第19話
「ちょっと、美子ちゃん。引っ張らないでっ。伸びる伸びる」
「あっ、ごめんなさい」
慌てて手を放すが、再びお父さんの腕を掴んだ。
「絶対、健に言わないでください。いいですね?」
にっこりと微笑むお父さんを見ていると、不安になってくる。
この腕を放した途端にお父さんが健に言いに行ってしまうんじゃないかと思うと、放すどころか掴んだ手を強める始末だった。
「父さん。美子が来たんですか?」
私は、突然現れた健に動揺するあまり気付かなかった。私がお父さんの腕を掴んでいるのを見て、健が顔をしかめたのを。
「姉ちゃん。俺たちここ泊まるからな」
甲斐がバタバタと派手な足音を響かせて、出て来たと思えば、出し抜けにそう言った。
「はあ?」
「甲斐君も桂君も今日は泊まりたいと言っているのですが、大丈夫ですか?」
健の目が私の手元に向けられているのに気付いた私は、パッとお父さんの腕から手を放した。
「うちは構わないけど、迷惑にならない?」
「それなら問題ないよ、美子ちゃん。俺たちは二人のことが大好きなんだ。こちらから誘ったんだよ」
お父さんを見たあと、健を見た。健もお父さんと同じ意見なのか、微笑み何度か頷いた。
「それじゃ、お願いします。あんたら、迷惑かけんじゃないわよ?」
甲斐は問題ないとは思うが、桂が夜になって、やっぱりお家に帰りたい、と言いだすかもしれない。まあ、その時は私が迎えに行けばいいか。
「「うん。分かった」」
「じゃあ、今日は四人分の食事を用意しますね? 買い物、行って来ます」
「いやいや、五人分でね。美子ちゃんも一緒に食べるんだから」
お父さんは笑顔でそう言ったが、その笑顔は有無を言わさぬ威圧感があった。私は仕方なく、頷いた。
「俺も行きます」
「えっ、あっ」
今の私の精神的な状態では、健と二人きりは辛いので避けたいが、断る理由も思い付かずにしどろもどろになっている間に、
「じゃあ、行きましょう。ちょっと待っていてください。上着を取ってきますので」
と、言われてしまっては、いまさらどうしようも出来ない。
健は、自らの上着と私が忘れていった上着とバッグを持ってきた。
「ありがとう。急いで出たから忘れちゃった」
妙な汗が背筋を流れていった。自分でも承知しているが、私は挙動不審に違いない。
連れ立ってマンションを出たのはいいが、普段どんな話をしていたのかも分からず、口は貝にでもなったように開かない。
「美子? どうしました? 具合が悪いんですか?」
顔を覗き込まれ、間近に健を見たことで、さらにパニックに陥った私は、ぐらりと視界が傾いた。
「美子っ。大丈夫ですか?」
通常ならば、逆の立場になるところ。私は、健の腕の中にいたのである。
飛び上がって健の腕から逃れた。
「ごめん。大丈夫っ。全然元気だから」
心配そうに私を眺める健の目は何ら変わっているわけではないのに、私の目には違って見えた。以前よりも数倍輝いて見えるのは、私の気持ちが変わったからなのだろう。
「健。話したいことがあるんだけど……」
「俺も美子に話したいことがあります」
きちんと気持ちを伝えるために勇気をしぼりだしてそう言った。
「じゃあ、健から話して」
「いいえ、美子から話して下さい」
しばらく両者一歩も譲らぬ攻防が続いたが、結局健から話して貰うことにどうにか決まった。
健が思い詰めたような表情で、口をなかなか開こうとしないので、私は段々不安になってきた。
健がここまで言い辛そうにしているのだから、よっぽど大変なことなんだ。しかも、その表情から良くないことであることは明らかだ。
「……美子。実は、俺……」
「美子ぉ」
健の声を大きくて能天気な声が遮った。
「……大和」
こっそり健の様子を窺うと、ホッと小さく息を吐いた。
