第12話
非難のまなざしと驚きのまなざしを一身に受けて、私は走った。
私は逃げ出したのだ、あの場から。
自分がしでかしたことから、健の疑問に満ちたまなざしから、自分の気持ちから逃げ出したのだ。
……キスをしてしまった。
私から健にくちづけてしまった。
健に、キスは好きな人同士でするものだと一丁前に説教した私がだ。
太陽の光が私を責めるように強く差し付けていた。
「最低だ、……私」
誰にも聞こえない、僅かな声でそう呟いた。
目についたベンチに倒れるように腰を下ろすと、頭を抱えた。
方向も何も考えず、ただひたすら走ってきた。
気付けば全く足を踏み入れたことのない小さな公園だった。
遊具もないただの広場。子供がサッカーをして遊ぶにはいいかもしれないと思うも、フェンスに球技禁止と書かれた看板がかけられている。手書きの看板だった。それじゃ一体ここで何をして遊ぶのか?
縄跳びや鬼ごっこ、缶けり。昔の遊びを子供にさせたいと作った広場ならば、その計画は失敗のようだ。 日曜日だというのに、公園内で遊ぶ子供はいなかった。
誰もいないその公園はあまりに静かだった。
考えなきゃいけないことも、考えるにふさわしい環境もあるのに、頭は正常には動いてはくれなかった。
混乱して正常に動かないという面もあるが、考えることを拒否している部分もあった。もしかしたら後者のほうが大部分をしめているかもしれない。
どのくらいたった頃だろうか、小学生低学年くらいの男の子と女の子数名が公園の中に入ってきた。
私のことをちらりと見たが、気にはなっているものの、私の存在を無視して相談し始めた。
「何する?」
「サッカーしようぜ」
男の子が元気良く言った。
「ボールで遊ぶと怒られるよ。あそこの家のおじいさんが怒鳴り込んでくるんだって。あの看板だってそのおじいさんが付けたんだよ」
どうやらこの公園は元来ボール遊びをするために作られたものらしい。けれど、あまりにボールが飛んでくる。もしかしたらガラスを割られたこともあるのかもしれない。我慢しかねたおじいさんが手書きの看板を取り付けた。ということなのだろう。
「じゃあ、ドッジボールならいいだろう? ドッジボールならボールが飛んでいったりしないよ」
ボール遊びがしたい男の子二人と、おじいさんが怖い女の子三人。双方の意見が真っ向に別れたように見えたが、実際、女の子たちもドッジボールには心を惹かれているようだ。
「ドッジボールなら大丈夫かなぁ?」
「大丈夫だよねぇ?」
「大丈夫じゃない?」
結局ドッジボールをすることになったようだ。
小枝を使い、線をしるして行く。
「ねぇねぇ、ドッジボール、私も入れてくれないかな?」
私に突然声をかけられた小学生たちは、明らかに警戒心丸出しで私を見ている。
知らない人から話しかけられても相手にしちゃ駄目、と教え込まれているのだろう、彼らは私を値踏みするように見ている。子供とは思えない目付きで。
「お姉さん。怪しい奴か? 俺たちを誘拐する悪い奴なのか?」
「ははっ。違うよ。私はただ一緒に遊びたいなって思っただけなんだ。駄目かな?」
五人がそれぞれに視線を交わし、相手の意見を求めている。意見の押し合いともとれる。
「ドッジボール出来るのか?」
「もちろんっ」
「なら入れてやる。だけど、変なことしたら警察に捕まえてもらうからな」
男の子は、男の子なりに女の子を守ろうとしている。その姿が微笑ましかった。
「うん。分かった」
いざ遊び始めてしまえば、私に心を開いてくれたのは男の子のほうが早かった。女の子のほうが警戒心が強い。
「お姉さんは大人なんだからハンデとして左手投げな」
ドッジボールに関して言えば、普段甲斐や桂たちと近所のわんぱくたちを交えて遊ぶことが多々あるため、手加減の仕方も心得ている。
