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第21話

「手術、受けるの?」

 ソファに腰を掛けたのに、全く口を開こうとしない健を見つめたまま、問い掛けた。

「はい。受けに行って来ます」

「アメリカに行ったら、もう日本には戻らない?」

 私が一番怖れているのは、健の無事ともしかして日本には帰らないんじゃないかということ。

「俺は……、治ったら戻って来ます。父や母がアメリカに残れといっても、たとえ美子が俺の帰りを待っていなくても」

 どう答えていいものか迷った。けれど、意を決して口を開いた。

「私は、待ってるよ。健のこと」

 健が嬉しそうに微笑んだが、その顔色は未だ青みがかかっている。何度も見ていたこの健の顔を暫く見ることが出来ないことに涙が零れそうになる。

「お父さんが言ってた。健が手術を決めた理由って何?」

「父さんも余計なことまで話しすぎなんです。美子が知らなくてもいいことだったんですが……。悔しかったんです。俺が美子を助けたいのに、いつでも俺が助けられてることに。俺が美子を守りたいのに、いつでも俺が守られていることに。俺が美子を抱き上げたいのに、いつでも俺が抱き上げられることに。男として、頼れない自分が歯痒くて仕方なかったんです」

 苦笑を浮かべる健になんと言えばいいだろう。私がそれを否定したとしても、健がそう思っているのなら、それを覆すことは私には出来ないのだ。

「私を守りたいから、手術をするの?」

「俺もこれでも男ですから、好きな子は守りたいんです。この手で守りたい」

 両手を広げて、それを見下ろしながらそう言った。

「それって私なの?」

「美子以外誰がいるんですか?」

 キョトンとした顔で問い返されて、私も慌ててしまった。

 健が姫と呼ばれることを嫌がっているのを見たとき、自分の体を不甲斐なく感じていることは薄々気付いてはいた。

 気付いてはいたが、じゅあ、健を知らんぷりすることは出来なかった。

 私は、他の誰でもなく私が健を助けたいと思っていたのだ。自分の気持ちに気付くずっと前から、体は分かっていたのかもしれない。

 この人は大切な人だ、私が守らなければ、と。

「健。手術、成功するんだよね? ちゃんと、私のとこに帰って来てくれるよね?」

「帰って来ますよ」

 健の笑顔に安心する。でも、同時に不安にもなるんだ。もしかしたら、私の不安を払拭するための笑顔なんじゃないかって、勘ぐってしまう。

「いつ、行くの?」

「今週中には、向かうことになっています。三学期には、学校に行けませんので皆さんによろしく言っておいてくれますか? 学校は休学することになります」

「……寂しい。寂しいよ、健。私の隣に健がいないなんて」

 言葉に詰まって、喉が詰まって、うまく話せなかった。

「俺も寂しいですよ。美子は優しいですね。嘘でも嬉しいです」

 嘘? 嘘なもんか。これが私の本心なんだから。

「嘘なんかじゃないっ。私の隣は健しかいないっ。ずっとずっと、私の隣は健だけのものなの。……私はっ、健が好っ」

 それ以上言えなかったのは、健が身を乗り出して私の口を手で塞いでしまったからだ。

「どうして?」

 もごもごとはっきりとしない声が指の隙間から漏れた。

「言わないでください。今の俺には、その言葉を受け取る資格はないんです。俺が、また、美子の前に立ったとき、その続きを聞かせてくれませんか?」

 健の手が離れていく。それを目で追ったあと、私は口を開いた。

「その時に、私が今と同じ気持ちかは分からないよ? 健だって、今と同じ気持か分からないじゃない」

「俺の気持ちは変わりません。美子の気持ちが変わってしまったなら、その時は、また一から頑張ります」

 涙が出そうだった。でも、ぐっと踏ん張った。踏ん張ったら、鼻の奥がツンとした。私は、精一杯笑顔を作ろうとした。その出来は、きっとそれはそれは酷いものだっただろう。