遮られたことに安堵しているのが分かる。
一体何を言おうとしていたのか、検討もつかない。午前中会った時にはこんな様子は見せなかったのに。
「ああ、大和」
「何で美子はこいつと一緒にいんの? ズルいっ。俺とは全然遊んでくれないくせに」
「別に遊んでるわけじゃないよ。これから買い物に行くだけ」
恨めしげに健を見ている大和にそう言った。
「何でっ? 何でこいつと一緒に買い物行かなきゃなんないの?」
「ああ、もう。あんたうっさい。あんたには関係ないでしょ? 健、行こう」
いいんですか? と健の目はそう問い掛けているので、静かに頷いた。
「美子っ。ズルいぞ」
「うるさいな、あんたは。また、うちに遊びにくればいいでしょうが。留衣兄も久しぶりにあんたに会いたいって言ってたよ」
留衣兄と大和は仲が良い。私に近づく男で唯一それを許されている存在だ。ただ単に大和が危険に値しないと思われてにすぎないけどね。
「ホント? じゃあ、お正月に行くッ」
「はいはい」
振り向かないまま右手をひらりと振ってみせる。
どうにか大和をまいたと、ホッとしたところで、健の雰囲気がさっきまでと違うことに気付いた。
「健? 怒ってるの? あいつただヤキモチ妬いてるだけなんだ。ごめんね」
「どうして……」
「え?」
「どうして大和君のことは分かるのに……」
「え、なに?」
「すみません。体の調子が悪いので、買い物には付き合えません。一人でも大丈夫ですか?」
「買い物は一人でも大丈夫だけど。体、大丈夫なの? 一緒に一回マンションに戻ろう。ね?」
私がさっき、くらりとして健に支えて貰ったから、疲れが出てしまったのか? それとも、大和と話している間に、寒さで風邪を患ったとか?
「大丈夫です。どちらかというと、今美子といるほうが体調が悪くなりそうです。すみません」
スタスタと私の前から歩き去った健の後ろ姿からは、具合の悪さは感じられなかった。
私といるほうが、体調が悪くなるって、私といるとストレスが溜まるっていうことだろうか?
健は、私が嫌いになってしまったんじゃないか?
健は、結局何も話さず行ってしまった。もしかしたら、その内容は、もう私のことなど好きでも何ともないから、俺が言ったことは全て忘れてください、という内容なのではないか。
悶々とした思いを抱いたまま、健がいなくなった道を見つめていた。
「……買い物しに行かなきゃ」
買い物を済ませ、健の家に戻って夕食の支度をしている時も、一緒に食卓を囲んでいる時も、健と目が合うことは一度もなかった。
表面上は、普段通りに見えているだろうが、私にはそうは見えない。明らかに私を避けているのだ。
「美子ちゃん、お正月。みんなで初詣に行かない?」
お父さんの提案に、私よりも先に甲斐と桂が賛成の声を上げた。
「いいですよ」
その時までに、健が機嫌を直してくれるといい。今の健では、私の気持ちを伝えることは難しい。
それから、健が言い掛けた言葉が、その時の表情が気になっていた。
食事後、食器を洗っているときにお父さんが顔を出した。
「美子ちゃん。気持ちは伝えられた?」
「いえ、まだ」
次々に食器を洗う手を緩めることなく、答えた。
「なんかあった?」
「うーん、私もよく分からなくって。なんか、建。怒ってるみたいで、私のこと避けてるんで、伝えるに伝えられないんです。それになにか、深刻そうに話があるって。でも、邪魔が入って結局聞けずじまいでした。お父さん、何か知ってます?」
ああ、と合点がいったという風にお父さんは声を上げた。けれど、私の質問には答えてくれる様子もなく、肩をポンポンと叩いてキッチンを出て行った。
結局、健が何に怒っているのか、何を話そうとしていたのかも分からずじまい、健には避けられている状態のまま年を越すこととなった。