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『幼馴染が心配だ』と花嫁を置き去りにしたので、結婚式を中止しました

掲載日:2026/10/12

 開式まで、あと十分だった。

 花婿の代わりに、小さく折った紙が届いた。


『ロザが熱を出した。幼馴染が心配だ。様子を見てから向かうので、式を遅らせてほしい』


 フィリップ様の字だった。

 急いだ時には、最後の一文字が横へ流れる。見慣れた癖を指でなぞって、紙を畳んだ。


「どれくらい遅れるそうなの」


 母に聞かれ、首を振った。

 時刻は書いていなかった。


 控室の卓には、白い花を挿した壺と、披露の席で読む挨拶の紙が置いてある。遠くから来てくださった方へのお礼。両親への感謝。彼と築く家庭のこと。

 昨日までに何度も書き直した。読む時につかえないよう、息を継ぐ場所に小さな点まで打っていた。

 私はその紙を裏返した。


「セリーヌ」


 母が私の肩に手を置いた。

 鏡の中で、二人ともよそ行きの服を着ていた。母の襟には、私が選んだ飾り留めがある。今朝、似合うと言うと、母は花嫁より目立たないかしらと笑った。

 まだ、ほんの少し前のことだった。


「鐘が鳴るまで、待ちます」


 いつもなら、もっと長く待った。


 去年、彼と初めて観に行くはずだった歌劇では、休憩の時刻まで隣の席を空けていた。ロザ様が家族と喧嘩をして、泣いていたのだという。後日そう聞いて、私は演目の話をしなかった。彼が、観られなかったことを気にしないように。