 健の顔が近付いてきて、唇を塞がれた。

 とてもとても短いキスだった。初めてのキスよりもうんと短かった。

 それがお別れのキスだとは思いたくない。必ず帰って来るという約束のキスだと思いたい。


 その日のキスが唇に生々しく思い出されるうちに健は日本を発った。

 健の家はあの日のままに。

 きっとそれは、健の必ず帰って来るという意志表示なのだと、勝手に思うことにした。

 あの日私は、いつ帰ってくるのかとは訊ねなかった。

 怖かったんだと思う。その日になっても健が帰って来なかったらと考えたら。


 私は、クラス替えを経て高校三年生になり、先輩たちは卒業して行った。

 横山先輩はイラストレーターになるべく専門学校に通っている。あとの二人はそれぞれ専門学校に行ったと聞いているが、卒業以来会っていない。

 横山先輩は、私や弟たちに会いに今でもよく遊びに来てくれる。

 受験生になった私は、勉強をしながら、いつでも健のことを忘れていない。健からもお父さんからも連絡はないし、こちらからも連絡していない。決して連絡先を知らないわけではない。

 健が頑張っているのなら、私も頑張ろうと、受験勉強に励んでいる。

 そして、健がいなくなってから一年以上がたち、私たちは卒業式を迎えた。

「とうとう終わっちゃったね。今日で最後かと思えば、名残惜しいよね」

 卒業式も先生の最後の挨拶もそのあとの写真撮影も終えて、それぞれ教室を出ていったが、私はまだ教室を出る気にはなれなかった。

 隣に座る和歌もまた、そう思っているようだった。

「そうだね」

「そう? 本当にそう思ってんのかな。先生と堂々と会えるようになるから嬉しいんじゃない?」

「それは、もちろんあるけど、卒業ってなると不思議と感傷的になるよね」

 私と和歌は同じ私大を受けて見事合格した。といっても学部は違うのだが。私は英文学部、和歌は教育学部だ。和歌は坂田先生と同じように高校教師になるのが夢なんだそうだ。私が英文学部を受けたのは、やはり健がアメリカにいるからなのだろう。

 大和も同じ大学で、奴は経済学部に受かった。

 私の周りにはその大学を受け、無事に受かった人が多い。近いというのが最大の理由なのだ。

 そんな背景もあってか卒業式といってもそこまで暗いものではないのだ。

「美子。……あれからユッキーから連絡ないの?」

 私の隣にいて、一番心配してくれていたのは和歌だ。だが、私が健のことを話しだすことこそあれ、和歌からその話をしだすのはこれが初めてだった。

「うん」

「美子からは?」

「してない。きっとそのうち帰ってくるでしょ。待つって決めたから」

「淋しくないの?」

「そりゃ、淋しいよ。手術が成功したのかも今元気にしているのかも分からなくて、不安だよ。もしかしたら病気が悪化して退院できないのかもとか、私の事なんて忘れてしまったのかもとか、考えだしたら悪い方へ悪い方へ考えちゃってキリがない。でもさ、信じてるんだよね。絶対帰って来るって」

 この一年間、苦しくて苦しくてもう待つのを止めようって何度も考えた。だけど、止めたって健のことを考えることを止めることも、忘れることも出来ないって分かり切っていた。

 だから、我慢することを止めた。弱音を吐きたいときは弱音を吐き、泣きたいときは思い切り泣き、怒りたいときは怒りをぶちまける。そうやって、探りながらここまで来たんだ。

「帰ろうか、和歌」

「そうだね」

 立ち上がったときに、ふと窓の外を見た。この教室から学校の正門が見える。

 卒業証書の入った筒が私の手からこぼれ落ちて、床を転がっていく。

 美子が笑いながら筒を取ってくれて、私に渡してくれる。

 でも、私はそれどころじゃなかった。

 私には、ある一点しか見えていなかった。


次回、ラストです。

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