「オッケー」
三対三に別れてなんどかやって行くうちに男の子だけでなく、女の子たちも私という存在に馴染んで来てくれた。
私が子供達に交じってドッジボールに参加しようとしたのは、難しいことを一切考えたくなかったからだ。難しい問題に差し迫った時、体を動かして汗を流すと、その後思いもよらない考えが浮かんできたりする。
実際体を動かして答えを導き出そうとしているわけではないが、ただ、無性に体が動かしたかった。そこにつけ、彼らはとても都合が良かった。
私のことを知らず、私の元の表情を知らないから、どんなに変な表情をしていても何も聞いては来ない。
今の私にとっては、この見知らぬ子供たちと過ごす一時はとてもありがたいものだった。
「……美子。美子っ」
聞きなれた声に、私は体がこわばり、その隙にボールを当てられた。
「あの人、お姉さんの知ってる人?」
「……うん」
血相変えてはあはあと肩で息をしている姿は、健らしからぬ姿だった。
そんなに走って、倒れてしまったらどうするの。
「みんな、ごめんね。もう、抜けるね」
健の登場により、夢の世界から現実の世界へと引き戻されたような気がした。
「健っ」
私が健の前に立つと、私の肩に手を置いて、その後堪りかねたように腕の中に私をおさめた。
「私のこと、探したの? 走って来たの? 倒れたらどうすんのよ」
「俺は倒れません。美子が俺の前から消えるのがいけないんです。探したんですよ、ずっと」
健の胸の鼓動は、恐ろしく速かったが、それと反比例するように声は穏やかだった。もう、息の乱れもなかった。
「探して欲しくなかった……のに」
「美子はずるいですね。俺にあんなことして逃げるんですか? 理由も聞かせずに逃げるんですか?」
それだけ言うと、健の腕から力が抜けて、体がずっしりと私の体へもたれかかって来た。
健の体が限界を超え、倒れてしまったのだ。
私は、健をおぶると先ほど座っていたベンチまで運んだ。
「お姉さん、この人どうしちゃったの? 具合でも悪いの?」
「うん。ちょっといっぱい走って具合悪くなっちゃったみたいだけど、ここで少し休憩していれば大丈夫になるよ」
私たちの様子を見にきた五人は、健の顔を見てびっくりしていた。
「わぁ、奇麗な人だね。お姉さん、この人男の人なの?」
「そうだよ。女の人みたいに奇麗だけど、男の人なんだよ」
女の子たちは初めて見る奇麗な男の人に釘付けだった。
「ねぇねぇ、この人は。お姉さんの彼氏なの?」
「うーん。どうかな、お姉さんにもよく分からないんだ」
この質問にはさすがに驚いた。
兄弟に、甲斐と桂という小学生の男の子がいるのだが、二人は恋愛関係に疎いのか、それとも小学生男子というものは大概そんなものなのかは分からないが、好きな子がいるなんて一度も聞いたことがない。
その女の子たちは恐らく桂と同学年くらいだと思うのだが、もうすでに好きな子がいるんだそうだ。
クラスの女の子の中には、彼氏がいる子もいるとかいないとか。
子供たちは、気を失っている健に気を使ったのか、ここでボール遊びをするのはやめてどこかへ行ってしまった。
健をベンチに横たわらせ、頭を私の膝に乗せた。
ついこの間もこんな感じで健を膝に乗せていた。あの時と違うのは、あの日は遊園地だったので、人が
行きかっていたということもっと気温が高かったこと。
今日の寒さでこんなところに寝かせておくわけにはいかないのだが、ここがどこなのか私には判断しかねた。観念して自分の上着を脱ぐと健の上に乗せた。
上着を脱いだにかかわらずちっとも寒くなかった。健の体温が膝から感じられるからか、それともまた別の理由かは不明だが。