第4話
手脚が生えた訳だけれど、ぼんやりと覚えている〝昔〟のようにスタスタと歩くのは難しかった。
何せまだ目が見えないので、歩くと色んな物にぶつかって転んでしまう。
「道具に頼ると癖がついてしまうから、自力で歩く練習をしてごらん。壁伝いに歩けばなんとかなるはずだから。練習をしている時は点滴を外すけど、休憩する時はもう一度つけるから、ベッドサイドにあるベルを鳴らして」
男性は私をベッドから下ろしたあと、そう言ってパタンとドアを閉じた。
カチリと鍵を掛ける音が聞こえたけれど、特になんとも思わない。
私は四つん這いになって移動し、手探りをしながら部屋がどれぐらいの広さなのか確認する。
床と壁は、クッション性のあるフカフカした材質でできていて、これなら転んでも大丈夫そうだ。
部屋は思ったほど広くなく、八畳から十畳といったところだろうか。
室内の隅には、便器と洗面台があるのも分かった。
でも、手脚が生えたからと言って、私の意識にこれといった変化はない。
――次はどんな美味しい物を食べられるんだろう。
脳内にはそれしかなく、歩けるようになっても、特にどこへ行こうという気持ちもない。
けれど食事の時間までは暇なので、疲れるまで歩く練習をし、飽きたらフワフワのローベッドで眠って過ごした。
時間の概念はないけれど、ドアの隙間から美味しそうな匂いが漂ってきて、次の食事の時間が迫っているのが分かった。
廊下の奥からゴロゴロと何かを転がす音がし、どうやら彼はワゴンのような物に料理を載せて運んでいるようだ。
コンコンとドアをノックする音がし、「入るよ」と彼の声がする。
「今日は麺だよ。今、テーブルと椅子を用意するね」
そう言ったあと、彼は部屋の壁についていたテーブルを引き出し、セットする。
椅子は別の所から持って来たようだ。
「たとえばだけど、Aという人がいて、その人は自分が何者かを忘れてしまったとする。その人はAさんだと言えるだろうか?」
――そんな事いいから、早くご飯を食べさせて。
両手でバンバンと床を叩くと、彼は「分かったよ」と笑う。
「はい、手に掴まって」
彼の手に掴まって着席すると、少しして目の前にコトンとお皿が置かれた。
フワッと立ち上ったのは、トマトベースのパスタの匂いだ。
この匂いは、茄子やベーコン、キノコも入っている。
にんにくの香りは食欲を増進させるし、とろけたチーズの匂いもする。
「フォークとスプーンを渡すから、自分で食べられる?」
彼に優しくカトラリーを渡され、私は見えないながらもぎこちなくパスタを巻いていく。
「残り少なくなったら、やってあげるからね」
私は右手の中でフォークをクルクルと回転させ、見当をつけてスプーンで支えようとする。
何回か空振りしたり、カチッとぶつかって未遂に終わる事があったけれど、ようやく感覚を掴めたあとは、一心不乱にパスタを食べていった。
フォークで丸めた麺を口の中に入れ、咀嚼するとブチブチッと麺を噛み千切る。
麺の中に何かが練り込まれているようで、ツブツブした食感が面白い。
「色んな海藻を練り込んだ麺なんだ。歯ごたえがあるだろうけど、気にしないで食べて」
確かに、言われてみれば昆布の茎やもずく、アオサなど、色んな物が入っていそうだ。
きっと体にいいんだろう。
あらかた食べて、少なくなった麺がどこにあるか分からなくなったあとは、彼が手伝ってくれて完食する事ができた。
その翌日はラーメン、次はうどん、そして蕎麦。
どれもとても美味しかったけれど、共通して中にツブツブした物が練り込まれていた。
数日後、ベッドで目を覚ました私の頭には、サラリとした毛髪が生えていた。
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