『幼馴染が心配だ』と花嫁を置き去りにしたので、結婚式を中止しました
開式まで、あと十分だった。
花婿の代わりに、小さく折った紙が届いた。
『ロザが熱を出した。幼馴染が心配だ。様子を見てから向かうので、式を遅らせてほしい』
フィリップ様の字だった。
急いだ時には、最後の一文字が横へ流れる。見慣れた癖を指でなぞって、紙を畳んだ。
「どれくらい遅れるそうなの」
母に聞かれ、首を振った。
時刻は書いていなかった。
控室の卓には、白い花を挿した壺と、披露の席で読む挨拶の紙が置いてある。遠くから来てくださった方へのお礼。両親への感謝。彼と築く家庭のこと。
昨日までに何度も書き直した。読む時につかえないよう、息を継ぐ場所に小さな点まで打っていた。
私はその紙を裏返した。
「セリーヌ」
母が私の肩に手を置いた。
鏡の中で、二人ともよそ行きの服を着ていた。母の襟には、私が選んだ飾り留めがある。今朝、似合うと言うと、母は花嫁より目立たないかしらと笑った。
まだ、ほんの少し前のことだった。
「鐘が鳴るまで、待ちます」
いつもなら、もっと長く待った。
去年、彼と初めて観に行くはずだった歌劇では、休憩の時刻まで隣の席を空けていた。ロザ様が家族と喧嘩をして、泣いていたのだという。後日そう聞いて、私は演目の話をしなかった。彼が、観られなかったことを気にしないように。
春には、二人で結婚指輪の寸法を測る約束をした。職人の店を閉める頃、彼はようやく来た。具合の悪いロザ様を家まで送っていたのだと言った。
もう遅いので私だけ測ってもらいました、と答えた。
店の扉を開けたまま、職人が待っていた。
帰り道で彼は謝った。
私の歩調に合わせ、次は必ず一緒に選ぼうと言った。
その時、嬉しかったのも本当だった。
「司祭様は、何と?」
「お父様がお話ししているわ。婚姻簿はまだ白紙よ。あなたたちも、証人も署名していないもの」
母の手は、肩に置かれたままだった。
「おやめになるなら、私も一緒に出ます」
白い手袋の指先だけが冷たかった。
窓の下から、馬車を誘導する声が聞こえた。お客様はまだ増えている。席を確かめる人がいて、花を直す人がいて、誰もが式を始めるために働いていた。
「紙を、もう一枚いただけますか」
頼んでから、卓の上へ目を落とした。
裏返した紙には、一行も書いていない。
「……いいえ。これを使います」
◇
伝言を運んできた従者は、まだ馬車寄せにいた。
呼び戻してもらうと、彼は控室の入口で深く頭を下げた。新しい礼服の肩が、息に合わせて上下していた。
「ロザ様のお加減は」
「明け方にお熱が出たそうです。私どもが伺った時には、医師がおいででした」
「今も?」
「いえ。診察を終えてお帰りになりました。薬でお熱も下がり、落ち着いておられます」
母が私を見た。
私は従者の言葉を待った。
「フィリップ様は、何時にこちらへ出発なさいますか」
従者は口を開きかけ、閉じた。
私は尋ね直さなかった。しばらくして、彼が声を低くした。
「昼食を召し上がるまで、付き添うと」
式は正午からだ。私は時計を見た。
聞き間違いではないことを、確かめたかった。
「ロザ様が、ご自分で食べられるかを見届けるそうです。お家の方も使用人もいらっしゃいますが、お帰りになると聞いて、ロザ様が心細がられまして」
従者はそこで言葉を切った。
まだ続きがあるようだった。
「伺ってもいいですか」
「……若様は、セリーヌ様なら分かってくださると」
鏡に映った肩が、少し下がった。
私は背筋を伸ばした。
お熱が下がったのはよかった。それを疑う理由はない。心細い時にそばにいてほしいと思うことも、私には分かる。
私も、来てほしかった。
今、この部屋に。
「教えてくださって、ありがとう」
従者を下がらせると、入れ替わりに父が来た。司祭様も一緒だった。
父はいつもより静かな声で、迎えの馬車を出そうかと言った。
「私から使いをやれば、さすがに戻るだろう」
そうかもしれない。
父が言えば。彼のお父様が言えば。お客様をこれ以上待たせてはいけないと、誰かが教えれば。
戻ってきた彼は謝るだろう。私の手を取り、待たせてすまなかったと、今度もきちんと言う。
そして、結婚はできる。
私は腰を下ろした。
