第9話
私が玄関先でチャイムを鳴らすと、姫はわりとすぐにドアを開いた。
「美子。こんにちは」
いつもの時間よりは早い訪問であるのだが、姫には私だと分かっていたようだ。
「私だって分かってたの?」
「はい。何故か、美子が鳴らすチャイムは他とは違って聞こえます」
なんと妙な能力を持っているんでしょうか。あまり役には立たなそうだけど。
「まあ、それはいいとして、今日うち鍋なんだけど、森田君も一緒にどうかな? あのね、今日は先輩たちも遊びに来てんだ」
「楽しそうですね。俺も行ってもいいんですか?」
目を細めて嬉しそうに微笑む姫に、ついつい見惚れてしまいそうだ。
「うん。勿論」
「じゃあ、お邪魔します」
姫と連れ立って我が家へと向かう。姫が家へ来るのは、初めてのことだ。
「あのさ、今日うちのお兄ちゃんが来てるんだけど、何言われても気にしなくていいからね? もう、適当にあしらっちゃっていいから」
私が何を言わんとしているのかが分からない姫は、首を傾げている。
「会えば分かるよ」
「そうですか。極力気にしないようにします」
姫を一目見た留衣兄の反応は、やっぱり激しかった。
「美子ぉっっ。姫って、姫って言ったじゃないかっ。男だなんて俺は聞いてないぞ」
あーあ、これで私が家で姫を姫と呼んでいることがバレてしまったよ。姫、気分悪くするよね? あとで謝らなければ……。
「そうだっけ?」
「そうだっけ? じゃないっ。俺が幼い頃からてじおにかけて育てた可愛い美子が男を……」
わざとらしくはらはらと泣き出した。
「留衣兄に育てられた覚えはないけど? ごめんね、ひ……森田君。騒々しくて。無視してくれていいから」
うっかりと姫と呼びそうになって慌てて訂正したが、恐らく姫にはそれすらバレているだろう。常に笑顔を浮かべているが、内心何を考えているのか、想像すると恐ろしい。
「え、でも泣いてますよ?」
「大丈夫。嘘泣きだから」
「嘘泣きなんかじゃないっ」
がばりと顔を上げた留衣兄の目には涙など浮かんですらいなかった。
「ほら、ね?」
「本当ですね」
顔を見合わせて苦笑いをした。それがまた留衣兄には気に食わないらしく、再び何やらまくし立てていたが、興奮しすぎで何を言っているのかもはや判断できない。
「ああ、もう。留衣兄、うるさいっ。それ以上うるさくするならご飯抜きにするからね」
台所から、お鍋とコンロを持って現れた麻子が、留衣兄を一刀両断する。
しゅんとしょげかえってしまった留衣兄を姫は、気遣わし気に見ている。
放っておいて大丈夫なのに。
こたつの上は、もうすでに片されていて(さっきまでは宿題が広げられていた)、コンロと鍋、野菜、肉など次々と運ばれてくる。
先輩たちは、姫が現われてから極端に大人しくなった。
それは、姫を恋する乙女だからか、それとも留衣兄の勢いに圧倒したからなのか。
長方形の大きなこたつではあるが、さすがに九人もいると狭苦しく感じる。さすがにこれだけの人数を誘ったのは、間違いだったかと後悔し始めた。
私の隣に腰を下ろした姫だったが、私たちの間に無理矢理割り込んできたのは、予想通り留衣兄であった。
「美子、美子。お兄ちゃんによそってくれないか?」
「留衣兄の方が鍋に近いじゃん。むしろ私のによそってよ」
「美子。俺がよそいます。お皿かしてください」
姫が留衣兄が私の皿を受け取る前に、皿を横から取り上げてしまった。
「ありがとう」
姫からしてみれば、留衣兄からよりも自分の方が鍋に近いからという意味で言ってくれ、それを実行したにすぎないのだが、留衣兄は明らかに姫に敵対心を抱いているようだ。