 春には、二人で結婚指輪の寸法を測る約束をした。職人の店を閉める頃、彼はようやく来た。具合の悪いロザ様を家まで送っていたのだと言った。

 もう遅いので私だけ測ってもらいました、と答えた。

 店の扉を開けたまま、職人が待っていた。


 帰り道で彼は謝った。

 私の歩調に合わせ、次は必ず一緒に選ぼうと言った。

 その時、嬉しかったのも本当だった。


「司祭様は、何と?」

「お父様がお話ししているわ。婚姻簿はまだ白紙よ。あなたたちも、証人も署名していないもの」


 母の手は、肩に置かれたままだった。


「おやめになるなら、私も一緒に出ます」


 白い手袋の指先だけが冷たかった。

 窓の下から、馬車を誘導する声が聞こえた。お客様はまだ増えている。席を確かめる人がいて、花を直す人がいて、誰もが式を始めるために働いていた。


「紙を、もう一枚いただけますか」


 頼んでから、卓の上へ目を落とした。

 裏返した紙には、一行も書いていない。


「……いいえ。これを使います」


 ◇


 伝言を運んできた従者は、まだ馬車寄せにいた。

 呼び戻してもらうと、彼は控室の入口で深く頭を下げた。新しい礼服の肩が、息に合わせて上下していた。


「ロザ様のお加減は」

「明け方にお熱が出たそうです。私どもが伺った時には、医師がおいででした」

「今も?」

「いえ。診察を終えてお帰りになりました。薬でお熱も下がり、落ち着いておられます」


 母が私を見た。

 私は従者の言葉を待った。


「フィリップ様は、何時にこちらへ出発なさいますか」


 従者は口を開きかけ、閉じた。

 私は尋ね直さなかった。しばらくして、彼が声を低くした。


「昼食を召し上がるまで、付き添うと」


 式は正午からだ。私は時計を見た。

 聞き間違いではないことを、確かめたかった。


「ロザ様が、ご自分で食べられるかを見届けるそうです。お家の方も使用人もいらっしゃいますが、お帰りになると聞いて、ロザ様が心細がられまして」


 従者はそこで言葉を切った。

 まだ続きがあるようだった。


「伺ってもいいですか」

「……若様は、セリーヌ様なら分かってくださると」


 鏡に映った肩が、少し下がった。

 私は背筋を伸ばした。


 お熱が下がったのはよかった。それを疑う理由はない。心細い時にそばにいてほしいと思うことも、私には分かる。

 私も、来てほしかった。

 今、この部屋に。


「教えてくださって、ありがとう」


 従者を下がらせると、入れ替わりに父が来た。司祭様も一緒だった。

 父はいつもより静かな声で、迎えの馬車を出そうかと言った。


「私から使いをやれば、さすがに戻るだろう」


 そうかもしれない。

 父が言えば。彼のお父様が言えば。お客様をこれ以上待たせてはいけないと、誰かが教えれば。

 戻ってきた彼は謝るだろう。私の手を取り、待たせてすまなかったと、今度もきちんと言う。

 そして、結婚はできる。


 私は腰を下ろした。

 ドレスの裾が椅子の脚に引っかかり、母がそっと外してくれた。


「お父様。お式に、いくらかかりましたか」


 父はすぐには答えなかった。


「花も、料理も、皆様の馬車も。今やめたら、戻りませんね」

「戻らないものは多いな」


 父は、そんなことは気にするなとは言わなかった。

 私は頷いた。

 ドレスの仮縫いに母と通ったことも、招待状を並べた夜も、なくなりはしない。明日からは、この式をやめた娘として人に会う。今日だけを我慢する方が、ずっと簡単だった。


「迎えは、出さないでください」


 母の指が、裾の上で止まった。


「戻っていただいても、結婚しません」


 声は小さかった。聞き返されたら、もう一度言うつもりだった。

 父は頷き、司祭様へ向き直った。


 私は手袋を外した。ペンを持つと、指がうまく曲がらなかった。

 紙の裏に、本日は、と書く。

 その先を考えているうちに、鐘が鳴った。


 ◇


 礼拝堂の扉は、予定どおりに開いた。

 楽奏はなかった。

 私と母が並んで出ると、立ち上がりかけた人たちが動きを止めた。


 長椅子の間の通路を歩いた。

 靴はこの日のために馴染ませていた。裾を踏まない歩幅も、繰り返し練習した。おかげで、祭壇の手前まで転ばずに行けた。

 父はフィリップ様のお父様を連れて、そこで待っていた。

 私はお客様の方へ向き直った。


「本日は、お越しいただき、ありがとうございます」


 声が天井へ届いて戻ってきた。

 こんなに大きな部屋だったのかと思った。


「予定しておりました結婚式は、中止いたします」


 後ろの席で、誰かが息を呑んだ。

 私は紙の折り目を押さえた。


「フィリップ様は、ご自身の判断で、別の方への付き添いを続けておられます。私は、本日ここで、結婚を――」


 声が止まった。

 母の腕が隣にあった。肘を取ろうかと迷い、やめた。

 息を吸い直す。


「結婚を、取りやめると決めました。皆様に無駄なお支度とご足労をおかけしましたこと、お詫びいたします」


 頭を下げた。

 持っている紙が傾き、表の文字が目に入った。

 末永く、という一語だけが読めた。


「お日取りは、改めてお知らせを?」


 顔を上げると、父の古い友人がこちらを見ていた。

 聞いてくれて、ありがたかった。私はまだ、一番肝心なことを言えていない。


「いいえ。この方とは、結婚いたしません」


 今度はつかえずに言えた。


 司祭様が進み出て、用意した食事は隣の会館で召し上がれること、帰りの馬車が整うまでそちらで休んでいただきたいことを伝えた。

 人が立ち上がった。

 こちらを見て小声で話す人も、何も言わず礼をしてくれる人もいた。

 誰の顔も、ずっとは見ていられなかった。


 通路を戻る時、幼い頃から知っている夫人が手を差し出した。

 両手で包まれた。


「お寒いでしょう。上着をお借りになって」


 頷いたら、涙が出た。

 泣くつもりはなかったので、拭くものを用意していなかった。母から受け取ったハンカチを目に当て、そのまま控室へ入った。


 フィリップ様が戻ったのは、一時間近く経ってからだった。

 会館ではまだ、お客様が馬車を待っていた。

 私たちは司祭様の執務室に移り、両家の代表と婚約解消の届けを作っていたところだった。


「なぜ皆が帰っているんだ」


 戸口で彼が言った。

 襟元には、私の花束と揃いの小花が留まっていた。