ドレスの裾が椅子の脚に引っかかり、母がそっと外してくれた。
「お父様。お式に、いくらかかりましたか」
父はすぐには答えなかった。
「花も、料理も、皆様の馬車も。今やめたら、戻りませんね」
「戻らないものは多いな」
父は、そんなことは気にするなとは言わなかった。
私は頷いた。
ドレスの仮縫いに母と通ったことも、招待状を並べた夜も、なくなりはしない。明日からは、この式をやめた娘として人に会う。今日だけを我慢する方が、ずっと簡単だった。
「迎えは、出さないでください」
母の指が、裾の上で止まった。
「戻っていただいても、結婚しません」
声は小さかった。聞き返されたら、もう一度言うつもりだった。
父は頷き、司祭様へ向き直った。
私は手袋を外した。ペンを持つと、指がうまく曲がらなかった。
紙の裏に、本日は、と書く。
その先を考えているうちに、鐘が鳴った。
◇
礼拝堂の扉は、予定どおりに開いた。
楽奏はなかった。
私と母が並んで出ると、立ち上がりかけた人たちが動きを止めた。
長椅子の間の通路を歩いた。
靴はこの日のために馴染ませていた。裾を踏まない歩幅も、繰り返し練習した。おかげで、祭壇の手前まで転ばずに行けた。
父はフィリップ様のお父様を連れて、そこで待っていた。
私はお客様の方へ向き直った。
「本日は、お越しいただき、ありがとうございます」
声が天井へ届いて戻ってきた。
こんなに大きな部屋だったのかと思った。
「予定しておりました結婚式は、中止いたします」
後ろの席で、誰かが息を呑んだ。
私は紙の折り目を押さえた。
「フィリップ様は、ご自身の判断で、別の方への付き添いを続けておられます。私は、本日ここで、結婚を――」
声が止まった。
母の腕が隣にあった。肘を取ろうかと迷い、やめた。
息を吸い直す。
「結婚を、取りやめると決めました。皆様に無駄なお支度とご足労をおかけしましたこと、お詫びいたします」
頭を下げた。
持っている紙が傾き、表の文字が目に入った。
末永く、という一語だけが読めた。
「お日取りは、改めてお知らせを?」
顔を上げると、父の古い友人がこちらを見ていた。
聞いてくれて、ありがたかった。私はまだ、一番肝心なことを言えていない。
「いいえ。この方とは、結婚いたしません」
今度はつかえずに言えた。
司祭様が進み出て、用意した食事は隣の会館で召し上がれること、帰りの馬車が整うまでそちらで休んでいただきたいことを伝えた。
人が立ち上がった。
こちらを見て小声で話す人も、何も言わず礼をしてくれる人もいた。
誰の顔も、ずっとは見ていられなかった。
通路を戻る時、幼い頃から知っている夫人が手を差し出した。
両手で包まれた。
「お寒いでしょう。上着をお借りになって」
頷いたら、涙が出た。
泣くつもりはなかったので、拭くものを用意していなかった。母から受け取ったハンカチを目に当て、そのまま控室へ入った。
フィリップ様が戻ったのは、一時間近く経ってからだった。
会館ではまだ、お客様が馬車を待っていた。
私たちは司祭様の執務室に移り、両家の代表と婚約解消の届けを作っていたところだった。
「なぜ皆が帰っているんだ」
戸口で彼が言った。
襟元には、私の花束と揃いの小花が留まっていた。
「伝言は届かなかったのか。少し遅らせれば済むだろう」
フィリップ様のお父様が立ち上がった。
「お前が戻らない間に、セリーヌ嬢が式の中止を伝えてくださった。私からも皆様にお詫びした」
「中止?」
彼は初めて、私を見た。
私は借りた上着を肩に掛け、ヴェールを外していた。花束も持っていなかった。
「セリーヌ。そこまで怒っているとは思わなかった」
いつもの声だった。
困らせてしまった相手を、宥めようとする声。
「ロザが食事を取るまで待ったんだ。ようやく眠ったから、急いで来た。待たせて悪かったよ」
彼は私の隣の椅子を引いた。
「埋め合わせはする。旅行を長くしてもいいし、君が行きたいと言っていた店にも――」
「座らなくて結構です」
椅子を持つ手が止まった。
父も母も、私の返事を待っていた。
「式のやり直しの相談ではありません。婚約を解消してください」
フィリップ様は卓の紙を見下ろした。
挙式を取りやめた理由と、両家の名が書かれていた。
「待ってくれ。僕は君と結婚するために来たんだ」
