第17話
その翌日、私は弟二人を連れて健の家を訪れた。
健の家を訪れたのは、午前中だ。お父さんが、是非とも午前中に来て、時間いっぱい話をしようと半ば強引に誘うからだ。それが私だけなら、さらっと無視して午後に伺うのだが、わざと弟二人の前で言うものだから、二人が朝からまだ行かないのかと騒いで大変だった。
昨日は、あのあとみっちりと大掃除をしたのだから、今日くらいゆっくりと休んでいたかった。
甲斐が私を起こしたのは朝の5時、まだ朝日すら登っていない暗くて寒い早朝のことだった。
「美子。甲斐君、桂君いらっしゃい」
健は朝から恐ろしく爽やかだった。
きっとお父さんが帰って来たことが嬉しいんだろうな。そう思ったら、微笑ましかった。
「おはよう、健。こんなに朝早くにお邪魔しちゃって大丈夫だった?」
「勿論、大丈夫ですよ。父と二人で待っていたんです」
今日の健は、とてもご機嫌だ。
健に促されて、奥に入っていくと、ソファに腰掛けていたお父さんが立ち上がり、大袈裟に(アメリカでは、これが普通なんだろう)出迎えてくれた。
健がキッチンに入っていくのを見て、私もその後を追った。
「健。私も手伝うよ」
「美子。ありがとうございます。でも、今日はお客様ですから」
「でも、この家のキッチンは、私の方が詳しいでしょ? ティーポットがどこにあるか分かるの?」
健は、戸惑いを見せながらもティーポットを探した。が、普段キッチンに入らない健にはどこに何があるのか分からないのだ。普段健が飲むのは、ミネラルウォーターであり、ティーポットが存在していることすら知らないだろう。
「ほら、ね?」
「……お願いします」
私は満足気に頷くと、主導権を握った。いくら他人の家のキッチンだと言っても、日常的にここを使用しているのは私であり、ここの主は私なのだ。
「お父さんは何が好き?」
「コーヒーより紅茶派かな」
「じゃあ、私とお父さんは紅茶にしよう。甲斐と桂はジュースで、健はミネラルウォーターでいい?」
「はい」
「そこの棚からティーカップとグラスを出してくれる?」
健は従順に私の指示に従ってくれる。動きも無駄がなく、優雅だ。
二人とも、手を動かしているので、沈黙している。だが、健といると会話がなくても、安心していられる。気まずい雰囲気になることがないのだ。
リビングから弟たちの楽しそうな声と、お父さんの大きな笑い声が聞こえる。
「楽しそうだね?」
「はい。良かったです」
「健ってお父さんが大好きなんだね? 今日はすごく機嫌がいいもん」
健が機嫌がいいときはわかりやすい。常に笑顔の健であるが、通常が微笑であるなら、今はもうニッコニコ。
「父のことは勿論好きですが、俺が機嫌がいいのは、父が美子をほめてくれたことです。それから、応援してくれると言ってくれたんです。それが何よりも嬉しかったんです」
「そうなんだ。お父さんは何て?」
「可愛いらしいお嬢さんだと。面倒見はいいし、素直だし、何より笑顔がいいと」
昨日、ホンの少しだけ会話しただけだし、恨み言も言い募った。それに、お父さんに笑顔なんて向けた覚えがない。
もしかして、本心じゃないのでは……。
「そうなんだ」
「好きな人を認めて貰えるのは、特に父が認めてくれたことが嬉しかったです」
どう答えていいものか分からず、曖昧に頷いた。
「美子……」
私は丁度ティーポットにお湯を注いでいるところだった。
「……好きです」
「ぅわっち」
手元が狂ってまともにお湯が手に掛かってしまった。
健はしょっちゅう、想いを告げてくるから、ある程度慣れたつもりでいる。けれど、いつもより低い声で耳元で囁かれたら、動揺してしまうのも無理はない。
「美子っ」
健は、私が持っていたヤカンを素早く取り上げ、コンロの上に戻すと、腕を捕まれ水道の水の下に手をかざす。
「痛くないですか?」
至近距離で覗き込まれ、咄嗟に視線を逸らしてしまった。
今まで、ずっと隣にいたのに、健をまともに見たことがなかった気がする。
健の瞳がこんなに綺麗だったのを(健の瞳は青みがかかっていた)知らなかった。まつ毛がこんなに長かったことを。肌がこんなに極め細やかだったことを。私は知っているつもりでいて、全く知らなかったのだ。
一瞬でそこまで観察して、視線を逸らした。
美しい人を前にして、私は目が合わせられなくなった。
「大丈夫だから、放してくれると助かる」
「あっ、すみません。イヤでしたよね」
「違くてっ。はっ、恥ずかしいからっ。ち、近いしっ」
健がパッと手を放した。
私は健を確実に意識していた。昨日まではなかった不思議な感覚に自分自身が一番戸惑っていた。
「健が悪いっ。突然、あんなこと言うからっ」
「すみません。迷惑でしたね。どうしても、気持ちが抑えられなくなってしまったんです。迷惑ならもう言いません」
「迷惑……じゃない。迷惑なんて、思ってない。私は……」
私は……?
ハッとして両手で口を塞いだ。
「私っ、帰る」
キッチンを掛け出て、リビングでバッグを掴むと胸に抱いた。
「すみませんっ。用事を思い出してしまって。夕方、迎えに来ますので、弟たちのことよろしくお願いしますっ」
バッと頭を下げると、顔を見ずに走り去った。
健の声だけが私の耳に届いた。だが、振り返るわけにはいかなかった。振り返れなかった。
私は泣いていたのだ。自分でもわけが分からず、涙がこぼれていた。こんな顔を見せるわけにはいかなかった。
エレベーターに乗り込み、一階まで降りてマンションの外へ出た。
その時初めて、上着を健の家に忘れてしまったことに気付いた。取りに行きたくても、とてもじゃないが今は無理だ。家にも戻れない。私の様子を敏感によむ、麻子と両親がいる。特に両親が私を見たら、根掘り葉掘り聞かれるに決まっている。それに今日あたり留衣兄が帰って来ているかもしれない。
私は上着を着ずに、薄着のまま歩き続けた。
近くの公園に足を踏みいれ、ブランコに腰を下ろす。
足元は、霜が太陽に溶かされてドロドロになっている。
年末の公園には、人の姿は見えない。淋しい感じの公園は、私を受け入れてはくれない。
私はあの時、言葉にしようとしていた。自分ですら気付いていなかった気持ちを。その言葉が私の気持ちであることを私は否定できない。疑いはするが、否定は出来ない。それが真実だと私が知っているからだ。
自分の急激な変化に頭が追い付かない。
一体なにがきっかけなのか、いまいち掴めない。とにかく突然なのだ。突然、心が動いた。突然、心がふるえた。突然、心が泣いた。突然、気付いた。
私は……健が好きだ。
健が大好きなんだ。
「好き……」
口からこぼれた私の気持ちに、胸が締め付けられた。感情が変だった。感じたことのない想いに身震いした。
「好き……なんだ」
気付いたとたんに想いが溢れだした。
止まらない胸の苦しみに胸元を強く掴んだ。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
この作品は、当初30話程度といっていましたが、そこまで長くならず、来週あたりで完結する予定でいます。
最後まで、お付き合い頂けると嬉しいです。