「伝言は届かなかったのか。少し遅らせれば済むだろう」


 フィリップ様のお父様が立ち上がった。


「お前が戻らない間に、セリーヌ嬢が式の中止を伝えてくださった。私からも皆様にお詫びした」

「中止?」


 彼は初めて、私を見た。

 私は借りた上着を肩に掛け、ヴェールを外していた。花束も持っていなかった。


「セリーヌ。そこまで怒っているとは思わなかった」


 いつもの声だった。

 困らせてしまった相手を、宥めようとする声。


「ロザが食事を取るまで待ったんだ。ようやく眠ったから、急いで来た。待たせて悪かったよ」


 彼は私の隣の椅子を引いた。


「埋め合わせはする。旅行を長くしてもいいし、君が行きたいと言っていた店にも――」

「座らなくて結構です」


 椅子を持つ手が止まった。

 父も母も、私の返事を待っていた。


「式のやり直しの相談ではありません。婚約を解消してください」


 フィリップ様は卓の紙を見下ろした。

 挙式を取りやめた理由と、両家の名が書かれていた。


「待ってくれ。僕は君と結婚するために来たんだ」

「私は、結婚しないとお伝えするために待っていました」


 椅子が床を擦った。

 彼は私の正面へ回った。私も顔を上げた。


「病人を放っておけと言うのか」

「いいえ」

「なら、どうすればよかったんだ。ロザは昔からの友達だ。心細いと言われて、見捨てられるわけがない」


 喉の奥が痛んだ。

 私は上着の端を握った。借りた布地に皺がつくのが気になって、手を離した。


「私も、心細かったです」


 彼の口が閉じた。


「ここへ来てほしかった」


 控室でなら、泣いて言えたかもしれない。

 今はもう、お客様を帰して、解消の届けが目の前にある。彼がどんな返事をしても、今日の午前には戻れない。


「……そうだったのか。言ってくれれば」


 彼は卓の縁に手を置いた。


「君はいつも、大丈夫だと言うから。今日はずっと待っているのも退屈だろうと思って、早めに伝言も送った。これからは、君にもちゃんと聞くよ」


 私は頷きかけた。

 聞いてくれるなら、と思う癖が、まだ残っていた。


「次は、こんなことにならないようにする。約束する」


 歌劇の切符は捨てた。

 寸法を測った指輪は、今日、交換するはずだった。

 どちらの日にも、次があると思って帰った。


「次の式は、挙げません」


 彼の手が、卓から離れた。


「婚約を、解消してください」


 同じことしか言えなかった。

 父が私の横に来た。


「ベルネ家も同意する。費用については、事前に取り決めた両家の負担で精算しよう」


 彼のお父様が頷き、私へ頭を下げた。

 息子の不在の間に謝罪し、私の話も聞いてくださっていた。その方にまで頭を下げさせるのがつらくて、私は何か言おうとした。


「お立ちください」と司祭様が私に言った。


 求められたのは、最後の意思の確認だった。

 私は立って、婚約の解消を望みます、と答えた。


「セリーヌ。本当に、もう?」


 彼の声が、初めて小さくなった。


「はい」


 それだけ答えた。

 彼は父親からペンを受け取った。しばらく紙を見つめ、署名する場所を司祭様に尋ねた。

 教えられた欄に書いた彼の名は、よく知っている字だった。


 私も署名した。

 普段より少し大きな字になった。


 ◇


 夕方までに、両家の精算は済んだ。

 フィリップ様の家は、取り決めどおり式と披露の費用の半分を支払った。私の家も半分を払った。招待客が全員召し上がったわけではない料理にも、使わなかった飾りにも、代金はかかった。

 母は受け取った勘定書を畳み、持ち帰る荷物へ入れた。


 私たちが馬車へ向かう時、まだ彼は会館にいた。

 遠方から来た親戚へ、説明をしていた。


「彼女が、少し待っていてくれれば」


 そこまで聞こえた。

 相手は父の従兄だった。彼の言葉を遮ることはせず、最後まで聞いてから答えた。


「待っていた花嫁の挨拶は、私も聞いたよ」


 フィリップ様はこちらを見た。

 私は一礼し、母に続いて馬車へ乗った。


 屋敷では、式の間に運ばれるはずだった私の荷箱が、玄関に並んでいた。

 自分の部屋へ戻してもらった。

 見慣れた寝台があり、窓辺には昨日脱いだ室内履きが揃えてあった。

 私はようやく、髪の留め具を外してもらった。

 一本抜くたび、頭が軽くなった。


 その夜、彼から小箱が届いた。

 中には真珠の耳飾りと、明日二人だけで話そうと書いた手紙があった。耳飾りは旅行先で渡すつもりだったという。

 綺麗だった。

 耳に当ててみることはしなかった。


『婚約は解消いたしました。明日はお会いしません』


 返事を書いて、小箱と一緒に従者へ渡した。

 それから父に、もし訪ねてこられても通さないでほしいと頼んだ。

 父は、分かった、と答えた。


 翌朝は、いつもより遅く目が覚めた。

 食堂へ行くと、母が既に座っていた。私の顔を見て、何か言いかけ、代わりに椅子を引いてくれた。


「眠れた?」

「少し」


 卵料理が運ばれてきた。

 皿の縁に溶けたチーズがついていた。料理人は、これが焼きたてでないと固くなるのを、いつも気にしていた。

 私は窓の方へ顔を向けかけた。

 馬車の音を聞く必要は、もうなかった。


 この先、誰に何を言われるのかは分からない。今日、屋敷から出る元気もなかった。

 母にそう言うと、家にいればいいわ、と返ってきた。


 私は頷き、フォークを取った。

 柔らかな卵を切ると、中から湯気が上がった。

 時計を見ずに、一口目を食べた。

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― 新着の感想 ―
むこうの都合で遅らせたなら折半はおかしいのでは? 幼馴染みには何も無しで微ざまぁにすらなってないのでは?
結婚式をいつものお茶会くらいにしか思ってない生き物はもう家に置いておけないでしょう。ここから幼馴染と事故物件がどうするのか見てみたいですね。
幼馴染と婚姻するしか選択肢はなくなりそうですね。だって他の令嬢との婚姻は娘を蔑ろにされてでも嫁がせる両親は居ないだろうから。 それか廃嫡して弟とかに継がせるなりするかのどちらかですね。 その後の結…
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