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第11話

 私は気付いてしまったのだ。私が坂田先生を好きなわけじゃないことを。

 私は、先生の後ろ姿が見えなくなったのと同時に我に返り、たった今、先生に注意されたばかりだというのに、再び走りだした。

 私の頭の中は混乱していた。

 私の先生に対する気持ちは、幻ではなかったはずだ。なのに、なぜ……。

「ちょっとちょっと。あんたどうしたんだよ?」

 私は、誰かの細い腕に捕まれて、引き戻され危うく倒れそうになった。

「先輩……」

 私の腕を引き止めたのは、横山先輩だった。今日は一人だった。

「どうした? あんた、変な顔してるよ」

 先輩の顔を見たとき、私は何故か涙が零れてきそうになった。

 自分でも、何にこんなに慌てているのか分かっていなかった。

「とりあえずこっちきな」

「でも、先輩。五時間目始まっちゃう」

「馬鹿。そんな顔で教室に行くの?」

 答えに詰まっていると、腕を引かれ、連れていかれたのは屋上へと続く階段の中ほど。

 先輩に促され、階段に腰を下ろした。

「それで、どうしたんだよ?」

「私……。よく分からなくって。私、好きな人がいて。その人のこと好きだと思っていたのに、だけど、全然っ、……ドキドキしなかった」

「そんなの簡単だよ。その人のことが本当には、好きじゃなかったってことだよ」

 先輩の声がこれまでにないくらいに優しくて、その声に少しずつ心のざわめきが静まって行くのを感じた。

「でも……」

「あのねぇ、確かにその人のことが好きだって感じたのかもしれないよ。だけど、それよりも大きな好きが現れることだってあるんだ」

「私別に他に好きな人いるわけじゃない」

「そうかもしれない。だけど、気持ちが自然になくなることなんて、よくあることだよ。私もね、森田君が好きだと思ってたよ。だけど、あんたの隣で嬉しそうな彼を見てたら、あんたに嫉妬するどころか、応援したくなった。森田君が幸せになってくれたらって思ったんじゃないよ。あたしはね、自分の気持ちよりもあんたが幸せになってくれたらって思ったんだよ」

「なんで、私?」

「……自分の恋心よりあんたの方が大事なんだよ。そう思っちゃったんだから、仕方ないだろっ」

 驚いて先輩を見ると、茹で上がった蟹のように真っ赤だった。

「先輩……、私のこと愛しちゃったの?」

「馬鹿ッ。変な風に言うな。あたしはただ、あんたを妹みたいに思ってるだけだ。あんたが、今日は敬語を使わないのも嬉しい」

 つい心が動揺していたから、気付かなかった。

「あっ、ごめんなさい」

「馬鹿ッ。敬語は堅苦しくて嫌いだ。タメ語でいいんだよ」

「うん。……先輩?」

「ん?」

「私、その人のこと好きじゃなくて良かったかも」

「なんで?」

「だって、先生だったから……。どうせ叶わない想いだったから」

 そうだ。私は、先生を好きでいてもきっと何もせずに、遅かれ早かれ終わっていただろう。

「そうか」

「うん」

 先輩は、私の好きな人が先生だと聞いても驚かなかった。それがなんだか無性に嬉しかった。

 先輩がいてくれて良かった。こんな風に話を聞いてくれたことがただただ嬉しい。

「あんたさ、その人のこと好きじゃなかったんなら、森田君のこと考えてみたら?」

「健はっ、森田君はお友達なんだって。どうしてみんな私と森田君をくっ付けたがるんだろ」

 和歌といい、亜子ちゃん(はっきりそう言われたわけじゃないが)といい、先輩といい、なんだって口をそろえて健の名前を出すんだろう。

 私に健を意識させるために、わざとそうしているように思える。

 そうされればされるほど、みんなの思うどおりになってたまるかって意固地になってしまう部分がある。

「第三者として見ているとね、応援したくなっちゃうんだよ。あんたたちって……まあ、いいや」

 先輩が何かを言おうとして止めてしまった。そうされると、ものすごく気になるものだ。

「何で言い掛けて止めるの先輩。気になる」

 先輩はケタケタと笑うばかりで、教えてくれはしない。

 大抵こんなふうに言うのを止めてしまったことがらについて口を開くことは少ない。

「もう、いいや。じゃあ、私、もう行きます」

 すたっと立ち上がると、とんとんと階段を数段降りたあと、振り返り、

「ありがとね、先輩っ」

 素早く言って階段を一気にかけ降りた。

 きっと振り返ったら先輩の真っ赤な顔が見えるかもしれない。そうしなかったのは、私のほうがきっともっと赤い顔をしていると思ったからだ。


 体の丈夫じゃない健とのデートは、美術館デートにした。

 本当は、映画デート(映画なら座っていられるから)にしようとしたが、なぜかそれはイヤだと健が言った。

 美術館なら人で混雑することもなく、座る場所が所々に設けられているので、倒れる前に休憩すればなんとかなるだろう。

「健は、絵を見るのが好き?」

「はい。自分ではこんなふうに描けないので、見ると圧倒されます」

 美術館には、日曜日であるにもかかわらず、人がまばらだった。外には立派な太陽があるので、みなそちらに惹かれて行ってしまったのかもしれない。

「健は美術館とかよく来たりする?」

「わりとよく来るほうだと思います。美子は?」

「私は、ほら兄弟がいるから」

 甲斐と桂を連れて美術館など来た日には、周囲の顰蹙の目を浴び続けることになる。

 子供にとって美術館は、退屈する場所でしかないのだ。

 かといって一人で行くのは、なんとなく悪いような気がする。

「そうですか」

「だから、今日は久しぶりの美術館だから嬉しいよ」

 美術館は好き。

 静かなこの空間も、独特の雰囲気も、妙に靴音が響くところも、ゆっくりと流れるように刻まれる時間も。

 だから、私は今日はしゃいでいた。あまりそうは見えていないだろうが。

「綺麗だねぇ」

 私がその絵の前に引き込まれるようにたったのは、その光に惹かれたからだ。

 海の中から見る太陽の光がぼんやりとゆれているように見える、そんな絵だった。

 海の中の生物から見た光。種類によっては、一度も陽光を浴びることはないものもいる。イルカやクジラ、一部の魚達は海面に顔を出すことがあるが、一生を水の中だけで過ごすものもいるのだ。

 それらの光に対する憧れのような気持ちが感じられた。

「健。これは、誰の目線から見た光だと思う?」

「父親から海の外を覗くことを禁じられた人魚姫でしょうか?」

 驚いた。

 全く同じことを私も考えていた。

「ふふっ。私もそう思った。気が合うね?」

「そうですね」

 そう言って微笑んだ健の顔が、男に見えた。

 どうして今まで姫に見えたのか不思議に思うほどに男だった。

「どうしました?」

 私は、健の顔を凝視していた。

 目を離すことが出来なかった。その、優しい男を感じる健の目を。

 私はこの時、酔っていたのかもしれない。何にと言われれば、美術館というゆったりと流れる空間とその絵が醸し出す雰囲気、そして、建の男を感じさせる目に。この後の自分の行動が、自分のみならず健のことすら驚かせることになるとも知らずに。

 私はただ、健の目を見つめていた。

「美子。そんな目で見られたら、キスしたくなります」

 私は、ちょっと背伸びをして、唇を押しつけた。

 海の中でゆれる陽光の絵の前で、二人は二度目のキスをした。


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