「私は、結婚しないとお伝えするために待っていました」
椅子が床を擦った。
彼は私の正面へ回った。私も顔を上げた。
「病人を放っておけと言うのか」
「いいえ」
「なら、どうすればよかったんだ。ロザは昔からの友達だ。心細いと言われて、見捨てられるわけがない」
喉の奥が痛んだ。
私は上着の端を握った。借りた布地に皺がつくのが気になって、手を離した。
「私も、心細かったです」
彼の口が閉じた。
「ここへ来てほしかった」
控室でなら、泣いて言えたかもしれない。
今はもう、お客様を帰して、解消の届けが目の前にある。彼がどんな返事をしても、今日の午前には戻れない。
「……そうだったのか。言ってくれれば」
彼は卓の縁に手を置いた。
「君はいつも、大丈夫だと言うから。今日はずっと待っているのも退屈だろうと思って、早めに伝言も送った。これからは、君にもちゃんと聞くよ」
私は頷きかけた。
聞いてくれるなら、と思う癖が、まだ残っていた。
「次は、こんなことにならないようにする。約束する」
歌劇の切符は捨てた。
寸法を測った指輪は、今日、交換するはずだった。
どちらの日にも、次があると思って帰った。
「次の式は、挙げません」
彼の手が、卓から離れた。
「婚約を、解消してください」
同じことしか言えなかった。
父が私の横に来た。
「ベルネ家も同意する。費用については、事前に取り決めた両家の負担で精算しよう」
彼のお父様が頷き、私へ頭を下げた。
息子の不在の間に謝罪し、私の話も聞いてくださっていた。その方にまで頭を下げさせるのがつらくて、私は何か言おうとした。
「お立ちください」と司祭様が私に言った。
求められたのは、最後の意思の確認だった。
私は立って、婚約の解消を望みます、と答えた。
「セリーヌ。本当に、もう?」
彼の声が、初めて小さくなった。
「はい」
それだけ答えた。
彼は父親からペンを受け取った。しばらく紙を見つめ、署名する場所を司祭様に尋ねた。
教えられた欄に書いた彼の名は、よく知っている字だった。
私も署名した。
普段より少し大きな字になった。
◇
夕方までに、両家の精算は済んだ。
フィリップ様の家は、取り決めどおり式と披露の費用の半分を支払った。私の家も半分を払った。招待客が全員召し上がったわけではない料理にも、使わなかった飾りにも、代金はかかった。
母は受け取った勘定書を畳み、持ち帰る荷物へ入れた。
私たちが馬車へ向かう時、まだ彼は会館にいた。
遠方から来た親戚へ、説明をしていた。
「彼女が、少し待っていてくれれば」
そこまで聞こえた。
相手は父の従兄だった。彼の言葉を遮ることはせず、最後まで聞いてから答えた。
「待っていた花嫁の挨拶は、私も聞いたよ」
フィリップ様はこちらを見た。
私は一礼し、母に続いて馬車へ乗った。
屋敷では、式の間に運ばれるはずだった私の荷箱が、玄関に並んでいた。
自分の部屋へ戻してもらった。
見慣れた寝台があり、窓辺には昨日脱いだ室内履きが揃えてあった。
私はようやく、髪の留め具を外してもらった。
一本抜くたび、頭が軽くなった。
その夜、彼から小箱が届いた。
中には真珠の耳飾りと、明日二人だけで話そうと書いた手紙があった。耳飾りは旅行先で渡すつもりだったという。
綺麗だった。
耳に当ててみることはしなかった。
『婚約は解消いたしました。明日はお会いしません』
返事を書いて、小箱と一緒に従者へ渡した。
それから父に、もし訪ねてこられても通さないでほしいと頼んだ。
父は、分かった、と答えた。
翌朝は、いつもより遅く目が覚めた。
食堂へ行くと、母が既に座っていた。私の顔を見て、何か言いかけ、代わりに椅子を引いてくれた。
「眠れた?」
「少し」
卵料理が運ばれてきた。
皿の縁に溶けたチーズがついていた。料理人は、これが焼きたてでないと固くなるのを、いつも気にしていた。
私は窓の方へ顔を向けかけた。
馬車の音を聞く必要は、もうなかった。
この先、誰に何を言われるのかは分からない。今日、屋敷から出る元気もなかった。
母にそう言うと、家にいればいいわ、と返ってきた。
私は頷き、フォークを取った。
柔らかな卵を切ると、中から湯気が上がった。
時計を見ずに、一口目を食べた。