「美子。それ食べおわったら俺に言えよ。次は優しい俺がよそってやるからな? 美子の好物沢山入れてやるから」
留衣兄は、挑戦的な視線を姫に投げ掛ける。
私の好物知っているくらいで、偉そうな顔しなくてもいいと思う。
「美子の好物は何ですか?」
「んーとね、きのこ類と白菜の柔らかいとこ」
「俺も好きです。美味しいですよね?」
たかだか私の好物を知ったくらいで、姫はとても嬉しそうに微笑んだ。ちょっとだけ、留衣兄とかぶるところがあるような気がして笑いそうになった。案外、姫も留衣兄に敵対心を抱いているのかもしれない。
落ち着いて廻りを見てみれば、どうやら三つのグループに分かれているようだ。麻子は、甲斐と桂の世話をしながら食べてる。普段ならその役目は私なのだが、今日は留衣兄と姫に囲まれているので、麻子に全面的にお願いする形になってしまっている。
先輩たち三人は、案外楽しそうに、たまにこちらを見て、私に気の毒そうな視線を送りながら食べている。
そして、私たちはさっきからのこの調子だ。
騒々しいままに終了した食事タイムがようやく終わると、片付けがあるからと、早々に台所に引っ込んだ。
私は二人に散々纏わりつかれて、食事に干渉され、落ち着かず食べた気がしなかった。
「美子。食器洗うの手伝います」
そう言いながら台所に踏み込んできたのは、姫だった。
「留衣兄は?」
「お兄さんは今、先輩たちと楽しくお話し中です」
どういうわけか、先輩たちに捕まった留衣兄。私と姫が仲良く食器洗いに講じても、邪魔をすることはなさそうだ。
「じゃあ、手伝って貰う。私が食器洗ってすすぐから、森田君はそこにある布きんで拭いてくれる?」
姫は私が指さした先に干されていた布きんを取ると、にこりと微笑んだ。
「はい。喜んで」
どこかの居酒屋の掛け声みたいな言葉なのに、何故か姫が言うととっても上品に聞こえるから不思議だ。
「あのさっ、色々ごめんね」
お湯で食器の泡をすすぎながら、目線は食器に向けたままそう言った。
「何がですか?」
「えっと、ほらそれは留衣兄の暴走とか……、あとその……」
「姫ってお家では俺のことを、そう呼んでいることとか?」
ああっ、やっぱり分かってしまっている。いや、そりゃ誰だって分かるだろうけどさ。
でも、姫は怒るどころか笑っていた。
「姫って呼ばれるの、ヤダよね?」
「うーん、そうですね。あまりいい気分はしません。でも、周りで俺がそんな風に呼ばれていることはしっていましたから。ただ、好きな子に姫と呼ばれるのは少し悲しいです。いや、悲しいというよりも自分が不甲斐なく思います」
「不甲斐ない?」
ちょっと意外な言葉が出て来たので、皿から目を外し姫の顔を凝視した。
「はい。姫と言われているのは、きっと俺が色白で体が弱くて頼りないからだと思います。俺はいつも美子に運ばれているばかりで……。もっと強くなって美子を守れるようになりたいです」
そうか、そんな風に考えていたんだ。
私は、姫が貧血起こすのも、姫を保健室に運ぶのももう慣れてしまっていることだから何も感じないが、姫にしてみれば好きな子にいわゆるお姫様だっこをされるのは、結構屈辱的なことだったのだ。
「そっか……。でも、私のことは守ってくれなくても大丈夫だよ。私は、兄弟を守るためっていう確固たる目的があるから、すごく強いんだよ。森田君は知らないだろうけど、腕っ節にも自信があるからね」
格闘技のたしなみがある。兄弟達を守るには、私が強くなければならないのだ。ちなみに、留衣兄も格闘技のたしなみがあり、私なんかより数倍強い。あんなにヘタレっぽいのにね。
「駄目ですよ、美子。美子は女の子なんだから。俺が守れるようになります」