、罵られたい。お前らは、変態なのかっ。ついつい口に出していってしまうのだが、和歌の虜になっている男子達には、それはいわゆる褒め言葉でしかないようで、何故か喜ばれる。
まさに、不可思議現象である。
「和歌は優しいねぇ。涙が出て来ちゃうよっ。ううっ、聞いてくれる?」
よしよしと、和歌は私の頭を撫でてくれる。普段は、兄弟達にしていることをこの時ばかりは、私も甘えてして貰う。
「どうぞ」
私は昨日の夕方私の身に降りかかった不幸な出来事を事細かに語った。
「それでね、姫がね、ケバ女先輩たちとデートする代わりに、私とデートしたいって言うんだよ」
「そう。いいんじゃない? ケバ女先輩たちは兄弟達の面倒を見てくれるって行ってるんでしょ? その間にあなたはユッキー(姫のこと)とデートを楽しめばいいんだから」
何故か和歌は、私と姫をくっ付けたがっているような言動をよくする。私が坂田先生に想いを寄せていると知っていてだ。
「せっかく一人の時間が出来たのに? 姫とデートするなら和歌とデートする方が絶対楽しいに決まってるのに……」
「その言葉は嬉しいけどね。美子は男の子とデートしたことないでしょ? そういう機会を持つのもいいんじゃないかと思ったの。別にそれで、ユッキーと付き合うわけではないんだから。一度デートするくらいいいと思うけどな。何事も経験よ」
確かに和歌の言うとおり、私はこの歳になるまで誰かとデートをした経験がない。勿論誰かと付き合ったこともだ。
兄弟の面倒が忙しかったから……、という言い訳をしたら、兄弟達に怒られてしまいそうだ。
好きな人はいなくもなかったけれど、その人と出かけたい、手を繋ぎたい、キスしたい、といったような気持ちには一度もなれなかった。
恋に恋する女の子だったつもりもないけれど。
「経験か……」
「大丈夫。ユッキーなら、美子の嫌がることはしないでしょ?」
和歌に、姫にキスをされたことは話していない。
私が、「キスは好きな人同士でするもの」と、叱ってからはキスをしてくることもない。毎日の好き好き攻撃はあるものの、私が心底うんざりしている時には、決して言っては来ない。何というか、きちんと節度を守っている感じが、どうも憎めない。
「うん。しない」
「もう、ユッキーとデートすることは決まっているんでしょう? だったら、楽しまなけりゃユッキーに失礼じゃない。で、美子はユッキーがケバ女達とデートしても別に何とも思わないんだ?」
「え、別に何も?」
それが、姫ではなくて坂田先生だったなら、それはもうかなりへこんでいたかもしれないけど、姫には私なんかより他の人との出会いを大切にしてほしいと思っている。
私のことを好きだなんて、ただの気まぐれでしかないのだから。
「そっか」
和歌はそれ以上、何も言わなかった。
姫がケバ女先輩たちとデートするにあたって私が一番気にかかっていることは、姫がデート中に倒れてしまうんじゃないかってことだ。
急に倒れた姫をケバ女先輩たちは、適切な対応が出来るだろうか?
「ねぇ、森田君。今度の日曜日は、デートなんだから倒れないようにしよう。何処に行くんだったっけ?」
「遊園地です」
私が作ったほうれん草のおひたしを食べながら、姫が短く答える。
最近、鉄分豊富な食材を食事にたくさん入れているのは、ひとえに今度の日曜日に姫が倒れないようにという私のささやかな努力なのだ。
「いい? 少しでもクラクラしてきたら、先輩達に声をかけて、ベンチで休ませて貰うの。ああっ、心配だなぁ。大丈夫かな」
「なんか、美子さんは俺のお母さんみたいですね?」
ちっとも嬉しくないっ。
私が真剣に姫のことを思ってあれやこれやと助言してあげているというのに、あなたはどうしてのほほんとしているのですかっ。
「もう、お母さんじゃないっ」
「そんなに心配なら、美子さんも一緒に来てくれたらいいと思います」
「駄目に決まってるよっ。私なんかが行ったら、先輩達が怒っちゃうじゃない」
ああ、想像したくない。ケバ女先輩達に絡まれる私の姿。容易に想像出来てしまう。
「そうなんですか? でも、俺は美子さんが来てくれた方が嬉しいです」
姫様スマイルが輝いて見える。
ある意味、姫の姫様スマイルは強力な武器だ。危うくデートに同行すると承知してしまいそうになってしまったではないか。
「嬉しくても、ダメなのっ。ほら、しじみの味噌汁も食べて。おかわりは?」
何故だろう、本当に母親のようなことを姫に言っているような気がする。これも全て私が小さな兄弟達に囲まれて育ち、私が世話係なんかをやっているからに過ぎない。
黙りこくってしまった私を、姫はくすくすと笑って見ている。
「何よ?」
「いえっ、美子さんはとっても可愛い方だと思って」
「もう、そういうのはいいってばっ。それから、美子さんってなんかヤダ。『さん』はいらない。美子でいいから」
私の周りで『さん』づけで呼ぶ人なんて一人もいない。なんだか背中がこそばゆくなるようで、イヤなのだ。
「いいんですか? 美子と呼んでも」
あたかも嬉しそうに姫がそういうので、大したことは言った覚えもないのだが、良いことをしたような気持ちになった。
「どうぞどうぞ。『さん』づけなんてなんか気持ち悪くて」
「はい」
嬉しそうにご飯を口に運ぶ姫はとても可愛い。とても男とは思えなくて、同い年の妹が出来たような気がして私も嬉しくなった。
そう、姫は私にとって男と言うよりも女の子だったのだ。
日曜日。
姫はケバ女先輩たちとのデートのため、出掛けて行った。
日中、子供たちとプロレスごっこに付き合わされながら、姫が倒れてはいないかと、そればかり考えていた。
何かあった時にと、ケバ女のリーダー先輩に私の携帯の番号は教えておいた。姫が体が弱く、よく貧血を起こすことは周知のことなので、リーダー先輩は私の話を真面目に聞いてくれた。
姫とデートするにあたって注意すべき点を、伝え終わると、
「あんた、森田君の母親みたいだな」
なんて、姫と同じようなことを言われて、一人落ち込んだものだ。その後、和歌が慰めてくれたから立ち直れたものの、私ってそんなに母親じみているんだろうかと、真剣に悩んでしまった。
昼時になってもリーダー先輩からの着信が来ないということは、上手くやっているのだろうと、少し気が抜けた時だった。その電話が来たのは。
「もしもし?」
『もしもし、森田君が倒れたんだよ。あんたが言ってた通りに日陰に寝かせてんだけど、あんた迎えに来てくんないかな』
相当動揺している様子が声の調子から窺える。
「分かりました。すぐに向かいます」
「なあ、姉ちゃん。どっか行くのか? 俺達も行くぞっ」
甲斐が私の腰に巻き付いて、てこでも動かないつもりだ。
「僕も一緒に行くぅ」
目に涙をためた桂、この二人を置いて行くことは出来そうにない。
「仕方ないなぁ。電車に乗んなきゃなんないけど、あんたたち他の人の迷惑にならないように大人しく出来るって約束する? 約束出来るなら連れて行ってあげるから」
「「うんっ、約束するっ」」
返事だけは、必要以上に元気だ。
「よしっ。じゃあ、行くよ。姫を助けに行くんだからね」
意気揚々と二人が拳を上に突き上げた。ちなみに、家では姫イコール森田君という構図が出来ているので、これから森田君を助けに行くことはちびっこ二人は理解している。